イザーク・カールソン伯爵子息の事情
神は私を愛しているのだろうか、それとも憎んでいるのだろうか――?
それはイザーク・カールソン伯爵子息が幼い頃から繰り返してきた問いだった。
彼の人生はいつも振り子のように振れていた。すべてに見放されたような痛みを覚えたと思ったら、今度は救いの手を伸ばされる。だが、救いと思っていたものが実はそうではなく次の問題をもたらす。自分の努力ではどうしようもない外側からの圧力でゆらゆらと揺れ動く。まるで目に見えない大きな力にもてあそばれているようだった。だから、何度も問いかけた。もしそうであるなら、その力は――神は、自分を愛しているのか、憎んでいるのか、どちらなのかと。
イザークの人生はまず幸運からはじまった。
カールソン伯爵家の嫡男として生を受けた。身分階級がはっきりとしているこの国で、特権階級の貴族子息として生まれたことは紛れもなく幸運なのだろう。
だが、イザークの母・アリアナは平民だった。貴族は血筋を大事にし、貴族同士で婚姻を結ぶのが常識の中で、父・リッツはアリアナを正妻に迎えた。それは周囲からの強い反発と蔑みを受けることになった。当然、子どもであるイザークも。
イザークが洗礼を受けたのは六歳のとき、父に連れられて出席した新年を寿ぐ会でのことだった。貴族の子どもは六歳になるとお披露目がされる。壇上で挨拶をするのだが、イザークの番になるとクスクスと小さな笑い声が聞こえてきた。
笑い声の理由は、イザークの出自だけではなく、挨拶の拙さ、立ち居振る舞いのぎこちなさ、すべてに「平民の血が混ざっているから出来損ないなのだ」という烙印を押されたのである。
事実、このときのイザークは野暮ったく貴族らしい洗練さが微塵もなかった。両親は彼にそれを教えてはいなかった。
アリアナはそもそも貴族のマナーなど知らなかったし、リッツは自分を否定する貴族社会を否定して、世間に背を向けて最低限の付き合いだけを行っていた。それで暮らしてこられた。カールソン領はそれなりに豊かな土地で、資源の輸出も行っているため、リッツが平民を娶ったことを蔑みはしても取引をやめたりはしない。困るのは彼らのほうだからだ。本音と建前。馬鹿にしながら馬鹿にした相手を頼りにする。その醜さがリッツをますます貴族嫌悪に追い立て、だから息子に貴族としての心構えを教える気にはならなかった。
まったくの短慮だ。
貴族の醜さを理解しているのなら、もっとイザークに配慮するべきだった。リッツがいくら貴族を否定しても、彼もまたその貴族として生計を立てているし、イザークはこれからその貴族の中に入っていかなければならない。そこでどのような扱いを受けるか想像に難くない。少しでも回避するために、出自のことはどうにもならなくても、せめて所作や言葉遣いを正しくする――それがイザークを守る武器になる。だからこそ、他の子どもよりも一層厳しい教育をする必要があった。だが、リッツはそこまで考えなかった。貴族などつまらない、あんな奴らのことなど気にすることはない、と愚痴るばかりで、イザークの置かれるだろう状況を正確に把握し、役立つ助言の一つも与えなかった。
結果、イザークは無防備で無知のまま獰猛な獣のいる檻に放り込まれた。
大勢に笑われたこの日の出来事は、幼いイザークの心に影を落とした。
だが、嘲笑う者ばかりではなかった。親の因果が子に報う――そのような理不尽に手を差し伸べてくれたのがオールグレーン伯爵夫妻だ。彼らはイザークの教育を引き受けると名乗り出てくれた。
リッツは反発したが、親族の長であるロス伯爵や、シュメール領主までも口添えをしてきて、最終的には受け入れた。
こうして、イザークは貴族としての一歩を踏み出した。
教育が進むと、周囲の自分を見る目が変わった。
貴族らしい振る舞いができる――それだけのことであからさまな侮蔑をされる頻度は減った。それをくだらない連中だとなじることもできたが、貴族らしくということがどれほど彼らにとって重要なのか。相手が大切にしているものを大切にできなければ嫌われるのは当然だ。イザークは父が先にそれを踏みにじったことを理解した。
イザークは成長し十二歳を迎えた。
十二歳も一つの節目だ。十五歳の社交界デビューに向けての経験を積むため、社交の場に同伴が許されるようになる。イザークの両親は相変わらず貴族社会とは距離を取っていたので、彼に社交を教えたのもオールグレーン伯爵夫妻だ。
社交の場で、同じ年頃の子息令嬢と会話を交わす。
イザークは人気の令息の一人になった。
子爵家や男爵家からは見合いの話も舞い込んできた。
下級貴族が伯爵家に縁談を申し込むなど大それた行為だ。だが、イザークには瑕疵が存在した。伯爵家以上の家は彼を敬遠するだろうから自分たちにチャンスがあると考えてのことだ。貴族学院に入学すればライバルが増える。その前に決めてしまおうと彼らは勝負をかけてきていた。
彼らの本音は少し考えれば思いつくだろうが、イザークは純粋に自分が有能だからモテているのだと、努力によって出自を払拭できたのだと信じた。婚約を持ってくる相手こそ下級貴族ばかりだったが、社交場では伯爵家の令嬢に囲まれることも多かったので、そう思うことは難しくはなかった。
現実を少し歪めて認知する。ありのままに受け入れていては辛くなるとき、自分を守るために見たいように物事を見る。傷つかずに生きるために必要な手段。イザークもまさにそうだった。彼には傷がある。生まれたときから、自分ではどうしようもない欠点。平民の血が混ざっているという貴族としては大きな瑕疵。伯爵家の嫡男に下級貴族からの申し込みなど本来ありえないことを可能にさせてしまう――つまり、彼らはそれをしてよいとイザークを見下しているのだ。頑張って貴族について学んだ。今ではどこに出ても恥をかかない自信がある。それでも侮られるかと、事実を認めれば苛まれるから、そうならないように都合の悪いことに蓋をした。
自分が優秀だから声がかかる。そう信じた世界は案外容易く馴染み、彼の真実になった。
それから、引く手数多となった自分をオールグレーン伯爵夫妻は喜び、彼らの一人娘であるハンネの相手にと考えるだろうと想像した。
そう思うようになったのは、イザークを狙う家の者たちが探りを入れてきたことも一因だ。彼らはオールグレーン伯爵夫妻がイザークを婿養子にする気ではないのかと遠回しに聞いてきた。そうならば、早急に手を引く。子爵家以下の家が、伯爵家であるオールグレーン夫妻の邪魔をするなんて恐れ多いことだから。
「そのような話はありませんよ」
イザークは答えながらも、しかし、彼らが疑うように、そういう風になるのが自然だな、と納得した。
ハンネとは共に貴族教育を受けてきた。
オールグレーン伯爵夫妻の屋敷に連れていかれ、彼女と初めて会ったとき、イザークは緊張していた。大舞台で嘲笑を受けた傷が疼いて、ハンネもまた自分を見下すのではないかと神経を張り詰めていた。だが、ハンネは突然やってきたイザークを見て驚きはしても否定するようなことはなかった。今日から一緒に勉強するのよ、とベルタ夫人が告げると、ぱぁっと嬉しそうに笑った。一人はつまらないから、仲間ができてよかったと喜んだ。
これまで白い目で見られるか、同情されるか、イザークが受ける視線はそのどちらかだった。そしてそのどちらも根底にあるのは高みから見ているということだ。手を差し伸べてくれたオールグレーン伯爵夫妻には感謝はしているし、彼らが善良であることも疑う気はないが、しかし、どうしたってそこには必ず無自覚の高慢さが混ざっている。イザークは鋭敏だった。
だが、幼いハンネは違った。侮蔑も憐憫もない、無垢な子どもだった。彼女にとってイザークは一緒に学ぶ相手、それだけだった。
教育が開始されるとイザークはめきめき実力をつけていった。自分自身が無能なわけではなく、きちんと学べる環境を与えられたら成果を出せる。
ハンネは素直にイザークを褒め称え、そのことがまたイザークの傷ついた自尊心を満たした。裏表のない真っすぐな賞賛を与えてくれるハンネはやがてイザークにとって守るべき存在になっていった。
その「守る」が月日の流れと共に、もっと具体的なものへと変貌した。
自分が周囲から結婚相手として好ましいと思われていることを知り、また年齢的にも性別というものを意識し始め、その結果、ハンネのことを「女性として」と考えるようになった。
内向的な性格のハンネをオールグレーン伯爵夫妻、特にベルタ夫人が心配しているのを知っている。ならば、自分が守ってやればいい。これまでだってそうしてきたのだから、この先も同じように。おそらく夫妻もそれを望んでいるのだろう。それが恩返しにもなる。
だから、そのつもりで態度を改めると、たちまち二人の婚約の話が立ち上がり、やはり彼らも望んでいたのだと確信を持った。
着々と人生が固まっていく。自分に貴族として生きる道を教えてくれたオールグレーン伯爵家を盛り立てて暮らしていく。それがイザークの人生だ。イザーク自身がそれを受け入れていたはずだった。
しかし、運命は平坦ではなかった。
イザークは貴族学院に進学すると一人の令嬢と出会う。
ダナ・ランセル伯爵令嬢。
関わりを持ったのは寮内の連絡係を共にすることになったこと。一日の出来事をまとめ、領主への報告書を作成する大切な役割で、伯爵家以上の者が交代で務める。寮内は性別で別れるので報告は男女でペアになるのが慣例だった。
組み合わせはくじ引きで、イザークの相手はダナになった。
ランセル伯爵家はシュメール領主の妹君の嫁ぎ先であるジョージア伯爵家の派閥だ。貴族らしい選民意識を強く持っていることでも知られている。イザークの出自に白い眼を向けるだろうから、関わるべきではない相手だった。
当番が巡ってきた日の朝、「よろしくお願いします」と礼儀として声をかけた。無視されるかと思ったが、彼女はにっこりと笑顔で「こちらこそ、イザーク様」と返してきた。
(可愛らしい人だな)
本当に自然に思ったことに、イザーク自身が動揺した。
周囲でも誰それが美しいやら、可愛いやら、そんな話をする者がいた。だが、イザークは他人事のように聞き流していた。結婚相手は決まっている。中には婚約者がいながら、学生時代に自由恋愛を謳歌して楽しむなんて強者もいるのは知っていたが、イザークは恋愛というものにそもそも興味をそそられなかった。それは生きるのに余裕がある者がすることで、イザークはそれよりも自身のことで精一杯だった。
そう、学院に入学して、覚悟はしていたが、イザークは厳しい眼差しを受けた。
入学試験結果が張り出されて、上位者になったことがきっかけだった。目立てば注目を浴びる。それが自分よりも上の立場の者へなら羨望へ、下の立場の者ならやっかみへ。イザークは伯爵家という貴族階級で言えば上位に入る家柄だが、それ以上に平民の血が流れていることが取り上げられた。素直に相手を認めるより、粗探しをして否定する方が敷居が低く、簡単に自分の矜持を満たせるから、イザークはそういう連中の標的になった。
こんなことなら、試験で手を抜いておくべきだったか――今更嘆いても仕方がない。力を偽り地味に目立たなく生きるか、誰にも文句がいえないほど実力を持つか、イザークはもうすでに目立ってしまっているので、能力を示し続けるしかなかった。だから、必死に勉強した。脇目もふらず、学生らしく学業に専念した。そんな自分が、ダナを見て可愛いという感想を抱いた。
(可愛いものを可愛いと思うのは特別妙なことでもないか)
イザークはすぐに結論づけて、気にしないことにした。
当番は十日ごとに変わる。
その間もダナはイザークに友好的な態度だった。
距離を取られると考えていたイザークは困惑したが悪い気はせず、彼女もライン・ファースが好きで読んでいると知ってからは話が弾んだ。
ライン・ファースは平民出身で、才能を認められて国王陛下から男爵位を賜った作家だ。
彼の書く物語は史実から紐解いて膨らませた作品が多く、一番有名なのが「約束の橋にて」という約百五十年前に起きた隣国との戦争で活躍したルドルフ伯爵をモチーフにした話だ。戦記という分類に入るのだろうが、恋愛物語としても認知されている。伯爵が仲間の裏切りに遭い重傷を負ってしまい、救ってくれた村娘と心を通わせていく。戦争に勝利したあと、伯爵は彼女を迎えにいこうとするが、それをよく思わない者たちによって彼女は殺害されてしまう。何も知らずに、約束の、二人が出会った橋の下で伯爵が待ち続けるところで物語は幕を閉じる。
他にも、彼が書く内容は貴族と平民の間にある壁を取り扱うことが多い。傲慢な貴族に平民がひどい目に遭うというのは序の口で、そんな貴族を懲らしめるような内容まである。そのため評価は二分する。文学作品としては素晴らしくあっても、内容が貴族批判ともとれるので貴族からは低俗な作品と揶揄されるのだ。それでも国王陛下が男爵位を与えたのは平民からの圧倒的支持があったからだろう。中には彼が否定する貴族という位に彼自身をつかせるという皮肉もあるのでは? など言う者もいたが。
とかく、貴族受けはあまりよくないライン・ファースの作品をダナが好んでいることがイザークには意外だったし、これまで作品について語り合うこともできなかったので、心ゆくまで話し合える彼女との時間は楽しいものだった。
「だけど、驚いたよ。彼の本を好きという貴族令嬢がいるなんてね」
一通り作品について話し合ったあと、何気なく言った。
言ってから、皮肉のように聞こえたかもしれないとひやりとした。
彼女は神妙な顔になった。イザークはますます失言だったと後悔し、不躾なことを言ったと謝罪を口にしかけると、
「ライン・ファースの作品が貴族間であまりよい評判ではないことは存じ上げていますわ。ですが、平民に酷い振る舞いをした貴族がいることも事実。貴族だからといってすべての人間が素晴らしいわけではありませんもの。ならば、その事実をきちんと受け入れ、非難されるべきことはきちんと非難されるべきですから」
凛とした彼女の言葉は、とくり、とイザークの胸に落ちてきた。
(彼女は清廉なのだろう)
平民を意味なく蔑んだりしない。イザークへの接し方からもそれは十分感じ取れた。だから、貴族批判とも取れる内容を読んでも自分とは切り離して客観視できるし、身分階級という枠組みとは別に個々人として向き合える。
たしかに貴族でも平等な者はいるし、平民でも偏見に満ちた者がいる。大きな一括りではなく向かい合った相手をきちんと見て判断することは大事だ。
当たり前のことだがすっぽり抜け落ちていた。
イザーク自身が枠組みというものに囚われていたからだ。
彼は貴族という存在に委縮して、気を張り、すべてを否定的に見ていた。ダナのことも自分とペアは嫌がるだろうと最初は考えていた。ダナだけではない。学友として親しくなった者もいるが、彼らに対しても心の中では信じてはいなかった。腹の底では何を思っているかわからないと警戒し、うわべだけの付き合いと割り切り、誰かに心を開くようなことはなかった。自分は否定される存在と彼自身も疑わず、そこからもがくことも抜け出そうとすることもなく、受け入れていたともいえる。
人を信じようと思ったことなどなく、人から信じてほしいと思ったこともなく、ただ、侮られないようにそればかりを考えて生きる、とても寂しい生き方――イザークははじめて自分の孤独を認知し、それを気づかせてくれたダナに強い興味を抱いた。
当番が終わってからも、二人は接点を持ち続けた。
貴族学院の図書館に共に通ったり、持ってきていたお気に入りの本の貸し借りをしたりと、一緒の時間を過ごす。
ダナと話をしているとき、イザークは安らぎと高揚を感じた。それがどういう感情からくるものなのか理解できないほど彼は愚鈍ではなかったが、やめようとは思わなかった。
だが、やはりそれは許されるものではなく、
「少し軽率ではないかしら?」
指摘してきたのはジャスミン・ロス伯爵令嬢だった。
ジャスミンはカールソン伯爵家が属する派閥の長、ロス伯爵の長女で、イザークとハンネのことについても既に把握している。正式な婚約はまだとはいえ、決められた相手がいながら、他の令嬢と親しくするのはいかがなものか? と釘を刺してきたのだ。
ジャスミンはハンネのことを可愛がっていたし、派閥の長の娘としても、イザークの行動を看過できなかったのだろう。
「疚しいことは何も」
「そうね。そうなのかもしれないわ。けれど、先々厄介なことになる可能性があるならその芽は摘んでおくべきではないかしら? 未来のない関係は彼女にとってもよくないでしょう。貴方、とても残酷なことをしているわ」
喉が詰まった。
その通りだ。イザークとダナの関係はこれ以上発展しようがない。それをわかりながら彼女と接し続けている。彼女への好意と、彼女からの好意を感じながら、共に過ごす時間を失いたくなくて現実から目をそらしていた。だが、ダナは未来がないことを知らない。彼女の家柄的にイザークはありえないから、彼女もまたこの時間を刹那的なものだと理解して、その上で享受しているのだろうと勝手に思い込んで罪悪感を誤魔化していたが、本当のところはわからない。もし、期待しているのだとしたら彼女の時間を無駄にさせている。
それにジャスミンの言うよう、これ以上ダナと一緒にいれば厄介なことになるだろう。今だって「学友として過ごしているだけで妙な勘繰りは私にも彼女に対しても失礼ですよ」と突っぱねて名誉を守ることだって可能だったが、単なる学友だと言いたくはないほどイザークは彼女に惹かれていた。これよりも気持ちが膨れ上がれば、辛くなるだけだ。ここが引き返すタイミングなのだろう。
イザークはけじめとしてダナには正直に話すことにした。自分が彼女に惹かれていること、だが自分には婚約を予定している相手がいること、だから、彼女への気持ちを忘れるためにもこれまでのように一緒にいることはできない――告白と共にイザークの初恋の終わりになるはずだったが。
「わたくしも、学院を卒業したらすぐに嫁ぐことになっています」
ダナからも思いもよらない告白を受けた。
彼女はランセル伯爵とは血の繋がりがない。ランセル伯爵夫妻は貴族らしい政略的な目的で婚姻した。婚姻契約の通り、跡取りとなる子どもを二人作ってからは、互いにプライベートには不干渉を貫いていたが、夫人が愛人との子を妊娠した。伯爵は夫人に一切の興味がなかったので、子どもが生まれてからようやく事態を把握した。互いに愛人を持つことは許容できても、子どもまで作るとはどういうことかと伯爵は激怒したが、生まれてしまった以上はどうしようもない。醜聞を避けるために世間的には伯爵の子として育てられた。
伯爵はダナを憎んだ。夫人に対して愛はなかったが、それでも彼のプライドを傷つけた。その代償として、貴族学院を卒業後に二十も年の離れた男爵の元へと嫁がされる。
「イザーク様はわたくしの憧れだったのです。あなたは、ご自身の出自をきちんと公表して、否定的な眼差しを浴びても堂々としていらっしゃる。出生について隠匿して生きるわたくしにはそれがとてもまばゆく見えたのです。だから、あなたとお近づきになれてわたくしはとても嬉しかったの。きっと、わたくしはこの日々を生涯大切にしてこれからの人生を生きていくでしょう」
ダナは自分は生まれてくるべきではなかった子どもであると幼い頃から思い生きてきた。それがどれほど絶望的なものか、イザークにはよくわかった。
生きていくために、許しを得なければならない。
許されるために、彼女は伯爵家の令嬢としてありえない相手へと嫁ぐ。
「そんな……」
何故、夫人の不義の責任を子どもであるダナが取らされるのか。
「同情は必要ありません。わたくしは受け入れていますから」
ダナは笑顔で去っていった。
一人になって、寮館の自室に戻っても、その後、何日も、イザークは聞かされたことが頭から離れなかった。
考えるほどに、ふつふつと込み上げてくるのは憤りだ。
子は親を選べない。好き好んで不義の子として産まれたわけではないのに、その罪を背負わされたダナの胸中を思えばたまらない気持ちになった。
同時にそれはイザーク自身が抱えてきた怒りでもあった。
文句を言ったところで、嘆いたところで、何も変わらない。それよりも、そう告げることで両親が傷ついてしまうから呑み込んできたが、いつだって不満があった。何も悪いことなどしていないのに、人はイザークを軽く見て、或いは同情して、可哀想な子どもと扱われた。悪意は言うまでもないが、善意さえイザークを傷つけた。感謝するべきとは理解しながらも、「善意を与えられなければならない環境にいる」と自覚すると、どうしようもなく惨めになるから、鬱陶しくて悲しかった。贅沢だ、傲慢だ、そのように自分を非難してみても、どうしてもその気持ちが完全に消え去ることはなかった。まるで沼の底にいて、細い管を伝って呼吸しながら、かろうじて生きているようだった。ただ、漠然と生きる。楽しさも、喜びも、やりたいこともなく、生まれながらに背負った罪を横目に見ながら、無気力に生きてきた。そうして心を殺していれば、怒りを暴走させずにいられるから。
つまらない人生、意味のない人生、自分の望みなど何もない。それで納得していたはずだった。
だが、似たことがダナの身にも起きていると知り、いかにこれが理不尽な出来事なのかを実感した。奇妙な話だったが、自分のことなら我慢できることでも、人の身に、それも好意を持った相手の身に降りかかっていると感情が抑えられなかった。否、人のことだから怒れるのだろう。もう、長い間、自分のことを顧みることなく、諦めの中で生きてきて、それが当たり前になってしまったから、今更怒りを感じることも、まして大事にするなんてできない。しかし、ダナのことは違った。ダナのためなら感情を動かすことができた。
(このまま、彼女を放っておきたくない)
彼女を救いたい――方法ならあった。イザークが彼女と婚姻を結ぶこと。
幸いダナは婚約をしているわけではない。伯爵家の嫡男であるイザークからの婚姻の申し出を、男爵の後添えにさせるからと断るなどしないだろう。そんなことすれば男爵家に何か弱みでも握られているのかと噂される。体裁を大事にするランセル伯爵が最も避けたい事態のはずだ。
問題はむしろイザークの方である。
ほぼ決まりかけている婚約を取りやめるとなればハンネは傷つくだろう。
だが、どちらもは選べない。どちらかを選ぶとなればダナだった。ダナへの気持ちが大きいというのもあるが、ハンネには立派な両親がいる。親の庇護から、イザークの庇護に、ずっと守られて生きていける人生を歩むはずの、恵まれたお嬢様。それがほんの少し狂ったとして、すぐにまたイザークの代わりを見つけるはずだ。しかし、ダナはイザークがここで手を差し伸べなければ嫌がらせの婚姻を結ぶことになる。優先するべきを考えるまでもなかった。
イザークの心は決まっている。
悩むべくは、どのようにして婚約を白紙に戻すか。
正直に事情を話して理解してもらうのが誠実なのかもしれないが……それではダナの出生の秘密まで話さなければならない。オールグレーン伯爵夫妻は善良ではあったがけして甘い人ではない。貴族として時に冷酷な判断を下すこともあるだろう。弱みを打ち明けるわけにはいかない。
ならばダナに恋をして彼女との婚姻を望んだからと、それだけを言うしかない。彼らへの恩を裏切る形になるが気持ちを抑えることはできないのだと告げよう。
イザークは覚悟を決めて、翌日ダナを呼び出してプロポーズをした。
ダナは最初戸惑っていたが、イザークの本気を感じ取ると泣きながら頷いた。
二人は婚約に向けてそれぞれの両親に手紙を書いた。
すぐに返事があったのはイザークの父、カールソン伯爵からだった。
伯爵はそもそも嫡男のイザークを養子に出すことに不満を持っていたし、自身が愛する者と身分の差を超えて結ばれたこともあり、イザークに心から求める相手がいるのならその令嬢と婚姻するべきであり、ハンネとのことは白紙に戻すから心配するなという内容だった。
これにはイザークも驚いた。
手紙にはイザークに苦労させてきたことへの謝罪も書かれていた。
伯爵は父親として優しくはあったが、貴族としては優秀とは言えない。一人息子で甘やかされて育ち、現在も代々カールソン家に仕えている優秀な執事に支えられて業務を行っている。彼は誰かが何とかしてくれると根本のところで考えて、責任感が欠落している人物だった。だからイザークがオールグレーン伯爵のところで教育を受けることにも、反発はしたが、イザークにとって必要なことだと説得されてからは丸投げした。以降、一切関わらず、口を出すこともなかった。だから、何も考えていないのだろうと思っていたが、彼なりに息子への罪悪感を抱いていたらしい。
父が自分の味方をして後押しをしてくれたことをイザークは嬉しく感じた。
一方、ダナの両親からはなかなか返事が来なかった。
どうやらイザークについて調べていたようで、ようやく届いた返信には平民の血が混ざった者と縁続きになるなど由緒正しきランセル家の顔に泥を塗る気か、と反対の旨が書かれてあった。
イザークは目の前が真っ暗になった。
男爵家に嫁がせるよりも、伯爵家の自分の方が利になるだろうから反対はされまいと考えていたのに、彼らにとってそれ以上に平民の血は嫌悪するものなのだと叩きつけられたのだ。
イザークとのことが知られた以上、長期休暇で戻ったときに男爵との話を進められるかもしれない。本来は貴族学院を卒業後に養生が必要な身となったことを理由に、ひっそりと嫁がせて社交界にも顔を出させずに暮らさせる予定だったが前倒しである。だが、まだ学生のそれも誰がどう見ても健康な身の上で男爵の後添えにさせるというのよくない噂をされるかもしれないので、正式な婚姻は卒業後で、他の道をとらせないよう既成事実を作るという手段を講じる可能性に二人はぞっとした。
「休暇に入ったら、君の家に一緒に行こう。そこで二人のことを認めてもらえるように説得するしかない」
順番なら、まずはオールグレーン伯爵家に婚約白紙の話をするために赴くのが筋だが、それを実践できそうになかった。再び、イザークは父親に手紙を書いて、ランセル伯爵から反対を受けていること、このままでは長期休暇の間にダナが別の者と婚約させられる可能性があるため、一緒にランセル領に向かい説得しなければならないこと、故にオールグレーン伯爵家への謝罪についてはこちらが落ち着くまで待っていてほしいと伝えた。
カールソン伯爵からは、婚約白紙の件はこちらで処理するから心配するな、という返事が来た。イザークはその言葉に安堵した。ハンネとのことを後回しにせざるを得ないとはいえ、この長期休暇に正式な婚約を結ぶことになっていたので、時間がないのは同じだった。だから、父に任せられるとわかり安堵してしまった。だが、イザークはもっと考えるべきだった――父が責任感のない人だということを。
後日、彼が婚約白紙について、オールグレーン伯爵領へ赴いて謝罪することなく、手紙を書いて送っただけと知った。
「どうせ関係がなくなるのだし、手紙で十分だろう」
イザークがそのことを責めると、カールソン伯爵はまるで子どものようにふてくされて言い放った。
愕然とした。だが、それ以上は何も言えなかった。
本当は、心のどこかでは、父に任せるべきではないとわかっていたからだ。ランセル領から戻ってくるまで時間を稼いでもらって、自分でオールグレーン伯爵に話にいくべきだ、とわかっていた。それを父の言葉に甘えたのは、婚約白紙の申し出が言いにくいことだったから。世話になった彼らを裏切るのだからできればやりたくない。それを父が代わりにすると申し出てくれて、イザークはランセル領に行かなければならないのを言い訳に任せた。当人がおらず、親だけが謝罪にいくなどおかしな状況であるのに、それでいいと頼んだ。先に逃げたのはイザークなのだから父を責める権利はない。
その後、イザークは今からでも行くべきか悩んだが結局は行かなかった。彼は再び逃げたのだ。
だが、永遠に会わずにいるというわけにはいかなかった。
その機会は年の暮れにやってきた。
カールソン伯爵家とオールグレーン伯爵家は同じロス伯爵の派閥で、派閥の者たちの会合に出席することになった。イザークもダナと婚約をしてカールソン伯爵家を継ぐことになったので、父と共に出る。
イザークは今度こそ逃げるわけにはいかない。どれほど叱責されようと婚約を白紙にしたことへのお詫びを伝えなければならなかったが。
「婚約したそうだね。おめでとう」
顔を合わせたオールグレーン伯爵は貴族らしい笑みを浮かべてイザークの婚約を祝った。それから、ハンネも婚約したこと、その相手、シーグルド・サリアン子爵を紹介された。
イザークは完全に出鼻を挫かれた。オールグレーン伯爵の態度に、ここで謝罪に言葉を述べることが無礼になると感じ取り、代わりにハンネの婚約を祝う言葉を返さなければと思ったが、それはうまくいかなかった。
自分と婚約が白紙になっても、ハンネの相手はオールグレーン伯爵夫妻が見つけるだろうとは思っていたが、もうすでに決めていたとは思っていなかったのだ。
しかも、紹介された相手はちょっとした有名人だ。学年が違うので実際に会うのは初めてだが、その美貌は有名で、令嬢たちが談話室で彼のことを話しているのを何度か耳にしたことがある。実物は噂にたがわず、スラリとした長身で美しい銀髪と赤い目を持ち、少し冷たい印象を受けるが同性でも見惚れるほどの美丈夫だった。
イザークの心音が速まった。
よかった。ハンネに新しい婚約者が見つかったなら、罪悪感も軽くなる。そうであるのに動揺している。イザークとの婚約などたいしたものではなかった。相手はいくらでもいるのだと言われているように感じられて腹の底が冷たくなっていった。
「……ああ、しかし、其方が恩義からハンネとの婚約を断れなかったとは気づかなかった。そんなつもりはなかったが、悪いことをしたね。ただ、婚約者を通して今までの不満を言いふらすというのはやりすぎではないかな」
「え……それは、どういう……」
相変らずにこやかに、だが目の奥をすっと鋭く光らせながら告げたオールグレーン伯爵の言葉に、イザークは混乱した。
(言いふらす?)
嫌味を言われていることは理解できても、内容そのものが理解できない。心当たりがなかった。
「其方……」
取り繕うことも忘れて戸惑っているイザークの様子に、オールグレーン伯爵は貴族然とした態度をやめた。六歳の頃から知っている相手だ。彼の困惑がポーズではないことがわかった。
伯爵は大仰なため息をついて、
「……其方の婚約者が、我が家のことを噂して回っている。これから共に歩んでいくと決めた相手の行為は、其方の名誉にも関わってくる。知らなかったでは済まされない。きちんと話し合いなさい……これが私にできる最後の助言だ」
そこには先程の冷たさはなかったが、親しみもなかった。
「最後」という言葉がイザークを打ったが、伯爵はそれを証明するよう、これ以上は話すことはないばかりにその場を離れた。
傍にいたシーグルドも、物言いたげにイザークを見ていたが軽く会釈だけをして伯爵の後を追った。
それからのことは、あまり覚えていない。
会合から戻るとすぐにダナに連絡をして、会う約束を取り付けた。
翌日の昼過ぎにカフェテリアの個室で、オールグレーン伯爵から教えられた「噂」についての詳細を聞き出した。
ダナは真っ青な顔をしながら、噂を流しているのは事実であると認めた。
だが、それはけして彼女が自ら望んでしたことではなかったのだという。
ランセル伯爵は最終的に二人の婚約を認めたが、イザークの説得に納得したからという理由ではなかった。頑なに反対する伯爵に、ダナの出自を知っていることを告げて、公表されたくないなら認めるよう脅しをかけたのだ。伯爵は受け入れるしかなかったが、彼が属するジョージア伯爵派は純貴族意識が強い一派でも有名だ。平民の血が混ざっているイザークとの婚姻は非難される。それを少しでも減すために体裁を整える必要がある。そこで、イザークが恩を着せられて婿入りを強要されていたのをダナが看過できないと助け出すため婚約をした、という筋書きを考え出した。ランセル伯爵は、可愛い娘の頼みを断り切れずにしぶしぶながらも認めた善良な父親という茶番だ。
ただ、それだけなら、ここまで話は広がらなかったはずだ。しかし、運の悪いことにこの話を大変気に入った令嬢がいた。ジョージア伯爵のご令嬢、ドルシラである。
彼女はシュメール領主の嫡男オリバーに恋をしていたが、彼には婚約者がいた。政略的な婚約である。それがなければ自分と婚約できたはず――と信じた彼女は、イザークたちの話に自身を重ねた。イザークが逆らえないのをいいことに無理やり婚約を結ぼうとしたオールグレーン伯爵家を憎み、それを救ったダナを素晴らしいと思った。この話が広がればオリバーも目を覚ましてくれるのではないかと希望を抱いた。
結果、彼女は行く先々で言いふらして回っているのだという。
イザークは眩暈を覚えた。
ハンネとの婚約は内々のもので正式に取り交わしたわけではなかったが、ほぼ内定していたのだ。それを取りやめ他の令嬢と婚約した。浮気や略奪と見られるのが正しい。どう考えてもイザークに非があるのに、被害者のように触れ回るなどあってはならないことだし、そんな話をして、オールグレーン伯爵家が黙っているはずがない。否定され、反論されたら、たちまちイザークは愚か者の烙印を押されるだろう。
(これはランセル伯爵の腹いせなのか)
脅す真似をした。そのことへの意趣返し。
真実が明るみに出れば、ランセル伯爵家の評判だって傷つくはずだが、彼は知らぬ存ぜぬを貫いて、自分は騙されていたのだと、ダナもろとも切り捨てる気なのかもしれない。不義理をした二人は周囲から白い目を向けられ、細々と暮らしていくしかなくなるように。
「ごめんなさい、わたくし……止められなくて……」
ダナは泣いていた。
ドルシラは思い込みの激しい性格だし、彼女の取り巻きをしているダナが制止することが難しいのはわかる。だが、
「……そうだとしても、何故、そのことを私に相談してくれなかったんだ?」
「ごめんなさい……」
ダナは俯いて繰り返した。
イザークは無意識に責めるような口調になっていたことに気づいて、続けようとした言葉を一旦呑み込んだ。
言わなければならないことを言えない。どうやって言えばいいかわからないし、相手の反応が恐ろしくて尻込みしてしまう――それはイザーク自身がつい最近してしまったことでもある。その感情がわかるだけに、これ以上、厳しく言うことはできなかった。
だからといって、今後も繰り返されるのは困る。イザークはゆっくりと口を開いた。
「これからは、どんな些細なことでも話してほしいし、もっと私を信頼してほしい」
そうだ。イザークの両親も、ダナの両親も、庇護はしてくれない。だから、自分たちのことは自分たちでやっていかなければならない。誰かの悪意に晒されたら、それを回避することも、すべて。そのためにも話し合いは重要だ。
イザークは、庇護がないということへの心細さを打ち消すように息を吐いたが、
『これが私にできる最後の助言だ』
オールグレーン伯爵の言葉が蘇り、最後と言われたときの、突き放された瞬間の、本当は泣き叫びたかったことが思い出された。
(ああ、私は)
守られていたのだな、とイザークは心の底から実感した。
それまでだって、よくしてもらっていることはわかっていたが、これほど自分が彼らを頼りにしていたとは思っていなかった。オールグレーン伯爵夫妻は実の両親ではないから、線引きは大事だし、彼らに見捨てられる可能性もあることを常に意識していた。そうなっても大丈夫だと思ってきた。だが、そうではなかった。イザークが考えていた以上に彼らを頼りにしていた。
だが、その拠り所を失った。
イザークが選んだことである。ハンネとの婚約をやめ、ダナと結ばれる以上、彼らとこれまでのような関係ではいられない。わかっていて、それでもいいと決断したはずなのに、今になって恐怖を感じていた。
ダナを救いたいと思い、それができる気になっていたが、具体的にどうやっていくのか。貴族として領地を運営していくノウハウ、貴族同士の繋がり、そういったものを教え導いてくれる存在を失い、残ったのは何も持っていない自分だけ。ここから、能力を示し、人との関わりを築き、生きていかなければならない。
現実を把握するほど、不安で、不安で、たまらなくなった。
だが、もう、後には引けない。
彼らを裏切ってまで選んだ道を再び裏切るなんて真似は絶対にしてはいけない。イザークはもう一歩を踏み出している。あとは、この選択を間違いにしないためにも、自分自身に証明していく。それが、これからの彼の人生だ。
「なんでも二人で話し合って乗り越えていくこと、約束してほしい」
イザークは言った。
俯いていたダナが顔を上げる。
二人の視線がぶつかり揺れた。イザークは溢れてくる衝動を呑み込むようにそっと小指を出した。
約束の証。二人でやっていく。二人でやっていかなければいけない。
ダナは涙をぬぐって、彼の小指に自分の小指を絡ませた。その指がほんの少し震えていることに小さく息を呑んだ。
気づかれたイザークは情けなくて笑いながら、それでもダナの指を離さないよう固く固く結んだ。
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