1 はじまりの春
瞼はまだ閉じているけれど、顔の前に立ちふさがる壁はプレゼントボックスの内壁だと把握している。
人間と違い、視界を眼球で捉えていないせいもあるが、試運転の起動後にスリープモードに切り替えてこの箱にいれられたから。
カシュンと、足元の四隅から封印陣の圧が抜ける音がした。
封印解除による魔力の残滓が、蒸気のごとく吹き上がる音が続く。
頬にあたる光は室内灯。きゃあとあがった甲高い声に、低い声が魔力を流してごらんと促している。
みぞおちにあてられた小さなてのひらから、人間の子どもの平均的な体温を測定、流れ込んだ魔力も同じく平均量。細く繊細に組まれた回路を滞りなく流れ、各球体関節に仕込まれた魔術陣が明滅して歯車状に回りだす。
かちかちきりきりと作動音を立てながら、主の魔力紋の登録を完了した。
「お前の名前は私が決めていいのね」
見上げてくる青紫の瞳をきらめかせているのは、今日から仕えるお嬢様だ。
滑らかに艶々した黒髪は、ゆるく波打って毛先がくるくると巻いている。大きな誕生日プレゼントに興奮しているのかふくらとした頬が薄紅に染まっていた。
そうねぇと、記録されている資料から推測するに、おそらく六歳にしては大人びた、もしくは背伸びしているかのように、よく手入れされた小さな爪の人差し指を顎に添え。
「ジル、ジルがいいわ。わかった?お前はジル。私はあるじのアデルよ」
人間の子どもは不条理だ。
空はいつも通り蒸気の厚い雲に覆われ、特に今日は朝から小雨が降り続けている。
「だってお父さまは植物園に連れて行ってくださるって約束したわ!」
「旦那様は急なお仕事とのことなので、代わりにと」
「そんなの知らない!約束したの!約束は守らないとだめでしょう!」
約束を反故にした代わりにと強請った大きなぬいぐるみを抱えて、お嬢様は甲高い声をあげて足をばたつかせている。白いスカラップレースの襟と胸下の切り替えで控えめにギャザーが寄る上品な紺色のドレスが、台無しなほどばふばふと翻った。
確かに先週は、手に入れた毛足の長い大きなテディベアで納得していたのに。
「お嬢様はそのテディベアを買ってもらう代わりに我慢すると約束されました」
「ジルのばか!ばか!知らないもの!行きたいの!いーきーたーいーー!」
旦那様はとうに仕事へと向かってしまわれた。お嬢様の起きる時間にはすでに出ていかれてるのはいつものことだ。
「ジル!ジルが連れて行ってくれたらいいじゃない!」
「僕でいいのですか」
自分を僕と呼ぶのはお嬢様のリクエストだ。男の子なんだから僕じゃないとおかしいそうだ。従者用のオートマタに性別はないけれど、容姿的には少年に近いのでおそらく妥当なリクエストではあるように思う。
この今のリクエストはどうだろうか。
僕の身体は少年タイプなので小柄ではあるけれど、戦闘能力はそれなりにある。護衛も兼ねているので当然だ。ただ外出となれば複数の護衛をつける必要があり、その準備が今日はできていない。
そもそも旦那様との外出を楽しみにしていたわけではなかったのか。
「ジュリエットは行ったの!とってもきれいだったって!遠くの国からもってきた珍しいお花だって!」
ああ、確かに昨日の茶会でジュリエット嬢はそう語ってテーブル席の羨望を集めていた。ジュリエット嬢はお嬢様とけして仲の良い間柄ではない。葡萄みたいに房となった小花の垂れ下がるウィステリアが、いかに美しかったか語り続ける語彙が六歳児としては見事なものだった。
なるほど、と、一応はこの聞き分けのない振る舞いの動機はあたりがついた。対抗心というものであろう。
しかしあれは温室ではなく庭園に植えられた樹ではなかったか。
窓から見える庭の木々は小雨ながらも水分を含みすぎて、しなっているかのように葉をもたげている。
「お嬢様、今日は雨が降っています。明日は久しぶりに晴れの予報ですから、出かけられるよう今晩旦那様に」
「いーやーだーーーー!ジル!なんとかして!アデルのめいれい!」
命令。それは僕にとって優先順位の高いキーワードだ。しかし雨をというのは僕の処理能力を超えている。
「きらきらって!ひらひらって!きれいだったって!」
きらきら。ひらひら。お嬢様がよく気に入ってるものの共通項。
「……ジル?」
バルコニーへ続く窓を開け、そこから手すりも乗り越えて庭に降り立つ僕に、きょとんとした声がかかる。
庭の片隅で咲く控えめな小花でありながら、無数の白を揺らすモックオレンジ。オレンジのまがい物と呼ばれるそれは、雨に打たれて果実の香りをより一層濃くふりまいていた。
低木の茂みに手を差し込んで、風の魔術陣を起動。幾重にも光る円が手首を軸に回りはじめる。
きりきり硬質に軋む音と、ぴぅうっと笛の音のような蒸気音のリズムに呼応する陣の明滅。
本来は護衛のための攻撃手段だが、威力を調節することでいくつものつむじ風を操った。
「わぁ……っ」
巻き上がる白い小花、地に落ちる前に弾ける雨粒。
僅かな雲間から春の陽が何本も落ちてきては、真白な花びらを輝かせ、散った雨粒に乗って七色に瞬く。
きらきら、ひらひらと踊り続ける光る雨粒と白い花びらに、小さく飛び跳ねながら窓に張り付くお嬢様の黒髪も踊る。
きゃあきゃあと甲高い歓声を上げて満面の笑顔ではしゃいでたお嬢様は、ひとしきり興奮した後に僕が笑っていないとまた怒りはじめた。
春の雷が遥か遠くで空を割る。その音はどこか柔らかく響いた。
やはり人間の子どもは不条理だ。