小さな恋のメロディ
貴族には各々贔屓にしている商家がある。
オールグレーン伯爵家にも当然ある。
本日は御用達のクレメンス商会が納品のために屋敷を訪れていた。
彼らが持ってきたのは貴族学院で使用する品だ。
貴族学院には寮館に使用人がいて、身の回りの世話をしてくれるが、各人に宛がわれるわけではない。代わりに家から世話をする者を連れていくことも許可されてはいない。よって朝の混雑では手が回りきらないためにドレスの着付けに関しては自ら行わなければならず、令嬢は一人で着られるワンピースドレスが必要になってくる。コルセットでぎゅうぎゅうに締め付けて着るドレスとは違い、さっと着られて身体を締め付けないワンピースドレスはひそかに人気だ。
「二人とも、とても素敵ね」
ベルタは満足そうな笑顔を浮かべた。
ハンネが試着しているワンピースドレスは淡い黄色の生地にレースを重ね精密な刺繍でカローラという大輪の花柄をあしらったものだ。Aラインのスカートは歩くとふんわりと裾が広がって揺れる。全体的にやわらかい雰囲気だが、腰元の切り返しの部分にぐるりと一周黒い刺繡が入れられているのがアクセントになっている。
このドレスはシーグルドがハンネに贈ったものだ。
寿ぐ会で着るドレスは、ヘムルートに依頼した。オールグレーン伯爵家とシーグルドの縁を結んだ立役者として、オールグレーン領に支店を出すこと、また婚約発表のドレスを作ることを礼として与えたのだ。
今後、シーグルドは伯爵家を取り仕切る立場になるのだから、懇意の商家の一つはあるべきだし、それならば長い間苦節を共にして信頼に足る商家を求めるのは道理である。それに見合う格付けという意味でも必要な待遇だった。
とはいえ、オールグレーン伯爵家が昔から贔屓にしていた商家にとってみたら面白くはないのも事実。事情を察しても、承服しきれない部分が大きな軋轢になることがある。けしてこれまでの関係をないがしろにしているわけではないと示すため、補填として、ワンピースドレスと学院内で催されるパーティー用のドレス、その他にも宝石類を一揃え購入した。
さらに夫妻はシーグルドにも顔つなぎをさせた。彼はそれを受けて、ハンネに贈るドレスと、自分用の衣装、それからマリアンネのドレスなどを依頼した。
マリアンネも試着したドレスでくるくると回っている。
こちらは水色のドレスだ。子どもが喜ぶデザインというよりも、大人のドレスを子どものサイズで仕立て上げたという印象を受けるが、それは意図してだ。
まだ六歳に満たないマリアンネは正式な場には出たことがなく、それ用の衣装を持っていない。子爵家が茶会を開くようなこともないので問題はなかったが、寿ぐ会が終われば本格的な社交シーズンの到来となり、ベルタも伯爵夫人として茶会を催す。その際に、マリアンネの曖昧な立ち位置をはっきりさせるため、紹介されることになっている。伯爵家の後ろ盾を得るのに恥じない装い――これはそのときに着るためのドレスだ。
最終チェックを終えて、問題はなかったのですべての品を受け取り、お茶にすることにした。
テーブルに運ばれてきたのは工芸茶と呼ばれるもので、お湯を注ぐと茶葉がゆっくりと開いて花が咲く。先頃、隣国から輸入され始めた希少なものだが、クレメンス商会の会長ギルベルトが手土産にと持参した。
ガラスのポットに茶葉を一つ入れて、湯を注ぐ。
しばらくすると話に聞いた通り花が開いていく。
わぁっと声を上げたのはマリアンネである。目をキラキラとさせてポットを凝視している。
注がれたカップもガラス製だ。お茶は薄い黄金色をしている。鼻先に近づけると薄荷のような爽やかな香りがした。口に含んでみると思っていたよりも辛みがあり、マリアンネがむせた。
シーグルドが立ち上がり、マリアンネの背を撫でる。その間に、ハンネがメイドに指示を出して水を用意してくれた。マリアンネはそれを流し込むようにして飲み干したが、まだ喉に引っかかる様で眉間に皺を寄せる。
「綺麗だけれど、好みは分かれそうね」
ベルタは茶会で披露するつもりでいたようだが思案顔になる。最新の流行を取り入れることは大事だが、新しい物であればいいというわけではないのだ。もしかしたらお茶の淹れ方に問題があるのかもしれないし、或いはもっと飲みやすい工芸茶があるのかもしれない。もう少し調べてみる必要がある、ということで工芸茶の件は保留になった。
それから話は貴族学院のことに移った。
貴族学院は三年制で、一年次は共通のカリキュラムだが、二年次からは選択授業も増える。シーグルドは父と同じ文官を目指していたので財務や会計学を主としたものを選択していた。だが、ハンネとの婚約で彼の将来は大きく変わり、領地経営について学ぶ必要が出てきたため、二年次をもう一度やり直すか、三年次のコース編入をするか決めなければならなかった。優秀さを示すには編入という方法が好ましい。シーグルドがオールグレーン領で殊の外忙しくしていたのは、二年次で学ぶものを詰め込んでいたためである。その甲斐あり、編入という形をとれそうである。
「それにしても、この短期間ですべて学習し終えるなんて、子爵の努力を誇りに思います」
ベルタが褒めると、シーグルドは照れ臭そうに笑った。
「私が選択していた科目も手助けになりました」
領地経営学というのは少々特殊だ。土地を富ませるため、領民の暮らしぶりに注意を払い、時には利益度外視でやらねばならない事業も存在する。そんな中で大事になってくるのが会計的な側面だ。たとえば土木工事をするにして、技術は専門家を雇えばいいが、そこに伴う費用について、相応かどうかを精査する必要が出てくる。細かな部分は会計士に任せても、最終的な確認は領主自らが行い、おかしな点がないか財務表を読めなければ話にならない。そういう意味で、会計学を専攻していたシーグルドは領主経営で学ぶよりも深くまで理解できている。彼が二年次の詰め込みをこなしきれたのも、会計の知識を既に得ていたからというのが大きい。シーグルドが騎士コースを選んでいたとしたら難しかったかもしれない。
「あなたも頑張らなければなりませんよ、ハンネ」
「はい」
話を振られて、ハンネは頷いた。
いくらシーグルドが優秀でも婚約者のハンネが不出来では不釣り合いだと笑われる。そうでなくともシーグルドは有名人で、ハンネ自身も話題があるのだから、否応なく注目されるだろう。無難に波を超えるためにも良くも悪くも目立たないように、最低限の成績はおさめなければならない。
自覚しているだけに、ベルタが発破をかけるつもりで言ったことはわかっていても、そっとしておいてほしい、と少し恨めしく思った。すると、ハンネのふてくされた気持ちを吹き飛ばすように、
「わたくしも、がんばります!」
工芸茶の辛みから立ち直ったマリアンネが力強く言った。
二人が頑張るというので触発されたらしい。
マリアンネは学ぶことが好きなようで、ここに来る前から文字を覚えていたし簡単な手紙なら書くこともできた。優秀な者への教育はやり甲斐がある。ベルタも張り切って、
「あら、じゃあ、新しい本を買いに行きましょうか」
「新しい本ですか! 嬉しいです!!」
「ふふ、マリアンネは読書家ですからね。屋敷にある絵本はもう全部読んでしまったでしょう。今度はもう少し年齢層をあげたものに挑戦してみましょうね」
マリアンネはとびきりの笑顔になる。
だが、それにシーグルドが待ったをかけた。
「マリアンネ、優しくしてくださるからと甘えすぎだ。誕生日でも記念日でもないのに、買っていただけるからと喜ぶのは違うんじゃないか?」
マリアンネの教育を引き受ける。それが、シーグルドとの約束であり、その通りにしてくれていることに深く感謝してもいるが、あれこれと買い与えてもらえることをマリアンネが当たり前に感じるようになっては困る。いくらオールグレーン伯爵家に世話になっていても、マリアンネの身分は子爵令嬢なのだ。両親が生きていたら、読む本がなくなったからと新しく買ってはもらえない。本はそれほど安価なものではない。
マリアンネはシーグルドの言葉にはっとなり俯いた。
「ベルタ夫人のせっかくのご好意ですが、今月に入ってからすでにドレスや髪飾りなども購入いただいてますので、これ以上は……申し訳ありません」
「子爵が謝ることはありません。わたくしも、無神経でした」
ベルタはしょんぼりするマリアンネを可哀想に思ったが、シーグルドの言う通りだと自分の甘さを認めた。
能力がある者によりよい教育を受けられるよう環境を整える。縁あってこの家で暮らすことになったのだから、できることはしてあげたい。その気持ちと、なんでも買い与えることは別だ。本は勉強にもなるからと簡単に考えていたが、それが繰り返されるうちに、身の丈というものが麻痺してしまう。そうなったとき困るのはマリアンネである。
それから、きちんとその線引きを求める発言をしたシーグルドに感心もした。このようなことは、言いにくい。好意を拒絶することは、相手を不快にさせる可能性がある。まして、シーグルドは婿養子となるのだから、揉め事はなるべく避けたいだろうに、それでも発言した。マリアンネのために。
一方で、シーグルドは少々気まずそうだ。言うべきことは言うが、正しいことを言ったのだから受け入れられるべきというような強気な姿勢ではなく、言ってしまったなと混乱しているのがわかり、ハンネは助け船を出す。
「シーグルドの言うこともわかるけれど、これから年明けまでもっと忙しくなるし、マリアンネが退屈しないように必要ではないかしら? 今回は購入を検討してみてはどう?」
年の瀬は気持ちも急いて、大人は新年の準備に忙しく、反して子どもは退屈を極める。慣れない土地で、やることもなく過ごすのは可哀想だと言われ、シーグルドも納得し、一冊だけならと購入を許可した。ただし、費用はシーグルドが出すことは譲らなかった。
翌日の午後、さっそく街に繰り出す。
ハンネとシーグルドとマリアンネの三人で出かけるのは久しぶりだ。パルペに来てからは婚約を知らしめるため二人で出かけることが多く、その間、マリアンネは留守番だった。二人で仲良くしているところをみんなに見せなければならない、と事情はきちんと話していたが、どこまで理解できているのか。マリアンネが文句を言ったり、拗ねたりするようなことはなかったが、寂しい思いはしていただろう。屋敷にあるマリアンネが読める本を全部読んでしまったのも、一人でいる時間がそれだけ多かったということだ。それを鑑みれば、本の購入を否定したのはいささか厳しすぎたかもしれない、とシーグルドは思った。それはそれ、これはこれ、と分けて考えること、一連の流れと考えるべきこと、判断は難しい。
馬車が大きな建物の前で止まった。三階建てで、一棟すべてが本屋である。パルぺで一番大きな書店。パルぺでというより、シュメール領で一番だ。
店に入るとすぐに店員に声をかけた。まだ幼いマリアンネでも読める書棚を尋ねると右の奥へと案内される。高い本棚の横を通り抜けていくと、子どもでも取れるくらいの低めの本棚に変わり、急に視界がすっきりした。
本はそれなりに高価なので、親が選んで子どもに与えるという認識が強く、故にたいていの本屋では児童文学書でも子どもが手に取れないような本棚に並べていたりする。だが、この店では出会いを大切にしている。本との出会いは運命であるという考えの元、子どもたち自らが選べるようにしている。自分の目線上にある本に、マリアンネの瞳が輝いた。しかし、すぐに近寄っていくようなことはなく、シーグルドを窺う仕草を見せた。
「好きなものを選ぶといい」
「本当ですか! ありがとう存じます」
許可が出てようやく、踊りだしそうな軽やかな足取りで本棚に向かう。
「マリアンネは本当に本が好きなのね」
ハンネはそれほど読書家ではない。刺繍や裁縫の方が好きなので、時間があればそちらを優先した。図案を見つめながら何色の布にするか、どのような糸にするか、あれこれ考えるときの高揚を思い出す。好きなものに触れているときの多幸感――マリアンネにとって本がそういう対象なのだろうと思えば、いっそう愛おしく感じられた。
「マリアンネのことはわたくしが見ていますから、シーグルドも行ってきたら?」
シーグルドもまた読書を好んでいる。
せっかく来ているのだから時間は有用に使うべきと申し出たが、シーグルドは首を縦には振らなかった。二人を置いて好き勝手しているうちに何かあっては困るということらしい。
「わたくし、本屋で危険な目に遭ったことはないのだけれど……」
だがそれはハンネが平凡な容姿だからだろうというのはわかる。今も、本棚を熱心に見つめるマリアンネの姿を近くにいた数名の子どもたちがちらちらと見ている。シーグルドも幼い頃からこのような視線を受けてきたのだろうことは容易に想像できた。
「容姿が整いすぎているというのも厄介なのね」
シーグルドからは笑いが聞こえた。
「そんなにしみじみ言われるとは思わなかった」
「……でもそうでしょう? 容姿に限らず、何かに秀でていることを簡単に羨むのは間違いだなって実感したもの」
ついうっかりと光にばかり目を向けてしまうが、光があれば必ず闇ができる。いいことばかりなどということはない。ハンネが想像もしていなかった苦悩を味わっているシーグルドを見て、物事の複雑さと無知から生じる安易な羨望についてハンネは考えるようになった。
「そうだね。皆、それぞれの立場でそれぞれの悩みがあるのだろう。ただ、それが自分の領分で納まることならいいが、君まで巻き込むことになるのは申し訳ない」
シーグルドの言葉に今度はハンネが笑った。
「巻き込まれているとは思っていないし思わないよ。それにそういう言い方をするならあなただってわたくしの問題に巻き込まれたということになるもの」
「……たしかに。私だって巻き込まれたとは思っていないのに、ハンネがそう思っているかもというのは失礼だったね。訂正します」
「訂正を受け入れます」
「ありがとう」
「ふふ」
気遣い合う会話。だがそれは近しい相手を思ってする自然なものではなく、距離がある者同士が不快と思われないように注意を払っているという段階だ。それでも、二人の間に流れる空気は和やかだ。少なくとも交わした内容に嘘がないことを互いに感じることができたから。
そのような会話をしながらも、二人の視線はマリアンネに向いていた。
マリアンネは本棚から一冊本を抜き出そうとしている。すると、一人の男児が近寄ってきて「その本、とても面白いよ」と話しかけてきた。
「……読んだことあるの?」
「うん。シリーズ化もされていて、ついこの間も新しい話が出たよ」
「そうなの?」
ハンネとシーグルドは顔を見合わせた。難癖をつけられたり暴言をはかれたりというわけでもないので、これは止めに入るような状況ではない、とひとまず様子を見守るべきだと頷き合った。
「じゃあ、やめておこうかな」
「どうして? 面白いのに」
「だって、シリーズものなら、続きが気になるでしょう?」
「シリーズではあるけれど、一巻で完結はしているよ。でも、気になるなら続きの本を貸してあげるよ?」
流れるように約束を持ち掛ける話術に、わぁ、とハンネは舌を巻きチラリとシーグルドを見た。彼の眉間にはやや皺が寄っている。妹が誘われる光景はあまり面白いものではないということだろう。何せマリアンネはまだ五歳なのだ。いや、五歳だから微笑ましいという見方もあるが。
マリアンネは、うーん、とシーグルドと同じように眉間に皺を寄せて考え込んだ。
「どうしたの?」
「……わたくしはオールグレーン伯爵家にお世話になっているので、自分だけで勝手に約束をしたりはできないの」
貴族間には派閥というものが存在するし、場合によっては関わることを咎められる可能性もある。マリアンネは自分の望みより、自分の置かれている環境を考えて躊躇した。実にしっかりしている。しっかりしすぎるくらいである。
ハンネは二人に近寄って何も知らないという体で声をかけた。
「お友達ができたのかしら?」
「ハンネお義姉様!」
マリアンネがぱっと笑顔になる。
「はじめまして、わたくしはハンネ・オールグレーンと申します」
「あ、……ご挨拶をしておりませんでした。ぼ、私はテオ・トリプソンと申します」
「まぁ、トリプソン伯爵家のご子息ですか?」
トリプソン伯爵家は代々シュメール領の騎士団長の職に就く、領主の盾と呼ばれる一族である。そのため特定の派閥には入っていない中立派としても有名だ。騎士伯とも呼ばれている。
余談だが、騎士団の中で活躍した者には一代限りだが騎士爵を与えられる。貴族の爵位とは少し違うが扱いはそれに準ずる。故に、爵位を継げない者が騎士団を希望することも多い。
「ということは、ウド様の弟君でしょうか?」
「あ、はいそうです。兄をご存じですか?」
「ええ、同じ年ですから、何度か顔を合わせたことがあります」
「そうなのですね」
テオはパチパチと瞬きをしたあと、えっと、それで……とマリアンネのことを見た。
互いに名前を名乗ってはいないので気になるのだろう。
「こちらは、マリアンネ・サリアン子爵令嬢です。彼女の兄であるシーグルドとわたくしが婚約することになり、彼女は現在我が家で一緒に暮らしているのです」
「マリアンネ・サリアンです」
マリアンネがカーテシーをすると、テオも会釈を返した。
その間にシーグルドも近くに来ていて、
「マリアンネの兄のシーグルド・サリアンです。妹が何か問題を起こしましたでしょうか?」
二人のやりとりを一部始終見ていたのだから、問題など起きていないことは明白だがそのような聞き方をしたのは牽制だ。
両親を失いたった一人の残された家族を大事にするのは納得だが、それ以上に警戒している。マリアンネも容姿の美しさから注目を浴びてしまうので、自身の経験を踏まえて過敏になるのは仕方ないにしても、近寄ってくる全員を危険視するのはやりすぎだ。誰を信じ、誰を信じないか、それをマリアンネ自身が学んでいく必要もある。すべての出会いを否定するのはおかしい――そんなことシーグルドだって理解している。だからこそ、テオが話しかけてきてもすぐには動かなかった。そうであるのに、今のところ特に問題ある言動をしていないテオを訝しがるのは、別の思考が混ざっているからに他ならない。即ち可愛い妹に近寄ってくる害虫を許さないという兄としてのやきもちだ。シーグルドの婚約者となったハンネに嫉妬や対抗心を向けることなく慕ってくれているマリアンネに比べ、妹離れがまったくできない様子にハンネは笑いたいのを我慢して内頬を噛んだ。
「マリアンネ嬢のお兄様ですか。彼女に本を貸すことお許しいただけますか」
しかし、牽制されたはずのテオはまったく意に介さず堂々と告げた。
流石騎士伯のご子息である。これくらいでは動じたりはしない。
シーグルドは真っ向からお願いをされて、うっと怯んだ。マリアンネと左程年が変わらないだろう男児にこれ以上の牽制をするわけにもいかないし、かといってあっさり許可はしたくないという葛藤だろう。
「シーグルド?」
「お兄様!」
二人にせっつかれて、シーグルドは降参した。
「妹も望んでいるようですし、テオ様がよろしければ是非」
「はい! もちろんです」
テオはにっこりと嬉しそうにそう言うとマリアンネに向き直って、
「ではそのシリーズはお貸ししますから、別の本を購入してはどうですか?」
「……そうします。わたくしの本もお貸しできるように、テオ様が持っていない本にしますね」
二人は仲良く本棚に戻った。
楽しそうに見て回る姿にシーグルドのご機嫌は低下する。
「こんなことなら、一冊と言わずにいればよかった」
シリーズ全部購入して、二人の交流を阻んでやればよかった――まったく大人げない発言をぼそっと告げるシーグルドにハンネは我慢できずについに噴き出した。
その後、マリアンネが購入する本を決めた頃にテオの兄・ウドが迎えにやってきて挨拶を交わした。
ウドはまだ十五歳ながらがっしりとしていて、見るからに鍛えているという風貌だ。テオの人懐っこい雰囲気とは真逆で、並んでいてもパッと見は血の繋がった兄弟には思えないが、よく見ると眉毛の形や、少し垂れた目など共通点がある。
彼はテオとマリアンネが親しくなったと知るや「令嬢に声かけたのか! なんてことを! 怖がらせたのではないだろうな」と厳しい口調で言った。
「僕の好きな本を手に取ろうとしていたので話しかけただけで、怖がらせることは言っていません」
「む、それはお前が決めることではないだろう? 大丈夫でしたか?」
ウドはマリアンネを一瞥したあと、シーグルドに話しかけた。すると、
「困っているかもしれないのはマリアンネ様なのですから、聞くならばマリアンネ様に聞かなければ意味ないですよ」
とテオが至極真っ当な意見を述べた。
「わ、わたしのような男に話しかけられたら怯えさせてしまうだろう……」
ウドはチラチラとハンネとマリアンネを見るとカッと顔を赤くしてから押し黙った。
どうやら性格もテオとは正反対のようだ。
思い返してみても、同じ年頃の子どもたちで何度か顔見せしたとき、彼はいつも令息とだけ話をしていた。
女性には優しく丁寧に接するのが紳士であるとされるが、照れくささが勝ってしまうのか、特に幼いときなど意地悪な態度をしてしまう者も案外多い。その点で言えば、一切近寄ってこない彼が誰か令嬢を傷つけたということはなく、悪い噂は聞いたことがなかった。ただ、なんとなく近づきがたい空気を感じ取り、令嬢から話しかけたりもしないので、どういう人物か話題になることもなかった。
(近寄りづらい雰囲気は、ウド様が緊張されていたからなのね)
堂々とした印象しかなかったので、自分の姿形が女性を怯えさせるかも、とそんな風に考えていたなどハンネには驚きだった。
「兄さんより大柄の父さんは普通に話しかけているじゃないですか。そんな風だから、母さんや姉さんに注意されるんですよ」
テオが言った。これではどちらが兄がわからない。
というか、これはおそらくウドのコンプレックスの話なのだろうから、ほとんど初対面のような自分たちが聞いて良いものか……下手に踏み込んで何か言うのも失礼になるかもしれない、とハンネが逡巡していると、
「わたくしは、本を貸してくださると言われて嬉しかったです」
マリアンネが言った。
「そ、そうか。ならばよいのだ。我が家はみんな本好きだからな。本好きな者は歓迎する」
歓迎すると言いながらも、やはりその目はマリアンネを見ていなかった。話しかけられたら答えることはできるようだが、うまくはない。だが、マリアンネはにこにこと礼を述べた。
二人のちぐはぐなやりとりにテオはやれやれとため息を吐いて、それからマリアンネに手紙を送ります、と約束したあと、ハンネとシーグルドにも挨拶をするとウドの背中を押して去っていった。
「その本でよいのか?」
三人だけになるとシーグルドが言った。
マリアンネが選んだのは最初に手に取っていた本と同じ作者の短編集だった。
「……もう一冊、自分の好きな本を選ぶといい」
「え?」
「それは貸し借りするために選んだものだろう。欲しかったなら、さっきの本でもいいし、別の物でもいいから、あと一冊選びなさい」
シーグルドがそう言うと、マリアンネは少し考えてから、テオが貸してくれると言っていたシリーズの一冊目を手に取って表紙の絵を撫でた。切り絵の様な手法で蝶と女の子が描かれていて美しい装丁である。背表紙の部分も独特の柄が入っているので一際目を引く仕様だ。
マリアンネは読書好きでなんでも読む。そのため購入する本は内容より持っていてうきうきするような美しい装丁であることを重視している。だから、今回も、そのような本を選ぶだろうとシーグルドは考えていたが、彼女はシンプル……というより簡素な本を選んだ。テオに貸してもらうのだから自分も貸すべき、してもらうばかりでは申し訳ない、と彼が読んでいないもので好みに合いそうな同作家の本にした。その考えは素晴らしいものだが、そのために本来買おうと思っていた本を諦めた。そのことを誰にも言わずに呑み込んでいる。
元々マリアンネは我儘な性格ではないが、まだまだ甘えたい年頃だ。甘えられる親はいるが甘えないのと、甘えられる親がいないので甘えられないのはまったく違う。シーグルドはマリアンネを立派に育てたくて、オールグレーン夫妻の親切に対してもそれが当たり前にならないようにと厳しく躾けようとした。だが、そればかりを意識するあまり、寂しい思いをさせていることへのケアが疎かだったと気づいてしまったこともあり、マリアンネが我慢する姿に胸をかきむしられた。金銭的なことなら、多少の余裕もあるのだからと好きな本をもう一冊くらいはよいと思った。――それは自己満足と言われるものかもしれないが、兄としての気持ちだった。
「これにします」
マリアンネは大切そうに本を胸に抱えた。その顔はとても子どもらしく見えた。
レジ付近は混雑気味なので、ハンネは入り口で待つことにした。最初はマリアンネと一緒に待つ予定だったが、よほど嬉しいのか自分でレジまで持っていき受け取りたいというので、一人残ることになった。
シーグルドとマリアンネの後ろ姿を見送りながら、ハンネは二人の仲の良さに思いを馳せた。
ハンネはマリアンネが本を装丁で選ぶことも、ここに来る前は一冊だけと言っていたシーグルドが二冊購入を許した理由も知り得ないが、一連のやりとりに二人の間に流れる特別な情を感じたのだ。兄と妹、それは一人っ子のハンネにはわからない絆なのだろう。
ハンネにも、幼い頃から一緒に過ごしてきた相手がいたが、彼との間にあったものは独りよがりにすぎなかったと思い知ったので、余計に眩く感じられた。
そんなことを考えながら、近くの棚に目をやれば、「エブロンの騎士」という本が大々的に宣伝されているのが目に飛び込んできた。ライン・ファースの最新巻だ。
ライン・ファースはイザークが好んでいた作家で、新刊が出るとすぐに買っては没頭していた。彼のことを考えていただけに、この偶然にハンネはドキリとした。
手に取って、あらすじを読んでみる。
隣国との境界線、エブロンで駐屯兵をしているラージファルは、ある日、中央から派遣されてきた騎士団の一人が村娘に乱暴を働こうとしているところに出くわし止めに入る。だが、駆けつけた他の騎士たちにより返り討ちに遭い酷い怪我を負った。その上、ラージファルが村娘に乱暴しようとしていたと逮捕される。貴族と平民、裁判所はラージファルの訴えを黙殺し、婦女暴行と貴族への不敬罪で投獄する。五年後、刑期を終えて出所した彼の復讐がはじまる――。
ライン・ファースらしい物語だ。
ハンネもイザークがそれほど好きな作品がどんなものかと読んでみたことがある。彼が一躍有名となった「約束の橋にて」はとても面白く、三日で読み終えた。ハンネにしては相当に早い。だが、そのあと彼の作品を読み続けるうちになんとも言えないもやもやした気持ちになってしまった。
彼の物語に登場する貴族のほとんどが悪として描かれている。そのため、たとえそれが創作物だとしても、ハンネ自身が貴族である以上、だんだんと不快さが蓄積されていったのだ。
それはハンネだけが感じているわけではなく、華美で流麗な文章は文学的に賛美されているが、内容は好き嫌いがかなり別れ、貴族の中で彼の作品は不人気だ。
ハンネは自分の感情が間違いではないのだと安堵した。同時に、イザークがライン・ファースを好むことが不思議に思えた。人の趣味趣向は千差万別とはいえ、自分が属するものを悪く言われたら悲しくなると思うのだが、イザークにはそれがないらしい。
(どこがそれほど好きだったのかしら?)
イザークが好きな気持ちを否定する気はないが、かといって自分が好ましいと思えないものをわざわざ話題にすることはなく、またイザークの方もハンネがライン・ファースを好きではないと気づいたのか、いつの頃からか口にすることもなくなった。
好きなものに相手の価値観が表れるなら、もっと踏み込んで聞いていたら、何かが違っていただろうか?
考えても仕方のないことがとりとめもなく浮かんでくる。
パルぺに来てからは特にそうだ。長い時間をイザークと共に過ごした土地だから、あちこちに思い出があり、ちょっとした拍子に思い返してしまう。そして、その記憶のどれもに後悔が伴った。
身近にいた人を失う。それも、ただ喪失しただけではなく、相手は自分を迷惑がっていた。とても不満を感じていた。その事実はそんなに簡単に呑み込めるものではなかった。婚約白紙直後の強い衝撃は静まり幾分落ち着いたとはいえ、まだまだ消化しきれていない。時間をかけて少しずつ、受け入れていくしかない。ただ、問題はその相手と顔を合わせてしまうことだ。寿ぐ会でも会うだろうし、貴族学院が始まれば同じ寮で暮らすようになる。男女で階は分かれているとはいえ、食堂や休憩場は共通しているのだから、いくら気を付けていてもまったく会わないわけにはいかないだろう。
ハンネは、ふぅと息を吐いた。
それから、本を棚に戻した。すると、隣からすっと手が伸びてきてハンネが置いた本の隣の本を持ち上げた。邪魔していたのかと、すみません、と告げながら半歩横にずれてその人物を見た。
「あっ」
「あら?」
声が重なった。
そこにいたのは、ジャスミン・ロス伯爵令嬢だった。
ここはシュメール領で一番の本屋で、今は貴族たちが集まってきている時期だから、誰かしらに会うのはおかしなことではないが、ウドと会ったばかりだったからこうも連続すると少し困惑した。
「ごきげんよう。元気にしていたかしら?」
「はい。ジャスミン様もお元気そうで何よりです」
ジャスミンはロス派の令嬢たちのまとめ役である。
イザークの婚約者ダナがハンネの悪い噂を流していると知らせてくれたのも彼女だ。更にはハンネの名誉を守るために茶会の席で真正面からダナに釘を刺してくれたらしい。それはロス派の令嬢たちが集まる茶会で、他の令嬢が教えてくれた。
ジャスミンはいつもそうやってハンネに親切にしてくれる。
思い返してみれば、出会ったときからそうだった。
今も初対面の日のことは鮮明に思い出せる。
貴族の子どもは六歳になると公式の場で紹介されるが、その前の慣らしとして親しい者たちで集まり練習をする。ハンネも慣例の通り、同じ日にデビューをするロス派の令嬢四人とお茶会に出席した。他にも、令嬢たちの姉が出席しており、妹が粗相をしないか注視し、フォローをしている。たが、ハンネだけは一人っ子だったために手持無沙汰でぽつんとしていた。そんな状況で、一人だけ気にしてくれる者がいた。ジャスミンだ。
彼女はその日もまとめ役としてプレ茶会に出席していた。そして、ひとりで心細そうにしているハンネに手を貸してくれたのだ。おかげで、居心地の悪かった場所に馴染め、問題なく茶会を終えた。
「今日はお一人?」
ジャスミンは、シーグルドとも対面している。彼がシュメール領に来るために領主の許可を必要として、その際にロス伯爵に口添えをお願いした関係で、パルぺに来てから改めて挨拶に伺ったのだ。そのときに顔を合わせている。また、ハンネとシーグルドの婚約についても、それを周知させるために出歩いていることも知っている。
「いいえ、あの、レジに行っています。もうすぐ戻ってくるかと」
「そう。仲良くしているのね。よいことだわ」
ジャスミンは本当にほっとしたように微笑んで、
「それじゃあ、わたくしは行くわ。またね」
「はい。また」
ハンネは彼女を見送った。
ジャスミンと別れてすぐにシーグルドとマリアンネが戻ってきた。
ジャスミンと会ったことを告げると、他にも知り合いがいそうだね、と返された。二人で様々な場所に行ってアピールした。中にはちょっと背伸びした格式が高めのオペラハウスなどもあったので、ここに来る方が効果的だったのならあの緊張は何だったのか。
「新刊が出ているのか」
シーグルドはハンネの後ろの棚を見てつぶやいた。
ずらりと棚一面に並べられているライン・ファースの新刊本。
「……ライン・ファース好きなの?」
そういえばジャスミンもこの本を手にして持って行った。おそらく購入するのだろう。
ハンネは貴族間で彼の著作の評判は良くないと聞いたとき、そうよね、と納得したし、以降は読まなくなったが、自分の周囲にはライン・ファースファンが多いのかもしれない。
「内容はそれほど好みというわけではないが、話題の一つとしてとりあえずは読んでいるって感じかな」
話題性――その通り、ライン・ファースは貴族間では不評と言われながらも新作が出ると決まって話題に上る。茶会でも、またあの方が貴族を貶める話を出したそうよ、と言っている場面に何度か出くわしたことがあった。ハンネはわざわざ嫌いなものの話をして気分を害することはないのにと思ったが、嫌なものについて話すというのも一つの話題だ。
シーグルドはパルペにあるカフェテリアの情報などもよく知っているが、このようにして広く様々な情報を仕入れているのだろう。ハンネは自分の好みだけを考えていたが、それだけでは足らないのだ。
「あと、文体が素晴らしいからね。貴族院では詩の課題もあるから、彼の文章を参考にしたりもした」
「詩の課題……」
詩は昔から教養の一つとされているし、趣味として今も人気だ。だが、ハンネはあまり好きではない。詩を読むことも書くことも興味をそそられなかった。学院では詩の授業があることは知っていたが、今から憂鬱だった。
「そんなに難しく考えなくても、大丈夫だと思うよ。表現することは苦手ではないだろう?」
「表現なんてしたことないけれど」
「よく刺繍をしてるじゃないか。図案を考えて、色を決めて……あれだって表現だよ。刺繍をするときみたいな気持ちで詩と向き合えばいい」
刺繍が表現……そのように言われたのは初めてでハンネは新鮮な気持ちがした。
「なんだかやる気が出てきた」
「それはよかった。できたら読ませてね」
「ええ!? そ、それはちょっと……」
シーグルドは笑う。からかわれたのだ。
ハンネは真に受けて抵抗を示したことが恥ずかしくなった。
真っ赤になるハンネに、それまで本を買ってもらえたことが嬉しくて二人の会話をよく聞いていなかったマリアンネが気づき声を上げる。
「ハンネお義姉様、どうしたのですか?」
ハンネは答えに詰まった。
マリアンネに悪意はなく、純粋な心配であるのだが、自分の失態をもう一度繰り返すの憚られる。すると、黙ったハンネの代わりに、
「私が少し困らせてしまったんだよ」
「まぁ、お兄様、ハンネお義姉様を困らせたのですか! そんなことをしたら嫌われてしまいますよ」
「嫌われるのは困るなぁ」
「そうです! 嫌われたら悲しいです! ハンネお義姉様! お兄様を嫌わないでいてあげてください」
マリアンネが大慌てでお願いする。
その姿に、シーグルドはますます笑いを深めたが。
「お兄様、笑っている場合ではありません。一緒に謝まらなければ!」
「そうだね。どうか、嫌わないでください」
シーグルドは余裕綽々で少しも悪びれてはいない。ハンネはぷいっとそっぽを向きたい気持ちもあったが、マリアンネの前でそれをすると誤解を招く恐れがある。彼女を悲しませるのは本意ではないので結局は「嫌いません」と返事をした。
「よかったです!」
にこにこするマリアンネは可愛らしいが、何を言わされたのか、とハンネは別の羞恥に襲われた。
「本当によかった」
マリアンネに同調してシーグルドが言った。
またからかって! とハンネはむっとしてシーグルドを見たが、彼は思いのほか真剣な顔をしていた。じっと自分を見つめるその眼差しに、どくん、と鼓動が大きく打ってハンネは何も言えなくなる。
(……よくわからない)
シーグルドは時々このような表情をする。普通に笑い合っていたはずなのに、次の瞬間にはじっとハンネを見ている。いつからするようになったのかは覚えていないが、ここ最近頻度が増えたように思う。
そして、その目で見られたとき、ハンネはいつもどうしていいかわからなくて落ち着かなくなる。まるで身体が焼かれてしまうような熱さに痺れて怖くなるのだ。とても恐ろしい。不快とは違うが混乱して逃げ出したくなる。
今もまた――それを誤魔化すようにハンネはマリアンネの手を引いて店を出た。
外に出ると、風が吹き抜けて、ハンネはようやく一心地着いた。
「お花の匂いがします!」
マリアンネが言う通り、花の香りがした。斜め前の花屋から香ってきたのだ。そこには春を告げるサンラージの黄色い花が並んでいた。
年明けは、もう、すぐそこだ。
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