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茶番劇  作者: あさな
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シーグルド・サリアン子爵の事情

 室内は寒くないようにと暖が入り、ベッドのサイドテーブルには疲れた身体をリラックスできるようハーブティーとチョコレートが並んでいる。

 シーグルドはそれを一瞥してベッドに仰向けに倒れ込んだ。どさり、と鈍い音がしたあと無音に戻ると静けさが余計に強まった。

 目を閉じるとじっとりとした暗闇が広がり、眼球が小さく痙攣している。

 やがて漆黒の中に浮かんでくるのは一人の女性だ。目の中に浮かぶというより脳内に浮かんでいるのだろう。像に集中するとぼんやりとしていた輪郭が濃くなって、控えめな微笑みを浮かべているのがわかる。

 シーグルドの婚約者、ハンネ・オールグレーン伯爵令嬢。

 本日、初めて二人で出掛け、婚約指輪とドレスを贈った。

 ハンネは喜んでくれた。喜んでくれたが……婚約者としての義務で行ったと思われているだろう。


「ああ、くそっ」


 小さなため息と共に吐き出したそれは静まり返った部屋によく響く。

 苛立ちは持て余した感情のせいだ。

 まさか自分が、こんな気持ちを抱くようになるなどほんの数ヶ月前は考えられなかった。――彼は長らく女性を愛することはないと思って生きてきたのだ。それがあっけなく覆ってしまった。






 シーグルドは幼い頃から容姿のせいで注目された。

 羨望と嫉妬、彼の美貌を手に入れようとする征服欲や所有欲、美貌の彼に愛されることで周囲に自慢したいという承認欲求、そういったもろもろの欲を浴びて生きるのはとても草臥れることだった。

 そんな日々から逃れるために――いつか、外見ではなく中身を見てくれる人が現れるはず――と想像して自身を慰めて過ごした。

 しかし、あるとき気づいてしまった。外見ではなく中身を見てほしいと思っているが、果たして自分の中身はそれほど立派なのか? 答えは否だった。自身のことを悪人とは思わないが善人であるとも思わない。ごくごく一般的な俗物だ。十人いたら五人ぐらいは好意的に、四人は無関心、一人には嫌われる……贔屓目に見積もってそんな感じだろう。特筆すべき内面ではないのだから特筆すべき外見が見られるのは当たり前だ。そうであるのに外見に惑わされず自分の中身を見て好きになってくれる人こそ本物だなどと考えていたことが恥ずかしい。むしろ、親しくなっていくうちに「こんな人だとは思わなかった」と罵倒されることもあるのではないか? 今まで考えてこなかった可能性に、頭を鈍器で殴られたような衝撃を受けた。

 一度、そうなってしまってからは、肩の力が抜けた。

 力が抜けると人の欲に対してもある程度寛容になれた。

 恵まれた容姿で生まれた以上は、人よりも欲望の対象になることは仕方がない。だからといってそういう人々を嫌悪したり馬鹿にしたりするのはやめよう。欲の裏側には深淵なるその人物の傷が隠されていたりするものだ。それに理解を寄せずに、外見ばかりに囚われるなど浅はかだと断じることこそ浅はかだ。

 シーグルドはある種の悟りのような境地に達した。

 ……とはいえ、その欲望を受け入れるかは別だが。

 やはり中にはどうにも受け付けない輩もいた。

 たとえば、シーグルドのデビューの夜会で声をかけてきた某伯爵家の未亡人とか。上級貴族の夫人が下級貴族の令息のパトロンとなり小遣いを与えて欲を満たすという世界が存在する。シーグルドは子爵家なのでそういう対象として見てもよいと判断されたのだろう。

 シーグルドはおぼこい振りをしてその場を逃れたが、うわぁっと内心鳥肌が立った。

 デビューしたばかりの令息に、デビューの日に声をかけてくるなど、単なる色欲狂いにしか思えず、事情を考える気にはなれなかった。

 

(こういうことからは逃れられないのだろうな……)


 成長するほど誘いが増えていくのだろう。

 この顔に生まれなければ、或いはもっと力のある家に生まれていたら、違っていただろうが、これがシーグルドの宿命なのだ。

 現実は変わらない。できるのは現状とどう折り合いをつけて平穏に暮らすかを考え実践すること。隙を見せず、油断せず、危険を察知する嗅覚を磨く。

 シーグルドは強かに立ち回りを覚えていった。


 貴族学院に通い始めると、シーグルドは緊張した。

 そろそろ将来の相手を探しはじめる年頃で、貴族学院は相手を探すのによい場所だ。シーグルドも自分と合う相手を探すつもりだったが、それは他の子息令嬢も同じなため、シーグルドの妻となるべく多くの令嬢がこぞって名乗りを上げるのではないか――しかし、それは杞憂だった。

 類まれなる美貌を持ち、学業も優秀な成績を収めているが、土地持ちではない子爵令息は結婚相手としては物足りない。令嬢たちが望んでも、親が許さない。伯爵家以上の令嬢たちからは対象外とされ、妻の座を本気で狙う令嬢は慎重に時期を見ていた。

 案外シビアな令嬢たちに、シーグルドが野心家であれば手のひらを返されたと憤りを感じたかもしれないが、彼は平穏を望んでいたのでむしろ安堵した。

 だが、その後、話は思いもよらぬ方向に進んだ。

 過激な令嬢たちが徒党を組み、シーグルドにいつまでも一人身でいるよう願ったのだ。

 願うだけならまだしも、シーグルドの「お相手」となりそうな令嬢を虐め牽制するという暴挙にまで出た。前代未聞の事態は最終的に学院長の元まで届き、令嬢たちは直々に厳重注意がされた。

 この件はシーグルドに大きな影を落とした。自分たちの欲望のために家庭を持つなと強要されたのだ。そこにシーグルドの幸せは考慮されていない。以前から嫌な目に遭うことはあったが、ここまで自分勝手な扱いを受けたのは初めてで、すべての女性がそうではないとは思いながらも、理屈ではどうにもならないほど女性に失望した。

 いや、女性だけではない。嫉妬した一部の令息たちから「誰彼構わずいい顔しているからだ」と批難されたのだ。そんなことはしていない。紳士として礼儀正しく、だが誤解されないように、厄介ごとにならないように細心の注意を払っていた。にもかかわらずこの言われようだ。

 男女間、色恋事のトラブルには巻き込まれやすいと知っていたから気を付けていたのに、結局は巻き込まれてしまった。

 

(人並みの幸福というものは諦めよう)


 シーグルドは投げやりな気持ちになった。

 幸い、妹マリアンネがいるので婿を取って家を繫いでいくことは可能だ。自分が無理に結婚する必要もない。令嬢たちが望んだようになるのは癪だが生涯独り身でいることを決め、相手を探すことはやめた。

 だが、その振る舞いが仇となる。

 両親が事故死するという不幸が訪れ、悲しむ暇もなく子爵を継ぐことになり、後見人が必要となった。婚約者がいればその両親がなってくれただろうが、そのような相手はいない。

 どうしたものかと悩んでいると声をかけてきたのがマッティラ伯爵だった。

 マッティラ伯爵は父・ダニエルの因縁の相手。その娘・サメロはシーグルドが独身でいることを願うあの過激派集団の一人だ。そのような人物が後見人になればどうなるか。遺産を横領され、シーグルドはサメロの男妾のような立場に甘んじるしかなくなるのは想像に難くない。ここで対応を誤れば一生を棒に振る。

 シーグルドは別の後ろ盾を求めるために奔走した。

 手を貸してくれたのが長い付き合いのある商家だ。彼らの協力により出会ったのがシュメール領のオールグレーン伯爵夫妻である。

 彼らは一人娘のハンネとの婚約を打診してきた。

 夫人のベルタによると、ハンネには婚約予定の伯爵令息がいたが、彼は貴族学院で別の令嬢と恋仲になりそちらとの縁をとるためにすべてをなかったことにされたという。

 ほぼ決まりかけていた婚約を反故にされたのだから、体裁を重んじる貴族にとって怒るのは当然だ。だが、ベルタの様子からは家の名誉を傷つけられたことよりも、ハンネを傷つけられたことが怒りの大部分を占めているようだった。

 上級貴族ほど政治的な結びつきで婚姻する者が多い。家の繫栄に重きをおき、反面で家族としての関係は殺伐としていることもある。だが、オールグレーン伯爵家はそうではないらしい。娘のためにわかりやすく怒りを露にする姿は、伯爵夫人としては褒められたものではないが、母親としては愛情に満ちているなとシーグルドは感心した。

 しかし、それで何故、新たな婚約者としてシーグルドに話が回ってきたのか。

 伯爵家の跡取り娘ならば婿入り先として家督を継げない者たちから注目されるはずだ。わざわざ後ろ盾のない子爵のシーグルドに声をかけてくるということは、いいように扱えるから――つまり、言いなりになる相手が必要なほどオールグレーン伯爵家か、ハンネに問題があるのではないか。婚約を白紙にされたのも彼らに瑕疵があったのに都合の良い風に改変して被害者を装っているのではないか。

 シーグルドの疑惑を感じ取ったのかベルタは言った。


「シーグルド子爵にお声がけしましたのは、ひとえに、子爵の容姿がよいからです」


 一瞬、シーグルドは何を言われているのかよくわからなかった。

 呆気に取られていると、ベルタは続けた。


「シュメール領では、婚約した者は年が明けてすぐに領主が開く『新年を寿ぐ会』で報告するのが慣例です。我が家に無礼を働いた家の令息は新しい婚約者と来年出席するでしょう。正式な発表はしておりませんでしたが、ハンネと婚約する予定であったことを知っている者は多くおりますから、そうなれば、ハンネによくない評判が流れます。それを避けたく早急に婚約者を必要としておりました。ならば、あの無礼者よりも見目の良いお相手を見つけ、鼻を明かしてやりたいと考えました。子爵ならその条件を満たします。もちろん、子爵の外見だけでお声がけしたわけではございませんが、一番は子爵の容姿です」


 たしかに、傷ついた娘が傷つけた男以上の男と夜会に現われて見せつけるのは爽快さを味わえるだろう。その無礼な令息がいかような容姿かは知らないが、シーグルドは大抵の相手なら見劣りしないでいる自信はあった。

 しかし、である。


「……お気持ちはわかりましたが、まず、その計画には無理があるのではないですか? 婚約を白紙にしたというのは伯爵子息とおっしゃいましたね。ならば、いくら私の方が見目がよかろうと、貴族として縁を結ぶならば伯爵子息の方がよいと判断するものです。復讐にはならないかと存じます」


 婚姻相手としてのシーグルドは左程魅力的ではないことを身をもって実感済である。顔が良いだけの子爵を婿にしたところで、金に物を言わせて買った婚約者、そうでなければ相手が見つけられなかった、と馬鹿にされる可能性の方が高いのではないか。


「その辺は、愛の力でどうにでもなりますわ」

「愛? ですか?」

「ええ、筋書きは考えてあります」


 ベルタはにっこりとして、シーグルドとハンネの馴れ初めを語り始めた。


 二人の出会いは教会。

 幼い頃にリングリドア領に遊びに来ていたハンネは、伯母のプリスカと教会を訪問するとバザーが開かれていた。いくつかの商家も出店している。そのうちの一つがシーグルドの父・ダニエルが出資している店で、シーグルドも遊びに来ていて、意気投合して親しくなる。

 ハンネがシュメール領に帰ってからは文通が始まった。

 一度会ったきりだが、文通は途切れずに続いた。文字に起こすと気持ちの整理に繋がる。気づけば互いに身近な人には言いにくい悩みを相談する間柄になっていた。

 月日は流れ、ハンネから夏に婚約することが決まったと知らされる。婚約してしまったら、友人とはいえ異性との文通を続けるのは体裁が悪いので、もう終わりにしなければならない。シーグルドは婚約が正式に決まったらお祝いを贈るので教えてほしい。それを最後に文通はやめようと書いて送る。だが、しばらくすると婚約がなくなったという手紙が届いた。シーグルドはハンネの心の痛みに寄り添うように慰めの言葉を綴って何通も送った。それはたしかに傷ついたハンネの心をやわらげた。

 そのうち、今度はシーグルドが不幸に襲われた。両親が亡くなり子爵を継ぐことになり、後見人探しに忙しく手紙を書けなくなった。シーグルドの手紙が心の支えになっていたハンネは、突然止まったことを不思議に思い事情を調べた。シーグルドの置かれている状況を知ると、自分が辛いときに寄り添ってくれた彼のために両親に後見人になってほしいと願い出た。伯爵家が後ろ盾となってくれたら有難いはず。だが、シーグルドは最初その申し出を拒否した。

 シーグルドはすぐにでも後ろ盾を必要としているはずなのに何故断るのか、オールグレーン伯爵は疑問に思い尋ねる。我が家では不服なのかと言われ、シーグルドはそうではないと告げる。では何故? 追求すれば覚悟を決めたように話し始めた。

 シーグルドはハンネを好きだった。シーグルドはその外見から色々と言い寄って来る者が多くいたが、欲求をぶつけられるばかりで、自分の心に寄り添ってくれる者はいない。そんな苦悩をハンネとの手紙では素直に綴れた。丁寧な返信をくれるハンネを気づけば愛するようになっていた。だから、婚約が白紙になったと聞いてハンネを傷つけた男を許せないと思った。自分ならそんな真似はしないのに――しかし、シーグルドとハンネでは身分的な釣り合いがとれない。求婚などおこがましい。できることといえば彼女を慰める言葉を綴るぐらいだ。そんな自分を情けなく感じていたのに、更にはハンネの両親に面倒を見てもらうなど男としての矜持が許さない。

 話を聞いて、オールグレーン伯爵は言った。

「君の気持ちはわかったが、ここで意地を張って、後見人を見つけられるのかい? 矜持を持つことは大事だ。しかし、君はまだ若く人生は長い。時に矜持よりも大事にすべきこともある。君が本当にハンネを思っているというなら、私を後見人にして自身の有能さを示し、認めさせ、ハンネを娶るくらいの気概を持つのべきなのではないか」

「――チャンスをいただけるなら」

 そして、シーグルドはオールグレーン伯爵の後ろ盾を得ることになりシュメール領へと移り住んだ。

 それから毎日死に物狂いで領地経営など必要なことを学びながら、ハンネとの交流を深め、ついには熱意を認められて二人は婚約の運びになった。


「もう少し細かい部分は詰めなければいけませんが、こんな感じでいこうと考えています」


 どうだ、とベルタは自信満々に言った。


 それはなんというラブロマンスか。ベルタ夫人は物書きの才があるのではないか。――聞かされたシーグルドの最初の感想だ。

 しかし……あながち無茶苦茶な話でもない気がした。シーグルドは、自身の容姿ばかりが注目されることに関して自分なりに折り合いをつけたが、もし、ベルタの語ったような文通相手がいて、悩みや愚痴を聞いてもらえていたら、彼女だけは自分を理解してくれると思い心を寄せたかもしれない。――想像し、なくはないと思うのだ。

 それに、高貴な身分の令息が酷い目に遭った令嬢を見初めるよりも、身分は下だが愛の為に令嬢の両親に認められようと奮起して見事に婚約者となった子爵という方が共感も応援もされやすいだろう。

 あとは、演技力次第。


 なかなか考えられた内容だと妙に感心していると、


「承諾していただけますね」


 シーグルドが馴れ初め話に肯定的な感情を抱いていることを察して、勝機とばかりにベルタが畳み掛けてきた。 

 それに気圧される形でシーグルドは頷いた。

 

 こうして、シーグルドとハンネの婚約は成立した。


 ほとんど勢いに任せてしまったが、冷静になってからもシーグルドは後悔はしなかった。

 もともと独身でよいと考えてたくらいである。婚姻に何も期待していない。シーグルドが唯一気にしているのはマリアンネのことだ。両親がいなくなった今、自分が立派な淑女に育て、マリアンネを幸せにしてくれる男の元へ嫁がせたい。そのためにシーグルド自身がきちんとしている必要がある。だから、オールグレーン伯爵家への婿入りはありがたい。マリアンネの教育までしてくれるというのだからおおよそ理想的な話だ。

 あと、単純にオールグレーン伯爵夫妻、特にベルタに好感を持ったというのもある。貴族は常に笑顔で、腹の底で様々に己の利を得ようとするものだ。しかし、ベルタは実に率直だった。ハンネの婚約白紙についても、復讐についても、まだ引き受けたわけでもないシーグルドにあそこまで話す必要はない。だが、話さなければシーグルドの疑念は払拭できないと真実を告げたのだろう。年若い、身分も下のシーグルドにずいぶん真摯に対応してくれたものである。条件も生活についての面倒はすべてみるし、婚姻にかかる費用も当然持つ。シーグルドに望むのは伯爵家を継げるように勉学に励み、ハンネと友好的な関係を築いて、この家を将来守っていくこと、と破格でここまでよい条件の縁談はこの先巡ってこないだろう。断る理由がない。シーグルドはベルタの心意気に応えようと思ったのだ。

 だが、一番の理由は疲れていたということかもしれない。両親を失って、不安がる妹に寄り添いながら、マッティラ伯爵の圧力をかわしつつ、別の後見人を探すことは精神をすり減らす。だからもう早く楽になりたくて、少なくとも遺産を横領されそうにはないオールグレーン伯爵夫妻ならと思う気持ちがあった。最悪のときは、逃げ出せば良い。その準備だけはして流れに身を任せたのだ。


 しかし、オールグレーン伯爵家での暮らしは予想よりはるかにも快適なものだった。


 聞いていた話と実際は違うというのはままあるが大抵のそれは悪い意味で異なる。だが、オールグレーン伯爵夫妻は言葉以上にシーグルドたちによくしてくれた。

 シーグルドに施される教育は膨大で毎日くたくたになったが、本気で後継者に育てようとしているのがわかるため、懸命に期待に応えようと頑張った。やればやるほど彼らは認めてくれる。それが嬉しくもあった。

 オールグレーン伯爵夫妻は娘ハンネのために婿を探していたが、それとは別にシーグルドの身の上に同情しシーグルドとマリアンネのことも考えてくれていると感じられた。

 

 申し分ない生活――問題があるとするなら、ハンネとの関係だった。


 ハンネとは、オールグレーン伯爵家に着いてすぐに対面した。

 第一印象は、可もなく不可もなく、取り立てて強く印象に残るところがない令嬢だった。それは悪いことではない。会ってすぐシーグルドの容姿に欲望をにじませるような者たちもいるので、そうではなかったことに安堵した。

 初対面のあとは、皆、長旅を終えて疲れ果てていたので、早々に休むことになった。

 きちんと話ができたのは翌日の昼、改めて今後のことを打ち合わせた。

 どうもベルタはシーグルドにした二人の馴れ初め捏造話をハンネにはしていなかったようで、聞かされた彼女の第一声が、


「それは無理があるでしょう」


 だった。

 とても真面である。

 ベルタは自信満々だったし、オールグレーン伯爵は何も言わなかったし、シーグルドは案外行けるのではと思ってしまったが、こうして否定されると急に目が覚める思いがした。


「何も無理なことはないでしょう」


 しかし、ベルタはそうではないらしい。

 どこが無理だというの? とハンネに問うた。


「このような物語みたいなことが現実で起きるはずがありませんもの。誰もが嘘だと見抜きます」

「そんなことはありません。人が想像できるものは現実になるのよ。物語みたいというけれど、物語みたいな恋愛をする人だっている。『オルコットの花売り娘』は実話を元に書かれた話でしょう」


 オルコットの花売り娘とは、貧しい農家の花売り娘が侯爵家の令息に見初められて結婚するという話だ。そのようなことが起きるのだから、シーグルドとハンネの話だってありえるとベルタは主張するが。


「……たしかにそういう運命的な恋をして結ばれる人はいるでしょう。でも、それは特別な人たちの話であって私はそうではありませんから」

「そんなことわからないわ。誰の身にも起きる可能性はあるでしょう」

「ありえません。わたくしなん」


 言いかけて、ハンネは口をつぐんだ。

 先に続く言葉――わたくしなんかに――というのは予想できた。だが、自分を卑下するような発言は両親に向かって言っていいものではないと呑み込んだのだろう。

 少し間をおいて、


「とにかく、そのような馴れ初めを作らなくても普通に婚約しただけでよいではありませんか。何故、話を大きくするのですか」


 言う通り、わざわざ世紀の大恋愛のように仕立て上げなくとも婚約予定の者とうまくいかなかったので、別の者と婚約しましたとそれだけでよいといえばよいが。


「ハンネ。貴方は貴族社会というものをまだわかっていないわね。貴族は何よりも体裁を重んじるの。急ごしらえした婚約と、結ばれるはずがなかった二人が運命のいたずらで婚約するにいたったというのでは、まったく印象が違うの。あなたは、あなた自身のためにも、この家の名誉のためにも、愛されて愛されて婚約をした令嬢として羨望を受けなければならない。あの無礼な男のことは許しがたいけれど、あの男が別の令嬢と婚約したおかげで、本当に心通わせられる相手と結ばれ、幸せになったと思わせなければならないのよ」


 視座が違う。

 ハンネの目立ちたくないという気持ちはシーグルドにも理解はできる。先程の発言からみても、婚約白紙の件で随分と自尊心を傷つけられたのだろう。ひっそりとしていたいと考えるのは当然だ。とはいえ、このままではベルタが心配するように悪い噂を受けるかもしれない。新しい婚約者は必要で、だからハンネもそこまでは許容できる。しかし、何も主張せずに嵐が去るのをじっと待っていればいいのではないかと考えている。

 それは一つの方法だろう。

 しかし、あくまでも、先方が何も言わずにいた場合に限り有効な手段だ。

 世の中、善人ばかりではない。人の不幸を喜ぶ連中もいる。件の令息に、ハンネとの婚約話が決まりかけていたのにどうして別の令嬢と婚約したのかを聞くような者がいないとも限らない。そのとき、何と答えるか。多少なりともハンネに配慮するような常識を持ち合わせていれば言葉を濁すだろう。それならば、真実は藪の中、様々な憶測はされるだろうがどちらがどちらを振ったのかなど分からない以上は、ハンネの評判もそれほど傷つかずに済む。しかし、そうでない場合はどうなるか。黙っていることは、令息の方が振られたのではないかと推測される可能性もあるのだ。令息がその不名誉を我慢するだろうか。令息が我慢しても相手の令嬢は? ハンネのことより自分たちの評判を優先し、「現在の婚約者を愛してしまったから」と話すことを考慮するべきだ。もしそうなればおしまいである。たちまちにハンネは振られた令嬢と噂される。そうなってから否定しても後の祭り。振られて、焦って、新しい婚約者を見繕った哀れな令嬢にされてしまう。ならば、先にこちらから、振られた事実を正直に認めた上で、振られたからこそ叶った運命の恋としてハンネとシーグルドの馴れ初めを広めてしまう方が良い。

 ここで踏ん張らなければ、この先ずっと俯いて生きていくことになる。正念場なのだ――酸いも甘いも噛み分けたベルタはそう考える。


 シーグルドはベルタの考えに賛同の気持ちが強かった。

 この件はハンネだけの問題ではない。

 ハンネに悪評がつけば、必然的にその婚約者であるシーグルドも、振られた令嬢の慰めに買われた男、顔のいい奴は得だな――と悪意を投げられることが安易に想像できた。そうなれば、マリアンネの将来にも陰りが生じる。将来どころか、マリアンネ本人に、自分を育てるために兄が身売りをしたなんて思われてはかなわない。それならば、ベルタの筋書きを真実とする方が何倍もよい。ここでハンネに拒絶されては困るのだ。

 だから、ベルタを援護してハンネに納得してもらわなければならない。

 しかし、それをそのまま伝えるのは悪手だ。ハンネは婚約白紙で心を踏みにじられて傷ついて心の余裕がない状態である。そんな相手にシーグルドのことも考えてくれと告げるのは思いやりのない無神経な発言だ。

 どうしたものか……と言葉を探しているとベルタが続けた。


「それにね、貴方が嫌だと言ったところで、もうこの話は広まっているのですよ」

「え?」

「シーグルド子爵がこちらにくるとき、領主の許可を得る必要があったのです。そのとき私たちが子爵の後見人となる経緯を話す必要があった。だから、二人の馴れ初めと、子爵の頑張り次第では二人を婚約させることも視野に入れているとお伝えしたのです。皆、子爵のことを応援するとおっしゃってくださったわ」


 ハンネは目を丸くしたが、シーグルドも驚いた。

 領主への許可にはシーグルドも同席して調印をしたが、いやにすんなりと終わったなと思っていた。すんなり終わったのではなく、すんなり終わるように事前にすべて整えていたことを今になって知ったのだ。

 そういえば帰りの際にリングリドア領主から「頑張るように」と声をかけられた。それは新しい土地で心機一転頑張れという意味に思ったが、ハンネを射止められるようにとの意味合いだったらしい。


 ちなみにだが、シュメール領に移ってもシーグルドの爵位がなくなるわけではない。リングリドア領を離れる以上は貢献が減るために、それを補填するため爵位維持の費用を支払う必要はあるがそのまま存続できる。費用はそれなりの額だが、子爵の地位を持って婿入りするのとそうでないのとでは周囲の見る目が全く変わるので返上するという選択肢はなかった。その費用もオールグレーン伯爵家が負担すると申し出てくれたが、流石に断った。自分で維持してこそ貴族である。

 

「……お母様……」


 ベルタの話にハンネは動揺したが、もうこうなれば諦めるしかないと最後は頷いた。

 ハンネに言わずにいたのは、反対すると思ったから受け入れるしかない状態にして話したのだな、とシーグルドはベルタの手腕に感嘆した。


 こうして、ハンネは馴れ初めを含めてシーグルドとの婚約を納得し、二人は婚約者としてやっていくことになったのだが……。


 シーグルドはハンネとの関係に悩むことになった。

 ハンネは第一印象通りの、可もなく不可もなくの、ごく普通の令嬢で、そして、この、ごく普通の令嬢であることが、シーグルドを大変混乱させたのだ。

 というのも、これまでシーグルドの周りには良くも悪くも灰汁の強い人間が多かったからである。特に、シーグルドの容姿を目当てにする女性たちは、自己主張が激しく、自分を愛して当然とばかりに迫ってくる。そういう者たちは傲慢だ。シーグルドはその傲慢さに慣らされてしまっていたので、そうでない令嬢というものがわからなくなっていた。

 なので、ハンネから申し訳なさそうにされると困惑した。

 何故、彼女がそんなに遜った態度になるのかわからない。いや、わからなくはない。もし自分がと想像し、婚約を白紙にされて傷ついているところに、名誉を守るために早急に新しい婚約を結んだ。相手はこちらの事情を知っていて、対外的に自分に恋焦がれているという芝居をしてくれる――そのような状況に置かれたら、いたたまれないし申し訳ないと恐縮するだろう。

 自分ならばそうだ。

 だが、シーグルドのよく知る令嬢たちなら、「わたしと結婚できるのだから嬉しいでしょう。だから言うことを聞きなさいよ」と自信満々に言う。婚約白紙で傷ついた気持ちをシーグルドで晴らそうとする。

 何故、ハンネ様はそうではないのだろう? 本性を隠しているのだろうか? ――そんな八つ当たりをしないのが普通なのだと頭ではわかっているのに、感情がついていかずに、疑念を抱いてしまう有様だ。


「坊ちゃん。私は、坊ちゃんが哀れですよ。これまでどんな苦労をしてきたのですか」


 神妙な声でそう言ったのはへムルートだ。

 シーグルドは領地経営を学ぶなど何かと忙しくしている身だが、町を訪れたときは彼の店に立ち寄る。自身が出資している店の様子を見るのも大事だとオットーからの勧めだ。ただそれは建前でシーグルドにとってへムルートは兄のような存在なので息抜きをしなさいということである。

 気心の知れた相手につい愚痴ってしまったら、ひどく同情された。

 

「そんなに哀れまないでくれ、辛くなる」

「辛くなってください。これまでが異常だったと知ることが第一歩ですよ。それからこの環境に慣れてください」

「……慣れるだろうか」

「そりゃ、慣れるでしょう」


 シーグルドは、そうだといいが、と苦い顔をしながら出されたお茶に口を付けた。

 リングリドア領の茶葉である。シュメール領の茶葉よりも渋みがあるが、慣れ親しんできたものなのでほっとした。


「しかし、良識ある令嬢というのはこんな感じなのだな。控えめすぎてどう接すればいいのかわからない」

「リードするのは男の役割ですから」

「まぁ、そうなのだが……私が近づくと恐縮されてしまう。先日も、休日だというのにマリアンネがハンネ様と一緒にいると言い出して困っていたのだが、彼女は別に構わないと言ってくれたんだ。それよりも、私の方が疲れているだろうから休むようにと気遣ってくれた。マリアンネを任せて一人で休むなんてできないから、なら、私も一緒に過ごすと告げたら困惑された」

「ふふ、はじめて女性に拒絶されて傷ついたんですね」


 ヘムルートはにやにやと人の悪い笑みを浮かべている。

 シーグルドは少しムッとして、


「別に拒絶はされていない。困惑はされたが、その後は一緒に過ごした」


 一緒に過ごしたといっても同じ部屋にいただけで、ハンネとマリアンネは手芸をし、シーグルドは少し離れた位置で本を読んでいたのだが。

 そういえばあのとき、マリアンネがぬいぐるみを作ってもらっていた。

 完成したものに「クリスティアーナ」と母の名を付けたときは驚いたが、それを知ったハンネが、父のぬいぐるみも作った方がいいのではないかと提案してくれた。父と母は並べたいだろうと。

 シーグルドはその気持ちがとても嬉しかったのを覚えている。


(ハンネ様はよい方だ)


 それを否定して、何故傲慢ではないのか、本性を隠しているのかと疑うなど失礼だ。

 思い込みや過去の経験則で判断するのではなく、目の前の人物を素直に受け入れるようにならなければ、この恵まれた環境を失うことになるだろう。

 シーグルドは、はぁ、と息を吐きだした。


「私は、変わらなければ……変わりたいと思う」

「そのように自ら思われることは、大変結構なことかと存じます」


 シーグルドの宣言に、へムルートは大仰な物言いで頷いた。


 その後、シーグルドはハンネとぎこちないながらも交流を重ねた。

 時間あるときは積極的に話かけたし、オールグレーン伯爵に連れられて遠出したときなどは必ず土産を買ってきた。

 ハンネもまた、シーグルドを気遣ってくれた。顔を合わせると申し訳なさそうにするのは相変わらずだが、毎晩、寝室のサイドテーブルには彼女の指示で、疲れがとれるようにとハーブティーとチョコレートが置かれる。はじめはハーブティーだけだったが、マリアンネに「寝る前に甘い物を食べるのがお兄様の密かな楽しみなのです」とバラされてからはチョコレートも用意されるようになった。何気ない会話を覚えていて、それを準備してくれる。シーグルドの心は温かくなった。

 休日に出掛けたりもした。

 最初に誘ったのは町の散策だった。


「町にですか?」

「はい。仕事で何度か訪れましたが、まだゆっくりと見たことがないのでもしよろしければご一緒していただけないかと思いまして」

「ええ、それはもちろん。わたくしでよければ案内させていただきますわ。きっと、マリアンネも喜びますわね」


 ハンネはごく当たり前にマリアンネも一緒だろうと返してきた。

 そう言われては二人ですとは言い出せず、結局三人で出掛けた。ハンネとマリアンネはすっかり親しくなっていたので、マリアンネがいるとハンネも多少シーグルドに気を許すようだった。

 以降も、出掛けるときはずっと三人だ。

 秋の収穫祭、各地を回るサーカス団の寄席、芝居見物……本当は観劇に誘ったのだが、それはまだマリアンネには早いだろうと大衆向けの芝居にしようと言われたのである。

 マリアンネを大切にしてもらえるのは嬉しい。だが、何故だろう、シーグルドの胸はもやもやした。

 出先では、ハンネとマリアンネが手を繫いで先を行き、その後ろをシーグルドが歩く。

 それもどうなのだろうか? とシーグルドは思う。

 これではハンネとマリアンネのお出かけに無理やりついてきているようではないか。二人が楽しいならそれでいいと思う気持ちとは裏腹に、なんとなく、なんとなーく、腑に落ちない。 

 それをまたへムルートに言えば、


「男の嫉妬はみっともないですよ?」


 と笑われる。


「嫉妬などしていない」

「そうですか? でも、マリアンネ様をとられたようで寂しいのでしょう?」

「え」


 そう言われて、シーグルドは惚けた。

 マリアンネをとられたようで――そうではない。ハンネのエスコートは自分がするべきなのにと不満に思ったからで。

 

「あ」


 唇から、小さなつぶやきが漏れた。

 次に、カッと頬が熱くなった。


「……おや、これは、予想外の展開ですね」


 シーグルドの様子に、すべてを察してヘムルートが言った。

 

「いや違う。これはそういうのではなく……たしかに、彼女が親切にしてくれていることを嬉しいと感じるが、それと恋とは違うだろう。私はそんな簡単に人を好きになったりはしない」


 シーグルドは慌てて否定した。

 彼はずっとエキセントリックな令嬢たちに振り回されて、嫌な目に遭ってきた。女性に対してあまりいい感情を持てずに生きてきた。そんな中で、ハンネはようやく出会った良識ある令嬢だった。彼女とならば互いを思いやり穏やかな日々を過ごせるだろうと思った。だが、そこに情熱は存在しない。あるのは友愛や親愛といったもののはずだ。

 なのに、好きになっていたなど、それはあまりにも、あんまりにも、単純すぎるのではないか。常識のある令嬢なら誰でもよかったとそんな風にも思えて、シーグルドは自分の不誠実が不快だった。


 だが、ヘムルートは静かに首を振って、


「いいえ、それは違いますよ。人は簡単に人を好きになるものです。何か特別なことがあったからではなく、何か劇的なことが起きたからではなく、無慈悲なまでにあっけなく、ある日突然、人は恋に気づくのです」

 

 整然と言い切るものだから、シーグルドは呆気にとられた。


「だいたい、他の誰かに恋をしたなら問題ですが、ご自身の婚約者なら何も問題ないじゃないですか。むしろ、好きになれたのならよかったと喜ぶべきが、否定する意味がわかりません」


 たしかに、その通りである。 

 その通りだが。


「其方は、時々、容赦がなくなる」


 シーグルドは渋面を作った。どうしてもそんなにすんなりとは認められない。

 ヘムルートはやれやれと肩をすくめた。

 

 だが、その日を境にシーグルドに変化が起きた。

 ハンネを好きだとまだ認めてはいないが、その可能性を自覚したことで意識してしまう。そのせいでこれまで何気なくしてきたことが、ひどく気恥ずかしいものに感じられた。

 たとえば朝のエスコート。こちらの屋敷で過ごし始めて三日目、朝食をとるために部屋を出たら階段の前でハンネと鉢合わせた。シーグルドはハンネに手を差し出した。目的地が一緒なのだから、そうするべきだと思った。ハンネは驚いたような顔をしたが、申し出を断るのも失礼だと思ったのか受け入れてくれた。それを見たベルタが、


「まぁ、仲のよろしいこと!」


 と喜んだのは言うまでもない。


 以降、シーグルドは毎朝ハンネをエスコートしている。

 ハンネはしきりに恐縮し、構わずに一人で行ってほしいと言われたが、「ハンネ様とはなかなか交流の時間をとれませんから、せめてこのひと時だけでも」と返せばそれ以上は抵抗はされなかった。

 こうして、二人は毎朝階段前で待ち合わせて食堂までを共にするようになった。

 それは婚約者として、ハンネとよい関係を築いていこうとするシーグルドの誠意の表れであり、だからこそハンネも受け入れてくれたのだろうが……いざ、ハンネを好きかもしれないと思えば、なんて気障ったらしい真似をしているのかとシーグルドは頭を抱えたくなった。

 シーグルドは今更になって緊張するようになった。どうしてこれを当たり前にできていたのかわからなかった。それをハンネに気づかれて体調でも悪いのかと心配されたときには叫び出したいくらい情けなかった。


 他にも様々なところで、シーグルドを動揺させた。これまで出来ていたことがとんでもないことのように感じ心をざわつかせてしまう。

 それでもまだハンネへの気持ちを認めることはなかったが。


 だが、頑ななシーグルドに、神が業を煮やしたのか、運命の日はやってきた。


 その日、いつものようにオールグレーン伯爵から教育を受けるために出かけていて帰りが随分と遅くなった。

 シーグルドは部屋に戻る前にマリアンネの元へ向かった。

 もう眠っているだろうが、おやすみの挨拶もできなかったので確認である。何事かあるわけもないのだが、両親を突然事故で失ったことがシーグルドの中でしこりになっている。いつ、どこで、どうなってしまうかなどわからない。だから、唯一の肉親であるマリアンネの無事を自分で確かめないと安心して眠れない。

 部屋に入ると、サイドテーブルには灯りがついていた。

 消し忘れたのかと思ったが、ベッドに近寄ってシーグルドは息を呑んだ。

 すやすやと寝息を立てるマリアンネの隣にハンネが眠っている。

 よく見るとハンネの手元には絵本がある。

 シーグルドがマリアンネの無事を確認しなければ眠れないように、マリアンネもまたシーグルドが無事に帰ってくるか心配している。両親の死に傷を負ったのはマリアンネも同様なのだ。だから、シーグルドの帰りが遅いときは、ハンネがマリアンネを安心させるために寝かしつけてくれているのは話に聞いていた。今日もそうだったのだろうが、そのまま一緒に眠ってしまったらしい。


(何故、彼女はこんなにもよくしてくれるのだろう)


 シーグルドには不思議でならなかった。慣れない土地に越してきたばかりの婚約者の妹。両親を失った可哀想な幼子。同情する理由ならあげられるが、同情することと実際に行動することは必ずしも一致しない。口先だけで哀れむ言葉を告げる者も大勢いる。ハンネは伯爵家の令嬢なのだ。マリアンネの面倒など使用人に任せることだってできるだろうに、しかし、彼女はそれをよしとはせず、マリアンネを慈しんでくれた。それを彼女は当然のことだと言うが、当然ではないことをシーグルドは知っている。

 両親が健在だった頃、リングリドア領の祭りにシーグルドとマリアンネが出掛けた先で、シーグルドに好意を持つ令嬢に出くわしたことがあった。あのとき、彼女はマリアンネを邪険にした。シーグルドと二人になりたいから、親切そうな顔で「あのお菓子買っておいで」などいって追い払おうとした。そのような露骨な真似をする者は少ないが、内心では邪魔だと思っているのだろうとわかる者も多く見てきた。

 その度にシーグルドの中に苦い気持ちが広がった。

 自分の家族を邪険にするような者を好きになるはずがない。少し考えれば、嘘でもマリアンネを大切にしようというポーズをとる方が得策だと考えるはずだ。そんな知能もない愚か者なのか。それとも、シーグルドにさえよくしていれば靡くと思われているのか。だとしたらとんでもない侮辱だ。――いや、そもそも彼女たちは自分に好かれたいとも思っていないのではないか。ただ隣に立ってにこやかにしていればいいと、飾り物程度にしか思っていないのではないか。

 考え出すと止まらなくなった。だが、そんな風に憎悪を強めて、相手を悪く思っている自分を何様かとも思った。それはとても苦しいことだった。

 しかし、ハンネといてもそのような苦しみを抱くことはなかった。彼女はマリアンネを本当に可愛がってくれている。それよりもシーグルドとの婚約にこそ未だに思うところがあるようで、打ち解け切れていない有様だ。

 これまでとは真逆の状況に、こういう風な令嬢もいるのだなと女性に抱いていた不信感が少しだけ払拭されていく。何よりも、自分を嫌な奴と思わずにいられる。それはありがたいことだ。

 彼女のような人と婚約できて嬉しい。

 両親を失って、絶望の淵に立たされて、明るい未来を想像することが難しかったあの状態から、これほどの幸福が訪れようとは夢にも思わなかった。

 だから、だからこそ、認められなかった。ハンネに魅かれていることを認めるわけにはいかない。

 恐ろしかったから。

 再びまた不幸に見舞われることを。この幸福に浸り切ってそれを失ってしまったら自分はどうなるだろうと考えて身体が竦んだ。こんな夢のような幸福がいつまでも続くとは思えない。ならば、最初から手に入れようと思わなければいい。この婚姻は契約でしかないのだと。

 

 だが。


 小さな灯りが、ハンネを照らしている。その顔は無防備だ。

 シーグルドはそっと手を伸ばし、ハンネの髪に触れた。

 その直後、どくり、と大きく心臓が鳴って、


(ああ――……)


 何故この瞬間なのかはわからない。

 わからないが、すとん、と落ちてしまった。

 あれほど頑なに否定していた気持ちだというのに、あっけないほど容易く、どうしようもないほど強靭に、後戻りできないほど深く、シーグルドは恋に落ちたことをはっきりと自覚した。

読んでくださりありがとうございます。


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