ヒースの秘密
その後もヒースは様々なことをアンナに教えた。
その日はアンナが海について聞きたがったので、説明しようとしてふとヒースは思い立った。
「アンナ様。海は城からしか見たことないでしょうが、湖はどうですか?」
「湖も見たことないわ。私は城の敷地内から出たことないのよ」
「そうですか。では湖を見に行きませんか? そう遠くはなかったはずです」
アンナとバルザック、ヒースは馬車に乗り、城から近くにある湖に出かけた。
湖面はわずかに波立っていたが、周りの青々とした木々を映していた。
「まあ、これが湖。まるで大きな鏡のようね!」
アンナは早速湖のほとりに座り込み、自分が映るのを見た。
「アンナ様落ちないように気をつけてくださいね」
バルザックが心配して言う。
「分かってるわ。ありがとう、バルザック」
湖面に夢中になっているアンナに、
「かすかに表面が揺れていますね。これは風のせいで揺れているだけです」
とヒースが説明を始めた。
「海には湖にない波というものがあります。浜に立つと分かりますが、寄せては引いていく。悪天候の時には波が高くなり、近付くと危ないときもある」
ヒースは前脚を使って波の様子を表現したが、分かりにくいのでバルザックが手伝った。
「城から見える海はこの湖みたいに静かに見えるのに、不思議ね」
「また、湖には塩分が含まれませんが、海には塩分が含まれ、舐めるとしょっぱいんですよ」
「まあ! なぜなの?」
アンナの問いにヒースはちょっと困った顔をした。
「申し上げにくいですが、海に波があるのも塩分があるのも知っていますが、なぜかは私も知りません」
アンナはふふと笑う。
「ヒースにも分からないことがあるのね。ねえ、バルザックは知ってる?」
「いえ、私も存じません」
「なぞがあるのも神秘的ね。私も海をいつか見てみたいわ」
二人と一匹は湖の周りを散策した。
湖の中には魚がおり、周辺の森からは色々な動物たちの息遣いが聞こえてきた。
アンナは初めて出会うものに対して、いちいち歓声をあげ、ヒースとバルザックを質問責めにして困らせた。
アンナは手鏡を持ってはいたものの、それに自分を映して見ることをいつの間にか忘れていた。
***
アンナがヒースとバルザックを伴って城外に出かけることが増えていった。王と王妃はそんな日常に感謝した。だが、アンナが異性を意識することは未だなかった。バルザックと共に行動しているのに、その関心がバルザックに向くことはなかったのだ。王はそれを心配していた。
「アンナにはバルザックの良さがわからないのだろうか」
「バルザックは誠実で見目も良いのに」
「まあ、ゆっくり待つしかないな」
「そうですわね」
***
「ねえ、ヒース。貴方はなんでそんなにもの知りなの?」
アンナは自室にゴロンと横になり、ヒースと目線を合わせて尋ねた。
「もの知りと言われるとなんだか照れますが、私には放浪癖があって、色々な所に自分の足で行くのが好きなのです。だからかもしれません」
「いいわね。私もヒースと一緒に世界を回ってみたかったわ。ねえ、今からでも遅くはないわ! ヒース、私も旅をしてみたい!」
アンナにせがまれて、ヒースは困った顔をした。
「それは難しいです。アンナ様。世界はアンナ様の思っている以上に危険なのですよ。貴女は姫です。それが知られるだけで、悪い人間に拉致されるやもしれません」
「あら、バルザックがいても?」
「今まで城の近くの散策に留めたので大丈夫でしたが、アンナ様を守りながら旅をするのはやはり難しいかと」
「そうなの? 残念だわ」
アンナは手鏡を見る。久しぶりに見る自分はふてくされた顔をしていた。
「それに……。もう、私にはそこまでの時間がないようです」
ヒースがぽつんと漏らした言葉に、アンナはヒースの顔をのぞきこんだ。
「ヒース?」
「アンナ様。これから話すことはアンナ様には難しいかもしれません。ですが、私の命に関わることなので話させてください」
「ヒースの命?」
アンナは顔色を変えた。身体を起こして正座をする。
「難しくてもいいわ! 話して」
アンナは真剣な目をしてヒースを見つめた。
「私は旅をしているときに、魔女の森と言われる森に入ったことがあります」
「魔女の森?」
「ええ。魔女が住むと噂のある森でした」
アンナは目を見開く。
「魔女のいる森」
好奇心に勝てずに、
「魔女は本当にいるの? 私、会ってみたいわ!」
とヒースの前脚に手をかけたアンナに、ヒースは目を潜ませた。
「アンナ様。魔女は本当にいるのです。そして、とても恐ろしく、強い力を持った者なのです」
「ヒースは魔女を見たの?」
アンナの問いに、ヒースは神妙に頷いた。
「私は森で魔女の可愛がっていた使い魔に襲われ、応戦する他なく、その使い魔を殺してしまいました」
「ヒースが……」
アンナには魔女の使い魔なるものがどんなものなのか想像もつかなかった。だが、殺したという言葉に背筋が寒くなった。
「私もまだ若く、自分の腕を試したいとどこか思っていたのかもしれません」
ヒースと共にいることで、命がどんなに大切なものかが分かってきたアンナにとって、ヒースがそんなことを思ったのは信じられないことだった。けれど、それを聞いてもヒースへの嫌悪感よりも、襲ってきた使い魔への恐怖の方が優った。
「そ、それで、その後、魔女はどうしたの?」
「私は魔女の逆鱗に触れ、呪いをかけられました。三年以内にアンナ様から口付けを受けなければ死ぬという呪いです」
「死ぬ?! 私からの口付け?!」
アンナはヒースの前脚をギュッと握った。
「そんな! 本当にヒースは死ぬの?!」
「きっとそうだと思います。その三年目が今年です。私は今年の冬までにアンナ様から口付けをもらえなければ死ぬでしょう。しかも条件があります。アンナ様が心から私を愛してくれていること。愛のないキスは無効なのです」
アンナは立ち上がり、プラチナブロンドの髪をふりふり、自室をうろうろと歩き回った。
「大変申し訳ございません。私がアンナ様のもとへ訪ねたのは、本当はそれが理由だったのです」
「それは当然よ。誰だって自分の命は惜しいわ! 今年の冬までにって、もう秋なのよ?! ヒースにキス……」
アンナは頭を抱え込んだ。
「申し訳ございません。……言うべきではなかったか……」
ヒースは顔を曇らせた。アンナは愛が何かもわかっていない。そんなアンナに愛のあるキスの話など、言っても悩ませるだけだったか、と。
「いいのよ、ヒース。ヒースに関わることだもの。知らなかったら後悔してしまうわ。でも、ヒース。私、愛ってどんなものかわからないわ」
ヒースは「そうでしょう」と言うように何度も頷いた。
「それに、なぜ私なのかしら」
「それはアンナ様がご自分以外を愛さない姫だと誰もが知っているからでしょう」
「私が私以外を愛さない?」
ヒースは言い過ぎたかと思い、
「えーと、アンナ様は美しいご自分が大好きでしょう? だから、魔女は、アンナ様が私みたいな不細工な犬に見向きもしないだろうと思ったのですよ、きっと」
といい直した。
「ヒース、言葉を変えたわね」
アンナはヒースを軽くにらんだ。
「いいのよ。私は確かに私以外に興味が無かったのだから」
「おや、では今は違うのですか?」
「今は私以外にも美しいものがある事を知っているし、私以外の人間にも多少は心を開いているつもりよ?」
「それは良かった」
ヒースは満足そうに頷いた。そんなヒースをアンナは再びにらむ。
「ちっとも良くないわ! それだけではヒースを救えないのでしょう?!」
ヒースは頭を下げてしょげる。
「愛するってどういうことなのかしら。私はヒースを愛せるかしら」
「まあ、犬ですし、不細工だから難しいですよね」
「不細工なのは気にしなくていいわ。もう慣れたから」
ヒースは複雑な気持ちでアンナを見上げる。そんなヒースをアンナは撫でた。
「私はヒースが大好きよ? それだけではダメなのかしら」
「さあ、私には何とも」