恋は、盲目。
シーグルドは机に座って、白紙の便箋を眺めながら自然とため息がこぼれた。
毎週、ハンネと手紙の交換をしている。
はじめたのはほんの思いつきだったが、今ではすっかり生活サイクルに組み込まれている。これまで手紙などあまり書いたことがなかったが、シーグルドは存外筆まめらしい。
やるべきことが多い日々の中で、手紙に向かって、何を書こうか、彼女を思いながら考えている時間は心を柔らかくさせる。出来事を文字に起こしていると頭の整理にもなるし、二人だけの秘密のようで楽しかった。
それは次第に書くときだけにとどまらなくなった。
彼女のために便箋を選ぶとき、自分の好みのものにするか、ハンネがもらって喜びそうな可愛らしいものにするべきか悩む。便箋などどれでも同じとまでは思わないが、こだわりはなかったはずなのに一つずつ吟味してしまう。何故だろうと考えて、それが恋心からきていると自覚したときは悶絶ものだった。更に、つまりこれはラブレターなのでは? と過った思考にベッドでのたうち回ったのは生涯の秘密である。
そんな、シーグルドにとっての大切な時間のはずが今日は集中できない。
会合がある。
これまでもオールグレーン領で貴族や文官、商人たちと顔合わせをしてきたが今回は派閥の会合だ。
オールグレーン伯爵が属しているのはロス伯爵の派閥であり、ほとんどが血族で固められている。それは左程珍しいことではない。問題はカールソン伯爵も出席することだ。
婚約を機にカールソン伯爵家を正式に継ぐことが決定したイザークも当然出席するだろう。男性だけの集まりのため、今回はハンネが顔を合わせることはないが、寿ぐ会では絶対に会うし、その後も免れない。その前にシーグルドだけでイザークを確認できるのは幸か不幸か。
(イザーク・カールソンか……)
情報は大事だ。イザークについて、シーグルドも可能な範囲で調べた。
オールグレーン伯爵はイザークにも将来のために領地経営を学ばせようと機会を持っていたが、貴族学院への入学前だったためシーグルドにするほど本腰を入れていたわけではなかった。それでも彼と会ったことある者たちは大勢いて、その多くが「期待できる」と思えるほど、真面目で誠実な人物であったようだ。生い立ちについて嘲るような者はいても、彼個人の悪い評価はほとんどない。
オールグレーン伯爵夫妻が見る目がなかったというわけではないのだな、とシーグルドは思った。
正直言えば、最初にイザークのことを聞かされたときはオールグレーン家の人々のことをよく知らなかったので、世話になった相手にそんな真似をするなど余程の理由が……彼らにも何か問題があったからでは? とイザークの言い分を聞かない限り判断できないと思った。だが、彼らの人柄がわかってくるとイザークへの不信が勝るようになった。人の親切に感謝するどころか、何の躊躇いもなく利用して、不要となれば簡単に手のひらを返すような狡賢い人間はいる。彼がそうで、そのような男とは知らずに長年愛情をかけて世話をして、ハンネとの婚約まで決めた。だが、彼は彼らを省みることもなく容易く捨てた。
ハンネはどれだけ傷ついただろう。
未来を誓った相手は、心を砕くような男ではなかった。
騙されていた事実は、彼女の人生に深く影を落としたに違いない。
彼女だけではなく、オールグレーン夫妻にも。
シーグルドは憤りを覚えたが――しかし、その考えもまた短慮だった。
少し考えればわかることだ。オールグレーン夫妻は伯爵家を守ってきた。酸いも甘いも経験した大人が、まだ子どもと呼べるイザークに騙されていたなど考えづらい。彼はそこまで悪辣な人物ではない。
ならば、何故彼は裏切ったのか。
恋をしたから。
恋とはそれほど強靭な思いだ。
馬鹿馬鹿しい。そんな理由で約束を反故にするなどありえない……と少し前のシーグルドなら一蹴していたが、今は理解できる気がした。
人を好きになる。その気持ちは理屈ではない。どうしようもなく好きになってしまうし、好きになったら相手からも好かれたいと思う。それが叶えばずっと一緒にいたい、結ばれたいと願ってしまう。彼は思いのままに突っ走ったのだろう。両親もそのようにして結婚したのだから、手本が身近にいることで他の貴族よりも瓦解しやすかったのかもしれない。
シーグルドは恋を知ったがために、イザークの情熱を想像できた。
ただ、その後の手段は最悪だったが。もっと他にやりようがあったのではないか。イザークの不誠実にハンネが傷ついたことは許せるはずもない。
とはいえ、この件以外で問題を起こしてこなかったなら、彼のすべてを否定し、これこそが本性だとするのは早計だ。恋に狂い、オールグレーン伯爵家をないがしろにする形にはなったが、それまでの彼の言動がすべて嘘だということにはならない。
イザークがハンネを大切にしていたというのは事実だったのだろう。――彼の人物像を知るにつれ、そう考えるのが正しいように感じられた。
すると、今度はたちまちに嫉妬心が生まれた。
思いやって過ごしていた二人に対し嫌だと思ってしまう。そんな自分にシーグルドは呆れた。本来であれば喜ぶべきことなのに、ハンネにとってその方がよいとわかっているのに、うまく気持ちを整理できない。
そう、絶対にこちらの方がいい。
二人が過ごした期間はけして短くはない。それが偽りだったというより、結果として行きついた先は婚約白紙という離別ではあったが、睦まじく過ごしていた日々は紛い物ではなかったという方がよいに決まっている。
ハンネには笑っていてほしい。
それは今やこれからだけではなくて、シーグルドと出会う前についても思う。
彼女の人生ができるだけ明るいものであってほしかったし、慰めることも、助けることもできなかったとき、悲しいことをなるべく経験せず過ごしていてほしかった。そう思う気持ちは本心だ。だから、イザークとのことだって、騙されたり、利用されていたのではなかったなら、二人は本当に仲が良かったと、笑い合っていたのだというなら、それを喜ぶべきだ。
で、あるのに、彼女が自分ではない男と幸せでいた日々に嫉妬してしまう。
(矛盾しているな……)
ハンネに友愛だけを感じていたら、醜い嫉妬心を抱くこともなかった。彼女の平穏だけを思っていられた。だが、シーグルドは欲を持った。彼女の幸せを願うという以上の欲。自分が彼女を幸せにするという欲。自分だけがそうしたいという欲。――それはけしてよいものではないとわかりながら、彼女の過去にまで遡って不愉快に思っている。
こんなにも仄暗い感情を、シーグルドは知らなかった。
恋は人を変える。とても愚かに、とても無慈悲に。
ハンネへの思いを強めるほど、イザークについて意識してしまう。
無意味だとわかっていても、止めることができない。
シーグルドは手にしていた万年筆の尾栓を緩める。それから、机の端に置いていた青いインク瓶を開けて、先をつけた。再び尾栓を回してインクを吸い上げる。頃合いを見て瓶から引き出すと、汚れた先を布で拭った。
この布にはハンネの刺繍が施されてある。彼女の趣味で不要になった布をこうして再利用している。
何も知らなかったとき、オットーが刺繍の入った布で同じようにインクの先をぬぐっているのを見てぎょっとしたものだ。自分の作品を父親がこんな風に使っているなんて傷つくのではないかと心配したし、ベルタがハンネを愛しているのは知っているが、オットーはそうでもないのかとやきもきした。それからほどなくして、シーグルドもハンネから練習用の布をもらって、事情を知り心底安堵した。
誤解していたことがわかったとき、ほっとして思わずハンネに話してしまったら、彼女は笑いながら、聞いてくれたらよかったのにと言った。いや、聞けないだろう――もし、本当にきちんとした作品として贈られていたものをあんな使い方していたとしたら、それを知らなかったとしたら、シーグルドが聞いたために知ってしまうことになる。
ハンネのことを心配してのことだったのに、当人からあっさり聞いてくれたらいいと言われて、つい言い返してしまった。言ってから、勝手に気をまわしただけのことで文句をつけるのもどうなのかと急に我に返ったが、
「たしかにそうですね、そこまで考えてくださっていたのに、簡単に聞いてくれたらいいのになんて、失言でした。傷つかないように配慮してくださってありがとう存じます」
ハンネははにかんだように笑って礼を述べた。
たぶん、あのときから、シーグルドの中で何かが芽生えたのだ。それは少しずつ大きくなって、今では自然とハンネのことを考えている。人が傷つくところをみたくないという誰に対しても思うようなものではなく、もっとずっと個人的なものとして。
だから気になる。
ハンネはイザークをどう思っていたのか。
ハンネは今、イザークをどう思っているのか。
それがわかれば少しは落ち着ける気がしたが、一度も聞いたことがなかった。
聞きたいと思うが、聞きたくないとも思うし、それ以前に迂闊に踏み込んでよい話ではないとも思う。故に、結局尋ねたことはない。
ただ、彼女が穏やかでいられる心の在り方を、イザークとのことに折り合いをつけて自分との未来を見てくれたらいいと祈るばかりだった。
そして、祈りは少しずつ現実になっているようにも思えた。
パルぺについてからは特に婚約を周知するため二人で出掛けることが増えたので、自然と距離も縮まった。シーグルドが望むような恋愛関係にはまだ遠いが、互いの間にあった遠慮という壁が少しずつ崩れて打ち解けてきた。
シーグルドは出かけるとき入念にリサーチした。
ベルタから指示された貴族が多く集まる場所に出向いたあとは、静かなカフェでお茶をして疲れを癒して帰るのが恒例になっていたが、入る店はなるべく新しい、ハンネが行ったことないような場所を選ぶ。行ったことがある場所だと彼女が過去を、イザークを思い出すかも知れず、それが嫌だという理由だ。
「坊ちゃんって、独占欲が強い方なのですね」
パルぺについては詳しく知らない。頼れるのはヘムルートしかいない。よい店はないかと尋ねたら教えてくれたが、隠していた気持ちを見抜かれて揶揄われた。
これが独占欲というものか……指摘に、シーグルドが怒ることもなくまんざらでもない顔をした。いや、ここはもっと否定したりするところでは? とヘムルートは呆れたが、何かを誰かを独占したいと思えるものに出会えることはある意味では幸せであり、シーグルドはそれを理解したのだろうと思えば微笑ましくもあった。
そんな風にゆるやかな階段を、一段ずつ昇っていくように、積み重ねていく日々。
その先にある未来を信じられると思っていた。
だが、邪魔するようなある噂を聞かされた。
『ハンネがイザークとの婚約を望み、夫妻も後押しした。恩義があるイザークは断れずに従うしかなかったが、そんな不遇な環境からダナが救い出し、新しい婚約者になった』
これを茶会でダナが触れ回っているという。
イザークの婚約者が告げているというのだから、これが彼の言い分なのだろう。
(ハンネがイザークを望んだ?)
少なくとも、それはシーグルドが聞かされていた話と齟齬がある。
二人の仲がよかったから婚約の話が出たのであって、ハンネが望んだということはないはずである。だが、イザークからしたらそうではなかった――仲が良いという認識はなかったということだろうか。
つまり、彼は恩ある夫妻の娘に親切にしていただけなのに、周囲が勘違いして二人は仲がいいと思い、それを理由に婚約を打診された。ハンネもまた仲がいいと信じていたし婚約が嫌ではなかったので頷いた。ハンネが了承したと知り、立場的に断れなかったので頷いたが、本音では嫌だったと。
それが正しいなら、最初からボタンの掛け違えである。
彼がもっと鈍感で、もっと子どもだったら、恩義だの感謝だのそういったものを気にせず、自分の人生だけを考えるような人物だったら、誤解されるほどハンネを大切にしなかったし、婚約話が出たとしても断わっていた。なまじ自己犠牲精神があったばかりに周囲の期待に応えようとしてしまい、しかし、それを貫き通せず、土壇場で自分の気持ちを優先させた。結果、被害が大きくなった。――彼にとって一連の出来事はそういうことだった。
たしかに、彼はオールグレーン伯爵家に恩がある。それが負い目になり、彼らの望みを叶えなければと思うのは理解できる。伯爵家という本来であれば恵まれた家に生まれながら、肩身の狭い思いで生きてきたイザークの心情を思えば同情もする。
しかし、彼の考えはいささか独善的だ。
オールグレーン伯爵夫妻はそこまでイザークを求めていない。むしろ、この婚約はハンネのためというより、イザークの将来を、彼の弱い立場を気にかけてのことだった。
彼が貴族学院に入学すれば、平民の血が流れることで否定される場面も増える。貴族の中には徹底した純血主義を持つ家もまだまだある。世間を目の当たりにして、心が折れてしまわないよう、後ろ盾があった方が良い。オールグレーン伯爵家はその役割を十分担える。ハンネとイザークの仲も良い。派閥の長であるロス伯爵からも頼まれた。様々な条件が一致したから、二人の婚約を考えた。
そんな事情がなければ、オールグレーン伯爵夫妻が急いで二人を婚約させる理由がない。
夫妻からそのことを聞かされ、シーグルドもその通りだなと思った。
ハンネとイザークの間にあったものは、想像していたよりもずっと複雑なものだったのだ。
だが、イザークもそれを理解していなかった。周囲の者も理解させようとはせず、積極的に隠していた。両親のことで苦労してきた彼を少しでも守ろうとしたからだが、隠したことでかえって最悪の事態に陥った。イザークは大人たちが考えるより大人だったし、彼自身が思っているより子どもだった。中途半端な知識で中途半端に動いたのである。
これは悲しいすれ違いだ。
だから、彼はダナと恋をし彼女との将来を望んだとき、その胸の内のすべてを包み隠さず真っ向からオールグレーン伯爵夫妻に告げに来ればよかった。告げに来なければならなかった。そうしていればあの夫妻のことだ、今になって言い出したことを非難はするだろうが、彼の気持ちをきちんと理解できていなかったことを謝罪し、事態はもう少し穏やかな終結をみせただろう。彼らだって恩義があるだけで娘を愛してもいないというなら、イザークに拘ることはないのだ。
しかし、現実は違った。
彼は手紙一通で婚約白紙を告げてきて、そして、噂というオールグレーン伯爵家に恥をかかせる形で本心を告げた。
オールグレーン伯爵夫妻も流石にこれには我慢の限界がきたようだ。彼らは婚約白紙や、そのやり方の不誠実さにも腹を立ててはいたが、表立ってイザークを非難することはしていなかった。だが、完全に敵対者とみなした。もう彼らがイザークに親切にすることはない。
イザークは噂を流したことで、オールグレーン伯爵家にとって正真正銘恩を仇で返した裏切り者に成り下がった。
だが、彼らの間に決定的な亀裂が生じたことは、シーグルドにとってはそれほど重要ではない。それよりも問題なのはハンネのことだ。
(本当に、余計な真似をしてくれたな)
噂は前を向きつつあったハンネも過去に引っ張り戻した。
表面上は平気な振りをしているが明らかに落ち込んでいる。泣き叫び、悲しみを、怒りを、吐き出してくれたらならまだよかったが、彼女は心を閉ざして、一人でこの理不尽と向き合っている。
はぁ、とまたため息が零れ落ちた。
ペンを握っていた指先に力が入る。先をつけたら、補充したばかりのインクが白紙の便箋に滲んで広がっていく。青い点が少しずつ広がり、指先に力を込めると取り返しがつかなくなるほど大きくなった。そのまま左右に動かして意味のない線を引く。
不安――ハンネは言った。
植物園に出掛けたときのことだ。
植物園はパルぺに今年できたばかりの場所で、オールグレーン領にいるうちからハンネから聞いていた。彼女が興味を持ち行きたがっている様子だったから予約をしにいった。オープンしたばかりで人気があり、ずいぶん先の日づけになったがなんとか取ることができた。
喜んでくれるといいな、と思い、もうすぐ予約日という頃になって、噂を知ることになった。
この状況で行きたくないのではないか? と悩んだが、緑は気持ちをリラックスさせる効果がある。少しは気分転換になるのではないかと誘ってみたら頷いてくれたので、二人で出掛けた。
あのとき、ハンネから寿ぐ会のことを口にした。
シーグルドはそれに甘え、彼女の気持ちを聞きたいと思っていることを伝えた。
だが、彼女から返ってきたのはイザークのことではなく、シーグルドとの関係についての不安だった。
ハンネは何も知らなかったのだと言った。
イザークの本音も、二人の婚約に事情があったことも。――だから、シーグルドとの間にもまだ自分が知らないことがあるのではないかと不安になると。
言われたとき、自分との関係について言及されるとは思っていなかったので動揺した。
だが、考えてみればシーグルドとハンネの関係と、イザークとハンネの関係は、共通するものがある。どちらもオールグレーン伯爵夫妻に恩があるという点だ。そして、シーグルドもまた恩ある彼らに少しでも報いるように、ハンネを大切にしようと思った。今でこそ恋をしたが、当初そこに何か感情が伴うものではなかった。何かが、何処かで違っていれば、シーグルドだってイザークと同じ道を辿っていたかもしれない。その可能性を、彼女が不安に思っている。
何故、気づかなかったのか、シーグルドは自身の間抜けぶりに唖然とした。
だから、精一杯、自分を信じてほしいと告げたし、信じてもらえるように努力すると伝えた。それは一つの決意表明だったが――彼女からもまた同様の言葉をもらった。それこそ、まったく予想していなかったので、シーグルドは言われたことを一瞬把握できなかった。
それから、頭で理解するよりも先に身体にしみ込んでくるような不思議な感覚になった。心というのは形ないものだが、それが途端に満たされたように感じられた。だが、満たしたものが何であるかすぐにはわからない。嬉しいとか、楽しい、というのとは少し違う。もう少し静かで、もう少し落ち着いていて、そして悲しいわけでもないのに、ほんの少し泣きたくなるような、どこか懐かしさを感じるこれは、
――幸福。
ああ、そうか、とシーグルドは気づいた。
両親を失ってから忘れていた。オールグレーン伯爵領で過ごす日々は恵まれたものだったが、それでも彼らは他人で、甘えすぎてはいけない。何かミスをすれば、失望されて、終わってしまうかもしれない。心の何処かで彼らを信じきれずに緊張していたが、ハンネが自分に向ける眼差しは真摯なものだった。
彼女は、けして過去ばかりを見ているわけではなく、今、目の前にいるシーグルドのことを気にかけて、二人の間にあるものをたしかなものとしていきたいという意志がある。その事実が、シーグルドを幸福に浸した。
あのときのことを思い出すと、今も震える。
だが、同時にやらかしてしまったな、とも思うのだ。
ハンネの心配をしていたはずが、自分が慰められてどうするのか。
彼女がシーグルドとの関係に不安を感じていたのは本当だと思うが、イザークのことを消化できているかといえばそんなに簡単ではないだろう。
彼女は知らなかったと言った。
イザークの本音をあの噂を聞くまで知らなかった。純粋に惹かれ合っていたから婚約に至ったのだと思っていた。
自分を好きで優しくしてくれているというのと、恩人の娘だから優しくしてくれていたというのでは、同じ優しさでも違う。勘違いしていたことを恥じるだろうし、ハンネがイザークを好きでいたのなら尚更衝撃は強いはずだ。
しかも、それを噂として大勢に知られてしまった。
イザークが好きな相手に誤解されたくなかったのだとして、ハンネのことは好きではなかったと言いふらす必要はない。自分たちで話し合えばそれでいい。だが、噂を流した。そんなことをすればハンネの評判に傷がつくのは考えるまでもなくわかるだろうに、長年一緒にいた相手にそこまで無関心になれるものなのか。
考えるだに、ありえない。
(やはりろくな男じゃないな……)
だが、彼が不義理を働いた結果、シーグルドはハンネと婚約できた。
皮肉なことだが、シーグルドの現在の幸運はイザークのおかげということもできる。オールグレーン伯爵夫妻やハンネが傷ついた出来事に感謝するというのも違う気がするが、その事実を無視して、イザークを憎むのはそれはそれで厚顔なのだろう。自分は幸せを手にして、そして、綺麗な場所から相手の非を糾弾するというのは卑怯ともいえる。
(だが、私は彼を憎むよ)
シーグルドはこれまでの人生で、なるべく人を理解するように努めてきた。それは優しさではなく自分のためである。
怒りを、悲しみを、抱いたとき、感情のまま物事を判断すれば、その感情を正しいと思えるような事実だけを集める。フィルターにかけた世界は真実を隠す。真実を隠した世界は思考に穴がある。その穴を相手につつかれたら余計にダメージを受ける。だから、相手がどういう立ち位置から物を見ているのか考える。その物の見方から考えたら相手の言い分も一理あると納得出来たら冷静になれる。多くの人がいがみ合いたくて関りをもってくるわけではない。共感が、理解が、一つの打開策であると。人は変えられないから、そうやって自分を納得させ、どうしようもない理不尽と折り合いをつけてきた。それが彼の処世術だ。
だから、イザークに対しても無意識にそうしてしまっていたが、そういう気持ちは捨てる。
自分にとってイザークは敵だ。
おそらく、ハンネはそうは思えない。彼女は何かが起きたとき、外側ではなく内側に理由を求める性格だ。そして、自分の非を見つけると必要以上に自己嫌悪に陥る。噂を聞いてからも、怒りや苛立ちより落ち込んでいるのがその証拠だ。
シーグルドはそういう彼女の性格を好ましいと思う。
誰かを一方的に悪いと思うことは難しい。特に、人と人との関係は複雑だから、相手だけが悪いと糾弾しきってしまえるのは、理性的であるほどに、人の多様さを理解するほどに、難しくなってくる。ハンネの自罰的な性格の根底には、そういった思考がある。シーグルドはそれとは正反対の令嬢たちと接することが多く、彼女たちの一歩も引かない「自分が正しく、相手が間違っている」という主張に苦しめられてきたから、自身を省みるハンネの性格は傍にいて心地よかった。それが過ぎるのは問題であるが。
イザークとの件も、彼女は自身の非を考えているのだろう。
二人が過ごしてきた時間の中で、ハンネはイザークの本心に気づけなかったというのは、彼と本当の信頼関係を築いていなかったともいえる。ハンネが自分を非難する理由がある。故に、彼女はイザークを憎みきれない。
だからこそ、シーグルドはイザークの事情を考慮しない。同情も、共感も、理解も、一切。どんな理由があるにせよ、どんな過程があったにせよ、「噂」という形でハンネを傷つけた事実を許すつもりはない。彼がハンネを責めてきたら、その正当性を精査することなく、しつこい男だと叩きのめす。たとえハンネが彼を庇うようなことがあっても、自分だけは彼女が傷つけられたという事実に忠実でいたい。強く出なければならない。彼女ができない分、彼女の代わりに、その痛みを、相手にわからせてやる。
それもまたシーグルドのエゴかもしれないが、婚約者としての責務であると思う。
ペンを置いて席を立つ。
そのままベッドへ行って倒れ込むと、また、ため息をついた。
冷たいシーツの感触を頭部に感じると、自分が熱くなっていることに気づく。
いろいろ考えを巡らせていても現実というのはままならないもので、とっさの判断が大事になってくるのだから、こんな風に余裕を持てずにいたらうまくいくものもうまくいかない。
(頭を冷やそう)
膿んだような熱を額に感じ、深呼吸を繰り返すうちに熱が全身に回っていく。
シーグルドは静かに目を閉じる。そのままいつのまにか眠りに落ちていった。
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