出発
春の柔らかな日差しが差し込む室内。床にカーテンレースの模様を映し出し、花冠を被った天使が踊っている。これはヘムルートから購入した品だ。彼の店の応接室に使用されていたものに一目惚れした。リングリドア領はレース編みが有名で独自の編み方があり、その細かな模様が光を浴びると床にくっきりとした絵を浮かばせて、光陰のアートのようになるのだ。
窓の傍の椅子では、マリアンネがこくりこくりと転寝をしている。
本日は領主主催の「新年を寿ぐ会」が催される。ハンネは姿見の前に立って着付けの途中で、オールグレーン伯爵夫妻もシーグルドも身支度をしているだろう。六歳にならないと出席できないので、マリアンネだけが暇を持て余し、ハンネがドレスアップされていく様子を見ていたのだが、陽気のよさに眠気が襲ってきたのだ。
ほんの数分前まで、綺麗です、と言って傍をスキップしたりくるくる回ったりしていたのに、静かになったなと思ったら眠っている。子どもは存外敏感だ。昨日からなんとなく屋敷の空気がそわそわしていた影響を受けマリアンネもよく眠れなかったのだが、緊張の糸が切れてしまったらしい。ハンネはメイドと顔を見合わせて、小さく笑いながらマリアンネを自身のベッドに寝かせてあげてほしいとお願いした。
その間、ハンネは鏡の中の自分を見つめた。
衣装一式はシーグルドが贈ってくれたものだ。
ドレスと婚約指輪については、オールグレーン伯爵領にいるときに既に渡されていたのだが、数日前、衣装の最終チェックとして着てみたときに、髪飾りとネックレスとイヤリングとブレスレットの一揃えも贈られた。婚約指輪と共通のデザインであるのがわかる。
「当日の朝に渡したかったんだが、髪飾りに合わせた髪型とかも事前に考えたりしなければならないだろうから、それはよくないなと思って……」
シーグルドは少々残念そうな物言いだったが、彼の考えはおおむね正しい。他のパーティでならサプライズも気楽に受け入れて喜んだだろうけれど、寿ぐ会は失敗できない舞台だ。最大限に美しく見えるように事前に打ち合わせをしている。当日の朝に贈られても焦っただろう。
実際、髪型を後ろでまとめるものに変えた。予定していたのはハーフアップで右横に髪飾りをつけるものだった。しかし、贈られた装飾品はシーグルドの瞳の色であるルビィなので、正面から見てイヤリングとネックレスと髪飾りがすべて見えてしまうのは主張しすぎだという判断だ。
ハンネはそっとイヤリングに触れた。
縦に三つ並んでいる石が輝く。光の反射で色が濃くなると太陽の元にいるときのシーグルドの瞳の色とよく似ている。
彼からの贈り物を知る前はダイヤモンドがあしらわれた品を身に着けるつもりでいた。ベルタは婚約指輪と同じルビィに合わせるようにと言ったがハンネが拒絶した。いくら仲の良さをアピールする必要があるとはいえ過剰演出だと思ったからだ。やりすぎるとかえって怪しまれると言えばベルタも引き下がったが――まさか当人から贈られるとは思わなかった。
当然、ベルタは喜び、それを見たハンネは「シーグルドから贈られたら否とは言わないだろう」と考え彼に頼んだのではないかと訝しんだが。
「……いや、これは自発的に用意したものだよ」
シーグルドはハンネの疑惑を軽く笑い飛ばした。
嘘はないようだったが、だからこそハンネは呆気にとられた。
「自分の色のドレスと婚約指輪を贈るというのがリングリドア流と前に話したけれど、他の宝飾品もそれに合わせる人が多くいるから、ハンネもそうかなって……ならデザインも揃っていた方がいいと思って用意したんだ」
だが、続いた話にハンネは納得した。
シーグルドにとって婚約披露にパートナーが自身の色を全身に纏うことは大それたものではなく、普通のことなのだ。ならば好意を無にすることをこれ以上言うつもりはなかった。
ハンネとて嫌というわけではない。ロマンス小説で主人公が恋人から彼の色のドレスと宝飾品を一式贈られてパーティに向かうシーンに胸を躍らせたことだってある。ただ、ああいったことは物語の中だけで、贈られたとしても全身ではなく一部分に取り入れる程度というのが現実なのだといつしか認識を改めた。ロマンス小説は乙女の夢でしかないのだと……しかし、それが現実になった。
単なる夜会ではなく、婚約披露だからという建前は一応あるが。
(絶対目立つよね)
ただでさえシーグルドと一緒にいれば注目を浴びることは身をもって味わっている。悪意ある視線をすでに受けたこともあるので、何か言われたりするのではないかと心配が先に立つ。喜びだけではいられなかった。
そんな風に人の目をしきりに気にしてしまうことに、ハンネは自分でもうんざりする。誰かに文句を言われるような行為ではないのだから開き直ればいい――そう思うのになかなかうまくはできなかった。
支度が終わると、マリアンネに声をかけた。
このまま抱き上げて彼女の自室に連れていくこともできたが、シーグルドの正装した姿を見たいだろうと思ったからだ。
マリアンネはもぞもぞと起き上がり、眠っているのがハンネの部屋だと気づくとすべてを思い出したようで顔を赤くした。それから、ハンネの姿を見て嬉しそうに「とっても素敵です」とにこにこ言うや、次に「お兄様に知らせてきます」と勢いよく部屋を出ていった。
ハンネもそれに続いて廊下に出た。
歩くとスカートに質量感がある。正式な夜会用のドレスを着て出かけるのは初めてだ。
本日は婚約披露であり、ハンネのデビュタントでもあった。
寿ぐ会は、午前中に六歳となった貴族の子息令嬢たちの洗礼式があり、夕方に洗礼式を終えた子どもたちの紹介、婚約した者たちの発表がされる。そのあと、十四歳未満の者は帰宅し夜会に移り変わる。その夜会で十五歳になった者たちのデビュタントが行われるのだ。
ハンネとイザークの婚約についてハンネが十五歳になるまで正式に交わされなかったのもデビュタント前だったからである。婚約する年齢に規制はないが、せっかくなら社交デビューに合わせた方がいいという判断だ。今となっては、正式に交わさなくてよかった。もし、公表後なら白紙ではなく破棄となりハンネは傷物令嬢の烙印を押された。
……いや、二人の婚約話は一部では噂になっていたから、今日の振る舞い次第では正式な婚約前でもその烙印を押されてしまう。そうならないためいろいろと計画をしてきたのだ。
ハンネは年明け前に、寿ぐ会についてシーグルドと話し合ったことを思い出していた。
あれは、二人で温室のあるカフェテリアに行ってから数日後だったはずだ。
カフェテリアでも寿ぐ会のことを口にしたが、話が少しずれてしまい、もう一度、きちんと話しあった。
二人の馴れ初めについて、長年手紙のやりとりをしていたことを、イザークという婚約予定者がいながら別の男性と交流を持ち続けていたのかなどと意地悪い指摘をする者がいるかもしれない。もっと根本的なところで、一度しか会っていないのにその後ずっと文通をしていたなどありえないという否定もあるだろう。イザークも容姿に恵まれていたから、シーグルドを見てハンネが外見で相手を選んでいると言われたり、それに対してシーグルドを「うまく取り入ったな」という者――想定するだけでもいくつもケチをつけられる可能性が浮かぶ。というよりいくつかはすでにパルペに来てから出かけた先で言われていた。それらすべてを鷹揚に構えて、醜い嫉妬をして難癖をつけられても困ると、他人が何をどういったところで自分たちはこうして愛し合い婚約をしたことは事実であると惚気けやりすごしてきた。
堂々としていれば、深く追求されることはない。そもそも、相手に何か確証があって言ってきているわけでもないのだ。
とはいえ、実際のところは嘘であるのだから、突っ込まれると神経をすり減らしてしまう。偽りを真実のように振る舞うことに後ろめたさがある。
それはハンネが初めて味わうものだった。
ハンネはこれまでほとんど嘘をついたことがない。そのような必要がなかったのだ。故に「嘘はいけないもの」という道徳的な考えを信じてもいられた。信じていた分、必要以上に罪悪感を持ってしまう。
ハンネはこの不安に気付いたとき愕然とした。
清濁併せ呑む――伯爵家に生まれ、領地を守っていかなくてはならないのだから、正直なばかりではいられない。きちんとわかっているつもりだったが、だが、実際に自分がそれをやってみたことはなく、嘘をつくことに非常に負担を感じてしまっている現状に呆然としたのだ。
そして、思うのは、自分は本当に甘やかされて生きてきたのだということ。
正直に生きていられる。真っすぐでいられる。それは守られていたからに他ならない。
嘘をつくことがいいこととは思わないが、いい悪いという考えで推し量るものではそもそもない。自分を、大切なものを守るために、必要になるときがある。ハンネはその必要は今まで感じたことがない……それはそういう状況にたまたま陥らずに済んだわけではなく、ハンネがそれをする代わりに誰かが引き受けてくれていたということだ。
それは誰か――父であり、母であり、そしてイザークである。
両親については子どもを守りたいという愛情から、幼かったハンネを綺麗なだけの世界でいさせてくれたという言い訳もまだ立つが……イザークは違う。一歳しか年が違わない彼はうんと幼いうちから自分の心を殺して、自分に嘘をついて、ハンネに優しく接してくれていた。自分を騙すことにどれほど罪悪感を抱いていたかはわからないが、少なくとも偽りが知らず知らずのうちに精神に害を及ぼしてはいただろう。そのようなことをさせている隣で、ハンネはそのことにまったく気づかずに過ごしてきたのだ。
それだけではない。今もまた、自分の事情に巻き込んで、今度はシーグルドにも嘘をつかせている。一番の当事者であるハンネ自身が、この嘘をつくことに抵抗を感じ、負担を感じているのに、何の関係もない彼にもそれをさせている。申し訳なくて仕方なく、それについて面と向かって初めて正式に謝罪をしたのだが。
「……私は、嘘をつくことにハンネほど抵抗はないんだ。だから私に対してそんな負い目を感じることはないよ」
シーグルドは静かな声で言った。
「前にも話したけれど、私はその……令嬢から誘われたりすることがあって、そういうとき角が立たないように適当な嘘をついて断ったりしてきた。それに対して申し訳ないなという気持ちがまったくないわけではないけれど、罪悪感を抱いたりはしない。それをしていたらしんどくなるから、割り切ることを覚えた。だけど、たしかに、初めてそうやって嘘をついたとき、ハンネが感じているような葛藤を持ったようにも思う。嘘をつくことを自分に許すというのは難しいことだった。自分を守るために、或いは相手を傷つけないために、と正当な理由を浮かべても嘘は嘘だから。でもそれは少しずつ自分の中で折り合いをつけていけるものだよ。嘘は良くないということと、嘘をつくことが、同時に自分の中でどちらもおかしくないものとして成立する。うまく説明できないけれど……そうだな……言葉を選ばずに言えばそういうその場その場で自分に都合よく調子のいい方を選ぶことを、否定することなく受け入れられる心境になれる。そこまでの道のりは自分でやっていくよりないから、苦しむかもしれないけれどね」
その言葉は、ハンネの中に深く落ちてきた。
ハンネは嘘をつくことへの負い目もあったが、このような悩みを持つことそのものにも負い目――つまり自分の幼さについても苦しんでいたからだ。
世の中には幼いうちからもっと厳しい環境に生きている人がいる。嘘の一つや二つで罪悪感を覚えて不安になっているなんて、これまでどれほど恵まれた環境にいたのだと鼻で笑われるだろう。その通り、ハンネは自分がとてつもなく恵まれて暮らしてきたことを実感したし、甘やかされていることも理解したが、だからといって生じた悩みを捨て去ることはできなかった。
だが、そんなハンネの悩みに対して、シーグルドは馬鹿にすることも笑うこともなく、自身もまたそういった葛藤があったことを打ち明けてくれた。無論、彼がその悩みにぶつかったのはもっと幼い頃で、デビュタントを迎える年になってようやくこの悩みにたどり着いたハンネは幼稚ではあるのだろうけれど、それでも悩みそのものを否定せずにいてくれたことは嬉しかったし、この悩みには答えがあることを示されたこともハンネを落ち着かせた。
シーグルドの、これまでの日々の中で人として乗り越えてきたもの、それ故に持つ言葉の説得力に、ハンネは羨望を抱いた。自分もそのように言葉を持つようになりたいとも。
そのためにも、ハンネはこれから、他の人々が取り組んできたことを取り組み始めなければならない。随分遅れをとっていることを考えれば、憂鬱にもなるが、それでも、もう逃げるわけにはいかない。幼稚な自分が一足飛びで大人にはなれるわけではないが、イザークとの婚約白紙をきっかけにして見えてきたものをきちんと受けとめて、少しずつでも大人になっていく。
その初めの一歩として、寿ぐ会である。
階段まで来ると階下にすでにシーグルドの姿があり、興奮気味のマリアンネが一生懸命話しかけている。ハンネに気づくと、マリアンネが階段を駆け上がってきた。その行動に「マリアンネ」とシーグルドは咎めの声をかけながら、視線はハンネを捉えた。
シーグルドのタキシードは濃い目の茶色でハンネの髪の色でもある。中のウェストコートもはじめは茶色一色だったが、チェック柄にする方が若々しくてよいとなりそちらになった。シーグルドが一人で立っていればお洒落な紳士、ハンネと一緒にいれば完全な一対となる仕上がりである。
並んだときの感じを見るために、事前に試着して隣り合って立ってみているので彼の正装姿はすでに知っている。そうであるのに、シーグルドの立ち姿にハンネは動けなくなる。――あまりの美しさに。
(髪型が変わっただけでこれほど違うものかしら?)
シーグルドはこれまで肩にかかる長さの髪を後ろで一つにまとめていた。前髪も目が隠れるか隠れないかという長さで、できるだけ顔を出さないようにしていた。そうして少しでも注目を浴びることを避けていたのだろう。残念ながらそれで隠れてしまう美貌ではなく、どちらかといえば物憂げな耽美さを醸し出し、色気となっていたのだが。
しかし、三日前に髪を切った。
さっぱりとした短髪。前髪の長さは変えなかったが、今はそれを後ろに流して彼の顔を隠すものは何もない。切れ長の目は冷たく見えることが多いし、美形となれば更に近寄りがたさを感じさせそうなのに、彼が元々持っている雰囲気が柔らかいためか、口角が自然と上がっているためか、甘いマスクという印象が強い。スラッとした長身だからタキシードのようなきっちりとした服装もよく似合う。
――知らない、男の人みたい。
男の人、と唱えた瞬間にハンネの鼓動が大きく跳ねた。
動けずにいるハンネを、シーグルドはエスコートを待っていると解釈して階段を上ってくる。
彼はハンネを見上げ、ハンネもその視線をそらせることなく、互いに見つめ合ったまま距離が縮んでいく。彼の赤い目はとても静かであり、キラキラと希望に満ちた明るい喜びではなく、どこか仄暗さを宿していた。時々シーグルドがハンネを沈黙の中で凝視することがあり、近頃は頻度が増えたように思い、そして、そんなときいつも混乱に呑み込まれるのだが、今はその比ではなく血に飢えた獣が獲物を捕獲しようとでもしているがごとく、もっとずっと緊張を強いるもので――ハンネは呼吸を止めてそれをじっと見ていたが。
「ハンネお義姉様」
先に傍にやってきたマリアンネの声で現実に戻された。
「お兄様も素敵です」
マリアンネは誇らしげだ。
あんなにも素敵な兄がいたら自慢したくもなる。普段のハンネならそれを微笑ましいと感じていただろうけれど、うまく反応できない。
その間に、シーグルドもハンネの傍まで来た。
「あ、」
と悲鳴のようなものが小さく漏れたが、シーグルドは気にすることなく、どうぞ、と手を出された。
怖いもの見たさというものか、ハンネはシーグルドを見上げた。彼は微笑みを浮かべて、どうかした? と差し出した手を取らないハンネを見ていた。その目は、さっきまでの静けさは消えていて、少しだけ頼りなく揺れて見えて、あれは何だったのか、幻想でも見ていたのかと不思議になりながら、ハンネは手を重ねた。
いつもはほんのりと冷たい彼の手は熱を帯びていた。いや、それはハンネ自身の熱だったのかもしれない。
けして強くはないがしっかりと握り返され、また一つハンネの鼓動が大きく打った。
行こうか、と告げるシーグルドに頷いて階段を下りていく。
ふわりと一段階段を下りると彼のつけている香水の香りが鼻先を掠めた。
二人の香りが喧嘩しないようにと組み合わせは調香師に選んでもらった。さっぱりとした香りになるようにしたが、香水は時間の経過やその人自身の持つ体温などで変化してくる。今のシーグルドから香るのは女性がつける香りとは明らかに違う、男性的な野性味を帯びていて爽やかと評するにはあまりにも蠱惑的だった。
(ああ、この人は――……)
ハンネは初めてシーグルドがモテるという意味を実感した。
出会ってからずっと彼の容姿を美しいと思っていたし、一緒に外出して注目を浴びるなど客観的な事実としても受けとめていたが、ハンネ個人がシーグルドの魅力を理解していたかといえばそうではなかった。ハンネにとってシーグルドは迷惑をかけている相手という印象が強く、申し訳なさばかりがあったし、何よりイザークのことで傷ついた心では彼を見て浮かれるような余裕はなかったのだ。
それが、唐突に、感じてしまった。シーグルドの男性としての魅力というものがハンネを襲った。
男性、男の人、そういった存在は考えてみればハンネは知らない。イザークと婚約予定ではあったし、彼はハンネに異性として接し、エスコートをしてくれるようになっていたけれど、やはり幼い頃から知る故の性別という垣根を越えた繋がりが色濃くあった。だがハンネはイザーク以外の令息と親しくなったことはなかったし、二人の間にあるものが真の意味での異性としての意識ではないとわからなかった。彼と婚姻していれば、それを永遠に知ることはなかったのかもしれない。しかし、ハンネはシーグルドと婚約することになった。
シーグルドとは互いに性別を意識する年齢で出会った。
だが、ハンネはシーグルドに対してもイザークと同様の感覚を持っていた。一方でシーグルドも、異性であるとの性的なアピールをハンネにしてはこなかった。彼自身、男女間のトラブルで被害を被ったことが数多あったので極力そういうものと距離を置いていたかった。そのような様々な事情が重なり、ハンネはシーグルドの美しさに圧倒されることはあれど、異性として見ることはなく、異性として見てこないハンネにシーグルドも安堵し、互いに友好関係を築けてきたのだ。
しかし、今日のシーグルドは違っていた。匂い立つような色気を惜しげもなく振りまいている。――それはおそらく、計画のためだろう。ベルタは、ハンネが振られた令嬢というレッテルを貼られないよう、イザークよりもずっと素晴らしい婚約者と寿ぐ会に出席させ、無礼な方法で約束を反故にしたカールソン家の鼻を明かしてやりたいと考えていた。そのために、シーグルドは男性としての魅力を存分に出そうと振る舞っている。――すべては意味のあること、この日のためにこれまで頑張ってきたその総仕上げなのだと、ハンネは自身に言い聞かせて平静を保つように努めた。それでも、鼓動の速まりは簡単には静まらず、二階から下りただけなのに随分と疲弊した。
「よく似合っていますよ」
少しするとオットーとベルタが姿を見せた。
ベルタは二人の姿にうっそりと笑いながら言った。出来栄えに満足したのだろう。
「マリアンネも、来年は一緒に行けますからね。今年だけは我慢してちょうだいね」
それから、マリアンネに話しかけた。
マリアンネがコクコク頷くと、メイドが後はお任せください、というようにお辞儀をする。
タイミングよく執事が馬車の準備ができたと告げにきたので、ひらひらと手を振るマリアンネを残してオットーを先頭に屋敷を出た。
寿ぐ会は、シュメール領主の城で催される。白亜宮殿と呼ばれる、名前の通り真っ白な建物が敷地内の南に設けられていて、そこが会場だ。寿ぐ会のためだけに使用される特別な場所である。
城の近くまでくると、馬車の数が増えてきた。
寿ぐ会に招待されるのは伯爵家以上の者。子爵家と男爵家については、洗礼式を行う子どもがいること、或いは婚約発表する者がいること、又は十五歳を迎える者がいるという条件で招待される。
子爵家や男爵家の馬車は一列に順番を待っているが、伯爵家であるオールグレーン家の馬車は列の傍を通り抜けて先に進める。
それでも宮殿の前まで来ると他の伯爵家の馬車があり、少しだけ待つことになる。
待っている間、本日の流れについて最終確認をする。
まず寿ぐ会が始まってすぐに、洗礼式を終えた者たちの紹介がされる。それが終われば今度は婚約した者たちの発表である。
事前に聞いているのは十三組。その中にはジャスミン・ロス伯爵令嬢もいる。
ロス派の令嬢のまとめ役としての役割を担うジャスミンだが、彼女の立場はなかなか複雑なものだった。
というのも、彼女には兄・レオンがいるのだが生まれながらに心臓に疾患を抱えていた。幸いなことに治療がうまくいき、日常生活なら問題なく過ごせてはいるが、ではロス伯爵家の後継ぎとしてはどうか……伯爵家というだけでもそのプレッシャーは大きいのに、更に派閥の長でもある。心的負担は言うまでもなく甚大であり、心臓に影響はないのか。万全を期すならば無理をさせない方がいい。長女のジャスミンを後継者にするべき。しかし、そうなった場合のレオンの処遇はどうなるのか。それを考えるとロス伯爵夫妻も簡単には結論を出せずにいた。その状況は、当然ジャスミンの将来にも大きな影響を及ぼす。家を継ぐならば婿を取らなければならないし、家を継げないなら嫁ぎ先を探さなければならない。どちらにするかで相手に求めるものは大きく違ってくる。故に、彼女は婚約者がいなかったのだ。
だが、その問題にもついにピリオドが打たれた。去年の秋の暮れにレオンが大きな発作を起こし生死の境を彷徨ったのである。これによりロス伯爵家の後継ぎはジャスミン、レオンはロス伯爵の持っている子爵位を与えられて、領地内の一角で暮らすことになった。
その決定を知り、ジャスミンの婚姻について様々な憶測がされ、中には虎視眈々とその座を狙おうとする者もいた。来年の貴族学院でもそういう者がいるだろうとも噂されていた。しかし、そのような事態になる前に、ロス伯爵はわずかの時間のうちにジャスミンの婚約を整え、今年の寿ぐ会で正式発表することを決めたのだ。流石としか言いようがない。
ちなみに相手はルーシャル伯爵家の三男・セリシオという男である。ジャスミンよりも一つ年上で、二人は又従兄妹の関係にあたる。
ルーシャル家は伯爵位であるが土地持ちではない。国王直轄地を任されている貴族で、中央貴族とも呼ばれる。中央貴族との繋がりは重要なものだし、ロス家の血も流れているとくれば、政治的な観点から見ても完璧な相手だった。
(ジャスミン様……)
ハンネは彼女の婚約について、どう反応すればいいのか迷った。
もちろんめでたいことではあるのだろう。それに、自身の将来についてもずっと曖昧でどうなるのかわからないという状況から抜け出せたことは喜ばしい。だが、彼女とレオンが仲の良い兄妹であったのも知っているので、ジャスミンの胸中は複雑なのだと感じられた。
その他にも、話題になっているカップルがいる。
アストン伯爵家のローゼリアとサルテル領のコロット子爵家のデートの婚約だ。
伯爵家の娘が、子爵家の家に嫁ぐというのはそこまで珍しいことではない。ただ、そういう場合はたいていが自分の家の領地の子爵家に嫁ぎ、伯爵領のために尽くすというものになる。だが、ローゼリアが嫁ぐのは他領の子爵家である。
それには、シュメール領主の次女・カメルの婚約が深くかかわっている。
カメルがサルテル領主の嫡男の元に嫁ぐことに決まったのが去年。カメルの幼馴染であり侍女として一緒に過ごしていたローゼリアは嫁いでからも侍女として仕えたいと自身もサルテル領へ行くために、サルテル領の貴族との婚約を結ぼうと一年間奮闘し見つけた相手がデートなのである。コロット子爵家はサルテル領主の城で騎士を務めている。デートもまた騎士志望だ。結婚後は夫婦そろってサルテル領主に忠誠を誓う暮らしをすることになる。
友愛のために決めた婚約――なかなか例を見ないが、シュメール領主としてもカメルのために尽力してくれる者が傍にいてくれるならありがたいと二人の婚約を喜んでいるらしい。またローゼリアの両親アストン伯爵夫妻も言い出したら聞かないことは重々承知しているので好きにさせている。
だが、やはりというのか、伯爵家の娘が他領の子爵家に嫁ぐことを馬鹿にする者もいなくはなく、本当は問題ある娘だから他に相手がいなかったのでは、などと揶揄する者もいるのだとか。
その話を聞き、何にでも難癖をつけようとすればできるものだ、とハンネは呆れながらも感心した。
それから、皆それぞれに事情があることを知って、自分ばかりが話題にされてると怯えていたのは自意識過剰なのかもしれないとほんの少し心が軽くなった。
それでもやはり同じ壇上で、ハンネとイザークが別の婚約者と立っている姿は注目されるだろう。せめて、遠く離れた位置でありたいと思う。
やがて馬車を降りる順番が回ってきて馭者が扉を開ける。
最初に降りたのはシーグルドで次にオットーが、それからハンネをシーグルドがエスコートして降ろし、ベルタはオットーがエスコートする。
ハンネはベルタが降りている間に周囲に目をやった。
聞いていた通りの真っ白な宮殿だ。もう随分昔に建造されたそうだが、その白さは際立っている。年に一度しか使わないというのに、この日のためだけに外観を保つのは大変だろう。それでも莫大な費用をかけ徹底している。これはシュメール領主の権威の表れでもあるのだ。
ほぅっと感嘆のため息を漏らすと、側を通り過ぎていく貴族に視線が向いた。
馬車から降りた人たちがぞくぞくと宮殿に入っていく。誰もがこの場に相応しく、それぞれに煌びやかな衣装を纏い、颯爽と歩く姿は貴族然として美しい。
自分もあのように振る舞えるだろうか……否、振る舞わなければならないのだが。
「ん? どうかした?」
緊張したせいかシーグルドと組んでいた腕に少し力が入り、気づいた彼がハンネに告げた。
「あ、いえ……いよいよだなって思ったら、怖くなってしまって」
「大丈夫だよ。いつも通りやっていれば問題ない」
シーグルドは微笑んだ。
瞬間に、ハンネの緊張は増した。
(わたくし、本当に、この方と婚約するのかしら?)
そして、そのような疑問が浮かんだ。
本日のシーグルドはいつもの三割増しで光り輝いている。それは支度が済んで屋敷で顔を合わせた時から感じていたが、馬車を降りて、宮殿を見上げたら、それまで何処かまだ実感できていなかったことが現実味を帯び、そうしたら、今更だがベルタの計画について、あまりにもハンネの容姿を不考慮すぎではなかったかと、本当に今更だが思ったのだ。
とはいえ、言っていたところで何かが変わったかといえば変わりはしなかっただろう。ベルタはハンネを自慢の娘だと思っているし、シーグルドと不釣り合いだなどとも思っていない。親の欲目であるといくら言ったところで、そんなことはないと一蹴されて終わる。それどころかどうしてそんなに自信がないのかと逆に説教を食らうだろう。
実際、ハンネは自信がなかったが、しかしこれは自信があるとかない以前の問題のように感じられた。たとえどのような自分であれ自信を持ってはいけないなんてことはないし、自信を持つべきだし、それは正論だが、そういう正論とシーグルドの隣に立つことは違う話であるように思える。……いや、でも、同じなのだろうか。……わからない。ハンネは混乱していた。もっといえば空気に呑まれていた。
そんなハンネの気持ちを知らず、ベルタを降ろし終えたオットーが、行こう、と先を促して歩き始めた。ハンネは拒否するわけにもいかず、両親の後ろをシーグルドにエスコートされるままについていく。
こうして、ハンネの混乱の中、ついに寿ぐ会は始まったのである。
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