01話 | 屋上のフェンス
昼下がりの風が吹き抜け、耳に届く喧騒をどこか遠くへさらっていく。静寂を切り裂くように響き渡るチャイムの音が、あらゆる方向から足音の地鳴りを引き起こした。それは混沌とした、されど確かな調和。しかし、そこに確かなものなど何一つない。あるのはただ、純然たる虚無だけだった。
雲に覆われた太陽の下、校舎の屋上で一人の少女が足を進めていた。感情の消えた瞳、表情のない顔。自らが選んだ結末へと向かうその足取りは、小さく、そして一定だった。辿り着いたのは、屋上の縁。大人の胸ほどの高さがあるコンクリートの壁と、その上に設置された高さ二メートルの防護柵。その外側には、両足を揃えて立てるほどの小さな足場があった。
そこへ辿り着くために、三メートル近い壁をよじ登るのは、決して難しいことではない。必要なのはただ、その足場に足を降ろすという「技術」だけ。もし失敗すれば、校舎の四階から真っ逆さまに突き落とされることになる。運が良くて骨折、最悪の場合は、苦痛に満ちた死が待っているだろう。
だが、それこそが彼女の望み――「死」だった。痛かろうがなかろうが、彼女はそれを求めていた。覚悟を決め、ゆっくりとフェンスを越えていく。向こう側へ辿り着いても、彼女はすぐには跳ばなかった。狭い足場に立ち、自分自身に問いかける。死を恐れているのではない。ただ、この決断が間違いではないと、心に言い聞かせているようだった。
虚無だった唇に、自嘲気味な苦い微笑が浮かぶ。もし誰かがここに気づけば、大騒ぎになり、厄介な事態になるだろう。けれど、誰も気づかない。まるで彼女の存在そのものが、認識すらされないほど希薄であるかのように。その残酷な事実に、一筋の涙がこぼれ落ちた。愛されたい、認められたい。そんな願いの果てに、彼女は決意を固める。
(この世界に……私のような愛される資格のない女の子は、必要ないんだ)
そして彼女は、死へと向かって、その一歩を踏み出した。
✼✼✼
彼女を表現するのに相応しい言葉があるとすれば、それは「絶対的な美」だろう。正直に言って、その真紅の瞳はあまりに美しく、まるで計り知れない価値を秘めた宝石のようだった。完璧な造形の顔立ちに、魅惑的な薄桃色の唇。腰まで届く漆黒の髪は、絹のように滑らかで柔らかそうな質感を湛えている。それらすべてに理想的なプロポーションが組み合わさることで、「あめりあ・クリサンタ・アマリロ」という一人の少女が完成する。彼女が身に纏う高校の制服さえ、どういうわけか彼女の清楚で気品ある印象をより一層引き立てていた。あめりあはこの学校の模範的な生徒だが、その佇まいはもはや、生徒たちの憧れの象徴といっても過言ではない。
(……別に不謹慎な意味じゃないが、あえて言わせてもらうなら、あめりあは胸の発育にも恵まれている。)
十数年も一緒にいて、今さら気づいた。これまでは彼女を恋人候補として意識していなかったせいか、その成長を見過ごしていたのだ。よくよく考えてみれば、彼女は本当に素晴らしい女性へと成長を遂げている。幼馴染として、誇らしい限りだ。
「どうしたの、デヴァン?」
僕の視線に気づいたあめりあが問いかけてくる。その顔は相変わらず愛らしく、いくら眺めていても飽きることがない。
「い、いや、なんでもない」
内心で不埒なことを考えていた手前、僕はぎこちなく答える。
「ただ、いい子に育ったもんだな、と思ってさ」
「何それ、親戚のおじさんみたい」
あめりあは僕の答えを聞いて、くすくすと小さく笑った。
「そうね。私も、デヴァンは立派な男性になったと思うわ。あなたの恋人になる子は、きっと幸せでしょうね」
あめりあがそう言うだろうことは予想していた。僕は失望を隠すように、苦笑いを浮かべる。
「ああ、まあ、僕を恋人にしてくれる奇特な女の子がいればの話だけどな」
「お前が気づいていないだけで、デヴァンのことを慕っている女子は案外多いんだぜ」
あめりあの正面にある机に腰掛けた男が、会話に割り込んできた。バスケットボール部の部長、レンディ・ラナンキュラスだ。
その名前の響き通り、彼は圧倒的なカリスマ性を持っていた。いくつかの大会で優勝に導いて以来、女子生徒の間で彼の人気は絶大だ。バスケ部というだけで格好いいのに、今はその部長を務めている。端正な顔立ちに、均整の取れた高い身の丈。さらには性格も良く礼儀正しい――まあ、僕に言わせればそれは単なる「猫かぶり」に過ぎない気がするが。あまりに隙がなく、正直に言って胸糞が悪い。何より、僕の幼馴染であるあめりあに近づこうとしているのが、何よりも気に入らなかった。
「へへ、そうかな?」
僕は苦笑いを浮かべながら答える。今すぐこの場からあいつ(レンディ)を排除してやりたいが、どうやら場を去るべきなのは僕の方らしい。
「え? どこ行くの?」
席を立つ僕を見て、あめりあが不思議そうに首をかしげた。
「ちょっとトイレ。用を済ませてくるよ」
あめりあは疑わしげに目を細めた。
「ふーん。変な『痕跡』、残さないようにね」
「そっちの用じゃないから!」
もちろん、そんなのは真っ赤な嘘だ。トイレに行きたいわけじゃない。ただ、この胸が締め付けられるような光景から逃げ出したいだけなんだ。そこにいるレンディは、あめりあを手に入れようとしているように見える。それが純粋な好意によるものじゃないことは分かっているが、その真意までは掴めない。ただ一つ確かなのは、あいつの勝率に比べれば、僕の可能性なんてゼロに等しいということだ。だったら、二人の邪魔をするよりも、僕が身を引く方がずっといい。
自分の底知れない「お人好し」加減に嫌気がさす。幼馴染のことが好きなのに、その手を伸ばそうともしない。恋人なんて関係になれば、いつかこの関係がぎこちなくなってしまう……そんな言い訳をして、あめりあを望む気持ちを押し殺す。そもそも、彼女は僕を恋愛対象として見ていない。これはただの、独りよがりの片想いだ。僕が隣にいようがいまいが、彼女が幸せそうに笑っていれば、それでいいと思ってしまうんだ。
二人の恋路を邪魔しないための、消極的な逃避。僕は屋上へと向かうことにした。本来、屋上への出入りは禁じられているが、僕にはそこへ辿り着くための「裏技」がある。休み時間、特にあのレンディがあめりあの傍にいる時、そこは僕だけの秘密の場所になる。
今の僕にとって、屋上は最高の避難所だった。
「ん……? 鍵が、開いてる?」
屋上へと続く扉が解錠されていることに、僕は思わず声を漏らした。
本来、生徒の立ち入りを防ぐために屋上の扉は固く閉ざされている。鍵は体育教師が管理しているはずだが、あの筋肉ダルマの親父はどこをほっつき歩いているのか、捕まえるのも一苦労だ。僕は半年前、運良くその鍵を複製することに成功したが、まさか他にも同じことをしている奴がいるなんて思いもしなかった。
体育教師がここにいる可能性も考えたが、それはないだろう。あの巨漢の老いぼれが、わざわざ体力を削ってまで屋上へ上がってくるとは思えない。好奇心に駆られるまま扉を押し開けると、そこには予想だにしない光景が広がっていた。
扉の隙間から光が差し込み、一人の少女のシルエットを浮かび上がらせる。
彼女は屋上の縁に立ち、今まさに「愚かな選択」をしようとしていた。その手はまだ柵を固く握り締めている。迷いがある証拠だ。助けなきゃ、と思う。だが、僕が動くことで事態を悪化させるかもしれない。下へ走って教師を呼ぶか? いや、そんなことをすれば大騒ぎになり、取り返しのつかない混乱を招くだけだ。そもそも、教師を連れて戻ってくる頃には、彼女の体はコンクリートに叩きつけられた後かもしれない。
(――どうすればいい?)
経験したことのない異常な状況に、思考が空転する。軽率な行動は許されない。かといって、考えすぎれば時間を浪費するだけだ。選択肢は少なく、どれも「正解」とは呼べそうにない。最悪の可能性を覚悟して動くか、それとも――見なかったことにして、ここを去るか。
(……けど、本当に放っておいていいのか?)
(一瞬、彼女の中に僕自身の影が重なった。)
それはまるで、絶望の淵に立っていたかつての自分を見ているような錯覚。そして、そんな僕を救い出してくれた『あめりあ』の姿が脳裏をよぎる。その記憶が、これまでの僕なら決して選ばなかったはずの答えを、僕に選ばせた。
「ヴィアニ……だよな?」
確信が持てないまま、僕はその名を呼んだ。彼女は僕の知っている誰かによく似た雰囲気を纏っていたからだ。
ヴィアニ・アザレアは、僕の隣の席に座っている少女だ。その佇まいは、あめりあが持つ天然の美しさを彷彿とさせ、どこかレンディにも似た面影がある。肩まで切り揃えられた漆黒の髪に、すべてを見透かすような真紅の瞳。彼女を表すなら「可愛い」よりも「気品がある」という言葉の方が相応しい。まるでどこかの貴族の令嬢のようだが、それはあくまで表面的なものに過ぎない。その奥底を覗き込めば、そこにあるのは肥大化した剥き出しの「渇望」だけだった。
「デヴァン、ね」
背後の僕に気づき、ヴィアニが問いかける。彼女はこちらを振り返ることなく、今にも地面へ吸い込まれそうなほどに体を前へと傾けた。
「私を止めようとしても無駄よ。そもそも、貴方の言葉に耳を貸すほど、私たちは親しくないもの」
彼女の言う通りだ。席が近いという事実を除けば、僕たちは決して親しくはない。だがそれは僕に限った話ではなく、ヴィアニはこのクラスの誰とも打ち解けていなかった。誰かの輪に加わることも、自ら言葉を掛けることもない。彼女が纏う「拒絶」のオーラが、周囲を遠ざけている――僕は勝手にそう結論づけていた。
突きつけられた事実に、僕は苦い笑みを浮かべる。
「止めるつもりなんてないさ。ただ、ここは僕が休み時間の度に来る場所なんだ」
「そう。……つまり、教室にはレンディとあめりあが一緒にいる、っていうことかしら?」
無慈悲に、僕の心の傷を抉るような言葉が投げかけられた。
「っ……! なんで、それを」
動揺を隠せなかった。親友にすら打ち明けたことのない、僕の情けない秘密。ここへ来る時だって、他の教師に見つからないよう細心の注意を払っていたはずなのに。
「貴方のこと、見ていたから。時々、後をつけていたの」
ヴィアニは、それが大したことではないと言わんばかりの淡々とした口調で続けた。
「安心しなさい、別に深い意味はないわ。ただ、自分の人生を終わらせるのに相応しい場所を探していたら、ここが最適だと思っただけ。私の人生と同じように、ここはとても静かで、孤独だから」
(――くそっ、なんて重苦しい空気なんだ)
僕の心境を見透かしたように、ヴィアニが小さな微笑を浮かべた。
「ああ、そうそう。どうやってここに入ったのか不思議に思っているなら……貴方の持っている鍵を複製させてもらったわ。もし私がバレれば貴方も道連れ。だから、安心しなさい?」
「全然安心できる要素がないんだが!」
ヴィアニが唐突に見せた空気の変化に、僕は思わず声を荒らげた。彼女がこの重苦しい会話を逸らそうとしていることには、嫌でも気づいてしまう。
「……それで、どうしてこんなことを?」
「私を、理解しようとしているの?」
ヴィアニは、まだ小さな笑みを湛えたまま問い返してくる。
「いや。ただの好奇心だ」
ヴィアニは一瞬だけ沈黙し、雲に覆われた空を仰ぎ見た。
「死のうとした理由、だったかしら。……だとしたら、答えは一つよ。この世界には、私のような愛される資格のない女の子なんて必要ない。それだけよ」
「ヴィアニ……」
「現実は苦い、そう思わない?」
その言葉。絶望の淵にいる人間が吐き出すその台詞を、僕は心底嫌っていた。現実が苦いことなんて否定しない。けれど、それを命を絶つ理由にされるのは、どうしても受け入れられなかった。
変えてやる。その言葉を、僕が塗り替えてやるんだ。
もし彼女が現実を「苦い」と感じるのなら、僕がそれを「甘いもの」に変えてみせる。あの日、あめりあが僕を救ってくれたように、今度は僕が彼女を救うんだ。
(そんな思考、僕が叩き潰してやる)
「その通りだよ、ヴィアニ。現実は反吐が出るほど苦い。例えるなら、コーヒーだ。僕はコーヒーが嫌いなタイプでね。あの苦味を味わうたびに、ぶちまけてやりたい衝動に駆られる」
僕はゆっくりとヴィアニに近づいていく。迷いのない足取りで、そこにいる彼女へと手を伸ばす。
「けど、僕はそれでもそのコーヒーを啜り続けている。もちろん、そのままじゃ飲めたもんじゃない。だから僕は、砂糖を加えるんだ」
「砂糖……?」
ヴィアニが不可解そうに問い返してくる。
「コーヒーが現実なら、砂糖は『嘘』だ。コーヒーに砂糖を混ぜれば、苦味をかき消して甘さが生まれる。もしそれでもまだ苦いなら、自分が甘いと感じるまで、何度でも砂糖をぶち込めばいい」
これまでの自分の生き方を思い返し、僕は自嘲気味に微笑んだ。
「『現実逃避』なんて、臆病者のすることに聞こえるだろう。けど、それが僕の生き方だ。自分自身を騙し、コーヒーに砂糖をぶちまけ、そうしてようやく人生を啜ることができているんだから」
一瞬、沈黙が場を支配した。彼女に僕の言葉を咀嚼させるための、意図的な「間」だ。そして、十分な沈黙の後、僕は彼女に取引を持ちかける。
「嘘は甘い。人が絶望するのは嘘のせいじゃない。受け入れがたい『苦い現実』のせいだ」
フェンス越し、彼女のすぐ背後に立ち、僕は告げた。
「だからさ――僕が君に、嘘をあげようか。君はもう、その苦いコーヒーをそのまま啜る必要なんてない。僕がそれを、甘く変えてあげるから」
ヴィアニの唇に、かすかな微笑が浮かんだ。それは僕が初めて見る、彼女の甘い笑顔だった。
「甘い嘘、ね。現実逃避かもしれないけれど……生きていくためには、そういうものが必要なのかもしれないわね」
「ああ。少なくとも、僕はそう信じてる」
僕の答えを聞くと、ヴィアニは金網のフェンスをよじ登り始めた。足を踏み外したりしないかという不安がよぎったが、それは全くの取り越し苦労だった。彼女は驚くほど鮮やかな身のこなしで柵を越え、こちら側の地面へと降り立つ。そういえば、ヴィアニ・アザレアはクラスでも屈指の運動神経の持ち主だった。あらゆるスポーツをこなし、成績も常にトップクラス。情けない話だが、身体能力に関しては僕よりも遥かに上なのだ。
コンクリートの床に着地した彼女は、すぐに制服についた埃を払い落とす。汚れがついたことに不満げな声を漏らしているのが聞こえたが、僕は気づかなかったふりをした。……それ以上に、見てはいけないものが目に入ってしまったからだ。白ブラウスの隙間から覗く、彼女の胸の谷間。もし気づかれでもしたら、僕の命は別の意味で危うくなるだろう。
「ねえ、いっそのこと、私たちが付き合っちゃうのはどう?」
ヴィアニが唐突に、毒にもなりそうな甘い微笑みを浮かべて問いかけてきた。
「え? は、はい……?」
あまりに急な提案に、思考が追いつかない。数秒かけてようやく言葉の意味を咀嚼し、情けない問い返しをするのが精一杯だった。
予想外にも程がある。相手はヴィアニなのだ。彼女と恋人になるなんて、どこか間違っている気がした。僕が好きなのはあめりあで、ヴィアニじゃない。二人の外見が似ているからといって、彼女をあめりあへの想いの身代わりに、逃げ場にするような真似はしたくない。愛のない交際なんて、何かが決定的に欠けている気がするんだ。
「だから、付き合おうって言ってるの」
ヴィアニの声は先ほどよりも弾んでいて、誘惑するような響きを帯びていた。
「一週間後には、貴方のあめりあはレンディのものになる。それがどういう意味か、分かっているでしょう? 二人は恋人同士になる。勝ち目のない片想いを続けている貴方に、逆転のチャンスなんて万に一つもないのよ」
「分かってるさ。最初から、僕に勝ち目なんて一パーセントもないことくらい、自分が一番よく知ってる。僕たちはただの幼馴染で、十数年も一緒にいすぎたんだ。彼女にとって僕は、その枠から出ることはない」
痛いところを突かれ、僕は自嘲気味に答える。
「……だけど、それが君と付き合うことにどう繋がるんだ?」
僕の問いかけに、ヴィアニは信じられないものを見たかのように目を見開いた。
「え……? まさか、さっきの言葉は全部ただの出まかせだったの? ああ、そう。分かったわ。私に『甘い嘘』をあげるって言ったのは、単に私が飛び降りるのを止めるための嘘だったのね」
……確かに僕はそう言ったし、嘘をついたつもりもなかった。ただ、僕の提案と彼女の「付き合おう」というプロポーズが、どうしても脳内で結びつかなかっただけなのだ。僕が超能力者でもない限り、読み取れるはずもない重要な何かが欠けている気がした。
「……ごめんなさい。私、騙されやすい女の子で」
「待てよ! どういう意味だよ?」
気づけば、ヴィアニの瞳から涙がこぼれ落ちていた。正直に言って、それを見て僕の胸は締め付けられた。
「貴方なら、嘘でもいいから私を愛して、認めてくれると思った。嘘でもいいから愛をあげるって言われた時、やっと私を愛してくれる人が現れたんだって、嬉しかったのに。どうやら、私の勘違いだったみたいね」
彼女の言葉を聞いた瞬間、すべてが繋がった。と同時に、僕は自分が、助けを求めている女の子の気持ちも汲み取れない、無責任な男であるかのように思えてきた。僕の言葉を彼女がそこまで深く受け取るとは思わなかったが、吐いた言葉を飲み込むつもりはない。
責任を取る。彼女を愛するんだ。たとえ、それが「嘘」であっても。
せっかく救い出した命を、僕の無関心で消し去るわけにはいかない。
ヴィアニは深く体を折り曲げ、謝罪の意を示した。
「嘘の愛ですら、私には分不相応だったみたい。……さようなら、デヴァン。これが最後になるわね」
言い残すと、ヴィアニは僕から遠ざかっていった。頬を流れる涙と、その美しい顔に刻まれた深い悲しみが、嫌でも視界に入る。
それは先ほど、彼女が死を選ぼうとしていた時と、全く同じ表情だった。
反射的に、僕は彼女の手首を掴んでいた。少し力が入りすぎたのか、ヴィアニの小さな悲鳴が耳に届く。けれど今の僕はそれを無視して、彼女を強引にこちらへ向かせた。愛されない彼女。そして、恋に敗れた僕。もし、嘘の愛が彼女を生に繋ぎ止める糧になるのなら、僕はそれを捧げよう。たとえそれが、どこまでも甘い「嘘」に過ぎないとしても。
「僕はまだ『ノー』なんて言ってない。どうして勝手に完結させてるんだ?」
僕は彼女を落ち着かせるように、穏やかな微笑みを浮かべて問いかけた。これが、僕が選んだ「嘘」への決断だ。
ヴィアニなら、別にいい。
ただ、あめりあへの想いだけは、心の中に閉じ込めておかなければならない。
……いや、あるいは。この馬鹿げた感情こそ、今すぐ消し去るべきなのかもしれない。
「え? じゃ、じゃあ……?」
ヴィアニが驚きに目を見開く。早合点してしまったことに、申し訳なさそうな表情を浮かべていた。
「君が相手なら、悪くないと思ってるよ」
本心を隠し、少し照れ臭さを覚えながら答える。嘘だとしても、これから「付き合う」ことになるのだ。人生で一度も経験のない事態に、気恥ずかしさがこみ上げる。「それに、僕も今の人生には『嘘』が必要なんだ」
その瞬間、ヴィアニの顔にぱあっと花が咲いたような明るさが戻った。間近で見れば、彼女は本当に整った顔立ちをしていて、ひどく愛らしい。桃色の唇、吸い込まれそうな瞳。そして彼女によく似合うアザレアの髪飾りが、その美しさをより一層際立たせていた。学校の美少女三人衆に数えられるのも、納得のいく美貌だ。
極上の幸福に満ちた笑顔が、彼女の唇に刻まれる。
「今日からよろしくね、私の彼氏くん!」
こうして、甘い砂糖は苦いコーヒーに混ざり合った。
それがコーヒーの味そのものを変えるのか、あるいはただの紛らわしに過ぎないのか。それは、まだ僕にも分からない。




