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生きがい

作者: 星野紗奈

 どうも、星野紗奈です(*'▽')


 こちらの作品は、2021年夏頃、まだ十代だった頃に書いたものです。十の位の数が変わっただけで、随分懐かしく感じます……。

 どこのジャンルに属すのかよくわかっていませんが、病気もの? って初めて真面目に書いた気がします。拙い部分も多いかと思いますが、お楽しみいただければ幸いです。


 それでは、どうぞ↓

 今から三十年ほど前、その病はこの世界に突然現れた。カダモトと呼ばれるそれ(研究者によれば、現在確認できている最初の感染者が加田元さんというらしい)は、発生源・および感染経路が不明である。さらに言えば、それが本当に感染症なのかどうかすら、未だ判明していない。というのも、手指の消毒、マスク着用、さらには隔離によってでも、カダモトの感染拡大は防ぐことができなかったのである。感染者の属性にも、特に統一性は見られないらしい。死亡者の遺体からは確かに奇怪なウイルスが検出されているが、生存者の体内にはそのウイルスの存在は確認できないということもあり、感染拡大防止は難航を極めている。

 カダモトの被害規模は極めて甚大である。特に、カダモト発生から最初の五年は、そこら中が阿鼻叫喚だったという。カダモトに感染すると、まず初めに、小さな円形の青い痣が右の手の甲に三つ浮き上がる。それは、「したがって」「ゆえに」を意味する数学記号とそっくりのものである。その痣が発現すると、カダモトは二〇〇日かけてゆっくりと感染者を侵食し、死へと導いていく。そうして体内でカダモトの侵食が進んでいくと、感染から一か月も経てば、感染者は耐えがたい苦痛を感じるようになる。これが、今に言い伝えられている地獄絵図の元凶だった。毎日呻き声や叫び声があちこちからところかまわず鳴り響き、それを聞いて精神を病んでしまった人が自殺するというケースも少なくなかったというのは、当時の自殺者数に関する統計データを見ても明らかである。

 そんな中、医療の方はどうなっていたのかというと、率直に言えば、人類はそのような理不尽な死を受け入れ始めたのである。研究者たちは、カダモトに感染した死者の遺体から検出されたウイルスをもとにワクチンの開発に成功している。しかし、既に述べたように、カダモトの感染拡大はちっとも収まっていない。ではワクチンにはどのような効果があったというと、それは約一か月カダモトの侵食による激痛を抑えるというものだった。そのワクチンが開発されるまでは、感染による耐え難い痛みを抑えるために麻酔を投与するという対処がほとんどだったが、その麻酔の量は確実に中毒症状を引き起こすレベルであった。よって、カダモト感染に加えて麻酔薬中毒までもが引き起こされるよりかははるかにましだろうと、新たに開発されたワクチンはみるみるうちに普及していったわけである。しかしながら、これはあくまで感染による苦痛を和らげるためのものであり、もちろんカダモトの侵攻を阻止する術にはなり得なかった。

 そうして今もなお感染を続けているカダモトは、人類存続を着実にその終幕へと導いているといえる。あと二十年も経てば、世界人口はカダモトが出現する直前、つまり最盛期から約半分にまで減少すると予想している学者もいるくらいである。

「ここまでが教科書の内容だ。最近のニュースでも日に日に感染者数が増えているのは、知っているだろう。現在もカダモトの感染は拡大し続けており、そこで政府が――――」

 そこまで言ったところで、無機質なチャイムの音が先生の声をさえぎった。それを皮切りに、俺たちはホームルームを始めるためにそそくさと帰り支度を始めるのだった。

 ホームルーム中もやや興奮したざわめきは絶えなかったが、拘束時間がすべて終わったとなると、それはいっそう勢いを増した。

「修治」

「おー、敏樹。どした?」

「今日カラオケ行かねーかなと思って」

「行く行く。誰と?」

「俺と」

「まさか二人で?」

「そのまさかだよ」

「っはー、なんで男子高校生が寂しく二人でカラオケ行かなきゃなんねーのさ。だったらあっちの女子大生と合コンやってるグル行くわ」

「え、あいつ女子大生に知り合いとかいんの?」

「バイト先で知り合ったらしいけど。汗臭い同級生とカラオケ行くくらいなら綺麗なお姉さまに会いに行った方が百倍マシじゃね?」

「もおー、そんなこと言わないでよー。今日は俺ちゃんとデートの約束でしょ?」

「うっざ、かわいくねーの。てか約束なんかしてねーじゃん」

「ねー、いいでしょお? 積もる話もあるじゃなあい」

「ほぼ毎日顔合わせてるのに今更何話すんだよ」

「細かいことは気にしないの、めっ」

「きっも、その口調やめろし」

「修治くん」

「わー、夢にまで出て来そうだわ」

「おねがあい、修治くん」

「あーもう、わーかったって。行く、行くからさ」

「よし来た」

 敏樹に言われるがままにさっさと荷物をまとめると、俺はその背中を追って学校を出た。お目当てのカラオケ店は、学校から駅の方面に向かって歩いて数十分ほどのところにある。ふざけて歩いていれば、あっという間の距離だ。

「お、今日はわりと空いているほうじゃね?」

 学校終わりの時間帯にしては、意外にも受付には数グループ並んでいるだけだった。ひどいときには入り口付近のスペースが満員電車みたいに人で埋め尽くされるので、確かに今日はまだ空いている方だろう。

「確かに。誰かさんに急かされてすぐ学校出たからな」

「もう、文句言わないでよお、修治くん」

「はったおすぞ」

「強引なのは嫌いじゃないよ」

「お前なあ」

 そうやって変わらずふざけ合いながら待っていると、敏樹が受付をしている最中のグループをまじまじと見始めた。何かあるのだろうかと、俺も敏樹の視線を追いかけてみると、その先には店員に右の手の甲を差し出して見せている客がいた。

「うわ、すげーな」

「何が?」

「いや、こうやって実際にAのやつ見つけるとさ、あー、あいつ一週間以内に死んじまうんだなって、なんか変な感じじゃね?」

「そう? あんまり考えたことないわ。誰が何選ぼうと自由だろ」

「そうなんだけどさー」

 すっきりしないという表情で、敏樹は頭をかいている。それを横目に、俺は先生が言いたかった続きの話のことを考えていた。

 すでに述べたように、カダモトのワクチンは一か月感染による苦痛を抑えるまでで、感染による死亡を防ぐには至っていない。要するに、苦痛が消えたとて先にある死という終わりは人々の視界から消えることはないのだ。阿鼻叫喚の地獄絵図が解消されても、変わらない宿命の死に耐えかねて自殺する人々は多くいた。さらに、死を止めることが出来ないワクチンに不満を持った人々は、現状の保障制度について抗議するデモを行う事態にまで至ったのであった。

 そこで、政府が民間の不安を和らげるために採用したのが、余命選択制度であった。余命選択制度には、四つの選択肢があり、それは大概次のようなものである。


A:余命一週間。食費、生活費、娯楽など、あらゆる費用を国が負担する(全額支給)。初期段階では症状はほぼあらわれないため、ワクチンの接種権はない。感染確認後、翌日から適用される。

B:余命一か月。食費、生活費などの一部を国が負担する(定額支給)。症状を軽減させるワクチンの接種が一回のみ保証される(無償)。感染確認後、翌日から適用される。

C:余命半年(六カ月)。直接的な経済的支援はなし。病症を軽減させるワクチンの定期接種が保証される(無償)。感染確認後、翌日から適用される。

D:余命二〇〇日(約七カ月)。国側からは一切干渉しない。ワクチンの接種は保証されないが、個人での接種は可能(有償に限る)。感染確認後、即時適用される。


 余命選択制度によって定められた死亡予定日には、制度の選択・同意の際に事前に決めておいた場所(自宅、病院など)へ行き、薬の投与によって死亡する決まりになっている。時折直前になって逃げだそうとする人もいるが、そういう場合はすぐさま警察によって指名手配されてしまうので、諦めたほうが良いだろう。感染防止の不可能性を理解した政府は、こうして目に見える終わりを作ることで、死を受け入れる態勢づくりに注力し始めたのである。

「あ、終わったっぽい」

 目の前のグループの受付が終わったのか、敏樹に声を掛けられたところで俺は思考の渦からすんなりと抜け出した。Aの客は随分前に個室へ向かってしまったらしく、その姿はもう見えなかった。俺たちも問題なく受付をこなすと、冷房がきいたこじんまりした部屋で、さっきまでの妙な空気なんか忘れて馬鹿騒ぎしたのだった。

「ただいま」

 青春はあっという間、という表現は、あながち間違いじゃないのだろう。いくら歳を取ると時間の経過が早く感じられるといったって、その時の気持ちは、学生時代の楽しい時間の名残惜しさには勝てるはずがない。敏樹と別れた俺は、なんだか急に一人が寂しくなって、足早に家へ帰ってきたのだった。

「おかえり」

 一番最初にひょっこりと顔を見せたのは、妹の花乃だった。

「ただいま」

「どこ行ってたの?」

「別に。どこでもいいだろ」

「あ、わかった。カラオケでしょ」

「なんでわかるんだよ」

「女の勘ってやつよ」

「自信満々か」

「いーなー。私も帰りにカラオケとか行ってみたーい」

「行けばいいじゃんか」

「えー、だめだよー。先生に見つかったら面倒だもん。この前先輩がそれで生活指導に呼ばれてたし」

「まじかよ。つまんねーの」

「だよねえ」

 妹と雑談しながら自分の部屋へ向かっている途中、今度は奥から母が出て来た。

「ちょっと、声が大きい。お父さん、もう寝てるんだから」

「ああ、ごめん」

「ご飯食べるでしょ?」

「うん。先風呂入ってくる」

 俺がそう言ったときには、母はもう既に台所に行ってしまったようだった。俺は自分の部屋に荷物を放り投げ、風呂に入った。それから、半分濡れたままの頭を掻きながら、食卓につき、温め直された夕飯を食べた。ちょうど食べ終わる頃に妹が話題を持ち掛けてきて、テレビで一緒に映画を見た。それで、あとは、寝た。カダモトの感染が拡大しているといったって、結局俺が知っているのは、そういう変わりない日常だった。


「あ、あの」

 ある日の放課後、珍しいタイプの人間に声をかけられ、俺はわずかに目を見開いた。

「えっと、森口、だっけ」

「そ、そう。森口淳平、です」

「全然話したことなかったから、びっくりしたわ。どうした? なんかあった?」

「あっと、その……」

 淳平は何やらもじもじした様子で、言い出すのを戸惑っているらしかった。しばらく待ってみたものの、紡がれるのは沈黙だけである。どうしたものかと思って、ふと周りを見てみれば、何やら多くのクラスメートが彼を気にしてちらりちらりと視線を送っていた。

「あー、ここじゃ言いにくいこと?」

「えっ、ううん! そう、じゃないはず、なんだけど」

「俺でよければ話聞くしさ、とりあえず」

 そう声をかけて、隣の席の椅子を軽くひいた。淳平はおどおどしながらも、素直にそこへ腰を掛けた。

「あ、あのですね」

「うん」

「ぼ、僕と……」

「うん」

「僕と、遊んでくれませんか」

「……えーっと。遊ぶって、具体的には?」

「あ、え、なんというか……」

 ようやく発された一文は確かに聞き取ったものの、俺にはその意味がうまくつかみとれず、なるべく優しく聞き返してみると、淳平はまた言いよどんでしまった。

「あれかな、なんかやりたいゲームが二人対戦とか? もしくは部活で大会に出られないからメンバーになって欲しいとか?」

「あ、そ、そうじゃないんです」

 胸の前で小さく両手を振る様子を見るに、俺の予想は間違っていたらしい。仕方がないので黙って待機していると、淳平はこう言った。

「その、高校生らしく、というか。学校帰りにカラオケに行ったりとか、ゲーセンに行ったりとか、安いファミレスで何時間も駄弁るとか」

「……なるほど?」

「普通に遊びたい、んですけど」

 淳平の発する言葉はだんだんと語気が弱くなっていき、それにつられるように眉尻も下がっていった。こういうのを見ると、なんだか同情して、ついすぐにでも教室から手を引いて街を連れまわしてやりたくなる。しかし、それはすぐに浮かんできた素朴な疑問に打ち消されてしまった。

「あれ、森口ってさ、遊ぶ人に困るほど友達いなかったっけ? そんなイメージなかったけど」

 俺がそう尋ねると、淳平はわずかに怯えたような声を洩らした。それから、申し訳なさそうな表情で、おずおずと右手を差し出して見せた。

「……ああ」

 淳平の右手の甲には、確かにあの痣があった。円くて青い痣が三つ、三角形をかたどるかのように、静かにそこに佇んでいた。

「ちなみにさ、どれ選んだとか聞いてもいい?」

「あ、僕、Bなんです」

 かすれそうなほど小さな声で淳平はそう告げた。そこでやっと状況を把握した俺は一人で頷き、差し出されたままになっていた淳平の手を握り返した。

「いいよ、遊ぼう」

「えっ」

 俺の行動は淳平にとっての予想外だったのか、淳平は目をまん丸にしていた。

「い、いいの?」

「え、だって遊ぼうって話じゃないの? 淳平がこれからヤンキーのところにカチコミに行くっていうんならさすがに嫌だけど」

「そ、そう、だけど」

 自分から誘ってきたわりに、いざ遊ぶ勇気がまだ出ないらしい。それだけできっと良いやつにちがいないだろうと、俺の中で淳平の株が上がった。

「遠慮すんなって。行くぞ、淳平」

「う、うんっ」

 俺が少し強引かと思うくらいに引っ張ると、淳平は慌てて荷物を片手に引っ提げて、駆け足で俺についてきた。教室を出て行く時、少し教室がざわついていたような気もするが、とりあえず今は相談者の淳平が笑っていればいいかなと、そう思った。

「今日は本当に、ありがとう」

「いーえ。俺も淳平と遊ぶの普通に楽しかったし」

 ファミリーレストランで奇抜な色をした甘いドリンクを啜りながら、俺たちは食後の雑談を楽しんでいた。

「まさかさ、感染したら普通に遊ぶのがこんなに難しくなるだなんて、思いもしなかったよ。Bだとさ、食費とか生活費とか、一部支給されるでしょ?」

「そーだね。でもそんなに気にすることかね」

「確かに、お金をもらう分、しかも意外と少なくないからさ、外で美味しいもの食べるのもありだなって思っちゃう時もあるけど。でも別に、お金で得したくてBにしたわけじゃないんだよ」

「そりゃそうだろ。だって自分の命のことなんだからさ、金基準で考えてたらさすがにきついわ」

「でも、ほら、高校生って現金なところあるじゃない」

「……あー、そう、だな。否定できないわ」

「だから、僕だけお金があるのがずるい、だから一緒に遊ぶのはなんか嫌だ、って」

「はー、めんどくさ。そんなんでつながりきれるくらいだったら一生つるむなっつーの」

「もう、修治は言い過ぎだよ」

 俺が不貞腐れたように吐き出した言葉に、淳平は眉を少し下げながらも、穏やかな微笑みを携えていた。

「ねえ、もし修治がこの病気だったらさ、どんなふうに生きていくんだろうね。僕、すごく興味がある」

 淳平は唐突にそんな話題を持ちかけてきた。一瞬戸惑って腑抜けた表情を晒してしまったが、俺には、なんだかそれが面白かった。カダモトに関する話は、基本的にあまり良い話題ではないことが多い。公の場で話すことがあるとすれば、それは小学校の道徳の授業くらいではないだろうか。しかし、この感染症のことをあまり悲観的にとらえていないのが、淳平らしくていいなと思った。

「えー、俺がカダモトに感染したらかー。想像したことないわ」

「まあ想像できるものでもないだろうしね。じゃあさ、修治だったらどの選択肢を選ぶの?」

「うーん、その時の気分次第かな」

「えー、何それ」

「好きなゲームの新作とかあったら、その発売日まで生きられるやつ選ぶと思う」

「そういう感じなんだ」

「ま、でも、何にも思いつかなければAかな」

「なんで?」

「知ってるか、淳平。お金は正義なんだよ」

「もー、そうだね、うん。お金は正義だ。僕も身に染みてわかったよ」

「やりたいこともないのに生きてたって、なんかしょうがない気がするし」

 俺と淳平は想像していた以上に気が合うらしく、その日は首の後ろが痛むまで話続け、頬がひきつるまで二人で笑い合っていた。それからも、お互いに思うところは同じだったのか、二人きりで遊ぶことが自然と増えていった。


 ところが、俺は気づかぬうちに道を踏み違えていたらしい。

「ねえ、どういうこと」

 いつも通りの放課後、のはずだった。普段通りのざわめきの中、淳平が俺の席に近付いてきたので、今日はどこへ行こうかと考えていると、そこへ降りかかってきたのは明らかに冷たい声だった。なんだか様子がおかしいと感じた俺は、目線を自分の荷物から淳平に移した途端、そこに込められているのが軽蔑の感情であるとすぐに理解した。

「どういうことって?」

「僕のこと、からかってたの?」

「は? 何が」

「僕じゃ、普通の友達にはなれなかった?」

 淳平は今にも泣きそうな声でそう言いながら、僕をじっと見つめている。

「え、いや、何の話」

「森口くんから全部聞いたよ。可愛そうな一人ぼっちの僕と一緒に遊んでたのは、友達との話のネタにするためだったんでしょ?」

「どういう」

「影で僕のこと、ずっと笑ってたんだって」

「ちょっと待っ」

「自分が笑いものにされてるなんて、思いたくなかった。修治と遊んだ時間は、本当に楽しかったのに」

「だから話を」

 感情が高ぶり過ぎているからか、淳平は俺の静止の声を聞こうともしない。淳平はまくしたてるように話を続けた。

「僕はただ、最後に普通に遊びたかっただけなのに! 自分の方が遊ばれてたなんてさ、信じたくないんだよ、本当に。でも、一度聞いてしまったら、疑わずにはいられない」

 なかば叫ぶように淳平はそう言い放った。言葉の欠片をどうにかつなぎ合わせて、なんとか状況は理解した。おそらく、敏樹が淳平に、俺にからかわれているだけだとかなんとか言ったのだろう。しかし、何故敏樹がそんなことをしたのかがわからない。敏樹のせいで、俺と淳平との関係性は今、ぐちゃぐちゃになっている。せっかくの新しい友達を失ってたまるかと焦る思いが走るとともに、平穏な青春をかき乱してくれた敏樹へのいら立ちが募り、俺はつい、今絶対にしてはいけないことをしてしまった。

「……やっぱり、そうだったんじゃないか」

 俺の舌打ちを聞いた淳平は、一気に瞳をよどませた。違うと否定したかったが、そうするより先に、淳平は俺に向かって思い切り叫んだ。

「君が僕の代わりにこうなって死んでいればよかったのに!」

 それきり、淳平は乱暴な足取りで教室を出て行ってしまった。奇妙なほど静まり返っていた教室は、まるで何事もなかったかのようにまたざわめき始めた。そんなありふれた日常の光景の中で、俺が取り返しのつかない事態になってしまったことを理解するのは容易だった。そうして思わず机に突っ伏した時、俺はふと何か違和感を抱いた。到底そんな気分ではないはずなのに、何故だかそれが無性に気になって、重たい頭をなんとか持ち上げて見ると、机の上に放り出された右の手の甲に青い痣が出現していた。もう、乾いた笑いを洩らすしかなかった。


「えっ、感染したの」

 母は箸を止めて目を丸くした。それは衝撃というよりかは驚きといったようで、数秒の後、母は戸惑いながらも難なく食事を再開した。

 放課後に手の甲に浮かんだあの痣を確認してから、俺はそのまま病院へと向かった。医者に診断してもらうと、ああまたか、といった調子で感染の事実を告げられた。何も驚くことはなかった。診断書を持って役所へ行き、余命選択制度の手続きをしろと医者に言われたので、今度は役所へ直行した。

 どうされますか、と職員に形式的に尋ねられて、俺は迷うことなくそれを選んだ。理由は単純明快で、特にやりたいことがなかったのだ。見たかった映画は先月見たし、大好きだったシリーズもののゲームも昨年完結している。これといって、生きて行く意味は見つからなかった。むしろ、終わりが見えれば何かが始まるのではないかと、そんな淡い期待さえ抱いていた。職員は、俺が質問に即答したことに少々驚いていたようだったが、繕った笑顔ですぐに機械的な手続きを行ってくれた。

「そ、う。全部やってきたのね」

「うん。ごめん、何も相談せずに決めちゃって」

「……仕方ないわ、あなたの命だもの」

 母は依然と動揺しているようだが、不思議なことに、じきにやってくる息子の死をそこまで悲しんでいるようには思われなかった。父は、夕食中一度も俺の方を見ることはなく、始終無言だった。

「でもまさか、Aを選ぶなんて」

「まぁ、別にいいかなって」

「Aって……確かお金とか、免除になるやつでしょう?」

「そう。もう手続き終わったから、外で使うお金以外は明日から振り込まれるはず」

「あんたの銀行?」

「うん。生活費とかは俺が払ってたわけじゃないからさ、俺が死んだら好きに使っちゃっていいよ。あ、俺の部屋の棚の一番下の引き出しに通帳とか入ってるから」

「……ええ、わかったわ」

 母は、もごもごと口を動かしながら返事した。それからしばしの間、沈黙が続いた。食事を終えて俺が席を立っても、食器の擦れる音と咀嚼恩だけ部屋に響いていた。

 自分の部屋に戻ってしばらく経った頃、ドアがコンコンと軽快な音を立てて、誰かの来訪を告げた。俺が適当に返事をして部屋に招き入れると、意外にも、入ってきたのは花乃だった。

「花乃? どうした」

「いんや、別に」

「何、勉強でわかんないとこでもあった?」

「そ、うじゃ、なくて」

「……ああ、これ?」

 ぎこちない様子から察した俺が右の手の甲を見せると、ベッドに腰を下ろした花乃は戸惑いながら小さく頷いた。

「なんで花乃が気にしてんのさ」

「いや、気にしてるっていうか」

「あ、もしかしてあいつのお兄ちゃんAなんだーって学校でいじられたりすんの? それはまじでごめん」

「違くて。別にいいんだよ、修治がAにしたのは」

「へぇ」

「修治の選んだことなら、いいんじゃないの」

 そう言って花乃がこちらをおずおずと見つめてきたとき、なんて澄んだ目をしているのだろうかと、俺は驚いた。

「今時こんなに兄想いの妹はいないわな」

「そっ、そういうつもりじゃないんだけど」

「でも、わざわざ俺の部屋に話しに来るくらいだろ?」

「……だって、一週間でしょ? 全然、時間が足りないよ」

 花乃は力なく呟いた。夕食の時には特にこれといった反応がなかったのだが、今はシーツをぎゅっと握りしめているのが見えた。

「時間?」

「もっと、遊んどけばよかったかなって。兄妹らしいこと、あんましてなくない?」

「そう? わりとよく出かけてるじゃん」

「それはだいたい家族ででしょ? 兄妹だけで遊ぶとか、ほとんどなかったじゃん」

「あー、確かに? でもまあ、性別も趣味も違えばそうなるわ」

「だから、今しかできないなら、言っとこうかなって、一応」

 花乃は存外、兄想いの良いやつだったらしい。これには正直、一番驚いた。それと同時に、俺の中に残りの一週間を生きるだけの気力がわいてきた。そうして、俺は湿った空気を追い払うようなるべく明るい声で、頭に浮かんできたある計画のことを話し始めた。

「なあ、土曜日空いてるよな?」

「え? あ、うん」

「じゃあさ、ぱーっと遊びに行こうぜ」

「どこに?」

 それが妹の可愛らしいお願いに応えるためのものだということにすぐに気がついたのか、花乃は瞳の奥を輝かせた。

「一泊二日で遊園地ってのは」

「採用。え、でもお金は?」

「そこがお兄ちゃんのすごいところなんだよなー」

 俺は棚を漁って、目的のものを取り出す。それを開いて見せてやると、花乃は驚いて目をぱちくりさせていた。

「え、めっちゃ貯まってる」

「そんなに使うことなかったしな。えーっと、ホテル代とチケット代と交通費くらいは十分だな。通帳記入したの大分前だし、もうちょっと増えてるって考えたら、お土産代も出せるかも」

「……ほんとに、いいの?」

「え、やっぱり行きたくなくなった?」

「そ、そんなことない!」

 俺が意地悪な質問を投げかけると、妹は焦って両手を目の前でぶんぶんと揺さぶった。その必死な様子に、思わず笑みがこぼれる。

「だって、修治の最後の思い出、私になるんだよ? ほんとにいいの? 他にやりたいことあるんじゃ……」

「いーの。たった今花乃のやりたいことが俺のやりたいことになったから問題なし」

「あとから取り消しとか、なしだよ」

「絶対やらないよ。まあ、可愛い妹の頼みなんでね、最後くらいは兄らしくかっこつけさせてよ」

「……行く」

 花乃の声は、少し震えていた。そんな花乃の様子を見た俺はさっきの言い回しが何だかずるかったような気がして、もどかしい気持になった。そのまましばらく動かなかったものだから、打開策として俺は慣れない手つきでその頭に手をのせた。それから、青い痣が花乃の頭の上でゆらゆらと揺れて、俺はもうすぐ死ぬのだなと考えていた。すると、花乃はそのぎこちなさすぎる手つきに笑いをこらえきれなくなって、とうとう声を上げて笑い出した。俺は、慣れないことはするもんじゃないな、と思った。けれど、花乃の気の抜けた笑顔が取り戻されたから、これでよかったのかもしれない。こうして、俺の中に一週間分の生きる意味が芽生えたのだった。


 淳平が死んだのは、それから間もない日のことだった。Bの余命はたしか一か月だったはずだから、俺と遊び始めたころにはもう、感染から随分時間が経ってしまっていたのだろう。身近な友人が感染で死んだのは、これが初めてだった。ついこの間一緒に遊んで、喧嘩した奴が、これから燃やされて骨だけになるというのは、なかなか実感がわかない。しかし、その変わり果てた姿を目の当たりにしてしまえば、俺はもう何も言えなかった。

「淳平のお友達、よね?」

 初めて会った淳平の母親は、顔も知らない俺に話しかけてきてくれた。その表情は、安堵しているようでありながら、どこか仕方がないという諦めを含んでいるようにも思えた。

「ああ、よかった。淳平と遊んでくれて、ありがとうね」

「いえ」

 彼女は本当に、俺のことをほとんど知らずに話しかけてきたのだろう。たったそれだけの会話を交わして、俺は淳平の母と別れ、その場を後にした。そういえば、淳平の葬式では、俺以外に学校の友達らしき人物が一人も見当たらなかった。そのことに気づいてしまってから、知らぬが仏ってこういうことを言うのではなかっただろうかと、俺は頭を抱えた。

その帰り道、俺もそのうちこうやって死んでいくのかな、と、つい考えてしまった。初めて見た友の遺骨がずっと瞼の裏に浮かんだり消えたりして、死ぬ、死ぬのか、と俺は心の中で反芻していた。


「あ、銀行」

 花乃と約束した計画が始まる前日、俺はそう思い立って、カードと通帳を持ち、現金を下ろしに家を出た。時計は午後四時頃を指しており、時間にはまだ余裕がありそうだ。自動ドアを潜り抜け、俺はATMの画面をのぞき込んだ。ひとまず今の貯金額を確かめてみようと思い、早速通帳記入に取り掛かった。

「ん、なんか長くない?」

 おかしい、と思い始めた途端、そう思わざるを得なくなっていくのは常である。バイトの給料の振り込みだけならそんなに記入量は多くないはずなのに、今日は少し時間がかかっている気がして、俺はなんだか変な感じがした。Aの支給があるからかな、それとも何か機械のトラブルだろうか、とじれったい思いを抑えて待つ。そうしてようやく機械から俺の手元へ戻ってきた通帳の表記を見て、俺の背中に冷や汗が伝った。

「は」

 予想外の数字を見て吐き出した息は、明確な言葉にはならなかった。

「なんで」

 この一週間で、俺の貯金の大半が、何度かに分けて引き落とされている。思わず通帳を持つ手が震えた。

「まさか」

 これが詐欺でないとすれば、思い当たるのはただ一人しかいなかった。母である。俺のカードがどこにあるかを知っていて、暗証番号もわかるなんて、そんなの、母しかいないのだ。俺は、母が作ってくれた銀行の口座をそのまま利用していたのだから、母が暗証番号を覚えていてもちっともおかしくはない。そういえば、話す機会が少なくて気づきにくかったが、母は俺が感染してからやけによそよそしくなった気がする。クローゼットの隙間からちらりとブランド物のバッグが見えたような気がする。もしかして、いや、もしかしなくても。ああ、なんだ、俺も金に見られてたってことか。結局、人生何事も金なのだ。そういう結論に行き着いて、俺はこの気持ちをどうすればよいのかわからなかった。

「クソッ!」

 そう吐き捨てて走り出した俺に、行く当てなどなかった。母にまんまと利用されたことに対する怒り、それに気づけなかった自分への苛立ち、妹との計画が崩れ落ちたことへのやるせなさ、そして妹の願いを叶えてやることすらできない兄としての悔しさ。感情がぐるぐると転げまわって、どうしようもなくて、俺は無我夢中で走ってそれらを振り切ろうとした。

 そんな時、突然視界に鮮明に写り込んできたのは、自分が通っている高校の校舎だった。きっと、歩きなれた道だったから、無意識にたどり着いてしまったのだろう。俺はそんな偶然にぐっと息を飲み込んで、校舎へと足を踏み入れた。

 たん、たん、という軽い音は、階段を上がるにつれて響きを増していき、だんだんと重くなっていく。若干さび付いた扉を開けば、どこか冷たい空気が僕を屋上へと誘いだした。俺もそれにつられて外へと歩み出す。柔らかな風が髪をなびかせて、その隙間から夕日が目に眩しい色をさした。

「……こんな、こんな最後があるもんか」

 否。がむしゃらに走って何とか気持ちの整理をつけた結果、俺が導き出した結論はそれだった。赤く染まっていく空の下を一歩ずつ踏みしめながら、俺はこう思う。どんなに後味の悪い小説だって、こんなに救いのない結末にはしないはずだ、と。俺の体験がどんなにちっぽけな悲劇であろうとも、それは俺にとって間違いなくこの一週間分の生きる意味だったのだ、と。

「こんな惨めな気持ちで終われるか」

 否。妹によって届けられた俺の生きる意味が、一瞬で崩れ落ちた終わりなど、到底終わりとして相応しくない。そんなことは、俺自身が絶対に認めるわけにはいかないのだ。

「死んで、たまるか」

 まだ少し息を切らしながらも、俺はゆっくりとそう吐き出した。一度紡がれた言葉が風によって運ばれると、そのまま次の言葉が喉の奥から引っ張り出される感覚がして、俺はそれに身をゆだねる。

「死んでたまるか」

 今度は、振り絞ったかすれ声が出た。しかし、その情けない声を媒介に、自分の気持ちが正しく体に染みわたっていくのを感じ、俺はこれが間違いでないことを悟った。そして、俺は力いっぱい叫んだ。

『死んでたまるか!』

 その時、誰かにその覚悟を見せてみろと背を押されたような気がした。俺は勢いのまま飛び出し、言葉通り、風に乗った。


   *


「あの、すみません」

 薄暗い歩道の傍、自転車置き場のわずかな隙間に、しなびた段ボールが広げられている。女性は、そこに佇む一人の男性に無謀にも声をかけていた。

「お話、いいですか」

「よかねぇよ。帰れ」

 男性にそう一蹴りされてしまい、一瞬寂しそうな表情を浮かべたものの、女性がそこを立ち去る気配はない。男性は、顔はまだ若いように見えるが、全体像はいかにもホームレスといった感じで、今にも言葉では表しがたいような異臭を放ってきそうである(この場合、実際にそうであるかどうかというのは大した問題ではない)。だが、女性はこの明らかに身なりの汚い男性に、物怖じもせず話しかける。

「十年くらい前に、カダモトの感染から回復した事例があるのを、ご存じですか」

 男性は、何も答えなかった。女性はそれが当然と言ったかのような反応で、気にすることもなく話を続ける。

「カダモトに感染した男子高校生が、ある日、屋上から飛び降りたんです」

「その話は、よしてくれ、もう」

 女性が詳しい話をしようとすると、男性はそっぽを向きながら、弱々しくそれだけ言った。目はどこか陰っていて、重たく濁っている。

「飛び降りた後、痣が消えたというのは、本当ですか」

 女性は前と変わらない調子で、しかしながらどこか確信したような様子で、そう口にした。男性は女性のその発言が気に入らなかったのか、きっと睨みつけるような目つきで女性の方に向き直った。

「それを知ってどうするんだ」

「ただ、知りたいんです」

 男性は、何も言わなかった。女性は拒絶されているわけではなさそうでよかった、と胸をなでおろし、勝手に話を再開する。

「カダモトの感染から回復したたった一つの事例は、今じゃ有名な話ですよね。ただ、その男子高校生は、余命選択制度でAを選んでいたらしくて。一週間分の金銭の援助をされていたのにもかかわらず回復してしまっては仕方がないと、簡単にいえば金を貰って死ぬはずだったのに生き延びてずるいと、人々が口々に文句を言い始めたわけです。その不平不満があふれ出したら止まらなくなってしまって、政府はいよいよ手が付けられなくなりました。そこで、彼には今後一切干渉しないと、そういう方針を打ち立てたことで無理矢理事態を終結させたんですね。けれど、そのせいで彼は、もはやプライバシーなどなくなったと言っても過言ではないほどの状況に追い込まれました。パパラッチが取材と称して毎日男子高校生の家へ押しかけて来たり、あるいは道端で怪しい研究機関に拉致されそうになったり。最終的には両親に家を追い出されて……いろいろ、あったらしいですね」

 女性は何かを慈しむような微笑みでそう語った。それを見た男性は、戸惑ったような様子で彼女に尋ねた。

「なんで、それを俺に話すんだ」

「あなたを、探していたんです」

 そうして、突如雰囲気を一転して無邪気に笑った女性は、男性にこう言った。

「久しぶり、修治」

「お、まえ、花乃か」

 男性は口をはくはくと動かすばかりで、女性の名前を呼ぶ声はかすれていた。

「もう、勝手に出て行くとは思わないじゃん」

「あれは、出て行ったっていうか」

「お母さんたちに追い出されたんでしょ。わかってる」

 女性は自分の検討が間違っていなかったことに、再びほっとしたような表情を見せた。

「よく、わかったな」

 男性は自分の惨めさを思い出して、女性の前に居ることが急に申し訳ないような心もちになった。そうしてふっと目線をそらされたことに気がついたのか、女性は男性のそんな思いを取っ払うかのように堂々と言い切る。

「それは、まあ、自慢の妹ですから」

「……そうだった」

 ようやく頭が追い付き、男性が女性を妹だと認識すると、へにゃりと気の抜けた笑顔を見せた。それを見た女性は、誇らしげに鼻をならしている。

「よく見つけられたな」

「ずっと、探してたんだよ」

「十年も?」

「十年も」

 男性の不安げな声を、女性は突き返すように返事した。しかし、男性はまだ目線をうろつかせていて、ひどく不安定な様子である。

「生きててよかった」

「……馬鹿だな。もっと、他にやることあるだろ」

 女性が心底嬉しそうにそう口にしたものだから、男性は呆れたようにそう言った。その声色には、どこか隠しきれない嬉しさがあらわれていた。奇跡の再会にしては随分みすぼらしすぎる光景ではあるが、当事者である二人にとっては、それはちっとも気にならないことだったのだろう。

「それでさ、一応修治に聞いておこうと思って」

「何?」

「これ、消せるかな」

 女性はそう言うと、男性に右の手の甲を見せた。そこには、まごうことなき感染の証が刻まれていた。

「は」

「いやー、この前感染しちゃったらしくて」

「嘘だろ」

「マジだよ。ちなみにCです」

 女性の返答に、男性は思わずため息をつく。

「一応、ってことは、何か思い当たる節でもあるの?」

「まあね。修治が飛び降りたときの目撃証言があったから」

「え、マジ?」

「大マジだよ」

「っはー、俺完全に中二病じゃん」

 女性の口から出て来た思わぬ情報に、男性は恥ずかしくてうなだれるしかなかった。一方、女性はにこやかに笑顔を携えたままである。

「あーあ、修治と再会しちゃったからには、まだ『死ぬわけにはいかない』なぁ」

 わざとらしく告げられたその言葉をきっかけに、女性の手の甲に浮かんでいた三つの円い青痣はすっと消えていった。その瞬間を目にしてしまっては逃げようもないと、男性は深く息を吐きだした。

「そんなのって、ありかよ」

「とはいいつつ、修治もそうかなって気はしてたでしょ」

「まあ、否定はできない」

「ま、私もまさかとは思ったけど」

 気の抜けた表情で笑っている女性を見て、男性は何度目かのため息をついた。

「でも、それってつまりさ、『死んでたまるか』って言ったやつが今までに一人もいなかったってことになるだろ? そんなこと、本当にあるのかよ」

「まあ、案外あるんじゃない? 皆さ、先に「死にたくない」って言うでしょ」

「あー、なるほど」

「でも「死にたくない」って、結局ただの願望じゃん? だから、その、生への執着みたいな? そういうのが足りないからアウトなのかな? っていうのが持論」

「……そんなこと、あるのか」

 確かに男性の考えは女性の意見と全く同じものであったが、どうにも信じ切れないらしかった。まさかそんなささいなことで、という疑問が、まとわりついて離れなかったのである。すると、女性が一人で葛藤し始めた男性の背を軽く叩いた。

「まー、悪くないじゃん? 言葉一つで全てがひっくり返る世界ってのもさ」

 女性のその言葉は、男性の心の中にやけにすとんと落ち着いた。

「そんな面白い世界で生きていけるなんてさ、私たちって最高じゃない?」

「花乃がそう言うんなら、そうかもな」

「修治は?」

「え?」

「一応、たった一言でこの世界を変えた初の人物だよ? 何か一言ご感想をどうぞ」

「……案外、あっけないもんだな」

 女性の問いに対し、男性はまるでいたずらが成功した子どもみたいに笑いながら、そう答えた。女性の方も、それを聞いて、道端でふざけ合う小学生のように、男性の背中を音が鳴るくらい大きく叩いた。男性は大げさに痛い、痛いとわめいていたが、決してその笑みが絶えることはなかった。

 もしかすると、自分はずっとそんな世界に望みをかけてきたのかもしれない、と男性は思った。自分の言葉が、このちっぽけな想いが世界中に木霊して、それは結局自分勝手な行動に過ぎないのだけれど、ここに存在する世界の何かを変えてしまう。もし本当にそんなことがありえるのだとしたら、それはどんなに夢があることだろうかと、男性は目に灯りをともした。そして、背中から伝わってくる痛みとぬくもりとを確かめながら、まだ知らない明日のかたちに思いをはせて、男性はゆっくりと目を細めたのだった。

 最後までお読みいただき、ありがとうございました( *´艸`)

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