不細工犬ヒースとの出会い
「姫様!」
「朝食のお時間ですよ!」
メイドたちの声に、姫様と呼ばれたアンナはうっすらと目を開けた。
レースのカーテンを通して朝の眩しい光が差し込んでいる。
「あふ」
可愛らしいあくびを一つして、アンナはベッドの横の小棚に置いてあった手鏡を手に取る。ダイヤで雪の結晶の形をいくつもあしらったその手鏡に、アンナは自分の顔を映して微笑んだ。
「おはよう、アンナ。今日もとても綺麗だわ」
アンナはうっとりとした顔で鏡に映る自分に話しかけると、長い時間鏡の中の自分を見続けていた。
そんなアンナに慣れっこのメイドたちは手鏡を離さないアンナをベッドから起こして、夜着から簡易なドレスへと着替えさせていく。
「どうですか、姫様」
髪を結い、装飾もつけ終わったあと、メイドの一人がアンナの手鏡をさっと奪い、大きな姿見の前にアンナを立たせた。アンナは姿見に映る自分をまたうっとりと見た。前を向き後ろを向いて、
「ああ、アンナ。やっぱり貴女は完璧だわ」
鏡にくっつき、頬擦りをし始めたアンナをメイドたちは無理やり引き剥がした。
「王様と王妃様が下でお待ちです」
アンナは名残惜しそうに鏡から離れると、仕方なく階段を下りていく。その手には再び手鏡が握られていた。
食卓のある部屋へ入ると既に王と王妃は席についていた。
「おはよう、アンナ」
声をかけられるとアンナは手鏡からちらりと視線を王と王妃に移して、
「おはよう、お父様。お母様」
と愛想のあの字もない顔で挨拶をすると席に座った。すかさず手鏡をテーブルの定位置に置く。
王と王妃は、いつものようにため息をついて目を合わせた。
アンナは物心のついた頃から自分以外へ全く興味を示さない。いつも鏡を手にし、自分の容姿に心を奪われている。
確かにアンナの美貌は遠く離れた国々に知れ渡るほどのもので、初めて目を合わせたメイドが失神するといったこともよくあった。母親譲りのプラチナブロンドの髪は絹のように艶やかで、父親譲りの翡翠色の瞳は星の光を宿している。ほんのり薔薇色に上気した肌はどこまでも白く、ぽってりとした唇は林檎のように赤い。それに加えて八頭身の整いすぎた体形。
アンナは美しすぎるのだ。それがアンナを自分以外を愛せない人間にしてしまった。
いくら美しい姫であっても、男性に興味も示さず、結婚なんてとてもしてくれそうにない娘に、王も王妃も困り果てていた。しかもアンナは一人っ子。このままでは国が滅んでしまう。王の悩みは深かった。
「アンナや。たまには共をつけて外に散歩にでも行ってはどうかな?」
「近衛隊長のバルザックなどいれば安心でしょう」
バルザックは城の中でも有名な美丈夫である。忠誠心厚く、仕事に命をかけてきたためまだ結婚をしていなかった。年は29歳。アンナの年齢が18歳なので、年の差はあるが、バルザックにならアンナをやってもいいと王も王妃も思っていた。
「散歩?」
アンナは気乗りしない声で返事をする。
「そうだよ。城にばかりこもっていたら気も滅入るだろう」
「あら、私は鏡さえあれば幸せよ? こんなに美しい私が常に見られれば私は満足だわ」
王と王妃はまたも顔を見合わせる。この作戦は失敗かのように思われたその時、
「でも、太陽の光を浴びて輝く私を見るのも悪くはないわね。散歩に行ってみるわ」
とアンナは言って、食後の祈りを終えると手鏡を手に立ち上がった。
王と王妃は手を取り合って喜んだ。
「バルザック! アンナを頼む」
呼ばれたバルザックは、
「はっ!」
と返事をしてすると、アンナの手をそっととってエスコートする。アンナはちらりとバルザックの顔を見て、
「あなたがバルザック?」
と声をかけた。声をかけられたバルザックは頬をほんのりと赤く染める。王と王妃は期待に胸を膨らませながらその様子を後ろから見ていた。
「は! 自分がバルザックであります」
「暑苦しい返事はいらないわ。美しい私の身を守ってね」
バルザックは困惑気味に頷く。アンナがバルザックに視線を向けたのはその時だけで、その後は始終手鏡に映る自分を見つめていた。
***
春の柔らかな日差しがアンナのプラチナブロンドの髪に降り注ぎ、煌めく。まるで髪そのものが発光しているようだ。
緑柱石のような瞳は光を受けて輝き、若葉の緑さえ適わないほどだ。
バルザックはそんなアンナにしばし見惚れていた。非の打ち所がない美しさとはこういうことを言うのだろう。
一方アンナは相変わらず手鏡を見ていた。
「ああ、アンナ。太陽の光をうけたあなたは眩しいくらいに美しいわ!」
うっとりと鏡を覗き込む。
そのときだった。
アンナの美しさに、バルザックは突然飛び出してきた何かへの対応が遅れた。
辛うじてアンナに「それ」がぶつかる前にバルザックは足払いをかける。
「ギャフン」
と「それ」は奇妙な声で鳴いた。
「なあに、騒がしいわね。バルザック何かあったの?」
バルザックが「それ」を持ち上げてみると毛の長い犬のらしきものだった。
「まあ!」
アンナはその犬の顔を見て驚き、声を上げた。
「これは、犬、よね? 眉はさがり、目も下がり、鼻が低くて口はへの字。なんて不細工な犬でしょう。こんな顔の犬は初めて見たわ」
そのときだった。
「不細工不細工言われるとさすがに傷つきます。私はアンナ姫に会いに来たヒースと申します。貴女ほど美しい方は初めてだ。貴女が噂のアンナ姫ですね?」
驚いたことに不細工な犬は言葉を喋ったのだった。
「そうよ、私がアンナ。あなたはヒースというのね。犬にしては立派な名前だこと」
アンナは珍しく手鏡を覗くのをやめて、ヒースと話した。好奇心から、緑の目がいっそう輝いている。
「アンナ姫、貴女は自分にしか興味がないとか。私はこの通り不細工な犬ですが、貴女の話し相手になれないかと思ってこうして参りました」
不細工な顔で一生懸命言う姿がまた可笑しく、アンナは鈴の音のような声をあげて笑った。
「犬の貴方が私の話し相手に? 可笑しなことを言うのね?」
バルザックは横でハラハラしながらアンナとヒースのやり取りを見守る。
「でも、ヒース、貴方のその顔、見ていて面白いわ。貴方のような不細工な犬は初めてよ。私が飽きるまでなら、城に留まり、話し相手になることを許すわ」
「ありがたき幸せ」
「バルザック、ヒースを連れてきて。疲れたわ。城に戻りましょう」
アンナはそう言うと、手鏡に自分を映した。
「ああ、アンナ。疲れていても貴女は綺麗だわ」
鏡に映る自分に話しかけ、ふと思いついたようにその手鏡をヒースの方に向けた。ヒースの情けない容姿が手鏡に映ると、アンナは笑い出す。
「そうよね。鏡に映しても不細工は不細工よね」
ツボにハマったのか、アンナは城に入るまで笑い続けた。
***
楽しげに帰ってきた我が子に、王と王妃は何か進展があったに違いないと喜びながらアンナとバルザックをむかえた。
そして、バルザックの抱いているものに目をとめた。
「バルザック。それは何だね? 犬……のように見えなくもないが」
王がバルザックに問うと、
「彼はヒースと言うらしいわ。私の話し相手に立候補してきたの。面白いから城に暫く住まわせてあげて。いいでしょう? お父様」
とアンナが返した。
「アンナ、話し相手と言っても、これは犬ではないか」
王が怪訝そうな顔でアンナとヒースを見比べる。
「ああ、それなんだけど、彼は喋るのよ」
「挨拶が遅れました。私はヒースと申します。これからお世話になります」
王と王妃は顔を見合わせ、目を瞬かせた。
内心、こんな不細工な犬のどこがいいのか分からなかったが、アンナが珍しくヒースに興味を持っている。
「なら、彼の身体をまず洗わせてからにしなさい。不細工で泥んこでは救いがない」
「それはそうね。誰か。あ、貴女でいいわ。ヒースを洗ってから私の部屋に連れてきて」
言われたメイドの一人はバルザックの手からヒースをもぎ取ると、浴室の方へと連れて行く。それを見てアンナはさっさと自室へ上がって行ってしまった。
所在無さげになった美青年バルザック。
「すまない、バルザック。これに懲りずにまたアンナと散歩をしてくれないかね」
王がバルザックに耳打ちする。バルザックは複雑な思いで頷くしかなかった。
***
お風呂に入れてもらってもヒースの顔が変わるわけはなく、相変わらず不細工なその顔にアンナは思わず笑ってしまうのだった。
「ヒースは自分で自分の顔を見たことがある? 先程鏡に映したけど、自分だってわかった?」
アンナはそう言ってヒースを抱き上げ、大きな姿見の前に立った。
「ほら、ごらん。これが貴方よ? 貴方とこうしているとますます私の美しさが際立つわね」
ヒースはじいっと鏡を見つめ、目をしょぼしょぼさせた。
「私はこんな姿をしているのですね」
そう言ったきりしばらく言葉を発さないヒースに、アンナは「そんなにしょげないで」と声をかける。
「私が私以外で見ていて楽しいと感じたのは貴方が初めてよ?」
そう言ってまた笑う。アンナはヒースを自分のベッドの上に乗せると、今度は顔を近づけてまじまじとヒースを見た。
「なんとも不細工な顔ね。でも、ずっと見ていると、なんとなく愛嬌があるように見えるのが不思議だわ」
アンナは恐る恐るヒースを撫でてみた。ヒースは気持ち良さげだ。
「アンナ様。今お気付きになったように、世の中には完璧でなくても愛すべきものがたくさんあります」
ヒースはうっとりしながら、でも口調ははっきりと言った。アンナは可愛らしく首を傾げる。
「完璧でなくても愛すべきもの? ヒースは難しいことを言うのね」
「完璧なものは、例えばアンナ様です。アンナ様の美しさに敵うものはいないでしょう。だからアンナ様はご自分を愛していらっしゃる」
「そうよ。私以上に美しいものはないと思うわ。だから私は私を見るのが大好き。見ていて飽きることがないわ」
「そうでしょう。でも、本来愛するという感情は他者に抱いてこそ美しいものなのです」
「ヒース、貴方の言うことはよく分からないわ」
「難しすぎたかもしれませんね。でも、私はアンナ様に広い世界を見てもらいたいんです」
「広い世界? 世界はいつだって広いわ」
「でもアンナ様の世界はアンナ様だけ。それは幸せなことかもしれません。でも、私は不幸せだと思うのです」
アンナはあくびをかみ殺す。
「ヒース。貴方の言ってることはさっきから分からないことばかりよ。なんだか眠たくなってきたわ」
「もう少しでお昼ですが?」
「私はお腹すいていないわ。ヒースがお腹がすいているなら、何か用意させるわ。誰か! 」
アンナが手を叩くと、メイドの一人がやってきた。
「はい、姫様」
「ヒースに食事を。私は少し眠るわ」
食事の間では王と王妃が待っていた。
「アンナ様はお昼はいらないそうです」
ヒースが声をかけると、二人は顔を見合わせた。
「じゃあ、お前はなぜここに?」
「姫様がヒース殿に食事をと」
ヒースを連れてきたメイドが答える。
かくして、王と王妃はヒースと食事をすることになったのだが、ヒースは物怖じせず王と王妃と会話をした。初めは違和感を抱いていた王と王妃も、ヒースの様子に慣れて、食事が終わる頃にはすっかり打ち解けていた。
「ヒース、お前はなぜここにやってきたのだ?」
「私は色々な地を旅していたのですが、アンナ様の評判を聞き、やって参りました」
「アンナはこの通り、自分以外に興味を示さない。どうかお前がアンナの心を開けるなら開いてくれ。望みのものを与えるから」
「私は望みのものなどございませんが、尽力いたします」
「おお、頼んだよ」