5 幻になって春は永遠
時間と旦那様の迎えを告げる声が扉の外からかかる。
侍女たちが手際よく、銀糸で象られたボタニカル柄のレースと真珠の欠片を縫い付けたロングトレーンをまとめていく。椅子に浅く腰掛けたお嬢様に手を差し出せば、するするとした手触りのシルクのグローブをはめた指がおかれた。
滅多にない晴れの日は、空すらも祝福しているかのようで。
窓から差し込む柔らかな春の陽射しが精緻な刺繍を全面に施したロングベールを透かして。
揺れる光と影は、まるでいつかのモックオレンジが舞う花吹雪の幻影だ。
「ジル、ベールをお願い」
とっくに僕よりも背が高くなったお嬢様が、軽くかがむ。
薔薇の形に編み上げられた黒髪、伏せられたまつ毛も濡れたような黒。
ほんの少しだけ背伸びして、上げていたベールを前にもってきてそっと広げて降ろす間際。
それはまだお嬢様が小さい頃、シーツをふたりかぶって内緒話を聞いたときのよう。
「お嬢様」
どんな言葉で飾ればいいのか、どんな言葉もおいつかなくて、記録されている言葉の全てが足りないと、どうにも声帯を震わせることができない。
「……とても、よくお似合いです」
結局は僕がお嬢様に贈られたあの日から告げ続けた、代り映えのない言葉しか出てこなかった。
小さな頃から言い続けてたから、よく不貞腐れられたり怒られたりもしたのだけれど。
お嬢様は伏せてたまつ毛をあげてビオラの瞳で真っ直ぐと僕を見つめて、ふわりと笑ってくれた。
「ジル、ジルはどこ」
夜の静寂を縫う小雨が音もなく窓を濡らしている。
僕を呼ぶ囁き声は、八十年を越える月日が少しずつ掠れさせてきた。
「ここにいますよ」
豪奢で広い深夜の屋敷は僅かな音など吞み込んでしまうけれど、慎重に音もなく扉を閉じて寝室の奥に進む。抱えてきたそれをウィステリアを模した柄のシングルソファにおろしてから、寝台傍に跪いた。
お嬢様は恙なく結婚して子を産み育て夫を看取った。来月には末の孫がもうすぐ結婚する予定だ。人間がよく理想として語る、裕福で華やかでありながら穏やかな生活を営んだといえるだろう。
お嬢様を慕う親族は多くとも、一晩中おそばについていられる僕がいるからには他に付き添いなど必要はない。
若かりし頃の瑞々しさは薄れているけれど、手入れの行き届いた皺のある手が僕に伸ばされる。
「もう。傍にいてって言ったでしょ。ばか」
伸ばされた指を緩く握りしめながら、拗ねて小さくとがる唇に濡らしたハンカチで湿りを与えた。
くすぐったがって「くふふ」と笑う声は、幼い頃ほど弾んではいないけれど楽し気だ。
「ねえ、ジル、明日のお茶会に着ていくドレスはジルが選んでね」
「はい」
もうお嬢様は家族の誰の名も覚えていないし、見分けもついていない。
僕の名前だけを呼んで、僕だけを見分ける。
「かわいいのがいいの。ジルがかわいいと思うのを選んで」
僕にとっての難題ばかりを振ってくるお嬢様が懐かしい。
「どんなドレスもお嬢様より可愛らしくはないです」
枕にうずまったままで小さく首を傾げながら、お嬢様は僅かに目を見開いた。そのビオラ色は白っぽく薄くなっている。
「ふふっ、ジルのばか」
僕はまだお嬢様から合格をもらえないらしい。でも不機嫌にはならなかった。
こういうときのお嬢様は不意にご褒美をくれると言ったりするのだ。
もっとも何がいいかと聞かれて答えられないとまたご機嫌が悪くなるし、僕はいつも答えられなかった。
「お花がみたいの。このあいだみせてくれたやつよ。きらきらってひらひらって、させてくれたらごほうびをあげる」
「はい」
いつの間にか僕の口角があがっていて、お小さい頃のお嬢様は違うと怒ったり泣いたりしていたのに、なぜだか今夜はひどく嬉し気だ。
光量を落とされた魔導照明は暖かなオレンジ色で寝台回りだけを薄明るく照らしている。
僕の手首と足首からリボンがほどけるように煌々と輝く魔術文字が並び踊り出ていく。
お嬢様の指先を両手で包んで、僕の頬に押し当てた。
「わぁ……」
くるくる回る無数の魔術文字は歯車のようにも、散る間際の小花のようにも見える。
明滅しながら寝台を中心に円を描き陣を組み上げる様は、モックオレンジの花びらが踊った光景とよく似ていることだろう。
「きれいね、ジル、きれい」
「ご褒美をもらえますか。お嬢様」
「欲しいものあるの?なにがいいの?」
アデルが言えばお父さまはなんだって買ってくれるんだからと、得意げなお嬢様に初めてのお願いをする。
ご褒美をください。
僕はずっとこの魔術陣をつくりあげてきた。このときのためにずっと。
他に欲しいものは何もありませんでした。
僕のここに産まれた何かはこれだけです。
「ずっとそばにいてください」
「そんなことなの?あたりまえでしょ。ジルはずっと――え?」
金色の光が一筋、僕とお嬢様の間に落ちた。
落下地点を中心に、王冠みたいな飛沫をあげてから、同心円状の光の波紋が幾重にも広がっていく。
僕の胸の魔石から魔導機構を通し回路へとあふれだす魔力の奔流が、複雑で精緻な魔術陣を織り上げて吹き上がる蒸気を照らしていく。
大きく見開いた目には、あのビオラ色の輝き。
きぃんきぃんと細く高く鳴り響く音が、ゆっくり音程を下げていき。
部屋に満ちた金色の光もまた、魔導照明のオレンジ色だけを残して消えていき。
ビオラ色は白みがかった青となって虚ろに輝きを消した。
頬にあてていた手を丁寧に布団の中に戻し、薄く開いたままの瞼をそっと閉じさせる。
寝台から離れ、シングルソファの前にまた跪いた。
ソファの下から漂う蒸気が、黒いドレスの裾を飾るレースを撫でるように這いあがる。
ギャザーの寄せられた切り替えがある胸元には、光沢のある琥珀色の糸で施された蔦模様の刺繍。
作り続けてきたのは魔術陣だけでない。
ミルクみたいな白い肌、艶々とした黒い巻き毛、瑞々しい桃色の唇にほのかに紅潮した頬。
僕が出会ったときそのままの、薄れることのない僕の記録どおりの、少女の形がここにある。
薄く開いた瞼の下には眠い時のとろりとしたビオラ色。
「お嬢様」
僕の声に反応はないけれど。
うっとりとした瞳は瞬きも揺らぎもしないけれど。
指先は僕の胸元を握りしめはしないけれど。
「アデル様」
僕よりまだ一回り小さな身体を抱き上げれば、運び込んだ時とは確かに重さが違う。
その差――4分の3オンス。
「――アデル」
僕がアデルの笑顔を待てる時間は、永遠にある。