(0)マスターと死神
それは偶然だった──。
目を覆い隠す前髪の隙間から、たまたまその光が目に入ったのだ。
死神はずっと、途方に暮れて街を彷徨っていた。
時刻は夕暮れ。
日が沈み、空が深い藍色に染まり始める頃。ふと、優しく灯る橙色のランプが死神の目に入った。
その光に引き寄せられるかのように足を運ぶと、そこには小さな珈琲店があったのだ。
珈琲店の窓ガラスに映る自身の姿は、二十代前半の男の姿をしている。夜闇に紛れてしまいそうな漆黒のスーツを着用し、髪の色もスーツと同じ黒色。短髪ではあるけれど、内面の自信の無さを隠したくて、瞳を前髪で覆っている。そんな前髪の隙間から、いつもこっそりと景色を眺めていた。
その瞳に、珈琲店の不思議な貼り紙が映る。
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あなたの話を聞きます。
ただ聞くだけ、何も解決いたしません。
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紙の下の方には、『温かい珈琲をお出しします』と小さく追記されていた。
何をやっても上手くいかない。焦燥とやるせなさでいっぱいだった死神は、思わずその扉に手を伸ばす。
「帳珈琲店」
店の名前を呟きながら中へと入った。
カロンッ──。
扉についたカウベルが軽快な音を響かせると、カウンターテーブルの向こうから秀麗な男性が笑みを浮かべた。
「いらっしゃいませ。お好きな席にどうぞ」
言われた言葉に店内を見渡す。
壁際に備え付けられた書棚に沢山の本とランプが並べられており、間接照明の優しい光が幻想的な雰囲気を醸し出していた。
座席は、L字のカウター席が五つと、テーブル席が二つ。今は女性が一人テーブル席にいるだけで、他の席は空いているようだった。
「あの……、外の貼り紙を見て」
そこまで言って、死神はハッと我に返った。
いくら話を聞くと書いてあったとはいえ、『自分は死神なのだ』と話した所で誰が信じるというのか。信じてもらえず、笑われて終わるに決まっている。
やはり引き返そうと死神がそう思った時……。
「ではお客様、カウンターの左端の席へどうぞ」
その場所を、指先を綺麗に揃えた手のひらが示した。その所作の美しさに、思わず席へ向かい腰を下ろしてしまう。
座ったのはいいけれど、やはりどうしようかと悩んでいると、しばらくして珈琲がカウンターテーブルに置かれた。
「本日の珈琲は、マラウィ・ミスクという豆の深煎り珈琲になります」
豆の知識は全く無いのでよく分からないけれど、死神はこの闇色の飲み物が好きだった。
一口、飲む。
「美味しい」
この黒い液体を、一番最初に飲もうとした人間は誰なのか。こんなに暗黒な色の飲み物を、よく恐怖や不安なく口にできたなと死神は思う。
光を愛する人間が好むものとは到底思えなかったけれど、世界中にこれを愛する人がいる。この闇色の液体には、人を虜にする力があるらしい。そして死神もまた、虜にされた者の一人だった。
そんな死神は、ひどく落ちこぼれの死神だった。
初歩の死神試験に合格できないまま、既に半年の月日が経過している。
その試験とは、人間を五人、現状より【不幸】にすること。それをクリアできなければ、死神の世界には戻れない。
他の死神たちは人間に大きな不幸を与え、続々と元の世界へ帰っていった。けれど死神は人間のことが嫌いではなく、むしろその生き方の多様性や物事に対する感受性の強さにとても興味を持っている。
だから死神が人を不幸にする際は、いつもほんの少しだけ不幸になるように、そう心掛けて行動していたのだ。
少しだけでいい。
たくさん不幸になどならなくていいと。
落ちこぼれの死神は、猫に姿を変える事しか出来ない。金色の目をした黒猫だ。
人を少し不幸にしようと色々なことを試してみたけれど、どれも裏目に出てしまい、死神が関わる人々がみんな幸せになっていく。
このまま永遠に初級試験に合格できないのではないか。そう思うと、死神は不安でたまらなかったのだ。
「誰かに話したいことがあるのなら、僕で宜しければ伺いますよ。ただ話を聞くだけで、何も解決いたしませんが」
穏やかな低音で告げられた言葉は、死神の心にすっと浸透してきた。秀麗な外見だけでなく、声まで品があるのだなと、死神は感心して彼を見つめる。
歳は、三十代前半だろうか。
恐らくバイトなどではなく、ここのマスターなのだろう。
皺のない真っ白なシャツに、漆黒のエプロン。髪はエプロンより少し薄い黒で、目にかかる長さの前髪を左右に流している。そして何より印象的なのが、黒縁眼鏡の奥にある涼やかな瞳だった。
また一口、珈琲を飲む。
やはり、この人に話を聞いて欲しいと死神は思った。
幻想的なこの店と、深い味わいの珈琲。そして彼の落ち着いた雰囲気がそう思わせたのかもしれない。
「私は、人をほんの少し不幸にしたいのです」
「不幸に?」
「はい。でも関わった人々が、皆さん幸せになってしまって……」
「どうして、不幸に?」
その問いに、しばし戸惑う。
けれど打ち明けていた。
「それは私が、……死神だからです」
そして死神は、自身が関わった人々の、ひたむきで切ない縁の話を語り始めたのだった。




