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茶番劇  作者: あさな
6/11

終れない縁、深まる縁

 昼過ぎノックする音が響いた。

 ハンネはベッドに腰かけて何をするでもなくぼんやりと無防備にしていたのでビクリと肩が揺れた。


「私だけど、準備はできたかい?」


 シーグルドだ。

 時計を見ると約束していた時刻が迫っていた。迎えに来てくれたのだろう。

 彼がハンネの部屋を訪ねることは珍しい。もう何度も一緒に出掛けたりしているが、誘いを受けるときは広間や食堂、メイドに頼んで話せる場所に呼び出すという方法をとるし、待ち合わせも階段前と徹底していて、私室に近付いてくることはなかった。同じ屋敷に暮らしている婚約者とはいえ、婚姻前の女性の部屋に立ち入るのはよくないという配慮だった。

 なので、こうして彼がわざわざ来たことに少しの驚きと、それだけ心配してくれているのだろうと申し訳ない気持ちになった。

 

 ハンネはここ数日ずっと気鬱だった。

 それは、ロス伯爵家からの手紙からはじまった。


 ロス伯爵家というのはオールグレーン伯爵家の本家に当たる家で、すでにハンネの婚約について報告は済んでいる。

 伯爵家が他領の子爵を婿養子に入れる。手続きには領主同士の許可が要る。話を通してもらうためにロス伯爵の口添えがある方がよいと判断し協力を仰いだ。

 一族を統べる長ならばハンネの婿について伯爵家の嫡男以外の令息が好ましいと考え、多少の苦言や反対を告げられてもおかしくはないが、今回に限り話はスムースに進んだ。

 貴族は体裁を何よりも重んじ、そして、これはオールグレーン伯爵家の体裁の問題と理解していたからだ。


 そもそも、イザークとハンネの婚約話はロス伯爵の強い後押しがあってのことだった。

 カールソン伯爵家もロス伯爵を本家とし、血の濃さならオールグレーン伯爵家よりも近い。カールソン伯爵が平民を正妻に娶ったことで距離を置かざるをえなかったが、それは一族の長としての判断で、昔馴染みとしての情が存在した。だから、ベルタがイザークの世話をするというのを黙認した。また、平民の血が混ざっているイザークの結婚は厳しいものになるだろうと危惧し、イザークとハンネが互いに憎からず思っているらしいと知るや、ならば婚約させたらよいと考えたのだ。

 オールグレーン伯爵家とカールソン伯爵家に強い繋がりができ、ロス伯爵家がそれを認め祝福しているとなれば、カールソン伯爵家を継ぐ次男ロイドにも良い縁談がくるだろう。そうやって三世代もすれば名誉も回復していくだろう、と。

 だが、イザークはダナ・ランセル伯爵令嬢と婚約した。

 二人の婚約は一族の長という観点から見れば悪いものではない。シュメール領主は派閥を失くして統制していくように動いていたので、他派閥の令嬢との結びつきは意向に沿うものだ。それも相手は伯爵家の令嬢。子爵家か男爵家の娘にしか相手にされないだろうと考えていたのに、よく見つけたなと感心するくらいだった。ただし、ハンネとの婚約話がなければ。

 ロス伯爵は後悔した。

 ハンネが貴族学院に入学すれば伯爵家の後継ぎ令嬢として注目を浴び、その中で惹かれる相手も出てくるだろう。反対にイザークは下級貴族の令嬢からしか相手にはされない。瑕疵ある家でも伯爵家に嫁げるならと、現在でもライバルが増える前にイザークを射止めようとする令嬢からのアプローチがあった。だが、カールソン伯爵家を再興するにはそれでは駄目だ。だからハンネが他の令息と比較する前に婚約をさせるようロス伯爵はオールグレーン伯爵の説得に動いたのだ。

 オールグレーン伯爵は最初難色を示した。ハンネには貴族学院で社交を学ばせながら自分で相手を見つけてほしいと考えていたからだ。世に羽ばたく前に決める必要などなかった。 

 とはいえ、ロス伯爵の提案を跳ね除けきることもできなかった。イザークの将来について心配する気持ちがあったし、何よりハンネとイザークが仲が良かったからである。二人が望むならそういう未来があってもよい。

 そこで二人に直接尋ねてみることにし、ハンネもイザークも頷いたので婚約は内定した。

 しかし、いよいよ正式な取り交わしをしようという段階になって、カールソン伯爵家から一方的に白紙にされ、ハンネは振られた令嬢という不名誉を受けることになった。

 イザークがそのような心変わりをすると思わなかった。彼はハンネを大切にしていたのだ。それが……すべてはロス伯爵の勇み足が生んだことである。

 そういう経緯もありロス伯爵はオールグレーン伯爵家の申し出に全面協力をした。傷ついたハンネには幸せになってほしいという罪滅ぼしである。

 おかげで、シーグルドは大した問題もなくオールグレーン伯爵領に来ることができた。


 ハンネは数日前にこの話を聞かされた。


 ロス伯爵の介入について、ハンネとイザークには知らされていなかった。元々婚約話が出たのは、二人が睦まじかったからである。ならばその通りに互いに初恋を実らせたと思わせたほうがいい。ロス伯爵の後押しや、政治的意図、ずっと両親のせいで苦しんできたイザークに婚姻まで尻拭いの意味があるなど知らせる必要はない。余計な負荷がかかるだけと。

 それが、今になって教えられた。

 本当は、オールグレーン伯爵夫妻は婚約が白紙になったあともハンネにはこのことを話すつもりはなかった。すべては終わったことで、知ったところで傷ついた心が慰められるわけでもなし、もうイザークのことなど考えてほしくなかったのだ。

 だが、そうもいっていられない事情ができたのである。

 貴族令嬢の間で、ハンネの悪い噂が流れている。茶会で、イザークの婚約者ダナが、ハンネがイザークを好きで、オールグレーン伯爵がイザークに恩を着せて無理やり婿養子にしようとしていたが、そんな不当な状況から自分が救ったのだと吹聴しているという。

 ロス伯爵家の令嬢ジャスミンが貴族学院で親しくしている令嬢たちから聞いて手紙で知らせてくれた。

 この話を知ったとき、普段温厚なオールグレーン伯爵は怒りからしばらく口が利けなかった。

 ハンネとイザークの婚約はまだ口約束の段階で正式な取り交わしはしていなかった。とはいえ察している者もいたので、誰かが余計な詮索をしてくる可能性を危惧し、解決策としてシーグルドとの婚約は結んだ。これで十分打ち消せると考えていた。しかし、噂は予想していたよりずっと酷いもので、それもイザークの新しい婚約者であるダナが話して回っているというのだから許せるはずがない。

 オールグレーン伯爵夫妻はイザークを完全に見限った。

 彼らはイザークの心変わりに憤ったし、婚約白紙の方法に対しても腹を立てたし、可愛い一人娘の名誉を回復させるために懸命になっていたが、それでもイザークに対しての情を捨てきれてはいなかった。

 だが、彼はハンネとの婚約が負担であったと、意に沿わぬものだったと、恩があるから断れなかったが本当は嫌だったと、それが本心であったという。

 自分ばかりが献身をしているような言い分。オールグレーン伯爵夫妻がイザークに注いでいた愛情のすべてを否定している。

 もはや怒りすらわかない。ただ、失望した。

 彼は思いやるべき相手ではなかった。それだけの話だ。

 そんなことは珍しいことではない。優しくすれば優しさが返ってくるわけではない。親切にすれば親切が返ってくるわけでも。今回、オールグレーン伯爵夫妻はそれを見誤ったのだ。


 しかし、「見る目がなかった」とため息をつくだけで終わりではない。

 噂を対処しなければならなかった。

 そのためにハンネに裏事情を話す必要がある。この噂で攻撃されるのは誰よりもハンネであったから。


「貴方はこの噂に対抗せねばなりません。あの愚か者にこの婚約の意味を掲示して、自分の名誉を守りなさい」


 ベルタは言った。

 この婚約で本当に献身しているのはどちらだったのか。幼い頃から知るイザークが、平民の血が混ざっていることで不当な扱いを受けるかもしれない。それを救いたいと思い婚約を受け入れたのに、本人はまったくこちらの意図を理解しておらずに、的外れに被害者ぶって不義理を働いた――不当に貶められるようなことがあればそう告げろということだ。

 ハンネ自身の、またオールグレーン伯爵家の名誉のために必要なことである。

 ベルタはこの話をハンネにしたとき、険しくも悲し気な顔をしていた。自分たちがイザークを甘く見ていたせいで華やかになるはずの娘の社交デビューに重しをつけてしまう結果になったのだから当然だが、そのこともハンネを悲嘆させた。


「……ハンネ?」


 ノックをしたのになかなか返事のないことに心配になったのだろう、気遣わしげな声が聞こえて、ハンネは慌てて扉を開けた。

 シーグルドは背が高い。見上げると赤い目が真っすぐにハンネを見ていた。


「大丈夫? やっぱり今日はやめておこうか?」


 噂にまつわる一連の話をシーグルドも一緒に聞いた。

 あれから彼の態度は変わらなかった。パルぺに来てからも続いている朝の食卓までのエスコートのときも、屋敷内ですれ違うときも、穏やかな笑顔で接してくれた。ただ、一緒に過ごすことはしなくなった。しばらく一人にしておいた方がいいということだったのだろう。ハンネはそのことをありがたく感じていた。

 だが、昨夜、夕食が終わり部屋に戻る途中で「明日の約束のことなのだけど」と声をかけられた。

 二週間前に「植物園内にあるカフェの予約が取れたのでいかないか?」と誘われていたのだが、すっかり忘れていたことにハンネは慌てた。

 シーグルドはなんとなくきまり悪そうに「気が乗らないならやめておこう」と続けた。

 落ち込んでいる人間に出掛けようというのは無神経に思われるかもしれないから勇気がいる。中には気分転換には外出がよいと信じていて躊躇なく誘える人間もいるが、シーグルドの様子から少なくとも彼はそういうタイプではないのだろう。それでも約束していた手前、何も言わないわけにはいかなかった。


(私の方からどうするか告げるべきだったわ)


 言いにくいことを告げさせてしまった。断れば「やはり確認せずに黙ってなかったことにすればよかった」と更に落ち込むかもしれない。それはハンネの本意ではないし、ずっと前からの約束を反故にするのもどうかと思ったので行くことにした。


「ううん、平気。もう、出る?」

「準備ができているなら」

「じゃあ、行きましょう」


 シーグルドは明らかにほっとした顔をする。ハンネは小さく笑った。



 舗装された道を馬の蹄の音が規則正しく聞こえる。

 春らしい気温になってきているので、隙間から漏れてくる風も冷たさが和らぎ、馬車での移動も辛くはなくなってきていた。コートを着込んでいるので少し暑く感じるくらいだ。

 

「それにしても、よく予約がとれたね」


 植物園は夏に完成したばかりの施設である。

 温室を完備されていて一年中花と緑を楽しめると去年から話題に上っていた。園内には一般客用と貴族用のそれぞれに対応できるカフェテリアがありハンネも興味は持ったが、しばらくは混雑しているだろうから落ち着いたら行きたいと思っていた。


「ああ、実は、パルぺに来てからすぐに申し込みをしていたんだ」


 シーグルドは照れ臭そうに言った。


 パルぺでは、ベルタの指示で二人が仲睦まじくしていることをアピールするために貴族御用達の所謂老舗のお店を巡った。アピール後は人目の少ないお店でゆったりとお茶をして帰るのが恒例になっていたが、店はすべてシーグルドが決めていた。――いや、最初の日は行きたい店があるのかと問われたが、ハンネは一人で出掛けたことがなく、お気に入りのお店というのもなかったので、そのときは町中を歩きながら適当なサロンに入った。次からはシーグルドが事前に予約を取ってくれるようになった。

 シーグルドが選ぶのは比較的新しいところが多く、ハンネにとっても初めてのお店ばかりだった。

 生まれてからずっとシュメール領で暮らし、毎年パルぺにも来ているハンネよりも、今年初めて来たはずのシーグルドの方がこの町に詳しそうだ。貴族社会は保守的な面もあるが、話題のもの、流行のものを取り入れるのは大事である。純粋に情報収集能力が素晴らしいなとハンネは思った。


 植物園につくとちょうど予約の時間ですぐに案内された。

 薄いピンク色の薔薇のアーチを抜けていく道にハンネはため息をついた。

 天井はガラス張りでアーチの隙間を縫うようにして太陽の光が降り注いでいる。薔薇を仰ぎ見るような経験は初めてで、光の加減で煌いている様はとても幻想的な光景だった。

 

「気に入った?」


 ハンネは足を止めていたことに気づいた。

 シーグルドからエスコートを受けていたので、ハンネが止まっているということはシーグルドも止まっている。シーグルドだけではなく案内の給仕も。待たせてしまっていると自覚してハンネの頬が赤らんだ。


「ごめんなさい」

「ここは、花を愛でる場所だから」


 存分に観賞すればいいよ、と言われたがハンネは席に向かうよう促した。

 シーグルドが頷くと給仕も歩き始めた。


 案内されたテーブルは一般席とステージが見合わせるよう数段高くなっている。周りをぐるりと緑の生垣に囲まれていて隣のテーブルとは距離があって、開放的だが個室として機能している。

 ちょうど生演奏が始まる時間で演奏家たちが準備をしているのが目に入った。ときどき、調整のための音が届く。


 個室用の特別アフタヌーンティーセットを注文する。

 二人だけになると、急に花の香りがした。


「春を先取りと言う感じがしていいね」


 シーグルドは周囲を眺めながら言った。


「春が好きなの?」

「そうだね。うちの家族は皆、春生まれなんだ。年が明けてからずっとお祝いが続いて……一年で一番賑やかな季節だったから、楽しいという感覚が身についているのかもしれない」


 ハンネは目を細めた。

 シーグルドが家族のことを話してくれるようになったことが嬉しいと思う。

 それはハンネが気になっていたことの一つだ。

 出会ってほどなくの頃のシーグルドは話をするときハンネに重点を置いていた。今もその傾向はあるけれど、もっと顕著にハンネが何を好きなのか、どうしてそれを好きなのか、それを聞いた感想を述べたり、という会話の仕方をしていた。ハンネを知ろうとしてくれているともとれるが、反面で自身のことについては必要なこと以外は自分からはほとんど話さなかった。だからハンネの方からシーグルドのことを知ろうと彼がしてくれたように話を振ってみる。そうすれば答えてはくれるのだが、口を開く前、本当にほんの一瞬だけれど、まるで何かに怯えているみたいな妙な間ができた。

 話したくないということなのか。

 自分のことを知られたくないという人もいる。それが一概に心を閉ざしているわけでもないし、悪いわけでもない。踏み込まれたくないなら、踏み込まずにいるべきだとハンネは思う。

 しかし、話したくないわけではないらしい。話し始めこそ緊張を見せるが、いざ話し出すと饒舌とはいかないまでもよく話すからである。だから余計にハンネは混乱した。


(……ひょっとして否定されるのが嫌なのかも)


 そして、一つの結論に辿り着いた。

 彼が自己主張の強い令嬢たちにいろいろ無理を言われてきたことは聞かされていた。特に、生涯独身でいるよう強要された話は腹が立ったし悲しかった。人間としての尊厳を無視するような真似をよくできたものだ。だが、きっとまだまだ氷山の一角で他にもたくさんあるのだろう。シーグルドに理想を当て嵌めて、そこからズレるような言動を見つけたら非難するようなこともあったのかもしれない。たとえば、好きな服を、たとえば、好きな歌を告げたとき、そんなの似合わない、とかそういう否定だ。

 ハンネにも経験がある。

 ベルタと一緒に出席したお茶会でお菓子の話になり、メイド長が作ってくれたクッキーが好きだと言ったら、素人の作るクッキーが好きなんて、あまりよいものを食べていないのね、と言われた。恥ずかしいから言わない方がよいですよと忠告まで受けた。あれがどういう意図のものだったか、今となってはわからない。ハンネをバカにしようとしたのかもしれないし、そんなつもりではなくただ自分が思ったことを口にしただけなのかもしれない。たしかに、お茶会で話題にあげるなら買いに行けるようなお店のものを述べるべきだった。家のメイドの手作りクッキーなど言われても困る。美味しいお店を紹介してもらえると期待していたとしたら、ハンネの方こそバカにしていると思われた可能性もある。貴族の令嬢として相応しい返答ではなかった。

 ただ、本当にメイド長の作るクッキーが好きだったから、否定されたことは悲しかった。あれから、そのクッキーを食べるとき、お茶会のことが思い出されて、昔ほど喜べなくなった。

 そういうことが何度か起きた。同じような会話でも相手によっては否定される。ハンネが好きなものを、私は嫌いと返してくる人がいる。様々な人がいるのだから、それは当たり前のことだ。自分が嫌いだから嫌いという。そこに悪意があるときもあるし、素直に自分の好みを口にしただけのときもある。ただ、いずれの場合でも、好きなものを嫌う人がいることを目の当たりにしたら、ピシリと小さなヒビが入った。だから、そうならないように本当に大切なもののことは誰彼構わず話さない方が良いと思った。

 シーグルドもそうなのかもしれない。大事なものを口にするのを恐れる気持ちがあるのかも。わからない。わからないことは勝手な憶測で決めつけるべきではない。でも、それほど的外れではないように思えた。何故なら、彼はハンネの話を否定したことがなかったから。

 シーグルドがハンネの話を聞き、感想を述べるとき一度だって不快になるようことは言わなかった。それは自分の本心を偽り、ハンネの顔色を窺い、調子を合わせているのとは違った。契約婚約の相手として、そういう面もないわけでないだろうけれど、彼の元々の人に向ける姿勢として、自分が嫌いなもの、興味のないものでも、相手が好むならその事実を受け入れて尊重するという意識があるのだと感じられた。

 だから、ハンネはシーグルドに安心して話をすることができた。同時に自分もまた彼が安心して話せるような相手になりたいと思った。

 そのためには信頼してもらう必要がある。ハンネがシーグルドを傷つけたりしないこと。人が何に傷つくかはそれこそ千差万別だから、いくら気をつけていても思いがけず傷つけてしまうことはあるかもしれない。けれど、けして故意に傷つけようとはしないことを信じてもらえるように。時間が必要だろうけれど、少しずつ関係を築いていこう。

 その方法はハンネにも都合が良かった。イザークとのことで人との関わり方について混乱があったので、ゆっくりと時間をかけてはじめていけるのはありがたい。


(でも、信頼を得るってどうすればいいのかな?)


 人との関係を進展させる――改めて考えるとよくわからない。

 そんな悩みを巡らせていると、ハンネが風邪を引いた。

 三日高熱が続いて、熱が下がってからも完治するまで安静にするよう部屋から出ることを禁じられた。うつらないように必要以外は一人で過ごす。 

 日がな一日、ベッドでゴロゴロしていると手紙が届いた。マリアンネからだった。ハンネを心配していると、一人で寂しくないかと、一生懸命書いたのだろうという文字が並んでいた。

 ハンネは嬉しくなって返事を書いた。すると、また手紙が届いた。マリアンネと、それからシーグルドからだった。マリアンネが手紙を書いているのを知り、自分も書いたという。

 それから回復するまで毎日届いた。

 シーグルドの手紙には昼間の出来事が書かれていた。オットーから領地経営について学ぶ中で、街に赴き見聞きした話だ。ハンネの退屈を和らげようとして、その日の新鮮な出来事を伝えてくれている。それはシーグルドの身に起きたこと、彼が感じ思ったことが綴られていた。

 

(こんなに自分の話をしてくれるのは初めてね)

 

 会話と手紙は違う。その差が、シーグルドの心の扉をいつになく開かせているらしい。

 ハンネは手紙に丁寧な返事を書いた。

 やがてハンネの風邪は治り普通の生活に戻ったが、以降も文通は続いている。

 シーグルドは忙しくしているので、婚約者として過ごす時間がとれないことを気にしていた。だから、せめて手紙で交流を持ちたいと言われたのだ。

 ハンネは戸惑ったが、


「それに私たちの馴れ初めは文通ということになっていますから、こうしてやりとりをして真実にしてしまいましょう」


 と言われて頷いた。

 表立ってはまだシーグルドとの婚約は成立していない。オットーに認められるための試験期間ということになっている。だから、小さい頃からというところを伏せてしまえば、婚約前に文通をしていたという事実は作れる。真実ではないがまったく嘘ではないなら、堂々と話せるだろうと。

 嘘をつくのは心苦しいからそうでなくするのは大事だが、この方法はかなりのへ理屈である。ハンネは笑い、でも承諾した。

 あれから、週に一度、手紙を交換し続けている。

 二人で行うアリバイ工作。それは案外楽しくて、手紙という目に見える形のものが増えていくと、たしかに何かが育まれているように感じられた。それは錯覚ではなくて、シーグルドは次第に会話でも自身のことを躊躇わずに話してくれるようになった。


 そして今は、家族の話を口にした。

 

「最初はマリアンネの誕生日ね。楽しみだわ」


 誕生日については把握している。

 贈り物もすでに準備している。

 オリビエ商会の新シリーズ、ディアバードだ。商品名の通り鳥のぬいぐるみキットである。すでにプレゼントしているディアラビットはそこそこの大きさがあるので幅をとるが、ディアバードは手のひらにのるサイズなのでベッドサイドに並べられる。両親とシーグルドとマリアンネ、今回は四匹揃えて一緒に作る予定だ。


 パーティーの準備も進めている。

 去年までは母親が手作りケーキを作ってくれていたという。リングリドアでは一般的なものだから再現できるのでは? とヘムルートに頼んでレシピを送ってもらい、シーグルドに味見をしてもらうことを繰り返して、試行錯誤の末に完成させた。

 ケーキの再現についてハンネは当初どうなのかな? と不安だった。両親を失う。それはとても辛いことだ。触れてほしくないのではないか、傷つけてしまうのではないか、と心配した。だが、考え違いであることは完成したときのシーグルドの表情を見てわかった。もう二度と食べることはないと思っていた母のケーキの再現に彼は泣きそうな顔で礼を口にした。やはり思い出すことは辛いのだろうけれど、それ以上に遠のいていくばかりの思い出を繋いでいけたことに安堵している。忘れたくないものを忘れないようにすることの難しさの前に、彼は呑まれていたのだ。

 ハンネは胸を打たれた。家族と過ごしていた家を引っ越して見知らぬ土地での生活を余儀なくされた。合意の上とはいえ、辛い決断だったはずだ。だが、シーグルドも、まだ幼いマリアンネさえもハンネの前で不満を口にしたことはなかった。それがどれほどすごいことか。どれだけ無理をしているか。改めて実感した。

 シーグルドは大人びた雰囲気で、実際言動も落ち着いているので、心配はしていたがどこか大丈夫だろうと思う気持ちもあった。だが、彼とはたった二歳しか違わない。いや、年齢に関係なく人の心の繊細さをもっと真剣に考えるべきなのだ。ハンネはシーグルドに感じていた気後れを取り払い、彼らに寄り添えるようになりたいと思った。


 こうやって少しずつ知っていって、打ち解けて家族になっていく。新しく、ハンネの人生ははじまりかけていた。なのに――そう易々とは前に進ませてはもらえないらしい。


「でも、その前に、寿ぐ会を無事に終わらせないとね」


 頭に過ぎった目下の悩みについて、ポロリとこぼれてしまう。

 口にした途端、胸に重石を置かれたような気がしてハンネは慌てた。

 シーグルドを見ると、右手の人差し指でそっと唇に触れた。彼が考え事をするときの癖だった。

 二人の間に、沈黙が降りたが、それをかき消すように演奏が始まった。軽快な曲に園内の緑がひときわ明るくなった。

 それから紅茶とケーキスタンドが運ばれてきた。

 一段目は甘いケーキと焼き菓子、二段目にスコーンとジャム、三段目にサンドイッチが盛り付けられている。下から上に食べるのが一般的らしいが、甘いケーキから食べて次にサンドイッチ、最後にスコーンを食べるのがハンネは好きだった。

 たが、今はどれにも手を伸ばせずにいた。


「何が不安?」


 シーグルドが言った。

 ついさっきまでとは違う、華やかなこの場に不釣り合いな真剣な声だった。


 何が不安――問われた言葉を心の中で反芻させた。そういう質問をされるとは思っていなかったのでドキドキと脈が速まった。

 この件について、年が明ける前に一度は話し合うべきだとは思っていた。それはシーグルドも同様だったのだろう。寿ぐ会は二人にとってターニングポイントとなる。失敗は許されない。打合せは必須だ。でも、ハンネの気持ちが落ち着くのを待ってくれていた。だから、話し合うときは礼儀として「大丈夫?」と問われ「大丈夫」と返し、以降はハンネの心には触れずに具体的な対策についてになると考えていた。

 しかし、シーグルドは何が不安なのかと問うてきた。


「……君が悲しんでいたり、怒っていたり、憤りを感じているのならよかったんだ。いや、よくはないけれど、それは当然の感情だから。けれど、とても不安に感じているように思えて。その不安が何なのか知りたい。解決できるものなら解決したい」


 黙っていると更にシーグルドが続けた。

 ハンネの中にある煩雑とした不快さが渦巻いた。

 不安……言われてみればこれは不安なのだろうとハンネは思った。恐怖と言い換えてもいいのかもしれない。


「話したくないなら無理にとは言わないけど……私がそう思っているということだけは知っていてほしいし、もし、気が向いたならいつでも話してもらえたらと思っている」


 シーグルドは言い終わると、ティーカップを持ち上げて勢いよく飲んだ。

 きっと、おそらく、彼はこれをずっと言いたかったのだろう。ハンネが簡単に打ち明けるとは思っていないし、安易に踏み込んでいい話でもないとも思っているが、それでも黙っているばかりでもいけないと感じて、彼には受け入れる準備があることだけでも伝えた。

 不器用な人だなとハンネは思った。

 自分がよいと思ったことをすぐに実行できる人ばかりではない。行動をしようとするとき、いろいろ考えすぎて身動きがとれなくなる人もいる。何もしないことで相手を悲しませることもあれば、何かをすることで却って相手を不快にさせてしまうこともあるから、どうするのが最善かを見極めるのは難しいと――結果、どちらも選べず、優柔不断で何もできない情けない人と悪く解釈される。相手を思っているのに、まったく伝わらないもどかしさ。だが、そうではないと伝えることはまるでアピールしているような偽善に感じられ、それもできなくなる。別によいのに。よく思われたいからと優しい言葉をかけたとして責められるものではない。そういう、考えすぎてしまうが故の、そして思いやりとは不純であってはならないという潔癖さ故の、自分で自分を雁字搦めにしてしまう生きにくさみたいなもの――それはハンネ自身も持っているものだから、シーグルドがこの言葉をどれほどの緊張の中で言ったのか理解できた。

 だから、ハンネは話すことにした。

 ただ、イザークのことはやはりまだ口にはできなかったので、もう一つ抱えている不安の方ではあったが。


「……何も知らなかったの。イザークがわたくしとの婚約を本当は負担に感じていたことも、この婚約について事情があったことも、何も知らずにいたのよ」


 ハンネは言った。

 どうして、何も考えずにいられたのか。

 元来のハンネの性格はそれほど鈍感なものではなかった。周囲から愛情をたっぷりと与えられて何不自由なく生活してきたが、中には伯爵家の娘だから親切にしているという人たちもいた。立場上、権力に付随してくる縁というものはどうしても存在する。それを幼いうちからきちんと感じることはできていた。でも、問題が起きたことはなかった。両親が健在の状況で、彼らがハンネに手のひらを返すようなことはなかったし、そういう者たちと深く関わる状況にもならなかったので、漠然と下心のある人間が存在するということだけを知っていた。これから、少しずつそういう者たちとの付き合い方を学んでいくはずだった。

 でも、イザークはそういう人間とは違うと信じていた。彼がしてくれるすべてを純粋な好意だと信じきっていた。好かれているという前提を疑うことはあの別離の手紙をもらうまで一度もなかった。

 あのときの衝撃はずっと忘れられないだろう。

 それから、先日聞かされたイザークとの婚約に裏事情があったこと。両親が話さなかったのは余計な負荷をかけないためだと理解はできる。それはハンネを、イザークを思ってのことだから、隠されていたことに対して怒りを感じてはいない。ただ、知らなかったという事実にはどうしても打ちのめされた。


「……だから不安。あなたとの婚約についても、わたくしの知らないことがあるのではないかと思うと、また一人だけ何もわかっていないのではないかと思うと、とても不安になる」


 知らせない方がいいと、知らせる必要はない、は全然違う。でも、どうしても知らされなかったことそのものが不信を抱かせた。

 シーグルドに対しても、当初は契約を結んだから親切にしてくれているのだ、勘違いしないようにと自分を律していたが、だんだんとこの人は契約とか関係なく誠実な人なのかもしれないと思う面も増えてきた。それでも、油断してまた勘違いしないようにとそんな風に思っては苦しくなったりもしていた。そんな中で、今回の裏事情を聞かされて、ひょっとしてハンネが知らない何かがシーグルドとの間にもまだあるのかもしれないと疑いを持つのは自然なことだった。そして、そうであるならばやはり彼の優しさを鵜呑みにすることに不安を感じた。――ひとえにそれはもう傷つきたくないというハンネの弱さではあるけれど、これから先、家族となる相手をこうやって疑い続けていくことに憂鬱になった。


「ああ、なんだ、そういうことか」


 シーグルドの声に、ハンネは俯いていた顔を上げた。


「いや、ごめん。なんだなんて言い方はよくなかった。違う……君の悩みを軽んじているわけではなくて、てっきり彼の話になると思っていたから、私のことだったのかと……」


 シーグルドの顔がどんどん赤くなっていった。

 彼は貴族らしく常に柔和な笑みを浮かべて悠然としているので、こんな風に感情をあらわにする姿は初めてで、ハンネはぽかんとした。第一、何故ここで照れるのかがよくわからなかった。


「あの……怒らないの?」

「怒る? 私が? 何故?」

「何故って……わたくしはあなたが隠し事をしているのかもしれないと疑っているってことだから」


 言いながら、こういうのを墓穴を掘るというのでは? とハンネは思った。

 だが、聞かずにはいられなかった。


「君が疑う気持ちは理解できるし、それは私個人への猜疑心というよりも、すべての事柄に対して疑う気持ちが芽生えてしまったということだろう。自分のことなのに自分だけが何も知らなかったというのは、たとえそれが思いやりからであっても傷つくのは当然だから」


 だから別に怒らない――ハンネはそう言われて、なんとなく座りが悪くなった。

 シーグルドの言う通りだが、それでも自分を疑われたらいい気がするものではないだろう。


「誓って、私たちの婚約で君に隠している事情はないから安心してほしい。私は君を傷つけるようなことはしない。不安にさせるようなこともしたくない。言葉だけでは何の保障にもならないから、これから信じてもらえるように努力していくけれど、それでももし不安になることがあったら一人で悩まず直接相談してほしいと思っている。疑われたからと言って怒ったりしない。黙って悩ませている方が辛いから」


 それから、シーグルドはきっぱりと言い切った。

 あまりにも真っすぐな言葉に一瞬ハンネは呼吸を忘れた。

 あなたのことを傷つけたりしない――それはハンネがシーグルドに対して思っていたことでもあった。そのまま相手から返されるなど思ってもみなかった。


「……それは、わたくしも」

「うん?」

「わたくしも、あなたを傷つけたくないと思っているし、信頼を得られるように努力するから」


 言ってから、ハンネは急にカァッと身体が熱くなるのを感じた。シーグルドにつられてつい口にしてしまったが心の一番純粋で一番柔らかな部分をさらけ出してしまったような心許なさである。どうしてこんなことを言えてしまえていたのか。そわそわしてしまう。

 一方で、シーグルドはさっきまでの赤面はすでに元に戻っていて平然とした顔で、


「ハンネにそう言ってもらえてとても嬉しい」


 とうっとりとするほど美しい笑みを浮かべた。

 ずきん、とハンネの心臓が大きく跳ねた。


(うう……美しいって罪だわ)


 ずきん、ずきんと、喧しいほど鼓動は速まっていく。シーグルドが美しいことはすでに承知していたのに、今はいつも以上に綺麗に感じる。緑に囲まれている効果だろうか。自然の中で彼の美しさが引き出されたのだろうか。そんな効果が緑にあるのだろうか。


「ああ、せっかくの紅茶が冷めてしまったね。私がそれを飲むから、新しいのを注文しよう」


 混乱するハンネにシーグルドはそう言うと給仕を呼んで同じアッサムティーを注文したあと、宣言通りハンネの前に置かれた冷めきった紅茶を飲みほした。そのなんてことない態度に、自分だけが動揺しているのだとハンネは少し恨めしく思った。  

読んでくださりありがとうございました。


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