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ぶらり又之介

ぶらり又之介

作者: 北長六功

 花と称される江戸の街、太平の世となっても、市中ではいざこざが絶えない。

 「てめえ、舐めんじゃねえぞ。」

ヤクザ者たちに突き飛ばされた太鼓持ちが長屋の戸板にぶつかる。やわな普請の戸が外れて、戸板ごと太鼓持ちは屋内に倒れ込む。

「揺らすな、字が書けない。」

 静かだが凜とした声が響く。狭い部屋で文机に向かっている二十歳ほどに見える若い男は、書き物から目を離しもしない。

「先生、助けてください。」

「佐吉か。何事だ。」

先生と呼ばれた男、立花又之介は、筆を動かしながら尋ねる。

「こいつら、借金取りだ。先月に一両借りたら、利息をつけて一両二分払えって言いやがるんだ」

「月に五割か。それは法外な利息だな。」

 年に似合わぬ、落ち着いた声でつぶやく。

「おう、サンピン。テメエにゃ関係ねえ。余計な真似しやがるとタダじゃ済まないぜ。」

ヤクザ者たちの中で、兄貴分と見える男が凄む。

「断りもなく押し入っておいて、関係ないは無かろう。」

「舐めた口をきくじゃねえか。」

兄貴分は懐の匕首を引き抜く。弟分二人もそれに倣う。

「よせよせ。ワシはこれでも武士じゃ。幼い頃から武術を鍛錬しておる。その方らを叩き出すなど、造作も無い。」

「てめえ……」

ヤクザ者たちが怯む。

「ちと考えい。ワシがその方らを痛めつけて返せば、その方らも商売がら、収まりがつくまい。次は、店の手練れを集めた大人数で来ざるをえぬ。そうなればワシも刀を抜くしかあるまい。何人かは死ぬな。

 人死にの刃傷沙汰となれば、奉行所が黙ってはおらぬ。ワシも咎められるじゃろうが、押し入ったその方らには厳しい沙汰が下るぞ。その方ら、叩けば埃の出る体であろう。余罪も調べられ、店ごと極刑に処されるな。ワシの刀からは逃れられても、町奉行所の吟味からは逃れられぬぞ。

 ここは温和しく引き下がった方が、お互い得というものじゃ。タダでとは言わぬ。」

又之介は懐の財布から一分金を出し、佐吉に差し出す。

「持ち合わせがこれしかない。来月に元金の一両を払おう。利息は月に一割二分五厘となる。お前たちの求めより少ないが、それでも高率じゃ。それで手打ちにせぬか。」

ヤクザ者たちを見もせず、また書き物を始める。即座に暗算した武士らしくない算術もさることながら、それを淡々と説明する落ち着きぶりが、ヤクザ者が何人掛かってこようと、簡単に倒せるとの自信を示しているようで、なんとも恐ろしい。

 おびえの入った兄貴分が震える声で答える。

「今日のところは、これで勘弁してやる。」

佐吉から一分金をひったくり、きびすを返そうとする。

「待て待て。受け取りを書いていけ。」

又之介は兄貴分に筆と神を差し出す。その時になって、又之介は初めてヤクザ者の方を見た。茶飲み話でもしているような、愉快そうな視線と落ち着き払った態度に、ヤクザ者たちは完全に飲まれた。

 兄貴分は震える手で筆を受け取ると、下手くそな字で書いた。

一ぶ うけとりました いせや とめ 

「まあ、よかろう。」

何とか判別できる平仮名に苦笑しながら、又之介は受け取りと筆を受け取った。

 ヤクザ者たちは、這々の体で逃げ出した。

「先生、ありがとうございます。このお礼は必ず……」

佐吉の言葉を遮り、又之介が言う。

「金は返してもらうぞ、利息はつけぬがな。礼を言うなら、戸板を治してくれ。」

「へい」

佐吉は戸板を持ち上げ、立て付けの悪い戸を押したり引いたりしながらはめ込んだ。その間、又之介は書き物を続ける。

「先生、入りました。」

「おお、治ったか。この戸板は、もともと外れておってな。大工を呼ばねばならぬと思っておった。お主、なかなか器用じゃな。」

「タダで修繕させたってわけですかい。先生もお人が悪い。」

「まあ、よいではないか。お主のおかげでワシは無一文じゃ。飯も食えぬし、写本の紙代も払えぬ。」

「先生、写本って何ですか」

「本を全部書き写し、同じ本を作ることじゃ。けっこう稼ぎになるから、完成すればあやつらに払う一両はどうにかなるのじゃが、紙が買えねばのう。」

 太平の世で幕府が学問を奨励したこともあり、庶民でも読み書きを学ぶ者が急増している。そのため教本の需要は高く、値は上がり続けている。本を一冊書き写すのは、それに見合う労力が掛かるのだが。

「先生、あっしごとき、太鼓持ちなんて卑しい者のために、そこまでしてくださって。」

「そう卑下するものではない。お主は性根がまっすぐな男だ。一両という大金を借りたのは、己の欲得のせいではあるまい。やむにやまれぬ事情があったのであろう。そう思うたから、ワシはお主を助けたのだ。」

「先生、お察しのとおりです。実は友達の女房が長患いで、薬代やら何やらで金がかかって、借金のカタに布団まで取り上げられそうになって。病人から布団を取り上げるなんて非道が、腹が立つやら悔しいやら。けど、あっしもその日暮らしで金なんてねえ。金を貸してくれる当てもなく、つい、タチの悪い高利貸しに手を出しちまった。卑しい太鼓持ちの身分が恨めしいですぜ。」

「佐吉、それは心得違いじゃ。」

又之介は佐吉の方を向く。

「よいか佐吉、太鼓持ちも立派な仕事じゃぞ。

 お主が色町でお大尽を喜ばせる。そうするとお大尽は気持ちようなる。この世の憂さを忘れ、翌日はまた商いに励むじゃろう。それだけでもお主は人の役に立っておる。

 それだけではない。お大尽が気持ちよう散財すれば、色町が潤う。酒やサカナが多く売れるから、酒屋や魚屋が繁盛する。酒屋が酒を多く仕入れれば、酒蔵が儲かる。そうやって銭が回り、皆が豊かになる。お主の芸働きは皆を幸せにしておるのじゃ。自信を持て。」

「へえ、無学なあっしには、先生の仰ることは難しくて分かりやせん。けど、お気持ちは有り難く受け取らせていただきやす。」

「そうか、分からぬか。」

「すいません。あっしは馬鹿なもんで。」

「そうではない。ワシは世のことわりを説いたのだ。ことわりとは誰もが納得できる理屈のはず。お主が分からぬということは、ワシの説明がまずいということじゃ。馬鹿はワシじゃ。」

「そんな。寺子屋で読み書き、そろばんを教えている先生が馬鹿だなんて。」

「いやいや、『論語読みの論語知らず』と言うてな、意味も分からず偉そうにしておる輩は多いものだ。ワシもまだまだよ。

 まあ、それはそれとして。金がないのう。どこかに儲け仕事はないものか。」

「先生、あっしが何とかいたしやす。先生の働き先を見つけて参りやす。」

「お主は自分の借金を返すために、ワシを働かすか。」

又之介は破顔した。


 三日後、又之介が師匠として傭われている寺子屋、雲仙寺の庫裏。又之介が飯をかき込んでいる。

「立花様、おかわりは?」

給仕する寺の娘、さわが尋ねる。

「いや、充分にいただいた。さわ殿、ご迷惑をかける。」

「いえ。寺のことゆえ、粗末な精進料理しかございません。お困りの時はお申し付けください。」

「かたじけない。」

 そこに佐吉が入ってくる。

「先生、またの先生、こんなところにおられたんですか。仕事を見つけてきやしたぜ。」

「佐吉、その下品な呼び方はよせと、いつも言っておろうが。」

「へえ、すいません。」

そう言うものの、大して反省した素振りはない。

 気が短くて何でも省略したがる江戸っ子の常で、近所の者たちは「又之介先生」を詰めて「またの先生」と呼ぶ。

 そう呼ばれると又之介は「ワシは下ネタを教える色事師ではない」と嫌がる。長屋の連中は、日頃は落ち着いた又之介が不快感を示す様子を面白がり、一向にやめようとしない。

「立花様、とお呼びしなさい。」

と、さわ。

「おお、さわ嬢ちゃん、今日はまた一段と可愛らしい。あっしにも一膳、いただけやすか」

「見え透いた世辞を言っても、あなたに出すご飯はありません。立花様が困窮しているのは、あなたの借金のせいだとか。」

「先生、告げ口するこたあ、ねえじゃないですか。」

「立花様はそのような品の無いことはいたしませぬ。長屋でヤクザ者相手に騒動を起こせば、近所に知れ渡ります。太鼓持ちを救った立花様を誉める声が、寺にも聞こえております。」

 さわは尊敬のまなざしで又之介を見る。

「さわ殿、ワシの評判など、どうでもよい。それよりも、金が無くなったおかげで、さわ殿が作った美味な味噌汁を食せたことの方が、ワシは嬉しい。」

「先生の御世辞の方がよほど見え透いてやすな。ねえ、さわ嬢ちゃん。」

さわはトロンとした目で又之介を見つめている。

(だめだ、こりゃ)、佐吉は嘆息する。

「それで、何の仕事だ」、と又之介。

「用心棒です」

「ふむ……」

又之介は珍しく困った顔になる。

「先生、もしかして、やっとうの方はダメだとか。」

「そうさのう。剣聖・宮本武蔵には劣るが、竹光しか持ったことがない役者よりは剣を扱えるぞ。」

「…………」

「冗談だ、笑え。」

「先生の冗談は分かり難いですよ。」

「そうか」

「そうですよ」

「佐吉さん、立花様に危険なことをさせるのですか」

「いやいや、危ない話じゃない。」

 佐吉は説明する。

 色町で女好きと知られる呉服問屋の主人、和泉屋伝兵衛が、岡場所の女を妾に囲った。ところがこの妾宅に不審な者が出没するらしい。「らしい」と言うのは、囲われた女、おかえ以外に不審者を見た者がいないからだ。どうも、おかえに執着する男が様子をうかがっているらしい。

 その不気味さにおかえの気が滅入り、「こんな家にいたくない、岡場所に帰る」と言い出す始末。困った伝兵衛は不審者を捉えるか撃退するために用心棒を傭うことにした。

 その話を聞きつけた佐吉が又之介を紹介した。伝兵衛は又之介との面談を求めた。

「で、今晩にも妾の家に来てくれ、って話になりやした。」

「ふむ」と又之介は腕を組む。

「立花様、やはり危険な話では?」

「さわ殿、案ずるには及ばぬ。女を影からのぞき見するような男に大層なことはできまい。乗り込んで来たりはしまい。逆に、近寄るのも用心しておろうから、捉えるのに工面がいる。

 ワシが用心棒と聞いて恐れたのは、立ち回りになることじゃ。太平のこのご時世、浪人のワシが刀を抜けば、それだけでとがになる。ワシの身一つで済めばよいが、この寺や長屋の大家にも累が及ぼう。」

「わたくしは寺よりも立花様が心配です。」

「さわ殿、お気遣いは無用じゃ。話を聞く限り、刀を抜くようなことにはなるまい。

 佐吉、和泉屋の主人に会おう。先方の都合のよい刻限を聞いてまいれ。」

「へい」

佐吉は出て行く。

又之介は次の講義のため、教室にしている本堂に向かう。さわはその後ろ姿を見つめた。


 夕刻、和泉屋伝兵衛の妾宅。

 伝兵衛はいかにも商売が上手そうな、会話からも目端が聞いているのがうかがえる中年男だった。まだ宵の口だというのに、いかにも高級な蝋燭を何本も灯しているのが、羽振りの良さをうかがわせる。

 伝兵衛は又之介に酒を勧めるが、自分は飲もうとしない。又之介も最初の一杯を乾すと、あとは猪口を口にしようとしない。佐吉はこの席では軽口もたたけず、手持ち無沙汰で杯を重ねていた。

「して、先生。失礼ながら剣術はどれほどの腕前で? どこぞの道場の免許皆伝とか。」

と伝兵衛。

「そのような物は持たぬ」

「先生は強いですよ。この間だって、ヤクザ者五人を、あっという間に叩き出しちまった。」

酒が入った佐吉の口がなめらかに回る。

「五人ではない、三人だ。それにあれは、武を用いたのではない。舌先三寸で丸め込んだのだ。佐吉、お主は黙っておれ。」

又之介は憮然と言う。佐吉はしゅんとなり、手酌で酒を飲む。

「正直な御方だ。しかし、それでは用心棒が務まるかのあかしが……」

「腕を見せろ、と言われるか」

又之介は刀に手をかけ、片膝を立てる。伝兵衛が引きつる。

「案ずるな。その方に危害を加えはせぬ。」

 言うや一閃、刀を抜き放つ。伝兵衛が「ひっ」と身を縮めたときには、刀はもう、鞘に収まりかけている。

 チン、と鯉口こいくちが鳴ったとき、傍らの蝋燭から飛んだ芯が、伝兵衛の杯に落ちた。

 口をパクパクさせる伝兵衛に、居住まいを正した又之介が言う。

「手付金に二両、あとは働きに応じて十日ごとに支払い、でいかがかな」

伝兵衛は言葉をなくし、何度も肯く。

「先生、もちっと高くても……」

「佐吉、お主は黙っておれ。」


 次の日から、又之介は用心棒を始めた。

 又之介は寺子屋の師匠をするから、その間の見張りを佐吉に任せた。「それなりに人目のある白昼には動きはあるまい」、と。

 寺子屋のないときは妾宅に詰め込み、始終、周囲を歩き回っている。妾宅は小ぶりだが伝兵衛の趣味だろう、ところどころに金をかけた改装が目につく。

 コの字型の屋敷の、上の棒のあたる部屋ががおかえの住む座敷。縦の棒が使用人の部屋で、飯炊きの婆さんが住み込んでいる。下の線の左端に玄関とそれに続く客間がある。又之介と佐吉は客間に詰めている。コの字の中は小ぶりだが整った庭になっており、枯山水風に整えられた石に風情がある。

 その妾宅を又之介は歩き回る。裏庭にまで玉砂利を敷いているから、足音が響く。

 座敷の小窓が開き、狭い枠に無理に顔を突っ込んだおかえが喚く。

「足音がやかましいのよ。気になって仕方がないから、歩き回るのやめてちょうだい。」

「気にするな。」

 おかえの文句を又之介は取り合わない。敷き詰めた玉砂利をつまんで見つめている。

「高そうな石だな。この家は細かいところまで主人が気配りしておる。その方、好かれておるな。それを大事にいたせ。

「なに言ってんのよ」

おかえは小窓をぴしゃりと閉めた。

 家を一通り見回ると、周囲を歩き回る。妾宅にしては人通りが多い場所だから、刀を差した又之介が用もないのに歩き回ればそれなりに目立つ。これでは不審者は近寄れまい、と近所の者は噂した。

 おかえは器量はそこそこだが、腰つきや立ち居振る舞いに色気がある。佐吉など、一目でデレッとなってしまった。女好きの伝兵衛が囲いたくなるのも肯ける。

 おかえ本人も、自分が男好きするのを意識しているようで、何かにつけてしなを作る。それで自分を注視する男の視線を喜んでいる風がある。

 「つきまとう男が出るのも無理はなかろう」、と佐吉は言う。

 実際、近所でも評判になっている。又之介が用心棒を始めて八日目には、又之介の方が間男になるのではないかと、あらぬ噂まで飛び交う。

 それを耳にしたさわは、心配げに又之介を見る。

「さわ殿、案ずるには及ばぬ。あのような色気を振りまく女人はワシの好みではない。」

「先生の好みって、どんな女ですか?」と佐吉。

「そうさのう。才気はあるが、それをひけらかさぬ女人がよいな。

 見た目か? さして容姿は気にせぬが、身ぎれいにしておるのが好ましい。」

 さわは慌てて膝の埃を払う。

「さわ殿、ちと無心がある。香炉の灰を少しいただけぬか。」

「寺ですから、線香の灰は沢山あります。いくらでもお持ちください。」

「先生、灰なんぞ、何に使うんですかい。」

「うむ、ちょっとな。佐吉、ワシの見立てでは、今晩あたり動きがある。今日はお座敷を休み、一緒に詰めてくれぬか。あと、提灯か、できれば龕灯がんどうがいる。用意できるか。」

「ようがす。宵の口には持って参りやす。先生、捕り物ですね。」

「いや、たぶん、そのような大層な立ち回りにはならぬよ。」

 夜は更けていく。おかえは妾宅の座敷にこもる。又之介と佐吉は中庭を挟んだ向かいの部屋に詰めている。又之介は正座を崩しもせず、障子を閉ざしたおかえの部屋を見ている。佐吉はだらしなく胡座をかいて居眠りしている。

 唐突に女の悲鳴が響く。

 又之介は龕灯を掴んで中庭を走る。玉砂利がガシガシと音を立てる。飛び起きた佐吉もそれに続く。

 座敷に駆け上がるかと思いきや、又之介は手前で急停止。続く佐吉を手で制すると、龕灯の灯りを玉砂利に向け注視する。その間も悲鳴は続く。

 座敷の障子が内側から激しい勢いで開かれる。露わになったおかえの左足から血が流れている。「痛い、痛い」と叫ぶ。

 「騒ぐでない。」

又之介は庭から座敷に飛び上がり、懐から手ぬぐいを取り出すとおかえの傷口を縛る。艶めかしさに佐吉が息を飲む。

「傷は浅い。静かにしておれ。」

そう言いながら座敷を見渡す。おかえが座していたであろう座布団の傍らに、血のついた短刀が転がっている。これが凶器に違いあるまい。

「男がいきなり押し入ってきて、切りつけてきた。用心棒なんか役に立たない、どうしてくれるの。」

 おかえは感情を爆発させる。オロオロする佐吉と対照的に、又之介は静かなものだ。

「その男はどこに逃げた」

「知らないわよ。いきなり切りつけられて、そんなこと分かるもんですか。」

「そうであろうな。」

騒ぎ目を覚ました飯炊きの老女も座敷に入ってくる。

「婆さん、あんた、隣の部屋にいたんだろ。誰か見たか?」

佐吉が尋ねる。真っ青になった老婆は言葉もなく、首を横に振る。

「ご老体、ご苦労だが、替えの包帯になるきれいな布を用意してくれ。傷口を洗う焼酎でもあればそれも出してくれ。佐吉は和泉屋に行き、このことを主人に知らせてくれ。」

 ほどなく、血相を変えた伝兵衛が妾宅に走り込んでくる。

「おかえ、大丈夫か。」

「痛くてたまらない。もう懲り懲り。ここには居られない。元のお店に帰るわ。いいでしょ。」

 おかえはしなを作る。伝兵衛はオロオロする。

「傷は浅い。縫うほどでもない、傷跡も残らぬ程度だ。」

「先生、おかえに怪我をさせておいて、その言い様はないじゃありませんか。」

「そうさな、ワシでは防ぎきれなかったな。」

伝兵衛は怒りを露わにする。

「なんて口の利き方だ。用心棒はやめてもらいます。」

「今日までの給金はどうなる?」

「払えるわけない。こっちから詫び料をもらいたいぐらいだ。役立たずは、とっとと出て行ってくれ。」

「そうか。では、ワシらは退散しよう。佐吉、行くぞ」

又之介はさっさと出て行く。佐吉は伝兵衛に頭を下げつつ、又之介の後を追う。


 翌日、雲仙寺の庫裏。

 渋る又之介を、さわが強引に昼食に誘うのは、このところの日常風景になっている。

 さわはいそいそと飯をよそい、又之介に差し出す。

 又之介は「相済まぬ」といいながら茶碗を受け取る。「いただきます」と一礼する姿が様になっている。

 この御方は貧しくても武士で、礼儀作法を身につけている、とさわは見惚れる。

 さわのささやかな幸福は、がさつに入ってくる佐吉に破られた。

「先生、昨日は災難でしたね。あの後、あっしも回りを見て回ったんですが、怪しいヤツは見なかった。どうもすいやせん。」

「佐吉、ご苦労であった。すまぬが下手人などおらぬのだ。昨夜の騒ぎはおかえの狂言だ。」

「へっ?」

「おかえが自分の足を切ったのだ。お主も傷の場所を見たであろう、左足のふくらばぎの内側であった。右手で持った短刀で切るには、ちょうどよい位置だ。」

佐吉は右手を振り、左足を切る真似をしてみる。

「確かに、そうですね。」

「そもそも、おかえのいる座敷に、気付かれず忍び込むのは無理じゃ。座敷に入るには、玄関からワシらが居る客間と、飯炊きの老女の居る使用人部屋を通らねばならぬ。三人が不審者を見落とすなど、あり得ぬ。座敷の裏の小窓は人が通れる大きさではない。

 残りは中庭の障子からだが、あの屋の庭には玉砂利が敷き詰めてあるから、人が歩けばすぐに気付かれる。ワシは試しに、思いつく限りの方向から歩き回ってみたが、音を立てずに座敷に近づくのは無理じゃった。おかえに「やかましい」と言われる始末じゃ。」

「それで先生は、暇さえあれば家の外も内も歩き回っていたんですね。」

「念のため、座敷の前の中庭に灰を撒いておいた。おかえが叫んだとき、灰に足跡はついていなかった。つまり、あの夜、座敷には誰も入っておらぬ、ということだ。おかえの自演しかあり得ぬ。」

「つまり、あの女は、いもしない男をでっち上げ、襲われたように見せかけた、ってことですかい。何のために?」

「どうしても別れてくれない旦那から離れるため、妾宅は危険だと偽ったのだ。あの女は遊郭に戻りたかったんだ。自分でも、そう申しておったろう。」

「旦那に囲われて不自由のない暮らしの方が、客を取らされて長くも生きられない女郎屋より、よっぽどいいと思いやすがね」

「そうは考え得ない女もいるってことだ。それにな、あの女は案外にしたたかじゃぞ。遊郭で頭角を現すかもしれぬ。」

「先生は最初から、見抜いておられたんですか。それならそうと、言ってくださればいいのに。」

「許せ。『敵をあざむくには先ず味方から』だ。お主は正直者ゆえ、おかえに悟られるとも限らぬでな。」

「へえ。」と佐吉は頭をかく。

「それにしても、とんでもない女ですね。おかげで先生は儲け口をなくしちまった。」

「まあ、よいではないか。手付けの二両でお主の借金一両を返し、ワシも紙と米を買えた。それで、まだ三分ほど残った。それで良い。欲をかいても人の恨みを買うだけじゃ。」

 又之介は懐の財布から一分金を三枚取りだし、佐吉に差し出した。

「佐吉、お主の友の奥方の具合はどうじゃ。長患いには滋養を取るのがよい。この金で何か精の出る物を買ってやれ。」

「先生、いけねえ。これは受け取れねえ。この金を先生から取り上げるなんてできねえ。それこそ、先生が言われる、人の道に背くことだ。」

「気にするな。ワシは最初からこうするつもりであった。我が身を省みず友を助ける、お主の心根に感じ入ったのだ。

 よいか、佐吉、人の世は世知辛いことばかりじゃが、義理や人情も確かにあるのだ。人を動かしているのは思いやりや慈しみじゃと思いたい。お主が友を助ければ、それは廻り廻って世の中全部を助けることになると、ワシは信じておる。

 なに、金は天下の回り物じゃ。そのうち回ってくることもあろう。」

「先生、この御恩は一生忘れねえ。あっしは先生のためなら何でもいたしやす。」

佐吉は床に額を擦り付けんばかりにして頭を下げた。

「大袈裟な。泣くな。もうよい、行け。金を落とすでないぞ。」

佐吉は泣きながら駆けだした。

 さわがハラハラと涙を流している。又之介は困った顔になる。

「ちと、偉そうなことを言いすぎた。お見苦しい真似をしました。」

さわは何も言えず、首を横に振る。

「ごちそうさまでした。では、講義に行って参ります。」

又之介はそそくさと庫裏を後にする。

 さわは黙って頭を下げ、又之介を見送った。

 さわは思った、あれは照れているのだ、と。なんとも可愛らしい。二十歳そこそことは思えぬ、苦労人らしい老成した人の道を説くかと思えば、子供のような幼さもある。人の心を捉える真っ直ぐなものの考え方は年相応の若さとも取れるが、あの人の良さで世の中を渡っていけるのかと心配にもなる。

 自分の思いが、乙女の恋心から女の情に変わっていくのを、さわは自覚した。

「さわが、あなた様をお支えします。」

                              了

 水戸黄門と同じく、意図的な時代考証無視があります。例えば、寺子屋とは上方の言葉で、江戸では筆学所などと呼ばれたそうです。が、それでは分かり難いので、本作では一般に通用する「寺子屋」としています。

 もちろん、作者の無知ゆえの誤りもありましょう。

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