アンナの変化
メイドたちが持ってきた切り花の香りに誘われ、アンナは目を覚ました。宿題はふたつあったけれど、もう一つが終わっていない。
一番死んで欲しくない人。やっぱりお父様とお母様かしら、とアンナは思った。ひとりっ子のアンナの家族は両親だけだから。
それでもアンナは色々な人に当てはめて考えた。
やっぱりヒースのことがアンナの心に最後まで残った。半年前までいなかったヒース。なのにヒースが死んでしまったらと思うと心が凍りつきそうになる。
「だめだわ。そんなのやっぱりだめだわ。ヒースがいないなんて考えられない」
身震いして言ったアンナにメイドのリリーが、
「姫様? 大丈夫ですか? お着替えの時は手鏡をこちらに……」
と声をかけ、手鏡を受け取ろうとした。そのとき。
「あ!」
リリーが手を滑らせ、手鏡が落ちた。
カシャーンと大きな音をたてて鏡が割れる。
その音にヒースが何事かとこちらを向いて、慌ててアンナの顔色を伺った。
リリーは声も出せずに震えていた。
「あら、割れてしまったわね。お気に入りだったのだけど……。また作らせればいいわね。リリー、怪我はない?」
アンナの言葉にはっと我に返ったリリーは、
「も、申し訳ございません!!」
と深々と頭を下げた。
「いいのよ。鏡は物だし、壊れても仕方ないわ。片付ける時に手を切ったりしないようにね?」
そんなアンナにリリーは涙を浮かべた。
「ありがとうございます、アンナ様!」
ヒースもほっとする。
「アンナ様、成長されましたね」
ヒースがアンナに言うと、
「成長? 私はよく分からないけど……」
と当のアンナは自覚がないようだった。
***
「ねえ、ヒース。私、無人島にいくならヒースとがいいわ。それにね、死なれたら悲しいのはひとりには絞れなかったけど、ヒースがいなくなるのだけは嫌なの。考えただけで心が壊れそうになるわ」
ヒースはアンナの出した答えに驚いたようだった。
「私はもともとアンナ様の世界にいなかったですが?」
「それを言ったら、ヒースに会うまでの私の世界には私しかいなかったわ」
ヒースはそうでしたね、と頷く。
「アンナ様は私と会う前と後、どちらが幸せですか?」
アンナは手鏡を手探りで探しながら考える。
「手鏡は割れたんだったわね。きっとヒースと会うまでは手鏡がないと私は生きていけなかったわ。まあ、それはそれで幸せに暮らしてたけれど……。でも、今の方が楽しいの。だから今の方が幸せよ。毎日、私に関わるいろんな人がいるわ。賑やかさを知ると、寂しさに耐えられなくなるのね。今はひとりは嫌だわ」
ヒースはアンナの言葉を噛みしめるように聞いていた。
「アンナ様が今の方が幸せなら、私は何よりも嬉しい。アンナ様のもとに来て良かった」
ヒースは心の底からそう言った。
「私もヒースが来てくれて本当に良かったわ」
ふたりの間に穏やかで温かな空気が流れた。このまま幸せな時間が続けばいいのにとふたりは思った。
「ヒース。私、結婚するなら貴方がいいわ」
アンナは無意識のうちに言葉をこぼした。
「ア、アンナ様?」
どきりとしてヒースが言う。
アンナははたと口を手で覆った。しかし、次の瞬間、頬を薔薇色に染めて、
「ええ。今言ったことに間違いはないわ。ヒースとならきっとどんなことも乗り越えられるわ」
と言ったのだった。ヒースは驚き、辺りをうろうろと歩き回った。
「わ、私は不細工な犬でしかありませんが?」
そう言ったヒースをアンナは抱き上げた。
「ヒースには心があるわ。知識もあるわ。外見にとらわれずにヒースを見たとき、ヒースはとても魅力的だと思うわ」
ふわりと笑ってアンナは言った。ヒースはそんなアンナに見とれてしまった。
「お父様、お母様にも承諾してほしいわ」
アンナの言葉に、
「それは……難しいかもしれません」
とヒースは難色を示す。けれどアンナはへこたれない。
「難しくてもいいわ。必ず分かってもらうわ」
美しい翡翠色の瞳を輝かせてアンナは言った。
***
アンナとヒースは王と王妃の前でひざまずいていた。
「今、なんと?」
玉座から立ち上がって、王は震える声で言った。
「お父様、私とヒースの結婚をお許しくださいと申しました」
王妃は卒倒し、王は手を顔の前で合わせて、アンナの言葉が気のせいであることを祈った。
ヒースははらはらしながらアンナと王・王妃を交互に見ていた。
「お父様、私は本気よ。これからずっと一緒に過ごすのはヒースとがいいの」
「アンナや、ヒースは犬なのだよ? 犬と結婚する姫がどこにいるというのだ」
「ここにいるわ。それにヒースはただの犬ではないわ。お父様だってそれは分かっているでしょう?」
王は倒れそうになるのを堪えて、
「では世継ぎはどうするのだ?!」
と声を張り上げた。
アンナは王の言葉に、しばし沈黙した。ヒースも黙っている。
「養子をとればいいわ」
「ああ……! なんてことだ! 神よ!」
王は聞きたくないとでも言うように耳を抑え、がっくりと玉座に腰をおろした。
黙ってふたりを見ていたヒースは、
「アンナ様、もう一度うかがいます。アンナ様は本当に私と結婚したいと思うのですか? こんな私を愛してくださると?」
とアンナに耳打ちした。
アンナは、
「もちろんよ!!」
と強く頷いた。
「では、今、私に口付けできますか?」
「お父様の前で? ……かまわないわ。できるわ」
アンナはヒースを抱えると、その口にキスをした。
その瞬間だった。
ぼわんと煙が上がったかと思うと……。
「な!? ヒース?! ヒースはどこ? 貴方は何なの?」
アンナの前には見慣れない男がひざまずいていた。黒銀の長い髪と海のような青い目をした男だった。
王が立ち上がった。
「なんと! もしやそなたは隣国の第二王子、ヒースクリフ殿では?! 行方不明になっていると聞いていたが……」
王の言葉に彼は小さく頷いた。
「ああ! やはり!」
「ヒースは? ヒースをどこへやったの?!」
アンナは男のことよりもヒースの方が気になった。
「ヒースは私でございます」
彼の声は確かにヒースの声だった。
「アンナ様。呪いが解けたのでございます」
「呪いが……? でも貴方、人間だなんて一言も言わなかったじゃない!」
「人間であることを知って私を愛すのでは無効だったらからです」
「そんな……!」
アンナは涙目になってヒースクリフを叩いた。
「私はヒースを好きになったのよ! ヒースを返して!」
ヒースはアンナの拳を優しく受け止めながら、悲しげにアンナの目を見つめた。
「人間の私では駄目ですか?」
アンナは困惑し、ポロポロと涙を零しながら、自室へと走って行った。
「アンナ様……!」
残されたヒースクリフはアンナを追うことができなかった。アンナを試し、騙したことになるのを思うと、足が動かなかった。
「して、ヒースクリフ殿はこれからどうされるのかな?」
王がそんなヒースクリフを気づかうように声をかける。
「アンナ様が私を受け入れられないようでしたら、自国へ戻ります」
ヒースクリフの言葉に、王はがっかりして、
「そうか……」
とため息混じりに言った。
ヒースが人間なら結婚するのに何も問題はない。ふたりが上手くいくことを王は祈った。