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(15)夢を諦めた男



真島 秋斗(まじま あきと)の場合】



 その人は、少し近付けたかと思うと遠ざかる。


 真島は、向かいの席に座っている先輩を見つめてそう思った。

 劇団を辞め、就職した会社で出会った先輩は、どこか寂しげな儚さを纏った女性だった。

 歳は二歳しか変わらないが、二十五歳まで演劇をしていた真島と違い、彼女は入社五年目を迎える社員だ。


 彼女の名は、日比野 初音という。

 彼女の繊細な雰囲気によく似合う綺麗な名前だと真島は思う。けれど初音は、苗字ではなく名前で呼ばれる事をひどく嫌っていた。


 理由はわからない。


 少しミステリアスな雰囲気があり、プライベートで積極的に人と関わりを持とうとしないタイプのように見えるが……。だからと言って、コミュニケーション能力が低い訳ではない。


 社会人経験ゼロの真島にいつも丁寧に業務を教えてくれるし、他の誰かが困っていれば、率先して仕事を手伝う初音の働き方にも真島はとても好感を持っていた。


 けれどごく(まれ)に、初音はひどく棘のある言葉を使う時がある。それは、悪口や陰口などの卑怯な言葉ではなく、面と向かって話をしている相手へ向けた言葉なのだが……。


 役者の芽が出ず劇団を辞めた真島に、『辞めて正解ね』と冷たく返事をしたり、都市伝説のラッキーキャットに会って良い事があったと話す女性に、『ただの偶然』だと呟いたり。


 どうして、わざわざそんな言葉を言わなければいけないのか。初めは少し、腹が立っていた。


 けれど接する時間が増えるにつれ、その棘のある言葉には、相手を傷付けようとする意図は無いと思えてきた。なぜなら、その言葉を言った後の初音は、言われた相手よりもずっと傷付いた目をしている。その事に、気づいたからだ。


「真島くん。今日のお昼、空いてる?」

「は? え! あ、日比野さん! はい、空いてます」


 ずっと考えていたその相手に急に名前を呼ばれ、必要以上に驚いてしまった。


「ごめんね。業務に集中してる時に声かけちゃって、後にしようか」


 真島の態度をとても良い方向に解釈してくれた初音に、少し申し訳ない気分になる。


「いえいえ! 全然! 大丈夫っす」

「そう? この前もらったチケットのお礼のランチ。今日どうかと思って?」

「はい! 大丈夫です」


 真島が笑顔で返事をすると、初音はそっと席を立ち真島の横まで移動してくる。


「会社から近いのは、中華とか、イタリアンとか。真島くんは、何が食べたい? あ、ここの定食屋さんも美味しいよ」


 そう言って、スマホの画面をこちらに差し出す。

 初音も一緒に画面を覗きながらスクロールしているので、今までに無いほど至近距離に初音の顔があった。


 近い。

 意識しないようにすればする程、色んな事が気になり始める。


 睫毛長いな、とか。

 ほのかに良い匂いだな、とか。


 そんな事に思考が引っ張られ、先程から定食屋のランチメニューが全く頭に入ってこない。


「全然、頭に……」

「え?」

「ぜん……ぜ、全部! 全部、旨そうですね」


 なんとか、誤魔化せただろうか。


「じゃあ、お店はここにしようか。12時より少し前に出ても平気だから、10分前倒しでお昼に行こう。お店が混む前に座れるよ」

「いいっすね。じゃあ、10分前に」


 初音とこんな風に会話している時は、壁があるようには全く感じないが、それでもふとした瞬間に、スッと境界線を引かれてしまう時がある。


 今よりもっと、仲良くなりたい。


 そんな事を考えながら、ふと時計を見ると既に時間は11時を回っていた。


 ランチまでに資料を完成させる。

 真島はここでようやく、途中になっていた資料に思考を切り替えたのだった。



 *




 昼休み。

 初音と向かい合わせで定食屋の席につく。


「ここの定食。お味噌汁が豚汁なの」

「それ、いいっすね! 僕はチキン南蛮定食にしようかな。日比野さんは決めました?」

「私は、だし巻き卵定食。だし巻きは甘めだから、甘いのが苦手だと外した方がいいメニューかも」

「僕もだし巻き卵は甘い派です」

「一緒だね。それならここのだし巻き卵、好きだと思うよ。今回はチキン南蛮にして、次はこれ食べてみて」


 初音と小さな共通点がみつかり、なんだか嬉しい。それに『次』も、一緒に来れるのだろうか。

 そんな事を考えつつメニューから視線を上げると、初音の肩に小さな糸クズがついているのが見えた。


「日比野さん。肩に糸がついてますよ」

「え? どっち?」


 初音が逆の肩を見たので、

「こっちです」

 そう言って、真島は前方から初音の肩へ手を伸ばした。


 その瞬間、思い切り初音に手を振り払われた。


「やめて!」


 怯えるように、初音がうつむく。


「……あ、あの。す、すみませんでした」


 驚き、一瞬言葉に詰まったが、真島はなんとか謝罪の言葉を口にする。初音はハッとしたように顔を上げた。


「ごめん。私……首元に、前方から手を伸ばされるのが苦手で……その、ごめんね。糸クズをとってくれようとしただけなのに、思い切り払いのけちゃって……ごめん」


 明らかに動揺した初音の様子に、恐らく何かあったのだろうと想像はつく。けれど、何があったのですかと、聞く事はできなかった。


 初音と真島は、会社の先輩と後輩。

 先輩と、ただのポンコツな後輩だ。


 そこに踏み込んでいい、そんな関係性の距離ではないと、そう感じたのだ。


 初音に少しでも元気になって欲しくて、真島は笑って話し出した。


「僕、友達からよく距離感バカって言われるんですよ。パーソナルエリアでしたっけ。友達の距離とか、恋人の距離とか。そういうの間違えて、犬みたいに懐くから距離感バカらしいっす!」


 精一杯、明るい声を出すよう意識する。

 

「だから、ビジネスマナー的にもヤバイって時は、ガンガン指摘して下さいね! その辺も、ご指導よろしくお願いします」


 そう言って真島が頭を下げると、初音はようやくホッとしたように笑った。


 まずはただの後輩から、仕事のできる後輩に昇格したい。少しでも頼って貰えるようになって、いつかは先程のように不安な顔をした初音を抱き締めてあげられる、そんな立場になれたら……。


 そこまで思ってから、これはもう惚れているのではないだろうかと、そんな疑問にまで行き着いた。


 ──俺、好きなのか?


 自問が、運ばれてきた定食の美味しそうな匂いにかき消される。


「旨そうですね」

「でしょ」


 得意げに頷く初音が、だし巻き卵の一つを箸でつまみ、「一個、あげるね」と微笑んだ。


 可愛いなとか、綺麗だなとか、女性に対して思う事は沢山ある。美人とすれ違えば振り返るし、胸の谷間が強調されていれば有り難くチラ見もする。


 けれど今、そういう事だけではない。

 何か心を突き動かされるような、『この人を守りたい』という、そんな思いが真島の心に芽生え始めていた。




「ごちそうさまでした」

「私の方こそ、チケット有り難う。来週の日曜だね」


 ランチに大満足して、初音と並んで歩く。


「あの、日比野さん。……良かったら、一緒に行きませんか? あ、他に誰か行く人がいるなら、その方の分のチケットもお渡しできますけど。もし、一人で行く予定なら……一緒にどうかなと、思い、まして……」


 もっとスマートに誘えればよかったのに、後半かなりモジモジした喋り方になってしまった。

 内心焦りながら、そっと初音の方を見る。


「ありがとう。実は私、舞台とか見に行った事がなくて……。観劇マナーとかあまり分からないから、一緒に行ってもらえると嬉しい」


 初音の返答に、真島は心の中でガッツポーズする。


「全然堅苦しいルールとか無いですよ。それにちゃんとしたホールじゃなくて、小さなライブハウスを借りて、座席はパイプイスを並べただけの即席なんで。文化祭のノリで楽しんで下さい」

「そうなんだ。また後で、待ち合わせの時間とか決めようか」

「そうっすね」

 

 ウキウキとした気分で会社への帰路を歩く途中、ふと目にした公園のベンチにあの黒猫が座っているのが見えた。


「あ、ラッキーキャット!」

「あの黒猫?」

「はい」


 陽だまりの中、座ったままの姿勢で居眠りをしている。


「日比野さんは、ラッキーキャットの話とか嫌いでしたよね」

「嫌い……って訳じゃないの。ただ、サンタさんが来ないのと一緒で、私の所には幸せも届かないから。……あ、ごめん! なに言ってるか分からないよね」


 悲しい目をして、初音が困ったように笑う。

 

「そんな事ないです。ラッキーキャットなら、日比野さんにも幸せを運んでくれます」


 だからそんな、泣きそうな目で笑わないで下さい。後半部分は心の中で、祈るように呟いた。


「そっか。ラッキーキャットは、凄いんだね」


 初音が小さく笑って、黒猫を見つめる。

 真島も、そちらへ視線を向けた。


 座った姿勢でうつらうつらと揺れている黒猫の体が、大きく傾きベンチに倒れ込む。その拍子に頭をぶつけ、驚いたように辺りをキョロキョロしているが、やはりまだ眠いのか大きな欠伸(あくび)をしていた。


「可愛いね」

「めちゃくちゃ可愛いっすね」


 初音が黒猫にスマートフォンを向けて写真を撮っている。


「待ち受けにしてみようかな」

「それ最高の待ち受けです」


 二人で黒猫を撮り、ホーム画面に設定する。


「信じて……みようかな」


 初音が呟いた。


「ラッキーキャットと……真島くんの言葉。信じてみるね」


 スマートフォンを握り締めて、初音が微笑む。


 初音の『信じる』の中に、ラッキーキャットの幸運だけではなく、自分の言葉も含まれている。

 そう思うだけで、たまらなく胸の奥が熱くなるのを真島は感じていたのだった。



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