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茶番劇  作者: あさな
4/11

初恋を見守る

 人には理解されづらい苦労というものが存在する。へムルートはしみじみ思う。

 その最たる存在が、サリアン子爵の嫡男、シーグルドだ。

 へムルートは彼が五歳の頃から知っているが、一目見て、将来さぞかし美男子になるのだろうと思った。その通りにシーグルドは年を重ねるごとに美しく成長し、慎ましくあれと教育されているはずの貴族の令嬢たちからさえ積極的なアプローチを受けるほどだった。

 しかし、シーグルドはそのことを苦々しく感じている。

 愛して欲しい、特別に扱ってほしい、貴方のような人から大切にされたら皆を見返してやれる――そのような感情をぶつけられることが息苦しくてたまらない、と。

 もし、へムルートがもう少し年が若かったら、彼の悩みを真面に聞き入れず、多くの女性から好かれているのに迷惑がるなど何と贅沢な、と嫉妬して敵対心をむき出しにして、悩んだふりをした自慢かと悪態をついたかもしれない。だが、十以上も年が離れているため、冷静にその苦悩を聞くことができた。

 そして、振り返るのは自身のこと。

 思春期の頃、「村一番の美人のあの子が自分を選んでくれたら」と思ったことがある。当時はそれが恋だと信じていたが、大人になり、今の妻と出会ってから振り返ってみると、あれは恋ではなかった。自分という存在が曖昧で、それ故にみんなが憧れる女の子から好いてもらえたら自信が持てる気がしたのだ。だが、そんなものはまやかしでしかなくて、ヘムルートがするべきことは外側に根拠をもとめるのではなく、きちんと自分の足で立つことだった。

 あれから、あっちこっちに頭をぶつけながら成長し、少しずつ自分というものの輪郭をとらえていった。

 そうして大人になった今、思う。「村一番の美人のあの子」はどんな気持ちでいただろう。

 恋という仮面をかぶった「俺を好きになって、俺に自信をつけさせて」という自己承認欲求をぶつけられる。そして、そうしていたのはおそらくヘムルートだけではなかった。たくさんの自信のない者たちが、彼女の愛で自信を得ようとした。それも無自覚に。

 同じ年だった彼女もまたへムルートと同様に自己について悩んでいたに違いないが、彼女は自身の悩みに加えて、他人の悩みの解決策の標的にされたのだ。

 自分を見てほしいと求めてくる者たちは、彼女のことは何も見ていない。自分、自分、自分……彼女のことを少しも考えず、くれ、くれ、と搾取するばかりの者など不快だろうに、拒絶すると「お高くとまって」とか「調子に乗っている」など悪態をつくような者もいる。

 だが、その苦しみは理解されない。モテているからいいじゃないか、好かれているからいいじゃないか、そのようにねじ伏せられて出口を潰される。人より優れた容姿を持っているのだから、それくらいは甘んじて受け入れろと強要される。

 自分勝手に求めるばかりだったが、欲求をぶつけられる者はどのように過ごしていたのか――ヘムルートはようやくそこに思い至り羞恥した。 

 シーグルドはあの頃の彼女だ。

 類稀なる美貌が、無理解を生み出し、ひとりきり。彼とて思春期特有の苦悩の中でもがいているのにそれを吐き出すことは許されず、人のそれのはけ口にはされる。

 ヘムルートはシーグルドの悩みを真摯に聴いた。そして苦労している分、幸せな恋も味わってほしいと思う。それが出来る日まで、ともすれば誤解されてしまう彼の苦しみの聞き役になる。それはもうとりかえせない過去の日々への贖罪の気持ちも含まれていた。

 そんなへムルートにシーグルドも随分と慰められた。

 だが、


「人並みの幸せというものは諦めたよ」


 シーグルドが貴族学院に入学した年のこと。

 貴族学院は国中の貴族の子息令嬢が通うことを義務づけられた学校だ。普段は国土に散らばっている貴族が一ヶ所に集まる――即ち将来の相手を探す場としても有用といえる。貴族の婚姻は家同士の結びつきも絡んだ政治的な側面があるため、学生のうちに自力で相手を見つけて親を納得させなければ、卒業後に親の決めた相手と婚姻を結ぶことになる。故に、真剣に相手を探す者が多い。

 シーグルドもそのつもりでいたが、学院が長期休暇に入って領地に戻ってきた彼は疲れ果てた顔をしており、ぽつりとそう漏らした。

 人並みの幸せ、それは婚姻を結び、家庭を持つことを指している。特に貴族は爵位を子孫に繋げていくことを重視しているので、たとえそこに愛がなくとも子をなすためだけに婚姻するというのもよくある。冷え切った夫婦間であれ、貴族の常識でいえばそれも「人並みの幸せ」に入る。だが、それさえも諦めた。彼のつぶやきにはそんな重さがあった。

 一体何があったのか。へムルートはシーグルドがけして短慮ではないことを知っている。その彼が諦観を覚えるほどの出来事とは何であるのか。

 シーグルドが自虐的な物言いで告げた話によれば、学院で令嬢たちが「シーグルドを見守る会」なるものを結成し、シーグルドは「みんなのもの」だから婚姻などせずにいろと主張し、彼に近付こうとする令嬢を排除しているのだとか。

 事態を重くみた学院長により令嬢たちは厳重注意をされたが、噂はたちまちに広がり、一部の心無い者たちから被害者であるシーグルドがたぶらかしたのではないかなどと悪評を立てられた。


(そりゃ、そんな目に遭わされたら人と関わりたくはないと思うな)


 へムルートは心底シーグルドに同情した。

 だが、彼のために怒ることはできなかった。

 令嬢たちのことがわかってしまったから。

 彼女たちは若い頃のヘムルートだ。自分のことばかりに執心して「みんなが平等になる解決方法」を考え出した。その「みんな」は令嬢たちのみをさし、シーグルドが含まれていないことに気づきもしない。しかし、そのとんでもない提案にシーグルドを苦しめたいとか不幸にしてやりたいという悪意はない。悪意のない傍若無人だからこそ余計に性質が悪いともいえるが、ただ、自分たちの幸福を追求しているだけなのだ。ヘムルートも視野の狭さと自分勝手さで振る舞った経験があるだけに令嬢たちの思考はよくわかった。

 だからこそ、油断すると彼女たちのことを庇ってしまいそうになる。庇うというと語弊があるが、彼女たちがこのような無茶苦茶な振る舞いをするのはシーグルドに非があるからではないこと、彼女たち自身の問題なのだから傷つく必要はないと、そんな幼稚な思考の者たちはこちらが少し大人になって受け流してしまえばよいと、そのように言ってしまいそうになるのだ。

 だが、それが酷な話だとも知っている。へムルートは思春期を終えて、世の中を知り、どうすればうまく立ち回れるかを経験したからこそ、そう思えるが、まだ年若いシーグルドにとってヘムルートの考えは残酷に聞こえるだろう。どうして辛い目に遭っている方が更に譲歩しなければならないのか。憤りを覚える。理不尽に感じる。損をしているように思う。正義感というものが、若さ故の潔癖さというものが、正しいのに折れることをよしとはできない。正負に拘らずやりすごすことが社会で生きていく中で賢い立ち回り方、処世術だったとしても、そこに至るまでの過程を自分自身で納得して折り合いをつけなければ、他人から言われても反発心が生まれる。そればかりか、早く大人になれと急かすことは下手をすれば無理解に映り彼を傷つける結果に終わる。

 ヘムルートはシーグルドの味方でいるため、必要と思える助言はするが、彼が自身で答えを出し成長する姿を見守るにとどめた。それはとても歯痒いことでもあった。


「けれど、私にはマリアンネがいるからね。あの子が婚姻して子どもを産んだら、たっぷり可愛がるつもりだ」


 シーグルドは笑う。

 男女の色恋というものには失望しているが愛とはもっと幅広い。彼は家族には恵まれていた。温かな思いやりを、柔らかなやりとりを知っている。それが彼の拠り所だった。

 だが、シーグルドはそれさえも失うことになった。

 サリアン子爵夫妻が事故でこの世を去り、幼いマリアンネと二人きり残された。父、ダニエルの代わりに子爵を継いで家を守っていかなければならない。まだ庇護されていいはずの年齢で、彼は否が応でも大人になることを強制された。

 どうして彼にばかりこのような苦難が押し寄せるのだろうか。ヘムルートは拳を振るわせた。


 

 


「……どう思う?」

「我が店が誇る自信の商品ですから、きっと喜んでいただけるかと」

「そういうことではない。……わかっていて言っているのだろう?」


 シュメール領の主都パルペの宿屋。

 ヘムルートは本店のあるリングリドア領から支店のあるオールグレーン領まで戻る途中だった。縁があり支店を出すことになってから、本店と支店を行き来する日々を送っている。その道程でパルペを通るのだが、いつもなら一泊してすぐ発つが今回は少し長めに滞在する。パルぺには現在シーグルドも滞在しているからである。

 へムルートは彼からある品を頼まれていた。

 それが、テーブルに並べられている。

 髪飾り、イヤリング、ネックレス……と宝飾品が一揃え。粒は左程大きくはないがすべて上質のルビィがそれぞれに誂えてある。

 これらは、シーグルドの婚約者・ハンネに年明けにシュメール領主が開く「新年を寿ぐ会」で身に着けてもらうために贈る品だった。


「坊ちゃん……今更何を悩んでいらっしゃるので? 指輪だけではなく、装飾品一揃えを全部贈りたいからと依頼されたのは坊ちゃんじゃないですか。それなのにいじいじと」

「あ、あのときとは状況が違っているだろう」


 シーグルドは声を裏返しながらも、不貞腐れたように言った。

 その年相応な子どもっぽい姿に、内心でヘムルートは微笑ましく思った。


 そう、たしかに、あのときとは状況は違えている。


 シーグルドは子爵を継ぐに伴い後見人を必要とした。評判のよくないマッティラ伯爵が名乗りを上げたことで他の真っ当な貴族からは敬遠されてかなり難航したが、どうにか魔の手から逃れて後ろ盾を得た。それがオールグレーン伯爵だ。彼らは後見人となる代わりに、一人娘のハンネと婚約を望んだ。

 シーグルドはその条件で頷いた。

 元々結婚に何も期待していなかった。仮に婚姻するのだとしても、家同士を結ぶ政略結婚になるだろうと考え、それなら少しでも条件が良い方がいい――ということを考えれば、伯爵家へ婿に入るなど破格の条件だ。おまけにマリアンネの教育までしてくれるという。

 マリアンネも容姿に恵まれている。幸いといっていいのか、幼い頃から厄介な者たちの標的にされてきたシーグルドに比べ、不思議とマリアンネはそういう輩を遠ざける。当人にそんなつもりはなくても、ポロリと漏らした一言が相手を撃退してしまう。そういうところが彼女にはあって今のところ目に見えた被害はない。だが、何分女の子で、下級貴族の身分では、上級貴族から強引な真似をされるとも限らない。伯爵家の後ろ盾があればその危険も随分減る。そういう意味でもこの話は有難いものだった。


 婚約に際しては、二人の関係について細やかな設定が定められた。

 幼い頃に出会い、長く文通をしていて、紆余曲折の末に結ばれた二人。シーグルドはハンネに惚れこんでいるというものだ。

 シーグルドはもちろんその条件も呑んだ。

 オールグレーン伯爵家の名誉を損なわないために芝居を打つ共犯者として、この先長い人生を共に歩んでいくパートナーとして、シーグルドはハンネに誠実に向き合った。対して、ハンネもまたシーグルドに礼儀正しく振る舞ってくれている。二人の関係はそんな風にして始まったのだ。


「彼女はとても真面目な人だ」


 婚約以降、へムルートはシーグルドから度々ハンネの話を聞いた。

 真面目……時にこの言葉は「つまらない」という意味合いの侮蔑としても使われることがあるが、シーグルドの口調から良い意味で言っているのがわかる。

 いくら互いに条件が合致して結んだ婚約とはいえ、相手は伯爵家なのだから、見下されたり傲慢な態度を取られたりする可能性をシーグルドは考えていた。そして、それらを受け入れるつもりでもいた。だが、ハンネは、いやオールグレーン伯爵家の者たちは皆、シーグルドとマリアンネのことを大切な家族として迎え入れてくれた。一番気がかりだったマリアンネが馴染んで日々を楽しそうに過ごしているのがシーグルドには何より嬉しい。

 故に、彼はヘムルートに婚約指輪と「新年を寿ぐ会」で着るハンネの衣装を用意するよう依頼した。

 寿ぐ会で二人の婚約が正式に公に披露される。婚姻にかかる費用はオールグレーン伯爵家が持つというのも条件提示のときに言われており、婚約指輪もオールグレーン家で用意された。流石にそれはどうかと思うので、シーグルドも準備するつもりではいたが、婚約指輪だけではなくドレスも贈る。リングリドア領では婚約披露には婚約者の瞳の色の指輪と、髪の色のドレスを贈るという風習があるので、それに倣ったのだ。それだけではなく、宝飾品一式も贈ることを決めたのは、よくしてくれた彼らへのせめてもの礼である。シーグルドはハンネに惚れこんでいるという設定なのだから、全身をシーグルドの色で固めれば独占欲を表せる。ちょうどよいと考えたのだ。

 贈り物はサプライズにしたかったが、ドレスは採寸が必要になってくるので、事前にベルタに相談した。また出来上がったものの微調整にとパルペに来る前にハンネにも披露して試着してもらった。その際に、婚約指輪も贈った。ハンネは驚きながらも喜んでくれた。だが、残りの品については今度こそ当日のサプライズにするつもりだった。

 そのために、へムルートはこうしてパルペでシーグルドと会って納品をしているのだが。

 納品された物を前に、シーグルドが眉を顰めて考え込んでいる。

 それは、品物が気に入らないからではなく、彼自身が口にした通り、この品を依頼したときから状況が変わってしまったことが原因だ。


 どう変わったか――シーグルドはハンネに恋をしたのである。


 へムルートはその予感を随分前から感じていた。

 シーグルドから聞かせられるハンネの話に、熱量が込められているように思えたとき、ひそやかに喜んだりもした。あのシーグルドが女性をそういう対象としてとらえているのだから当然だ。ようやく彼にも春が来たかと、それも将来を共にすると決めた相手を好きになれたのだから、これほど幸運なこともないだろう。あとは彼女の方もシーグルドを好きになってくれたら言うことなしである。

 辛いことが連続してその身に降り注いだシーグルドだが、神は彼を見放したりはしなかったのだ。


 しかし、当の本人は最初、恋心を頑なに認めなかった。

 シーグルドのこれまでを振り返れば、素直になれないのは想像に難くはなかったし、照れくさかったり、こそばゆかったりもするのだろう。

 それもようやく落ち着いて、自分の気持ちと向き合った末、彼は現在初恋の真っただ中である。

 そして、恋をした彼は、相当の臆病者だった。

 

 この宝飾品についてもそうだ。

 恋をする前に依頼された品だったが、あの頃は、彼女に自分の色を贈り、独占欲を示すことを芝居の一環として平然としようとしていたのに、いざ真剣に彼女への独占欲が芽生えている現状では「恥ずかしくてできない」と言い出した。

 シーグルドは紳士的な振る舞いをすることはできる。令嬢たちからのアプローチを傷つけないように上手に断る術も必要があったので鍛えられている。その姿は、傍目にはプレイボーイ然と映るだろう。だが、けして本物のプレイボーイではなく、これまで一度も女性と深い関わりを持ったことはない。感情が伴わないからこそ何も感じずに振る舞うことができていただけの、有体にいえば初心なのである。

 

「やはり、指輪だけでいいか……」

「何をおっしゃっているんですか! せっかく準備したのですし、全身をこれでもかってほど坊ちゃんのお色で固めてもらうべきでしょう。婚約者を溺愛するという芝居を強固にするためならできるのに、それが本心ならできないなど情けない」

「あ、あの頃は私が考え足らずだったのであって……ふ、普通良識的な考えを持っている者ならこんな恥ずかしいことできないだろう!? いくらなんでも装飾品全部に自分の色を入れるとか……」


 最後は蚊の鳴くような声でもごもごと言う。

 そんなシーグルドにヘムルートは「まぁ、思春期のお年頃では恥ずかしくなるのも無理はないかもしれないな」と思いつつ、だがここで同調すればこれ幸いと止めるに決まっているので、ため息をついて見せた。


「婚約披露の場というのは生涯に一度だけなのですよ。坊ちゃんは、恋した相手とその日を迎えることができるのです。その喜びを行動で示すことの何が問題なのですか。何故、遠慮するのです? 誰に遠慮しているのです?」

「それはそうかもしれないが……か、彼女は私の気持ちを知らないんだ。芝居でこんな真似ができるなんて、やはり軽薄だなと思われたりしたら……」


 そう、問題はそこだ。

 シーグルドは恋を自覚はしたがハンネに告白ができずにいる。

 それは彼の臆病さもあるが、ハンネの状況を鑑みてのことだ。

 彼女は元々他の者との婚約を予定していたが、それを白紙撤回されて、このままでは振られた令嬢という不名誉を受けるというのでその回避のために新たな婚約者として選ばれたのがシーグルドなのだ。

 シーグルドはその婚約予定だった男のことを調べた。オールグレーン伯爵に連れられて領地経営について学ぶ中で、自然と耳に入ってもきた。彼もまた、オールグレーン伯爵から学ぶために教育を受けていたので、突然連れてくる相手が変わったのだから、出先で会う人々は自然と噂してしまうのは仕方ない。

 話によれば、二人はとても仲が良く、だからそのまま結婚することを誰も疑っていなかったのだという。

 そんなに仲が良かったのなら、婚約がご破算になったことはかなりショックだっただろう――ハンネへの恋心を自覚する前は同情的な気持ちだけでいられたが、自覚したあとは悠然と構えてはいられなかった。

 ハンネは控えめだ。元からそういう性格だったのかもしれないが、時々ポロッと零れ落ちる言葉に「わたくしなんかに」というのがある。まるで自分が無価値であるようなそんな物言い。それらはシーグルドが彼女のために何かをしたときに発せられるもので、遠慮しているという解釈もできなくはないが、それにしては卑下しすぎだ。これはもう先の件で自尊心が深く傷つけられたからと判断するべきだろう。

 そう思うと、シーグルドは胸を掻きむしられた。

 好きな相手が自分を否定する姿は辛い。それも他の男のせいで。

 だが、自分に何ができるだろうか。

 シーグルドは彼女の、オールグレーン伯爵家の名誉を守るため、契約婚約をすることを了承した身だ。そのことはハンネもよく知っている。そういう始まりでも、彼女を本当に好きになることはありえるし、事実そうなったのだが、それを今伝えて、何処まで信じてもらえるだろう? 長い付き合いだった男に一度婚約寸前までいって裏切られたのだ。その衝撃は大きかったはずで、それから半年ほどしか時間は経過していない。それはシーグルドが彼女と出会って経過した時間でもある。半年は心の傷を癒すには短いし、心を通わせるのにも短い。こういうのは時間をかけて信頼関係を築いていくべきで、だからシーグルドはタイミングを慎重に見計らっている。彼女が、過去の出来事とは関係なく、シーグルド自身を見てくれるまで。


 そんな事情もあり、シーグルドは自分の色の宝飾を渡すのはどうなのかと二の足を踏むわけだが。


「それはいくらなんでも穿ちすぎでは? 芝居のために宝飾品を贈られたと思われたとしても、真剣に自分の名誉を守ろうとしてくれているんだと感謝こそすれ、芝居でこんな真似ができるなんて信用ならないとはならないでしょう」

「そ、うかもしれないが……わ、私はその、この容姿だから……」

「あーたしかに、坊ちゃんの容姿は遊び慣れていると思われる確率が常人よりは高いですね」


 ヘムルートは唸った。

 まさかここにきて再び彼の容姿で問題が出てくるとは。しかし、残酷な話だがそういう側面はあるだろう。


 シーグルドの初恋は、すでに結婚することが決まっているという奇妙なはじまりで、彼の容姿と性格、相手の環境と心情、それらが折り重なり早々簡単に進展はしなさそうである。

 だが、それでも、へムルートは彼が恋をしたことをよかったと思う。

 そうでなくても駆け足に大人になりつつあった彼は、両親を失ったことでよりその傾向が強くなっていた。それをヘムルートはやるせなく感じていた。ところが、今、目の前でいじいじと愚痴っている彼は、年相応の青年だ。

 外側の環境により悩まされるのではなく、彼が、彼自身の内側からあふれる思い故に苦悩できることは幸せなことだ。シーグルドはずっとそういうものを持てなかった。やってくるトラブルをこなすばかりの日々だった。だから、そういうものが彼に訪れたことをヘムルートは純粋に嬉しいと思う。


「彼女には、私は女性と付き合ったことはないとちゃんと伝えているが……」

「……普通、そこは遊び慣れていると見栄を張る者の方が多いのですがね。まぁ、坊ちゃんの初恋が実ることは応援してるんで頑張ってください」


 シーグルドはうなだれたようにテーブルに突っ伏した。

 それを苦笑しながら見つめるヘムルートの眼差しは呆れたような物言いとは裏腹にとても優しいものだった。

読んでくださりありがとうございました。


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