時空を超えて1 本編
ただ、未来のシャーロックホームズが医者兼探偵して捜査対象に恋しちゃっただけのいちゃいちゃの話です。クローンやら冷凍人間実験とかがどかどかでる未来ものです。
1の後に番外編がいくつかあるのでそれをまとめます。
この後短いながらも2を出しますので少々お待ちください。
それではいちゃいちゃをどうぞ。
時空を越えて
第一話 謎の始まり
うふふ、と私は笑った。テーブルの向こうで夫がどうした? と視線で尋ねてくる。
「ないしょ」
私はわざと気持ちを隠すと、食器を持ってテーブルを立った。
これが幸せでなくてなんだろう。優秀な外科医シャーロックにプロポーズされたときは本当に天地がひっくり返るかと思うほど驚いた。でも私はもう彼の虜になっていたからすぐに承諾した。それから幸せな新婚生活を満喫している。
現在は三十世紀。そして歴史の違う地球。日本の本能寺の変もなければ第一次世界大戦に始まる全世界を巻き着込んだ戦争もない平和な歴史を歩んできた世界。
もちろんこのイギリスの十九世紀末にコナン・ドイルが書いたシャーロック・ホームズの物語もなかった。彼はあくまでも三十世紀に生まれて生きてたのだ。
あの物語にあこがれていた私はまるで物語に入ったような気になった。今もそう。あまりにも驚くことが起こってふわふわと宙に浮いているような気分になる。
シャーロックはもう出勤の準備を終えて出ていこうとしていた。彼はキッチンに来て片づけて両手がふさがっている私の頬にそっとキスをして出ていった。これがいつもの朝の儀式。
彼が出ていった後はなんだか寂しい気持ちになる。取り残されたというか……。
なぜなら私は三十世紀の人間ではないから。もともとは二十世紀の人間。そして本能寺の変もこの世界ではないけれど、実在していた別の歴史を持つ世界の人間だった。歴史の異なる世界がどうして二つも存在するのかわからない。
それでも私は「今」を生きている。
それだけは確かだ。それは私が目を覚ましたときに始まった。
目を覚ますと一人の男性の顔があった。
「目が覚めたか? 動けるか?」
彼、シャーロックは名も告げず、私に手を差し出した。私は自動的にその手を受け取って引き出された。後ろに人を納めるように作られたカプセルのようなベッドのような不思議な物体が視界に入った。それをまじまじと見つめる時間さえ奪って彼は私を急かした。
「ここはどこ? 私の家は?」
混乱した頭を抱えながら私は建物を出た。暗くて夜、ということはわかったけれども。
そこがいつどこでなにをされているのかわからなかった。彼は流ちょうな日本語で私の手を引いて動いていく。まるで何者からか逃れるように。彼の顔にはものすごい緊張感があった。それが私にも移っていく。
どこにいるかもわからない。混乱、そして恐怖にかられていた私は彼に頼るしかなかった。離れないように必死で引かれている手を握った。すると彼は安心させるような笑顔を浮かべてうなずいた。それだけでこの人は安心できる人だ、と私は思った。本当なら悪い人かもしれないのに・・・。
夜が明ける頃、私たちは一見の古風なたたずまいの家に入っていた。入ると見ていたかのように老婦人が出てきた。彼はわからない言葉で彼女に話すと彼女はにっこりと笑って私に手招きをした。彼に背中を押された私は自然と中へと入っていったのだった。
彼の部屋なのか二階の乱雑な部屋で熱い紅茶飲み、マフィンを食べた。おなかがすいていたからとっても助かった。一段落して私は尋ねた。
「ここはどこ? 私はどうしてここにいるの?」
どきどきして私は彼の言葉を待った。不安が入り交じる。
「今は三十世紀。そして君がご両親といる世界とは違うもう一つの地球に君は存在している。細かいことは後で話すが、君はあくどい方法でこの世界につれてこられ、今まで眠らされていた。それを私が助け出したというところだ」
あの安心させるような笑顔とは反比例したような爪痛い事務的な言葉で彼は告げた。私は尋ねた。
「もう一つの地球?」
「ああ」
彼はやはり物語の人物のようにパイプを取り出して吹かし始めた。
「この世界は多重構造になっている。様々な世界が存在しているんだ。その世界にアクセスできる機械でつれてこられた。私の仕事は君を助け出し、この世界で生きていけるようにすることだ」
「どうして!」
私は叫んでいた。
「機械があるなら元の世界に戻して。家へ帰してよ!」
家族の顔がぐるぐる頭の中で回っていた。もう会えないなんてそんなことひどすぎる。
「その機械はもう壊されているだろう。操作できる人間はすでにこの世にいない。君が連れてこられたのは二十世紀。それからコールドスリープの被験者として三十世紀まで眠っていたのだ。よって君の存在は極秘扱いだ。名前も家族もすべて捨ててこの世界の人間にならないといけない」
憂鬱そうに彼は言った。
「コールドスリープって私、冷凍されていたの?」
あんまり突飛なことを告げられて涙もひっこんでしまう。
彼はいきなり笑った。
「冷凍という言葉で表現するとはおもしろい。とにかく私は君にここでの生活の仕方を教える事が仕事になる。私はシャーロック・ホームズ。外科医だ。たまにこうして兄の仕事を手伝わされることになっている。兄は・・・」
「マイクロフト、でしょう?」
得意げに話すと彼は奇妙な顔をした。その顔がおもしろくてふふ、と笑ってしまう。
「シャーロック・ホームズは私の世界では物語の中の探偵でお兄さんはマイクロフトというのよ」
なるほど、と彼は納得した科のようにうなずいた。
「一応の知識はあるようだ。私の紹介はしても意味がないようだな。君の名は?」
「橘亜弓」
「亜弓。これからはアミィと呼ぼう。それから今から国際共通語の会話レッスンを始める。日本語は一切禁止だ。会話ができないと生きていけないから」
それからシャーロックはわけのわからない言葉を発した。どうやらOKか?という言葉らしい。私はしかたなくうなずいた。彼の言葉にも一理ある。ここで生活するには言葉を覚えなければならない。まだ元の世界に戻ることを考えていたけれど。
彼のレッスンは手厳しかった。最初は簡単だった。自分を指さしてシャーロックと言う。そして私指さしてアミィと呼ぶ。それからおいてある紅茶やマフィンを指さして言葉を教える。ものの名前を覚えることが多かった。アミィと呼ばれるのなかなかなれなかった。亜弓が本名だから。でもそれは封印していかないといけないのだ。日が経つにつれて家へ帰るという希望は消えていった。
レッスンはだんだん複雑になっていった。単語の発音から文章へと移る頃には何がどうなっているのかわからなかった。文法も知らずに話すのは無理というもの。私は何度ベッドの枕をぬらしたかわからない。
非情とも思える彼の態度に私はもう耐えきれなくなっていた。ある朝朝食の場で私の心は爆発した。テーブルのものをすべてはらいのける。グラス、皿、なにからなにまで横に流されて、がちゃんと無惨にも割れて床に落ちた。
「わからない。わからない! 言葉なんて。もうこんなつらい思いするなら死んだほうがましよ」
私は床に落ちているナイフを首筋にあてた。これでは死ねないと思ったけれども必死だった。もう死んでもいいと本気で思った。家族もいない。家もない。ひとりぼっちの世界で生きていくなんて死んだも、同然だった。
突然、私は抱きすくめられた。頬に流れていた涙がすっと引いていく気がした。あまりの突然のことにびっくりして声も出ない。
「悪かった。急ぎすぎていた。君のペースを考えるべきだった。だが、味方はここにいる。家族も。」
「誰?」
私は自然と尋ねていた。私のこの時代の子孫? ううん。そもそも世界が違うのだからあり得ない。
「私だよ」
シャーロックがおもしろそうに答えた。
「お父さん? それともお兄さん?」
さぁ、と彼は簡単に答えて答えを教えてはくれなかった。
「さぁ、またもどろう。私たちの住む世界へ」
私は最初に覚えた承諾の言葉でうなずくとまたレッスンの日々に戻っていった。
その一件があってからは、手厳しいことには手厳しいのだけど、時折優しく見つめられるときがあった。その視線の意味を私はまだ知らなかった。
ある日、彼は私に外へ行こうと誘った。今まではずっと家の中にこもりきりだった。たまに家の庭に出ることがあっても本格的に街に繰り出すことなどなかった。
たどたどしくたずねる。
「悪い人、いない?」
みぶりてぶりで必死に伝える。
「もう捕まったからいないよ」
私たちはイギリスの散歩道を歩いた。そしてテムズ河が太陽の光を反射してきらきら輝いているのを見つめる。
「きれい」
見とれて立ち止まった私に会わせて彼も立ち止まる。
「太陽、川、きらきらして、きれい」
単語をつなげていてやっと文章にする。まだ私は流暢に話せなかった。
「きれい、か・・・。そんな目でこの川を見たことはなかったな」
そういって優しい微笑みを私に向けた。私はどきっとする。口にこそ出さなかったが私は氷の悪夢から助け出してくれたヒーローに心奪われていたからだ。
突然、ふっとシャーロックの顔に何かよぎったけれど、すぐにもとのポーカーフェイスに戻った。
言葉が上達するにつれて彼の中で何かが起こっているのはわかっていた。私の家族といっていたけれど話せるようになったら一人で生活するのだろうかと私は怖くなってもいた。
「さぁ、また歩こう」
彼はゆっくりと歩き出した。私もそれに続いた。
テムズ川に沿って歩いていた私たちはいつの間にか街中にまで足を運んでいた。急に怖くなってシャーロックの服の袖をつかむ。その手を大丈夫といいながら手をぽんぽんと叩いてくれた。
一軒のカフェに入る。どうやらセルフサービスの店のようだ。紅茶の国のくせにカフェがあるんだなぁ、と私は見とれていた。シャーロックは小銭を出すと私に手渡した。
「コーヒーを頼んでみたまえ」
「できない」
私はパニックになりそうな頭で答えた。
「コーヒーが頼めたらご褒美があるから」
ご褒美なんかいらない。さっさとこの店から出たかった。
「コーヒーをください、と言えばいい」
シャーロックは耳元でささやいた。シャーロックの顔を見ると彼は、てこでも動かないようだった。しかたなしにレジへと進む。頭の中で言葉を反芻する。前の客のオーダーが終わり、私の番になった。私はカチコチになってロボットのように言葉を告げた。
「コーヒーください」
アイスかホットかと聴かれオウム返しにアイスと答える。程なくして私の手元にはアイスコーヒーがあった。
「できた。買えた!」
まるで遠足に始めて行った幼児のように私ははしゃいだ。シャーロックは微笑みながら私の開いている片手を引いてテラスに出た。そこには恋人達が思い思いに話を咲かせていた。
いつか私も・・・なんて思っているとシャーロックは小さなビロード張りの小箱を取り出した。それをあっさりとあけると勝手に私の左手の薬指に指輪をはめた。私はただ混乱する。
「前に家族がいると言ったね。私と結婚してほしい。こんなだめ医者だが・・・」
私は言われたことを頭の中で繰り返していた。結婚という言葉が頭の中でぐるぐるまわる。
「いやなら・・・」
「シャーロック大好き!」
数少ない私のボキャブラリーではそれが承諾の精一杯の言葉だった。周りの恋人達が振り返るが私は気にしていなかった。
「結婚する。あなたと。シャーロックと」
彼は魅惑的な微笑みを浮かべて私の手を取ると手の甲にキスをしたのだった。
そして今に至る。
私たちはシャーロックの下宿先からロンドン郊外の家に引っ越しした。結婚式はごくごく内輪で行われた。質素な結婚式だったけれども私もシャーロックも幸せだった。私の言語能力は結婚とともに飛躍的に上昇し、普通の会話では問題なくなっていた。
だけどひとつだけ不安なことがあった。結婚すればついてくるものがなかった。夫婦生活。初夜すらむかえていない。
一体どういうことなの? シャーロック。
私のつぶやきは音にならずただ闇に消えていった。
第二話 かたまっていく確信
「シャーロック?」
書斎でぼんやりと外を眺めていた夫に私は声をかけた。苦しげな顔をしている。
「病院で何かあったの? それとも・・・」
「いいや」
彼は私の唇に人差し指を当てながら制する。
それじゃぁ、なんでこんな暗い顔をしているの?
結婚してからだんだんとシャーロックの顔にかげりが増え始めていた。
それに一向に抱いてもらえない。時折熱い視線で私を見るのに指一本触れない。
私は愛されていないの?
漠然とした疑惑は固まった確信へと変わっていく。
私は彼にとって何者なんだろう?
もしかしてコールドスリープを経験したという極秘扱いの人間なのだけかもしれない。シャーロックの兄、マイクロフトがイギリス政府だけでなく国際政府でも要人であること
に起因しているのかもしれない。だとしたら弟のシャーロックは秘密を隠すためだけに私と結婚したのかもしれない。彼は頭の悪い人ではない。むしろよすぎる。勝手気ままな人間に見えるが実際はそうでない。優しい心の持ち主で立派な外科医だ。
私も彼の暗い顔を見ているうちにだんだんと心が沈んでゆく。
一緒に暗くなってはだめ。
せめて私ぐらいは明るくしなきゃ。
一生懸命明るく努めているけれどもだんだんつらくなってくる。あたりまえだ。彼の優
しさは本当なのかもしれなくても、その結婚生活は優しさだけのものなのだから。愛とい
うものは入っていないのかもしれない。私の心はちょっとしたことにでも動揺するように
なっていた。問い詰めても彼はなかなか言わないだろう。真実を。彼の前では泣きたくて
も泣けない。優しすぎるから。
だけど、そんな日々はいつか破綻が来る。私は意を決して彼が閉じこもっている書斎のドアをノックした。
「話があるの」
私のみなぎる緊張した顔に彼も何事かという表情に変わっていく。彼は椅子から立ち上
がった。
「そのままでいいわ」
私は大きく息を吸って気持ちを整えた。
「私たち結婚して一ヶ月以上たつわね」
ああ、とシャーロックは腑に落ちない様子で答える。
「どうして抱いてくれないの? 愛していないから?」
愛してくれていないから?
とうとう言ってしまった。大きすぎる疑惑が核心に固まった瞬間だった。
「何を言い出すのかと思ったら」
シャーロックは微笑む。
「ごまかさないで! 愛しあっている二人が抱き合うこともないなんて変じゃないの。こ
の世界ではそういうルールでもあるの?!」
私はいらいらとした気持ちをぶつけた。むっとした表情が彼の顔にも浮かぶ。
「君はそんな安っぽい女なのか? 体を簡単に明け渡すことを考えるとは・・・」
「安っぽいも何もないじゃないの。私たちは合法的にも夫婦よ。それとも結婚はうそな
の?」
「違う!」
激しくシャーロックが否定する。
「それじゃぁ・・・愛していないのね」
私は泣き声になっていた。
「こんな話は一切したくない。私はそんな理由で抱いていないのではない。理由はいずれわかる」
そういって彼は書斎のドアを閉めた。
ぴしゃり。
そのドアが閉められたとたんに彼の心も閉じられたように感じた。
私はベッドに倒れこみ枕を涙でぬらした。
翌朝、私は一人で起きた。彼はもう仕事に出かけて行ったようだった。その日から彼と
私のすれちがう生活が始まった。
朝も顔を合わすこともない。夜は私が眠った後に帰ってくるようになっていた。仮面生
活。そんな言葉が頭に浮かんだ。
私はこんなにも彼を愛してるのに彼の心に中には私はいないようだった。
悲しみに心が押しつぶされるようだった。あの言葉の壁からつまづたいた頃の悲しさよ
りももっと悲しかった。つらかった。
そんな中のある日、春の陽気は私を外へ連れ出した。
あの人はなにを食べるだろうか? 買い物は楽しかった。彼の好物を選んでいるときは
楽しかった。愛されてなくとも愛することは勝手だ。もうすれ違う生活は終わりにしよう。
私から歩み寄れば友達ぐらいにはなれるかもしれない。一度壊れた関係は元に戻らない。ならばもう一度作るまで。私はそう決心してまたスーパーから外へ出た。
帰途についているときふいに肩をたたかれた。
近所の奥さんかしら?
だけど聞いた声は野太い男の声だった。
「ミセス・ホームズ?」
「そうですけれど」
いつしか男たちに取り囲まれていた。だがさりげない取り囲み方に周りは気づかなかっ
た。友人と話をしているぐらいにしか思われなかっただろう。
恐怖がこみ上げてくる。だけど声も出ないし、足はすくんで動かない。金縛りにあった
ようにまるで動きが取れなかった。
逃げなきゃ。
それだけが頭の中に走ったのに動けなかった。
不意に後ろから手が伸びてきてハンカチを押し当てられた。そして私は意識を失った。
意識を元に戻したらそこは見慣れぬ部屋だった。白い部屋。窓もない。空調の音だけが
響く無機質な部屋。ドアがひとつだけある。もちろん鍵がかかっているのはわかる。私は
手足を縛られ猿ぐつわをかまされていた。私はそれでも逃げられないかとドアの方には
っていき耳をドアに近づけた。そこに見張りの男だろう。声が聞こえてきた。
「なんだってコールドスリープの生き残りだってか?」
軽そうな男の声が聞こえる。
「らしな。凍って百年ももっていたらしいじゃないか。そこらのばぁさんよりたちが悪い
ぜ」
コールドスリープ者は私以外にもいたらいい。だけどみな失敗に終わったようだ。生き
残った私はまれに見る幸運者だということだ。そしてその高度な技術でこの世界によみが
えった私は異形のものと化してしまったのだ。それなのにシャーロックは自分を犠牲にし
てまで結婚してくれた。他に好きな女性がいたかもしれないのに。彼の誠意を私は無駄にしてしまった。さらに愛していないの? と問い詰めてしまった。愛しているも何も彼の優しさだけで十分だったのに。わがままからこんなことになってしまった。外へ出るときはいつだだってシャーロックと共にいた。それがたまたま勝手に外へ出たらこの低落だ。申し訳なくて彼になんと言ったらいいのかわからない。
シャーロックごめんなさい。
あんなに大切にしてくれたのに。後悔がどっと押し寄せてきた。
こんな風にさらわれてシャーロックはどんなに心配しているだろうか?
私は自分の心配より彼の心配をしていた。私にとっては彼の安全こそが第一だったから。
愛しているとはこういうことかもしれない。でもどうして極秘扱いの私の素性がわかった
のだろうか?
でも、と思い返す。私とシャーロックは何か研究所のようなところから逃げた。夜にまぎれての行動だったからよくは覚えていないけれども。そこの人間なら私の存在を知っているはず。名前を変えて結婚しても彼らは私を見つけてしまった。恐怖が走る。何が起こるの?
人体実験?
私はモルモットのように扱われるのだろうか?
助けて。シャーロック。
彼にすがるしか私には方法がなかった。でも、とまたそこで考え直す。彼の妻なら自力で逃げるぐらいの気力を見せないと。彼の妻である資格はない。
私はなんとかして紐がはずせないかと手を動かした。ほんの少しのすき間があって手が動く。それを利用してゆるむように動かしていく。すみませんと声をかけて油断させて逃げようと思ったけれど猿ぐつわをかまされていては結局もごもごいっているだけで伝わらない。もう自力でなんとかするしかないのだ。
私は手首の皮が傷つくまで動かし続けた。痛い。でもここで降参したくはなかった。ぬ
るっとした感触がする。血がでているのだろう。だけどおかげで縄のうごきがよくなった。
すっと縄が手首からぬけた。
やった。
私は喜びながら猿ぐつわをとり空気を吸い込んだ。新鮮な空気を吸って気分が晴れやかになる。もう少し。次は足。足の縄を取るのは簡単だった。容易に私は自由の身となった。
だけど逃走経路がわからない。表には相変わらず人がいる。交代制であってもすぐに人がやってきて変わっていくだけだ。声を出せば私が抜け出ることができる状態であることもわかってしまう。何か方法はないのだろうか。私は悩んだ。窓はない。ドアだけだ。ここをなんとか出て行く方法はないのか、と考え抜いたけれども答えは出なかった。
どうしたらいいの?
悩んでいる間に時間は刻々と動いていく。焦りが出始めたころドアノブがゆっくりと回った。恐怖が走る。でも身構えた。先ほどみたいにあっさりさらわれたりはしない。殺されようともこれ以上シャーロックのお荷物にはなりたくはない。
ドアから入ってきたのはいかにもイギリス紳士らしい男だった。微笑んでいるが目はす
わっている。凶暴そうな光が目に浮かんでいた。
危ない。この男は信用してはならない。
直感的にそう思った。
彼は微笑んで言った。
「おや。姫君はいつしか自由を満喫していたんだね」
きついイギリスアクセントの残る国際語で彼は言った。身をイギリスのブランド品でつ
つんでいる。相当イギリスを愛しているようだ。
「だが、逃げられなかったのは非常に残念だったね。ドクター・ホームズの妻なら窓があ
ればすぐにでも逃げることができると思ったのでね。窓のない部屋にしておいたんだよ。先見の明だね」
部屋を見回して自己満足を男はすると私にまた視線を戻した。
「それではもう一度気を失っていただこうか。これから行く場所を知られたくはないので
ね」
そういって男が後ろを見たか、と思うと軽そうな若い男が入ってきて私をつかまえた。私は暴れて彼の手をかんだ。彼の手が離れた隙に私は猛スピードでドアをでようとした。
それを男はふさぐ。あっという間に男たちに捕まってしまった。
アルコールのような独特の香りが私の口や鼻に広がっていく。意識を手放さないように抵抗しても意識が緩んでいく。手がだらり、とたれさがっていく。
ごめんなさい。シャーロック。
また意識を失いながら私は愛してやまない夫に謝っていた。
時空を超えて
第三話 もう一人の私
まぶたを開けると白い四角い天井が飛び込んできた。最初に監禁されたときと同じような部屋だ。
研究所ってみんなそうなのかしら?
少し面白く思いながらも今度はご丁寧にベッドご招待されていた。体も自由だ。だが、窓はない。相変わらずドアがひとつだけだ。ふと身動ぎした拍子に手首が痛んだ。
縄抜けで手首を怪我したんだっけ。
今度は何をされるのだろう?
漠然とした不安がつきあげてくる。
「やぁ、お姫様はお目覚めかい?」
今回の事件の主犯格と思われる男がまた部屋に入ってきた。
「怪我の手当てまでどうもありがとう」
嫌味のつもりで言ったのに男は声を上げて笑う。
「おとなしい君も魅力的だが私は荒々しい君のほうが好きだな」
一瞬よくわからない光が彼の瞳の中に浮かんだ。だけど私はそんなことを考えることはしなかった。どうやって逃げるか、そればかり考えていた。それにワイルドがいいなら今度は粛々として時期をみはかるわ。男の手のひらで踊らされるのは真っ平。勝気な私がそう自分に告げる。
「お目覚めということはこれからまたちょっとしたショーの始まりだね」
男が手を差し出す。一瞬歯でかんでやろうかと思ったけれども、しかたなく手をとった。だって。かんでも何もならない。彼を傷つけても逃げることはできない。機会を待たないと。
男の後ろにはずらっと人が並んでいた。警備らしき人間と白衣を着た人間。それほど私の存在は大げさなものらしい。愉快というかなんというかわからない表情を伏せがちにして私は苦笑いを禁じえなかった。
研究所の中を男の手に引かれて歩く。まるでお姫様扱いだ。どういうことなのかまったく見当がつかない。最後には研究者のような者たちだけが残っていた。
男が振り向いた。
「ここからは無菌室だ。消毒をして白衣を着たまえ」
だれが、言うことを・・・、そういいかけた時男の瞳に凶暴な光が浮かぶのを見て私はしかたなく白衣を着た。この男は狂っているのかもしれない。その理性は狂っている。そう確信できる。なぜなら人間をモルモット扱いにできる人間だから。私はその怖さにぶるっ、と身震いした。
「これから楽しむショーに武者震いかい?」
愉快そうに男が言う。そしてまた別の扉へ向かう。
続く道へと続く領域へのドアを開けた。
また、白い長い廊下が続く。
「これが最後の扉だ。いとしの姫君にご対面できる」
彼の恍惚とした表情に私は怪訝に思った。
姫君とは私でなくて、誰?
遠慮なく彼は扉を開けた。この何度も続くドアの開け閉めには何か認証制があるのかと思っていたけれどこの世界の三十世紀にはそんな面倒なことはしなくていいらしい。IDとパスワードが産まれたときに埋めこまれているとシャーロックから聞いている。すると私のIDはなんなのだろう。橘亜弓だろうか? アミィ・ホームズだろうか? 疑問はあふれるようにわいてくる。ドアが開け放たれたとたん見覚えのある景色に遭遇した。
数個のカプセル型の収納機がずらっとならんでいる。だけど私のではないことにすぐに気づいた。私のところにあったのは私のものひとつだけ。暗がりでも確かにあんなになかったのだけは断言できる。
「喜びたまえ。これがミセス・ホームズのオリジナルだよ」
喜んでいるかのごとく、男が指差したカプセルの中にいたのは私とそっくりな女性が眠っていた。
わ・・・た・・・し?
奇妙なデジャヴーにとらわれる。
どういうこと?
まるでレミングの大暴走が頭の中で起こっているようなパニックが起こる。
私は「私」だわ。橘亜弓。するとこの女性は? オリジナルって?
混乱する私に男は面白そうに笑う。
「驚いたかね。ショーとは君と彼女のご対面のことだ」
いとおしそうに彼女のカプセルの表面をなでる。
「君は彼女のクローン体なのだよ。人類で唯一の・・・」
「く・・・ろーん?」
私は人でないってこと?
「クローンは法律で禁止されていないの?」
呆然としたまま問いかける。
「もちろん違法に決まっている。だがそんな我々をバックアップし続けてくれる組織がある。我々は技術を開発して得た金を渡す。それがこの百年目にしての快挙だよ」
誇らしげに男は述べる。
「ひとでなし!」
私は叫んだ。顔は涙でぐちゃぐちゃになっていた。
「人をモルモット扱いして。私が「私」でないなんて。こんな冗談うけたくないわよ!」
「あいにく冗談ではない」
「わかっているわよ! 卑怯者」
「なんとでも」
彼は飄々と言ってのけた。
「あとは彼女がうまく目覚めてくれたらいいのに・・・」
いとおしそうに見つめる男に不思議な気持ちを持つ。
「モルモット扱いにするために目覚めさせたいの?」
つい優しい声で言葉をかけてしまう。
「さぁ・・・」
彼は何もわからないような答えだけを返した。
「これは単なるショーではないのね。逃げた私とシャーロックに与えた罰なのね。知らなくてもいいことをわざわざ教えるだなんて」
「ご名答。今回のことで我々は大変な目にあった。もう一度我々を裏切るようなことがあればまたコールドスリープの被験者にでもなってもらうだろう」
冷徹な声で男は言った。コールドスリープという言葉だけで私は身も心も凍る気持ちになった。これ以上また時代の置き去りに合うなんてごめんだ。
「脅したって無理よ。クローンになんの得があるの? 医薬品の人体実験でもするつもり?」
「さぁね。だが目には目を。歯に歯を、だよ。我々に危害を与えないことだ」
こんな姿で「私」がここにいる。私は人間じゃない。クローン。悲しみがじわじわと体に染み渡っていく。今までのどんなときよりも悲しかった。シャーロックの元に返りたい。愛している人の下へ。
でも人間じゃないものを彼は愛してくれるのかしら? 友達にでもなってくれればいいと思っていたけれど人間でない私はそこまでの関係にすらなれないかもしれない。所詮、私は世界のおもちゃなのだから。
さっきまで愛していた夫に対しての気持ちが凍っていくのがわかった。彼はクローンだから私を愛してくれなかったのだ。それであの苦渋の表情も説明がつく。クローンなんて人間じゃないもの。人間じゃないものを人間が愛せるはずはない。
「どうだね。オリジナルとのご対面は気持ちいいかい?」
「そんなわけないでしょ!」
私は日本語で叫び返していた。
「これがネイティブの日本語かい。我が宿敵シャーロック・ホームズ君はそこまで再現してくれたのかね」
再現? 私は眉をひそめた。私は日本語を最初から知っている。
「知らないのかい? 君はクローンだ。オリジナルから成体細胞を取って核移植をし、人工羊水で育ったまっさらなクローンだ。そこにはなんの記憶もない。我々はそこにどうデーターを入れるか研究していたところなのだよ。こんな面白くない話をしないといけないのは面倒だね」
そういって彼はまたオリジナルの入っているカプセルに視線をやった。まるで愛おしい人間ををみるように。
そこへ警報がなりひびいた。
"侵入者検知。ただちに避難せよ"
ロボットのような無機質な声が告げる。
男が舌打ちした。
「もうわかったのか。ここもだめだな。とりあえず君と逃げるしかなさそうだ」
男はそういって私の腕をつかんだ。
「痛いじゃないのっ」
「失礼。気が散ったものでね。オリジナルと離れるのは悲しいが仕方ない。行こう」
男に手を引かれて爆音の響く研究所内を走った。
「もう少しだ。今、やつらにつかまるわけにはいかない。彼女を眠りから覚ますためにも」
最後のほうは聞こえづらかったけれどもはっきりと聞こえた。
「あなた、彼女を愛しているのね」
「何を言う?!」
明らかに男が動揺した。
「図星ね。でもクローンの私よりもオリジナルを愛するのは難しい選択をしているのね。起きている私を愛すればいいのに」
「オリジナルとクローンは違う。私は・・・オリジナルを一目見たときから彼女のとりこになった。彼女を無事に眠りから覚ますためにも今はつかまるわけには行かない」
最後のドアを開け放した。そこにいたのは・・・。
「シャーロック」
大声を出したかと思ったけれどかすれた声しか出なかった。
男が手を緩めた好きに私はとっさにシャーロックの胸に飛び込んだ。刹那、抱きしめられる。久しぶりに会った夫に私は感無量だった。自分が人間でないことを忘れた瞬間だった。
「このじゃじゃ馬娘が・・・」
そういう彼の声は涙声に近かった。そして後ろ手に私をかばう。男は銃を手にしていた。
私はとっさに彼をかばおうと前に出そうになった。それをシャーロックが止める。
「モリアーティ教授、僕に見覚えはないかい?」
明るい声が斜め後方から聞こえてきた。
「ドクター・ワトソン」
彼も同じく三十世紀に生きる人間だった。彼の銃が男に向いている。
「さぁ、逃げるぞ。お説教は後だ」
シャーロックが手を引っ張る。
「まって。まだあの中には「私」が・・・」
「「私」?何を言っているんだ?」
「とぼけないで私がクローンであることは知っているでしょう?」
シャーロックの顔が急に青くなった気がした。
「オリジナルを助けて」
「今は無理だ」
「それなら私が助けるわ・・・!」
私はシャーロックの手を離してしまった。もう一度ドアに向かう。するとモリアーティ、男の手が私の手をつかんだ。
「かわいい赤頭巾ちゃんのようだ。わざわざ私に向かってくるとは。さぁ、どうする、ホームズ?」
モリアーティは私のこめかみに銃をあてた。その場が凍りついた。
私は笑った。
のんきにも笑った。
もうシャーロックのお荷物になる気はなかった。
「人を殺すにはここが一番なのよ」
そういって私は彼の手に手をかけると自分の口元に持ってきた。男が一瞬、あわてたその隙にシャーロックがすばやい身の動きでモリアーティを撃った。モリアーティが倒れる。血がどくどくとあふれているのがみえる。
駆けつけた警察官にシャーロックがぼんやり言っているのが聞こえた。
「今ならまだ間に合うかもしれない。応急処置はしておこう」
シャーロックとワトソンがなにがしか処方を施している。私はその姿を見てもうあそこには帰れないのだとふいに思った。クローンなんて人間じゃない。異形のもの。ただのコールドスリープだけでも極秘扱いの人間なのにそれがさらにクローンだということは珍品中の珍品。こんなややこしいものをシャーロックは押し付けられてしまったのだ。もう彼に私を押し付けたくはなかった。
「アミィ」
シャーロックが声をかけた。私はそのそばをすり抜けた。
「クローンなんか興味ないでしょ? たとえオリジナルでも愛していないのだから」
シャーロックが呆然と立ちすくのを私は感じていた。
マイクロフト、と彼の名を呼ぶ。彼もまた現場に来ていた。
「あなたの屋敷においていただける? シャーロックには離婚届を出します。トップシークレットにはそれ相応の扱いが必要でしょう。温情ではなく合理的に。そしてオリジナルを大事にしてください。私のことはもうどうでもいいから」
私のほほに涙がひとすじ流れるのを感じた。涙を手の甲で拭う。
私は警察の車にそのまま歩みを進めた。
改訂版時空を超えて1
第四話 取り戻した私
暗い部屋、私はそこにずっと座っていた。夜が来れば休み、朝がくれば起きる。そんな当たり前をこなすのは苦にもならなかった。機械的に日常を送る。でも明るい日の光の当たる世界に戻るつもりはなかった。カーテンで部屋を締め切り私はそのうすぐらい部屋にずっとすわっていた。
ドアをノックする音が聞こえた。どうぞ、と声をかける。どうせいつものようにマイクロフトなのだから。
「シャーロックから君へのプレゼントだ」
「何を持ってきても気持ちは変わらないわ」
愛する人はオリジナルと幸せになるべきなのだ。代わりの私がいても何もならない。なのにシャーロックは花を贈ってきたり物を贈ってきたり。気持ちを揺さぶるようなことをしてきた。その代わり姿は見せなかった。その真意がわからなかった。
愛しているのはモリアーティーと同じオリジナルなんでしょう?
そう問い詰めたくなるけれどああ、と肯定されるのが怖かった。確かにオリジナルと幸せになるべきだけどそれを思うと嫉妬の炎が燃え上がった。彼の贈り物は私の宝物だった。部屋中彼の贈り物であふれていた。
クローンでも人を愛せるのよ・・・。
何度となくシャーロックの贈り物に語りかけたかしれない。
「これで最後だと言っていた」
マイクロフトはそういって封筒を手渡した。彼がじっとみているのでそのまま封筒を開ける。中には離婚届の用紙とパスポートが入っていた。
「離婚届は君から出してほしいと言っていた。自分には出す勇気がないと」
あの人に勇気がない? そんなことはないわ。いつだって世界で一番優秀な人なのに。私は何気なしにパスポートを開いた。
橘亜弓。本名だ。年齢だけごまかすように年号は変えてあるけれども生年月日は一緒だった。
「どういうこと? 私はアミィじゃないの?」
つぶやきに似た問いが口についてでる。
「君の本名で作ってほしいと頼まれた。それがシャーロックのできる最大限のことだと言っていた。その離婚届もよく考えるんだ。シャーロックの心を考えるべきだよ」
ええ、そうね、と私はぼんやりと答えた。彼の真意がわからない。でもひとつだけしたいことがあった。
「私、このパスポートで日本に行ける?」
「もちろんだと」
マイクロフトの口元に微笑が浮かんだ。
日本。あらゆる所で私の知っている歴史が異なる国。ただ日本語だけはかわっていない。不思議な気持ちにさせられる。私はグループ旅行で日本にやってきていた。博物館に行ってこの国のたどった変わった歴史を学んだ。こんなおだやかな国の国民にしてくれたシャーロックにいくら感謝してもしきれないほどだ。
だけど、「だめ」と私の心がささやく。もう彼とは縁が切れるのだ。私は隔離された国際政府の居住地に移り住むことが決まっていた。これが最後の自由な時間なのだ。離婚届は出せずにいた。まだ彼を愛していたから。いずれ愛してもらえるかもしれない。でも私はクローン。もう誰も愛してはいけない人間。いえ、人間とは似て非なるもの。パスポートを作ってくれた段階で彼は踏ん切りをつけたかもしれない。彼ももう自由に生活できるのだ。せめてオリジナルと幸せに暮らしてほしいと願う。マイクロフトは頑としてオリジナルの動向を知らせてはくれなかった。クローンである私にはそれを知る権利があるのに。
そんなことを思いながら私は京都に来ていた。どの時代においても京都は格別に古いたたずまいを残していた。
もしかしたら・・・?
私はある種の期待を持っていた。自由時間の間、私は、みんなが寺を回ったり、みやげ物を買うのとは違う行動をとっていた。ローカル線に乗って京都のある地域へと向かう。そこは私の住んでいた市だった。私の住んでいた家のある場所。ちょっと細い道を入った角の家。それが私の家だった。
もしかしてあるかもしれない。そう思って少しだけ変化しているだけどほとんど同じである道を歩く。
このカーブをまがれば・・・。
心臓が破裂するんじゃないかと思った瞬間それはすぐに落胆に取って代わった。
家は、なかった。
影も形もなかった。確かに二十世紀と三十世紀では住んでいる人間も違うはず。それでも自分の子孫でも住んでいたら、と思ったのに。身もしらぬ人がそこに住んでいた。当たり前の事実に私は打ちのめされていた。
私は落胆した気持ちを抱えながら京都にもどった。
ぼんやりと私は京都の道を歩く。
ふいに腕をつかまれた。
「痛い」
声を荒げて抗議しようにも落胆が大きすぎて小さな声にしかならなかった。目の前を車が猛スピードで走っていく。
「あ・・・」
腕をつかんでくれた人に向き直る。
「すみません。ぼーっとしていて。ありがとうございました」
私はぺこりと頭を下げた。亜麻色の髪にめがねをかけたまじめそうな人・・・。この人確かツアーの人ではないかしら?
「ミスター・ウィルソン?」
「そうです。ミス・タチバナ。ぼんやりしてどうしたんですか?」
「あ、いえ。ちょっと気にかかっていたことがあったもので・・・」
「お時間があるようでしたら喫茶店でお茶でもどうですか?」
「いいですね。そうしましょう」
人当たりのいい彼に誘われて私はミスター・ウィルソンと一緒に喫茶店に入った。入ると心地よいカフェ音楽がかかっている。店の奥にテレビがついている。音はなくて文字放送のみだ。この世界ではいろいろ都合のいいものがある。うまくつくったものだと感心することしきりだった。「だった」なんてまるで死人の言葉みたい。自分で考えた言葉が面白くて私は心の中で笑った。
それが顔に出たのだろうかミスター・ウィルソンがたずねる。
「いえ。ちょっとしたことですから」
私はメニューにイギリスで大好きになったロイヤルミルクティーをみつけて喜んだ。早速オーダーに決めた。そこでもまた疑問がわいた。
私は日本人ではなくてイギリス人になったのかしら?
もともと今の世界は国際政府が統括していて国などあんまり区切られてなかったが。それでもあいまいな自分にとまどう。
「どうしましたか?」
またたずねられてさすがに恥ずかしくなる。私はよほど挙動不審らしい。
「この世界の人たちは自分の国をどう思っているのでしょう? 国際政府になってアイデンティティが崩れたのでしょうか? 共通語もありますしね・・・」
「いきなり難しい話ですね」
ミスター・ウィルソンに指摘されてあわてて謝る。シャーロックにも言われていた。いつも難しい話を展開すると。懐かしさに切なくなる。シャーロックに手を引かれて逃げたあの夜はいつだったのだろう。
「いいえ。かまいませんよ。でもあなたのようにきちんと考えている人は少ないでしょうね。みな、なんとなく生きているものですよ」
「あなたもですか?」
「さぁ、ね。おまちかねのロイヤルミルクティーが来ましたよ」
え?
私は耳を疑った。この人はどうして私がロイヤルミルクティにこがれていたか知っているのだろうか、と。ただ普通にオーダーしただけなのに。だけどその疑問は店で移っていた文字放送のテレビを見た瞬間に飛んでいってしまった。
それは世界でも指折りの探偵で優秀な外科医であるシャーロック・ホームズの訃報を知らせるニュースだった。
「うそ・・・」
私の手からカップをかき回すスプーンが落ちた。それから急激に目の前は真っ暗になり、私は意識を失った。
目が覚めた。まぶたを開ける。そこは私の宿泊しているホテルの一室だった。そこにはなんとシャーロックの顔!
「どうして!?」
それしかいえなかった。言葉があふれてきて私を押しつぶそうとしたから。
ベッドサイドにはかつらがおいてある。ミスター・ウィルソンの髪の毛とそっくりだ。
「だまして悪かった。こうでもしないと君の安全を守れなくてね。それとこの旅行を利用させてもらった。この前の事件の残りが私を狙っているからね。今頃、私の訃報でやつらは大喜びだろう。これ幸いと悪事を働いたとたん逮捕されるんだよ」
得意げに話す彼は以前と変わりなかった。ぽろぽろと涙がこぼれる。
「大丈夫だよ。アミィ。私はここにいる」
私は彼への愛を再び認めた。自分が何者でもかまわない。私はシャーロックを愛している。誰にも渡したくない。
「シャーロック」
そういって手を差し伸べる。それだけで二人の間にあった溝はなくなった。彼は手をとって軽く抱き寄せた。暖かな人のぬくもりが心を暖かくする。凍っていた心が喜びへと変化していく。
「愛しているわ。シャーロック。たとえ、私が何者でも。愛してくれなくても・・・」
「アミィ。大切な話がある」
シャーロックは私を腕の中から開放して私の両手を握った。
「クローンは彼女のほうなんだ。彼女の」
え? 私は聞き返した。
「ちゃんと調べはついているんだ。私はオリジナルの橘亜弓を起こしたんだ。私のアミィをね」
「気休めはいいわ。モリアーティー、あの男は・・・」
「彼の言葉はうそだ。彼が混同していた。コールドスリープにした人間の資料が見つかったんだ。それによって私はオリジナルの君を救い出したんだ。彼女も目が覚めた。今、社会復帰に向けてがんばっている。名前を今検討中だ」
シャーロックはユーモアあふれるまなざしで語りかけてくる。
喜びが体の中を突き抜ける。
「私が私なのね! 私は人なのね!」
「当たり前だよ。クローンだってそうなんだ。彼女も好きなように生きて行けるようにマイクロフトががんばっているよ」
くすり、と私は笑う。
どうしたんだい?と目で彼は質問する。
「案外あのマイクロフトがころっとまいるかもしれないかも、と思って」
「まさか」
「わからないわよ。血は水より濃し。好みも似ているかもしれないじゃない」
「あの兄にそんな芸当ができるとはね・・・。そうなったら見ものだ」
私とシャーロックは一緒に声を上げて笑った。そしてまた彼は真顔になった。私もそれにつられて真顔にもどる。
「もうひとつ知らせがある。インドに多重世界アクセス機があることが判明した。君は君の暮らしていた世界に帰れるよ」
「だって、操作する人はいないんでしょう?」
「マイクロフトは座ったままで推理のできる人間でね。操作も機械を見て会得したそうだ。こんな機械は早く壊してしまえと彼は言っているがね。どうする? すべては君の答えにかかっている」
「すべては・・・って・・・。他に連れてこられた人はいないの?」
「それはわからない。だが調べた範囲ではもういないだろう」
「それなら。壊して。私のいる場所はここ。愛するあなたがいる空の下よ」
「アミィ」
そういってシャーロックは私を抱き寄せた。強く抱きしめられる。幸せな気持ちがこみあげてくる。
「悪かった。つらい想いをさせて。私だってこうして君を抱き寄せたかった。だが、立場を利用した関係を疑われるのが怖かった。事件が解決するのを待つしかなかった。だが、もう怖いものはない。モリアーティーは刑務所の中だ。君を奪うものは誰もいない。君を愛している。そうでなきゃ、マイクロフトの屋敷に花を贈るものか。会いに行けばすぐに誤解は解けたはずだが、君の心は凍っていた。どうすれば溶けるかわからなかったんだ。早くイギリスにもどってあの家に帰ろう。そして私たちの子供でいっぱいにしよう」
子供たち、というその言葉で私は真っ赤になった。
「抱いてくれないといってだだをこねていたくせに」
「それとこれとは別なの」
恥ずかしい私はベッドの枕に顔を伏せる。その顔もシャーロックはそっとこちらに向き合わせると唇を盗んだ。
「離婚届は出していないね?」
シャーロックがささやくように尋ねる。その表情は愛情に満ちたものだった。ええ、と私は微笑みながら答える。
「なら、早くイギリスへ帰ってミセス・ホームズになってくれたまえ。我が家はねずみの巣窟になりかねない勢いなんだ」
「ええー!?」
私は大げさすぎるほど驚いた。
「どうやったらそうなるのよ?」
「この頭に聞いてくれ」
「もう。シャーロックったら・・・」
私の中から笑いがこみ上げてくる。私は心の底から笑う。
愛しているわ。私のシャーロック・ホームズ。時間も世界も超えて出会った愛する人。この空の下で私は生きていくわ。
時空を超えて1完
ただのにやけ野郎の恋です。切な甘を入れ込んではいますが、こんな甘いの乙女ゲーでもないわ、と著者も思う。やっぱり、乙女ゲー育ちなので歯の浮く台詞がうんと生まれる。
乙女ゲーはいいんですけどね。書く方に回ってプレイすることはなくなりましたが。
アンジェに洗脳されました。
今もでてるのかしら。
ゲーム卒業してしまいわからない状況です。ライン漫画でロマファン勉強中。
早く新作が書きたい。
おまちくださいね。現在、メダカの子育てでストックあげるしかない日々です。
魚好きが高じて婚約破棄されました。を先に出すかもしれません。
それでは時空を超えて2をつくります。