表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
茶番劇  作者: あさな
3/11

洗礼

 石畳を走る馬車の速度が落ちていく。まもなく目的地、歌劇場オリオン座だ。

 完全に停車し、馭者が扉を開けると先にシーグルドが降りた。続いてハンネも立ち上がり出口に向かい、階段を降りるためドレスの裾を摘んだ。 

 本日のドレスは冬の澄んだ夜空のような清楚な紺色だ。シーグルドのネクタイとポケットチーフのハンカチーフも同じ色。ハンカチーフには彼の名が刺繍されていた。ハンネが施したものである。

 階段に近づくと、シーグルドの手が伸びてくる。

 ハンネは彼の手を取ると礼を述べながら馬車を降りた。


 季節は冬の折り返し。これから緩やかに春へと向かい、サンラージの黄色い花が咲く頃には年が明ける。その前に、オールグレーン伯爵領から領主のおひざ元、シュメール領の主都であるパルぺへときていた。

 他のシュメール領貴族たちも同様だ。冬の終わりから春の中頃までが社交の時期であり、様々な取引が結ばれるのだ。


 ハンネはまだ貴族学院に入学前なので個人的に知り合った友人はおらず、母ベルタの紹介で親しくなった令嬢たちとお茶をするのが恒例だ。

 ただ、今年は少し事情が異なる。

 いつものようにのんきに過ごすのではなく、シーグルドとの婚約を周知しなければならない。

 そのため、本日は二人で観劇にきていた。睦まじくしていると噂になるように、知り合いに会って声でもかけてもらえれば尚よしだ。

 

 劇場の入り口を通り女性用のクロークへコートと鞄を預け、広間へ繋がる扉をくぐり抜ける。すると、すでについていたシーグルドの姿が見えた。

 割と混雑しているのに、令嬢たちがチラチラとシーグルドの様子を窺っているため、彼の周囲だけ妙に空間ができている。その緊張感を当人は涼しい顔でやりすごしていたが、ハンネに気づくとふっと笑顔になり真っ直ぐに向かってくる。

 真顔も美しいが、突然見せた笑みに令嬢たちからざわめきが起きた。だが、それを向けられたハンネは、ひぃっ、と思わず半歩後ろに下がった。


(ダ、ダメよ。ここで怯んだら疑われる)


 ベルタの提案で、二人の馴れ初めは決められている。

 幼い頃に出会いずっと文通を続けていて、ハンネの婚約白紙と、シーグルドの両親の死という大きな転機が二人を結び付けた。

 秋からずっとシーグルドはオールグレーン伯爵領でオットーに認められるべく課題をこなしていたが、見事に期待に応えて正式にハンネの婚約者となり「新年を寿ぐ会」に出席する――というのが筋書きだ。

 

 ハンネはこの筋書きに不満があった。

 シーグルドのような美しい人が、何をどうしたら平凡なハンネに恋焦がれるのか。信憑性に欠ける。絶対に嘘だとバレるに違いない。そうしたら余計に笑われるのではないか――だが、ベルタは聞く耳を持ってくれなかった。おまけにシーグルドまでも「ハンネに恋焦がれてようやく婚約者となれた演技をすること」に同意している。もちろんこちらも説得してみた。無茶苦茶な要望は否定するべきだと主張した。しかし、それに対してシーグルドは「何故恋焦がれないと思われるのですか?」と問い返してきたのである。

 その発言に素直な頃なら、私のことを好きになるってこと? と喜べたかもしれない。だが、ハンネはもうそのような自惚れはしない。シーグルドを困らせているのだと悟った。

 それはそうだろう。二人が婚約することは決定事項なのだ。その相手に、貴方は私を好きになりませんよね? と言われて、なりません、など良識ある者なら言わない。本心など関係なく否定するしかないものだ。答えが決まっている問いなど単なる茶番だ。

 おまけに、この話はすでに領主様にも通していると言われた。このまま自分が反対するのは単なる駄々になってしまう。ハンネにできるのは、せめてこれ以上の負担をかけないこと。故に、不承不承ながらも頷いた。

 だからといって、葛藤がなくなったわけでもなかった。

 嫌なことは考えない――そうして逃げていたのだが、逃げてばかりいる自分の卑怯さに気づいた。シーグルドから婚約指輪とドレスを贈られた日のことだ。

 本来、自分がするべきことをシーグルドがしていると気づいて、あの日を境に、ハンネは少しずつこれまでの自分と向き合い始めた。

 そして、いかに何も考えずに生きてきたかを改めて思い知った。


「顔色が良くない」

 

 シーグルドは心配そうにハンネの顔を覗き込む。その口調は砕けたものになっている。

 パルぺへ来る前にベルタにより「愛し合う婚約者なのだから他人行儀な口調を改めるように」という通達があり、互いに名前を呼び捨てることにして、敬語もやめたのだ。


「ごめんなさい。その、覚悟はしていたつもりだったのだけれど……ものすごく目立っているので」


 オールグレーン伯爵領でもシーグルドと出掛けたことはあった。あのときも注目はされたが、身なりから明らかに貴族と分かるシーグルドへ平民があからさまな視線を向けてくることはなかった。しかし、今ここにいるのはほとんどが貴族で、そういう遠慮がない。縛りがなくなれば途端にこのような熱い視線を注がれる人なのだとハンネは初めて実感した。

 いや、それだけならここまで動揺はしない。注目されているのはシーグルドだけではなく、彼の連れとわかったハンネを値踏みするような視線がちらほら混ざっている。


(話に聞いているだけと、実際に経験するのはやはり違うわね……)


 ハンネは婚約についての話し合いでシーグルドが言っていたことを思い出していた。

 こういう事態になることを事前に言われていたのだ。


「あの、このようなことを自ら発言するのは心苦しいのですが……ハンネ様にも改めて話しておくべきと思いましたので申し上げます」


 決めるべきことをだいたい決めて、一息ついていたハンネとは対照的に、シーグルドはなんだか落ち着かない様子で秀眉を寄せながらそう口火を切った。

 歯切れ悪く言い淀むのでこちらも否応なく緊張する。何か大変な事実を隠しているのか。だが、続いた内容に正直目が点になった。


「その……私は大変過激な令嬢に好まれるようで、私の婚約者になることでハンネ様に何か嫌がらせをするような方が出てくるかもしれません」


 十分言葉を選んでいるが平たくいえば自分はモテるので婚約者のハンネに嫉妬が向かい辛く当たる者がでるだろう、とそういう話だ。

 良い相手に恵まれた者が妬まれるのはよくあるが、自分の相手はそうなると――普通なら自ら言うのか。いくらなんでも自意識過剰と笑い飛ばす。しかし、シーグルドの声音から自惚れでないことは伝わってきた。 

 

「実際、それで被害に遭った令嬢もいるのです」


 曰く、貴族学院に入学したばかりの頃に「シーグルドを見守る会」なるものが発足した。見守るとは名ばかりで、シーグルドに特定の相手、つまり婚約者を作らせず、一生独り身で自分たちの鑑賞物になれ、と強要するもので、シーグルドと話をした令嬢に嫌がらせをするなどして、学院長が直々に処罰するまでに発展したという。


 本当にそのような勝手をいう人がいるのか? ――ハンネは唖然としたがシーグルドが嘘をつく理由がない。それでも信じられずにいると、


「私が子爵子息であったのも彼女たちを増長させたのでしょう」


 この国には王家を除き、王族の血を引く公爵、各領主である侯爵、領主から土地を与えられた伯爵、そして土地持ちではないが貴族としての優遇を与えられている子爵と、大商人や芸術家など成果を収めたものに褒賞として贈られる男爵という五つの爵位がある。平民からすれば等しく貴族だが、厳密には伯爵までが純粋な貴族であり、子爵と男爵は実質的には準貴族的な扱いだ。そのため伯爵家以上の貴族の中には子爵や男爵を平民と同等に考えて、自分たちが好き勝手命令してよいと考える者もいる。


 美しいが身分が低い娘を無理やり愛妾にするような蛮行を働く貴族もいるが、シーグルドの場合はその逆ということだ。


「あれから、私の方も極力令嬢と話をしないようにしておりましたが……今回ハンネ様と正式に婚約を結ぶことで何か不利益が及ぶのではと……もちろん、そのような目に遭わせないように注意しますし、万が一そうなったときは全力で守ります。ただ、私と婚約することでそういう問題がついて回る可能性があることをハンネ様にも知っておいていただきたいのです」


 シーグルドはハンネ()()と言ったのだから、両親はこの話を既に聞いていて、その上で婚約を結ぶために彼を連れ帰ってきたのだ。だから、今更ハンネがそんな目に遭うなんて嫌だと拒否できる状態ではない。事後確認で酷いではないかと思うが――シーグルドの赤い目が真っすぐにハンネを見つめている。そこにある真摯さにハンネは打たれていた。

 彼は守ると言ってくれた。全力で守る。言葉に嘘はない。守る気がないなら、もっと言えば彼が自分の利だけを考えていたなら、このような話は黙ったまま婚約を結ぶ。話してくれたのは、そういう危険があることを知っているのといないのとではハンネ自身の心構えが違ってくるから。シーグルドの誠実さの表れであるようにも感じられたし、何より男性から守るなんて真剣に言われたのは初めてのことである。

 ハンネはチラリとベルタを見た。


「子爵は我が家の婿養子として伯爵家の身分となるのですから、そのような無理をいう者は減ります。それに、子爵はハンネを守ると誓ってくださったわ。何も心配はいらないでしょう」

 

 それが後押しになって、ハンネは頷いた。


 だから、現状のような事態になることは理解しているつもりだった。

 それにイザークも人気のある令息だったので、一緒にいるとハンネをのけ者にして会話するような意地悪をされた経験もある。ああいう感じなのだろうと想像し、耐えられると考えていた。

 ところが、今、注がれている視線はこれまで経験した類のものとは全然違った。もっと禍々しく、毒々しく、何故貴方が? という見下しと、これなら私でも勝てるわね、という優越感とが混ざり合い憎悪にも似た悪意が視線だけでもはっきりとわかる。

 彼女たちの視線に「あなたはそう思ってるかもしれないけど無理よ。選ばれたのはこの私。私には敵わないのよ」と勝ち誇った笑みを浮かべ、シーグルドの傍に立っている自分にうっとりと酔えるような性格ならある種の快感を得られるし、そういうものを得たくてシーグルドに近づく女性もいるが、ハンネはそうではない。ぞわぞわと身震いがした。


 それに気づいたのか、シーグルドはハンネの左手をそっと取ると両手で包み込むように握り込んだ。

 温かな体温が、恐怖に冷えたハンネの身体に伝わってくる。


「ずっと傍にいるので」


 短い言葉だったがハンネの耳に心地よく届く。

 シーグルドの宝石のような深い赤の目が揺れている。吸い込まれそうな美しい赤を見つめているとそれまで聞こえていたはずの外部の声が気にならなくなっていく。

 約束の通り精一杯守ろうとしてくれている。

 そのことを嬉しく思う。だが、まだ何も起きていないのに視線を受けただけで身を竦めている自分がハンネは情けなくなった。


「ありがとう存じます」


 声は震えていたがにっこりと微笑み返す。

 これでも伯爵家の娘として教育を受けてきたのだ。

 やるべきことをこなすため、ぐっとお腹に力を入れ周囲を見渡す。

 何人かの女性と目が合ったがそれは受け流して知人を探した。いればシーグルドの紹介をする予定だが……残念ながら知り合いはいないようだった。

 だが、二人が一緒にいる――麗しい男性が令嬢と二人で観劇に来ているという噂だけでも流せたら目的の半分は達成だ。混雑している中を歩けばそれは叶うだろうから、少しだけ広間を歩いてみることにした。

 シーグルドはハンネから手を離して代わりに肘を出す。ハンネが腕を絡ませると、ゆっくりと歩きはじめる。

 ゆっくりなのはその方が優雅であるからという他に本日ハンネがはいているヒールがいつもよりも高いせいでもある。

 シーグルドの長身に見合うようにという調整だ。身長差に気を付けたくらいで見合うようになるはずもないが……とハンネは思うが、高いヒールをはくのは嫌いではなかった。背筋が伸びて、大人になったような気がするから。

 広間は織物で有名なサルテル領に特注で頼んだという絨毯仕様になっているので歩きやすい。

 中央の大きなシャンデリアの真下まできて立ち止まり、もう一度周囲を見てみるが、やはり知り合いは見つけられなかった。


「そろそろ席に行こうか?」

「そうね。行きましょう」


 再び歩き出して階段へと向かう。

 ドレスの裾を空いている方の手で摘んで引っ掻けないようにと一段上がったところで、


「シーグルド様ではありませんか?」


 高い声がした。

 待ちに待ったお声がけだが、呼ばれたのはハンネの名前ではない。

 振り返ると令嬢が三人、こちらを――シーグルドを見ていた。


「やっぱり! どうしてこちらにいらっしゃるのですか?」


 真ん中の令嬢が興奮気味に近づいてくる。

 シーグルドはマナーとして、ハンネと組んでいた腕を離して自分だけ一段昇った階段を降りた。女性を高い位置から見下ろすのは失礼だからである。もう少し言えば、そうならないように階段を昇っているところに声をかけるのはマナー違反であるともいえるが。


「……失礼ですが?」


 シーグルドはいたって真顔で義務的に問いかけた。

 相手の令嬢はシーグルドを知っているようだが、シーグルドの方は知らないらしい。

 令嬢は一瞬固まったがすぐに取り繕って、


「あ、も、申し訳ございません。わたくしはトリンプ伯爵家の次女・ミランダと申します。シーグルド様のことは学院でお見かけして存じ上げておりましたので……」


 ミランダはぽうっとした目でシーグルドを見つめていた。

 どうやら彼女はシーグルドのファンで、いるはずのない場所に彼の姿を見つけて思わず声をかけてしまったらしい。

 シーグルドは知らない令嬢から声をかけられることには慣れているが、今は一人ではない。警戒心を強めながら、しかし、無視するのも悪手と考えて返事をする。


「そうでしたか。はじめまして、トリンプ伯爵令嬢……そちらのご令嬢方は……」


 礼儀として、残り二人の令嬢に視線を向ける。


「サンチェス伯爵家の娘テレシアでございます」

「ポーラですわ。家名はネルソン。同じく伯爵家の娘です」


 テレシアとポーラはシーグルドの視線を受けて頬を赤く染めながら挨拶をした。

 シーグルドは薄く笑うと半身でハンネを振り返り手を差し出した。ハンネは意図を理解してその手に自身の手を重ねて階段を降りる。

 それまでシーグルドの傍に立っているにもかかわらず完全に存在を無視されていたハンネに令嬢たちの視線が集中した。


「こちらは、ハンネ・オールグレーン伯爵令嬢です。……先程の質問ですが、この度、彼女と婚約することになり、その関係で秋頃からオールグレーン領で伯爵の指導を受けているのです」

「ハンネ・オールグレーンと申します。以後、お見知りおきを」


 ハンネは三人の令嬢たちそれぞれにカーテシーをした。

 令嬢たちは、え、と驚きの声を上げたがそこは貴族の娘である、カーテシーを返してくれた。


「まぁ……オールグレーン家の……けれど、たしかハンネ様はまだ貴族学院に入学前ですわよね。お二人はどのようにしてお知り合いに?」


 ミランダは早口に聞いてくる。


「ハンネの伯母にあたる方が、リングリドア領の貴族と婚姻されていらっしゃるのですが、その方のところへ幼い頃に彼女が遊びに来ていたとき私と知り合い、それからずっと手紙のやり取りをしておりました。随分長い付き合いになるのですが、今年に入っていろいろな偶然が重なり、婚約の運びになりました。決まったのが最近になりますので、まだ知っている方も少ないのです。『新年を寿ぐ会』で正式に発表する予定にしております」

「そうでしたの……」


 三人の令嬢は顔を見合わせた。

 誰からも祝いの言葉を贈られなかった。

 話したこともないシーグルドに声をかけてきたのだから好意を抱いていたのだろう。それがどのような質のものかは不明だが、ショックを受けるのは仕方ない。心から祝福していないので祝いの言葉を述べないというのはある意味で正直ともいえる。だが、祝われないのは自分が相手だからで、もっと華やかで美しく誰の目から見てもシーグルドと釣り合う令嬢だったら違っていたのではないか……とつい悲観的なことを考えてしまい、ハンネの心は冷えた。


「あの、ではシーグルド様は『寿ぐ会』に出席されますのね?」

「はい。その予定です」

「ならば、是非、わたくしとダンスを踊ってくださいませ!」


 ミランダは一歩踏み込むように前のめりになって迫った。

 その申し出にハンネは絶句した。

 ハンネという婚約者がいて、更に「寿ぐ会」ではその発表をすると告げているのに、自分と踊ってほしいというとは思わなかった。誰がどう考えても邪魔者だ。

 ハンネが固まっているうちに、


「ねぇ、ダンスぐらい構いませんわよね、ハンネ様」


 ミランダが言った。

 ハンネは、ミランダの申し出を聞いた瞬間にすぐさま言葉を返さずにいたことを後悔した。

 ダンスぐらい――そう言われてしまっては「嫌です」と答えづらい。反対すれば心が狭いと陰で悪口を言われる。かといってここで了承すれば、ミランダだけでなくテレシアとポーラとも踊ることになる。二人は「ミランダ……」と小さな声で一応は咎める振りをしているが、その表情からはミランダが約束を取り付ければ後に続こうとしているのがわかる。

 もし、これが現実になれば――婚約発表の場で婚約者以外の令嬢と次々に踊る美貌の子爵が、ハンネに恋焦がれているはずがないとあっさり嘘と見抜かれるにちがいない。

 せっかく準備したすべてが水の泡だ。

 混乱するハンネを落ち着かせたのはシーグルドである。彼はいつのまにかハンネの手を優しく包み込むように握り、手の甲を親指で撫でた。

 ハンネはそろそろと隣のシーグルドの顔を見上げた。

 シーグルドはミランダたちの方を向いたまま静かな笑みを浮かべている。美しいが少しの温度もない能面のような笑顔だ。


「せっかくの申し出ですが、愛する婚約者を一人きりにしては気もそぞろでダンスどころではなくなるでしょう。失敗しトリンプ伯爵令嬢にご迷惑をおかけするのは目に見えていますので、ご遠慮させていただきます」


 言いながら、シーグルドはハンネの方を、今度はとても優しい笑みで見つめて、繋いでいた手を持ち上げて軽く指先に口づけをした。

 ハンネは、ぎゃあ、と到底淑女にあるまじき声を上げそうになったがギリギリで踏ん張った。


「では、私たちはこれで」


 ミランダはまだ何かを言いたそうだったが、シーグルドはこれ以上会話を続ける気がないとばかりに切り上げる。ハンネも「ごきげんよう」とどうにか告げてシーグルドのエスコートに従いその場を後にした。


 ボックス席にたどり着いて二人きりになるとシーグルドはハンネを座らせ、自分はその前に片膝をついて、


「申し訳ありませんでした」 


 と言いながら胸元のハンカチーフを取り出し、つい先ほど自分が口付けてしまったハンネの指先を丁寧に拭いはじめる。

 それでハンネは何に対する謝罪だったのかを理解した。


「そんなことしなくても平気よ。当たっていなかったし」


 そう、あのとき、横から見ていたミランダたちには口付けしたように見えたが、シーグルドの親指がクッションになってハンネの指には唇は触れてはいなかった。


「あの場を収めるためにも、わたくしたちのことを周知するためにも、とても適切な行動だったと思います。わたくしこそ、何も言えずにお任せしてしまって申し訳ありません」

「あれは私が対処するべき問題だから、謝罪するのは私の方だよ」

「違うわ。シーグルドが令嬢から好意を寄せられることを知った上でこの婚約を結んだのだもの。わたくしも一緒に考えるべきことよ。なのに、大事なときに言葉がでなくて……」

「……そのように言ってもらえると嬉しいが、ああいうのは私が対処をするから。婚約者を守れないなんて恥ずかしいからね」


 話している間も、シーグルドはハンネの指を拭い続けている。それがくすぐったくて、ハンネは思わず笑ってしまった。


「あの、本当に、もう。……あんな風にされたのは初めてなので驚いたけれど大丈夫よ」


 ハンネが手を引くとシーグルドはそれ以上は抵抗せずに、ハンカチーフを畳みながらハンネの隣の席についた。


「私も初めてだから」

「え?」

「あのようなことはしたことがない」

「えっと……」

「……一度、きちんと言っておこうと思っていたんだが、私は自分がその……モテるという話をしたが、これまで誰とも恋愛関係になったことはないから。だから、貴方だけだ。信じてほしい」


 ハンネはシーグルドが何故そんなことを言いだしたのか困惑した。

 だが、答えはすぐに導き出せた。

 シーグルドは知っている。ハンネの婚約白紙の話を、イザークが貴族学院で本物の愛を見つけたことを。だからこうしてシーグルドにはハンネだけだと告げたのだろう。シーグルドがモテるのを直接見て、彼もまたそのうち本物の愛を見つけハンネを捨てるのでは? と不安を抱かないように宣言してくれた。

 彼はこの婚約を重要なものと認識しているからハンネを裏切ったりはしないと。愛や恋よりも優先すべきものとして覚悟を決めているので揺らいだりしないと。

 ハンネはその気遣いをありがたいと思った。

 だが――シーグルドは知らない。

 

『自分の心を偽って生きることは無理だと思えた』


 イザークからの最後の手紙に綴られていた言葉。

 婚約白紙の理由はランセル伯爵令嬢を愛したからということになっているし、最初はハンネもそう信じた。愛する人は別にいるのにそれを偽りハンネと婚姻できないという意味だと解釈して、自分が少しも女性として好かれていなかったことにショックを受けた。だが、時間が経過して冷静に振り返り始めてから、イザークのいう心を偽るとはハンネに優しくしてきた日々のすべてを指しているのではないか――イザークは恩義のためだけにハンネを大切にしていたが、それはちっとも本意ではないからほとほと疲れ果てていて、それがついには我慢できなくなっていた。そして、ランセル伯爵令嬢を愛したことをきっかけに爆発したのではないか。 

 つまりランセル伯爵令嬢のことは引き金にすぎず、それがなかったとしても近いうちに破綻していたと。

 その考えにいきついたとき、ずっと言葉にできずにもやもやとしていたすべてが腑に落ちてしまった。同時に、美しかった思い出が、楽しかった記憶が、独りよがりのものであったといよいよ認めざるを得なくなった。

 胸が切り裂かれたように痛くて、馬鹿だ馬鹿だと自分を詰って、ボロボロととめどなく涙があふれてどうしようもなくて、ハンネは生まれて初めて慟哭をした。だが不思議と流れた涙は温かかった。

 あの、夢のような、真綿で包まれた自分だけが幸せな世界は居心地がよかったけれど、ハンネはようやくそこから抜け出し、ハンネが中心にいない世界に、自分が世界の一部でしかない世界にたどり着いたのだ。

 それはきっと必要なことで、そして遅すぎる到着だとハンネは思う。

 だが、世界が鮮明になって、見えていなかったものを感じられるようになったことは嬉しかった。

 もちろん、その中には見ずにいられた方がよいことだってある。

 恩義などなければハンネと関わりたくなかった本音を理解せずに、与えられる親切を当たり前のものとして自分ばかりが満たされているのに気付こうともせず、厚顔に笑っていたハンネを、イザークがどのように感じていたのかと考えるだけで今も悲鳴を上げそうになる。

 男女としての関係以前に、人としての対等な関係も結べてはいなかったのに、ハンネはそんなことにも気づけずにのんきに生きていたのだ。それがたまらなく惨めに感じられた。

 ハンネは、もっと注意しなければならなかった。

 イザークの立場を、世話になったベルタの娘に対してどういう気持ちになるかを、もっとちゃんと。

 それはとてつもない後悔の一つ。

 だが、嘆いて落ち込んでいるだけでは意味がない。変わらなければ……気付いたからといってすぐできるようになるわけではないとしても、やっていかなくてはいけない。イザークのことはもう取り返しがつかないけれど、シーグルドのことはまだこれからだ。

 シーグルドに負担をかけないように。

 身分や状況を鑑みれば、伯爵家のイザークより、子爵のシーグルドの方がより我慢するだろうことは想像に難くない。彼は今とても前向きにハンネとの関係を考えてくれているし、その気持ちを疑う気はないが、それが変わってしまう可能性を考えずにはいられない。蓄積されていく負担が心身にどう影響を及ぼすかを知らないから、義務の関係を経験したことがないから、このまま続けていかれるとシーグルドが思っているのだろうこと。けれど、一度失敗したハンネにはその宣言をそのまま信じることはもうできない。何故なら、おそらくイザークもシーグルドと同じように覚悟をしてハンネと婚約しようとしたのだろうから。そうだ、イザークは聡明だった。そのイザークが決断したのだ。軽い気持ちからではなかったはずだ。でも、挫折した。ハンネと接していくことに心が草臥れたのだ。

 だから、一層恐ろしい。

 シーグルドの努力を再び自分が気づかぬうちに無神経な傲慢さで踏み抜いて、彼の人生を自分のために消費させてしまうことが恐ろしかった。

 そうならないようにと思うが、愚鈍な自分が本当に気をつけられるのか。人が与えてくれるものをきちんと理解できるのか――不安ばかりが募る。


「……いきなりこんなこと言われても困るね」


 目まぐるしく流れる思考に意識を奪われていると声がした。

 シーグルドが頼りなさそうな笑みを浮かべている。


「いえ、あの、そうではなくて……わたくしとの婚約を前向きによいものにしようとしてくれている気持ちは常々感じているし、とても嬉しいの。けれど、無理はしないでほしい」

「無理?」

「ええ、わたくしは」


 もういっそう何もかもこの不安を打ち明けてしまおうかという焦燥にかられたハンネだったが、それを止めるように開演を知らせる劇場のブザーが鳴って、はっと我に返る。

 

(ダメだ。こんなこと打ち明けても「そんなことにはなりませんから」と言われて、そういう心配をかけないようにと余計に気遣われてしまう)


 また自分だけが楽になりたくて頼ろうとしていた。

 ハンネは小さく息を吐いて、それから、続きを待っているシーグルドに「始まるみたいね」と強引に話題を変えた。彼は言いかけたことを聞きたそうなそぶりを少し見せたが「そうだね」と同意してくれた。


 劇場の照明が落ちる。

 今宵の主役、プリマドンナの登場に各席から拍手が起きた。

 ハンネはなんとか話をそらせたことに安堵しながら一緒になって拍手を送った。

読んでくださりありがとうございました。


ご感想、ご意見等ございましたらお手数ですが下記の「web拍手ボタン」からいただけると嬉しいです。ご返信は活動報告にてさせていただきます。

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ