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茶番劇  作者: あさな
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ハンネ・オールグレーン伯爵令嬢の事情

 オールグレーン伯爵夫妻が帰ってくる。

 一人娘のハンネは自室で待機していたが、玄関が賑やかになり、執事たちの出迎えの声が響いたので階下へと向かった。その顔には緊張がある。

 玄関にたどり着くと、まず両親、オットーとベルタの姿が見えた。

 その後ろに見慣れない人物の姿もある。真冬の月光が降り注いだような銀髪に、至高の果実ともいわれるモルットの実にも負けない赤い目が印象的だ。流麗な線の細さを感じさせながらも、美丈夫と形容するにふさわしい容姿。彼の隣には、彼とよく似た髪と目の色をしたこれまた愛くるしい幼女が、手を引かれて立っている。

 幼女はハンネと目が合うとさっと男性の後ろに隠れチラチラと様子を窺っている。その仕草がなんとも可愛らしく、緊張していたハンネの表情が自然と緩んだ。

 男性は幼女の背を押して、再び自分の隣に立つように促した。

 ハンネは改めて、男性を見る。


(この方が? ……お母様……よく見つけていらっしゃったわね)


 二つ年上と聞かされていたが随分と大人っぽい。ハンネが驚嘆しながら両親に視線を向けた。

 オットーの疲れきった顔とは対照的にベルタの方は満足そうな微笑みを浮かべている。そんなベルタにオットーの疲労の色は濃くなる。もう早く寝室で眠りたいのが本音だろう。


「あなた」

 

 ベルタに促され、オットーが二人をハンネに紹介した。


「こちらが其方の婚約者となるシーグルド・サリアン子爵。そしてその隣が妹のマリアンネ嬢だ」





 そもそものはじまりは今年の夏の終わり。

 ハンネは遠縁にあたる一歳年上のイザーク・カールソン伯爵子息と婚約する予定だった。ところが、イザークは貴族学院でダナ・ランセル伯爵令嬢と恋仲になり婚約を決めてしまった。

 これに最も怒髪天衝いたのがベルタだ。

 

「あんな礼儀知らずの家、こちらからお断りというものです」


 そういうのにはもちろん訳がある。

 イザークは貴族の子でありながら、野暮ったく垢抜けない陰気な子どもだった。

 イザークの母・アリアナは平民で、カールソン伯爵は周囲の反対を押し切り婚姻を結んだ。身分を超えて結ばれた二人――物語なら純愛ともてはやされるだろうが現実は世知辛い。周囲から好奇と侮蔑の視線を受けていた。そのせいでアリアナはあまり外出をしない。外出をしなければ情報にも疎くなる。平民出身のアリアナこそ貴族の立ち居振る舞いや流行などを必死に勉強し夫や子の身なりに気を配るべきだが努力を怠った結果がイザークなのだ。

 それを見かねて手を貸したのが正義感の強いベルタだった。

 親が勝手をした罰を子が背負わされ不幸になるのはあんまりだ、と親戚のよしみということもありイザークの教育を引き受けた。

 イザークは聡明な男児で、教えたことはぐんぐんと吸収していき、身のこなしや、服装が洗練されていけば、たちまち注目されはじめた。そうなると現金なもので優秀で美男子のイザークとの婚姻を望む家が現れ始めた。

 引く手あまたとなったイザークが望んだのはハンネだった。

 イザークは長男だが下に弟と妹が一人ずついる。弟に家督を継がせてイザークはオールグレーン伯爵家に婿養子に入るということで二人を婚約させる話になっていた。

 しかし、婚約話は白紙に戻された。カールソン伯爵家はオールグレーン伯爵家よりランセル伯爵家との縁を選んだのである。

 ランセル伯爵家は現領主の妹の嫁ぎ先であるジョージア伯爵家と深い繋がりを持つ家であり、平民を妻としたことで批判的な視線を浴びることになったカールソン伯爵家が貴族らしい貴族との縁を求めるのは道理だ。むしろランセル伯爵家がよく許したなと思えるくらいだった。

 オールグレーン伯爵家としても、カールソン伯爵家がランセル伯爵家との縁談を優先させたい気持ちは理解できた。また、イザークとハンネの婚約は正式に取り交わしたものではなかったので、事情を説明されハンネへの誠心誠意の謝罪があれば、或いは円満に白紙撤回させることも考えたはずだ。

 だが、カールソン伯爵家は誠意どころか、礼儀もなく手紙で婚約の白紙を伝えてきた。会いにくることもなく文書だけで一方的にである。

 いくら正式な婚約を交わす前だったとはいえあまりにも馬鹿にしている。

 こんな礼儀知らずの家との縁など害悪にしかならない。白紙でよかったとベルタは思った。

 ただ「手紙のみ」というそこに関してだけはどうしても許せなかった。

 それに来年になればハンネも貴族学院へ行く。学院は中央にあり、各領地の貴族の子息令嬢が集められて勉学と社交に励むため、学院内にある各領地別の寮館で暮らすのだ。つまりハンネはイザークとダナと一緒の寮館で過ごすことになる。どれほど肩身の狭い思いをするだろう。想像するだけでベルタはたまらない気持ちになった。

 そして、考え出したのが、ハンネにイザークよりも素晴らしい婚約者を見つけること。

 ハンネは婿を取る立場だ。年回りが近く有能な貴族の子息を探すのなら早いに越したことはない。ベルタは持ち前の人脈の広さを使って情報を集めた。

 その相手が、シーグルド・サリアン子爵である。

 シーグルドはベルタの姉の嫁ぎ先であるリングリドア領の貴族だ。

 不幸にも両親を事故で失い子爵を継いだばかりで後ろ盾を必要としていたのだが、シーグルドの父・ダニエルは堅実な人物でそれなりの資産を残していた。それに目をつけて名乗りをあげたのが評判のよくないマッティラ伯爵だった。危機を感じたシーグルドは別の後ろ盾を求めるも、黒い噂の多いマッティラ伯爵を敵に回したくないと真面な貴族からは遠巻きにされ、残っているのは貴族と縁を結びたい大商家くらいだった。

 シーグルド一人ならばそれでもよい。だが、彼には妹・マリアンネがいる。兄の自分が大商家とはいえ平民の娘と婚姻を結べば、妹も貴族との縁談が難しくなる。簡単に結論が出せずにいた。そこへ他領とはいえ伯爵家からの婿養子入りの話がきた。

 ベルタは自分たちの事情を嘘偽りなく話し、シーグルドに何を求めているのか、また、シーグルドが何を求めているのかを話し合う席を設けた。最初は疑ってかかっていたシーグルドもその熱意と貴族らしくはないが率直で真摯な態度と、何よりマリアンネの教育を引き受けてくれるという条件にこの婚約を了承した。

 話が決まるとマッティラ伯爵家から横やりが入る前に両領主に許可を得て、シーグルドとマリアンネを連れ帰ってきたのである。





「マリアンネ、そんなに見つめていてはやりづらいだろう?」


 ハンネとマリアンネは同じソファに腰かけている。ハンネはマリアンネのためにディアラビットと呼ばれるうさぎのぬいぐるみを作成中だ。マリアンネはその様子を凝視している。息をしているのか心配になるくらいじっと見つめている。それを向かいの席に座っていたシーグルドが注意した。

 シーグルドから指摘され、マリアンネはほんの少しだけハンネの側を離れた。本当に少し、拳一つもないくらいだ。だが、視線はまったく逸らさない。楽しみでたまらないらしい。その姿にシーグルドはため息をついてハンネに謝罪をした。


「申し訳ない。作業がしづらいでしょう。連れ出しましょうか?」


 ハンネはシーグルドから謝罪されるとは思っていなかったので驚いた。

 

「いいえ、大丈夫です」


 答えた声が少しだけ上擦っている。

 シーグルドの言う通り作業しづらいが、それはマリアンネよりもシーグルドの存在のせいだ。


 シーグルドたちがオールグレーン伯爵家に来てから、一月半が経過していた。

 彼は実に有能な人物だった。イザークも優秀だったが、イザークが一を教えればその一を見事にこなす秀才ならば、シーグルドは一を教えれば十を知り新しい方法を作り出していく天才である。

 これにはオットーが大喜びだった。というのも、シーグルドの婿養子入りについては、最終的に承諾したとはいえベルタがほとんどを取り仕切っていた。

 ベルタには目的があった。シュメール領での貴族の婚約発表は年明けてすぐに領主が開く「新年を寿ぐ会」で報告するのが決まりだ。イザークとダナは来年の会に出席する。ハンネとイザークの婚約話は内々のものだったが察していた者も多かった。正式に発表されるまで何が起きるかわからないのが貴族社会とはいえ、イザークだけが婚約したとなればハンネは実質振られた令嬢と噂される。なんとしてもそれは避けたい。そこで新年までにハンネの婚約者を見つけ婚約発表させるという計画だ。

 はっきりいえば無謀だ。イザークより見劣りする者ではハンネの名誉は守られない。対抗するにはそれ以上でなければならない。そんな中で見つけてきたのがシーグルドだった。彼は条件を見事に満たしていた。故に、オットーはベルタが容姿でシーグルドを選んだのだろうと考え、伯爵家の後継ぎとしての資質については心配があった。ところが蓋を開けてみればとんでもない優秀さを披露してくれた。


「彼は実に素晴らしい。これほど素晴らしいとは思わなかった」

 

 シーグルドを褒め称え、どれほど素晴らしいかを告げるオットーにベルタはひんやりとした笑みで、


「あら、当然ではなくて? 顔だけがよくて、礼儀を知らない者にはこりごりですもの。中身こそ大事ではないですか。あなた、わたくしを信用して任せてくださっていたのではなかったのですか?」


 と喜びから一転、ベルタの威圧という地獄に落とされたのはご愛敬だ。


 そんなわけで、オットーは嬉々としてシーグルドを教育した。

 その間、妹のマリアンネはベルタとハンネが世話をした。

 マリアンネもまた聡明な子どもだった。そして、素直で愛らしい。久々に幼子の養育をするベルタも、妹が欲しいと兼ねてから思っていたハンネも、マリアンネを可愛がった。

 マリアンネも最初はいきなり他領で暮らすことになり戸惑いがあったようだが、細やかな気配りで大切にしてくれるオールグレーン伯爵家の者たちに心を許すようになり、今ではすっかり懐いている。

 休日もこれまではシーグルドと二人で過ごしていたが、本日はハンネのところへ行くと言ってシーグルドを驚かせた。その理由は、ハンネが作ってくれているディアラビット目当てだったのだが。


「マリアンネ。休日なのだよ。ハンネ様もやりたいことがおありだろう。我儘を言ってご迷惑をおかけしてはいけない」


 事情を知りシーグルドが窘めると、マリアンネはきゅっとスカートの裾を握って俯く。それを見てハンネは可哀想になり、


「あの……わたくしはよろしいですよ? それよりもマリアンネはせっかくの休日をお兄様と一緒に過ごさなくてもよいのかしら?」

「お兄様といてもご本ばかり読んでマリアンネと遊んでくださらないので、マリアンネはハンネお義姉様といます」

「マリアンネ……」


 マリアンネの暴露にシーグルドは人差し指でトントンとこめかみを叩いた。

 シーグルドは毎日オットーの仕事の手伝いで忙しい。彼こそ休日はゆっくりするべきだ。ハンネはそう思い、「では、マリアンネはわたくしと過ごしましょう」とマリアンネを預かることを申し出た。


「それなら、私も同席させていただいても?」

「え?」

「本来であれば婚約者であるハンネ様との時間を持つべきでしょうが、こちらでの生活に慣れるのに忙しく、私はその役目を少しも果たせていない」

「それは……忙しくしていらっしゃるもの。仕方ないことです。それよりも父の手伝いをしてくださって、父も随分楽になったと申しております。オールグレーン家のために努力してくださっている。わたくしはそれで十分です。その上、休みの日にわたくしの相手をさせられては、シーグルド様の休みがまったくないではありませんか! お心遣いは感謝いたしますが、どうぞごゆっくりと過ごしてください」


 この婚約は互いに利があり結ばれたものだが、シーグルドの負担が大きく、こちらでの生活は気苦労が絶えないだろう、とハンネは思っていた。なるべく無理をさせたくはない。そうでなければ続けていかれない。だから、婚約者として振る舞おうとしてくれている気持ちはありがたいが、必要な場面でそうしてくれたら十分で、今は休んでほしいとやんわりと告げた。


 シーグルドは双眸を細める。それがどういう意味なのかハンネにはわからないが、彼の美しい瞳の赤が揺れて濃くなった。


「部屋にいても本を読んでいるだけですから。それにお互いに共にいることに慣れていた方がいいと思われます。私がいては邪魔ですか?」

「いいえ、そのような意味では……で、では、ご一緒されますか? シーグルド様は本を、わたくしとマリアンネはディアラビット作りをしましょう」


 美形にじっと見つめられて、ハンネは耐えきれずに告げた。

 こうして、三人で過ごすことになったのだが……。

 シーグルドが同席しての作業はなかなかに神経を使う。シーグルドはハンネを見ているわけでもなく、本に集中しているのだが、そこにいるという存在感がものすごいのだ。美形圧とでもいうのだろうか、油断すると緊張から震えそうになる。


(慣れていた方がいいというのはその通りね)


 もう少し成長したら、マリアンネもこの美形圧を発するようになるかもしれない、とハンネは思う。


(マリアンネには慣れてきたから、平気かもしれない)


 ハンネはそんなことを考えながらディアラビットを縫い上げていく。

 ディアラビットはオリビエ商会が売り出した手作りぬいぐるみキットだ。うさぎの毛並みの色、目の色を好きなように選んで作り上げていく。ハンネの部屋にはもういくつものディアラビッドが並んでいるが、それをマリアンネがじっと見ているのに気づいて作ってあげることにした。

 どんな色にするか問えば、マリアンネは真剣に考え込んで、悩んだ末にマリアンネの髪と同じ銀色の毛並み、目の硝子玉は碧に決めた。


「マリアンネ、ここを切ってちょうだい」


 縫い上がり、最後の糸を切るところを任せる。

 出来上がったディアラビットを手渡すとマリアンネはぱぁっと花開くように笑った。


「ありがとう存じます。ハンネお義姉様」

「ふふ、どういたしまして。それで、この子のお名前はもう考えているのかしら? お洋服を縫うときに刺繍しましょう」

「お洋服も作ってくださるのですか?」

「もちろんです。一緒に可愛いお洋服を考えましょう」

「はい」


 マリアンネはディアラビットを持ち上げてみたり、ぎゅっと抱きしめてみたり、撫でまわしたりと忙しい。本当に嬉しそうにする姿に、作ってよかったとハンネは思った。


「クリスティアーナ」

 

 マリアンネが言った。


「この子の名前です」


 ハンネは頷いた。女性らしい名前である。ディアラビットに性別はないが、マリアンネはこの子を女の子と思ったのだ。ハンネが初めて作ったディアラビットは男の子の名前を付けた。目の硝子玉の付け方を若干失敗してしまい、キツイ表情になったからだ。

 素敵な名前ね、とハンネはマリアンネに微笑んだ。すると、


「マリアンネ……」


 クリスティアーナという名前にシーグルドが反応した。驚いたような、困っているような、なんともいえない複雑な感情を浮かべている。何かこの名前に問題でもあるのか……ハンネは不安になったが。


「見てください、お兄様。お母様と同じ髪の色と目の色です」


 マリアンネはシーグルドに自慢する。


「まぁ! マリアンネはお母様を思って素材を選んだのですか?」

「はい。ハンネお義姉様が好きな色で作ってくださるとおっしゃったので、お母様の髪と目の色にいたしました」


 マリアンネはにこにこしながら言った。

 シーグルドの驚きから、クリスティアーナというのも母の名前なのだろう。

 ハンネはそのような重大な意味を持つものとして作っている意識がなかったので、大変に驚いた。

 

「……そう。では、お父様のディアラビットも作った方がよいのではなくて?」

「お父様のも作ってくださるのですか?」

「お父様とお母様は一緒に並べた方がよろしいでしょう?」

「……わたくしは、ディアラビットを作ってくださると聞いてお父様とお母様のディアラビットがほしいと思いましたけれど、二つもほしいなんて欲張りなことは申し上げられませんから、お母様を選んだのです。お父様も作ってくださるなら嬉しいです」


 マリアンネが幼いながらにいろいろ考えていたことを知りハンネの心は痛んだ。毛色を銀色にした時点でもう少し気を配っていれば理解できたかもしれないと思うと悔やまれた。


「……其方は何でも正直に言いすぎる」


 一方で、シーグルドは頭を抱えた。せっかく我慢したこともぺらぺらしゃべっては何の意味もないではないかと。

 そんな二人にハンネは思わず微笑がもれた。


「マリアンネ。慎み深いことは大切なことですが、そのように大事なことは相談してください。わたくしはマリアンネの義姉なのですから、マリアンネの望みは叶えてあげたいのです。できないこともあるかもしれませんが、そのときはそう言います。わかりましたか?」

「はい」

「では、衣装より先にお父様のディアラビットを作りましょう。毛色と目の色を決めてください」

「お父様の髪の色は茶色で、目の色は赤です」

「なるほど。マリアンネの瞳はお父様の、髪はお母様の色なのですね」

「そうです! お兄様と一緒です」

 

 マリアンネはとびきりの笑顔で答えた。





 冬が深まったある日、シーグルドからの誘いでハンネは出掛けた。

 これまでも何度かマリアンネと三人でならあったが、二人きりというのは初めてである。


「マリアンネを置いてきてよかったのでしょうか?」

「ローズマリー様がいらっしゃるそうで、楽しみにしております」


 ローズマリーというのはハンネの従妹である。マリアンネと同じ年で仲良くしている。

 実のところ、マリアンネを家に引き留めておくためにシーグルドがベルタに頼んで呼んでもらったのだ。

 年が明ければ領主主催の「新年を寿ぐ会」が催される。

 それに向けて準備は進んでいるが婚約指輪がまだだった。いや、ベルタが用意したものならばある。シーグルドは子爵家、しかも親を失っている。金銭的負担をかけるわけにはいかない。婚姻における費用はすべてこちらで準備するというのが婚約の条件でもある。だが、シーグルドは婚約指輪を改めて自分で用意すると申し出たのだ。


「これほどよくしていただいたのに、礼の一つもできておりませんから」

 

 それがシーグルドの主張だ。

 シーグルドたちの生活の質は、両親がいた頃よりもずっと高いものになっている。両親が残してくれた資産も、運用がうまくいき順当に増えているし、伯爵家を継ぐための勉強でもオットーからその仕事に見合う報酬が与えられる。新たな事業の提案もした。まだ準備段階だが利益が上がればその収益も分配される。

 子爵の自分が伯爵家の婿養子になるというだけでも随分な出世だが、シーグルドばかりか妹のマリアンネまで本当の家族のように迎え入れられ、これ以上ないような厚遇を受けている現状は奇跡に近い。ならば稼いだ金銭で、婚約者に婚約指輪を贈るのは当然だと考えた。


「まぁ、まぁ、なんて立派なのかしら。素晴らしいこと!」


 申し出にベルタは感激した。

 イザークに善意を踏みにじられたことがベルタの中では周囲が考えるよりもしこりになっていた。いくら見返りを求めていたわけではないといえ、彼らの無礼な仕打ちに対して、どうしても利用されたという感情が生まれる。そのような感情が生まれるのはやはり何かしらの見返りを求めていたのかと思う。本当はどうだったのか……自身の善性の揺らぎだ。それは辛いものだった。だから、誠意には誠意を返そうとするシーグルドにベルタは慰められたのである。


 ただ、ハンネはそうではない。

 シーグルドが感謝するべきは両親であり、ハンネへの贈り物は筋違いと思っている。

 そう強く思うに至ったのにはこれまたイザークが関係していた。


 ハンネがイザークと出会ったのは、ハンネ五歳、イザーク六歳の春だった。

 「明日から一緒に勉強することになったのよ」とベルタが突然イザークを連れてきたのだ。以降、一緒に学び、一緒に成長してきた。一人より二人の方が楽しい。ハンネにとってイザークは可哀想な子どもではなく、年の近い遊び相手、兄妹のような感覚だった。

 しかし、二人に婚約話が持ち上がった。

 イザークは、ベルタの指導により垢抜けた自分の姿形が異性から好まれるもので、学業においても優秀さを発揮し、同世代の娘から婚姻相手として優良物件と見られ始めた頃から、ハンネに対して異性として接するようになった。

 ハンネは驚いた。兄と思っていたイザークが男性として接してきたのだから戸惑いは大きい。だが混乱の中にも少しずつ喜びを感じはじめた。イザークが自分を好いているのだと純粋に自惚れたのだ。

 結果、二人が惹かれ合っていると周囲は思った。それが婚約の後押しになった。

 イザークが何故そのように変わったのか。――もっと慎重になっていればよかったとハンネは後悔している。

 ハンネがイザークの本心を知ったのは婚約白紙の申し入れの手紙が届く少し前だ。

 イザークは学院からハンネに毎週手紙を書いていた。ハンネは楽しみにしていた。

 長期休暇に入る前、最後となる手紙……そこには、ダナと出会い恋を知ってしまい気持ちを誤魔化せなくなった。これまで自分はオールグレーン伯爵家から受けた恩に報いることばかりを考えていた。ハンネとの婚約もその一環であり、それでいいと思っていたが、本物の愛を前にして自分の心を偽って生きることは無理だと思えた。自分の人生を生きたい。だから、ハンネとは結婚できない。帰省したときダナと婚約することにしている。先にハンネには知らせておくべきだと思った。……というようなことが便箋二枚に渡り切々と書かれていた。

 ハンネは動揺した。婚約を白紙にしたいということよりも、自分を好きではなかったということに。

 イザークの言動の何もかもが恩義のためだけだった。そうでなければハンネとの婚約など考えなかった。ハンネ個人への思いなどなかったのだと知らされたのだ。

 あのときの気持ちをハンネは今もうまく言葉にはできない。

 信じていたものが、大切にしていたものが、一瞬で消え去った。

 だが、ハンネは手紙のことを両親には打ち明けなかった。何かの間違いということもあるし、それに二人の婚姻は二人だけの問題ではない。カールソン伯爵夫妻も承知しているのか、イザークの独断か。独断なら、咎められ前言撤回になるかもしれない。……撤回されたところで、知ってしまったことを知る前には戻れないが、それでも自分がここで大騒ぎして大事にするよりは状況を見守った方がいい。――それは言い訳だ。受け入れがたい現実を受け入れなくてすむよう、ずるずると問題を先延ばしにし逃避することでハンネは自身を守ろうとした。だが、そのような手段は何の意味もないとばかりに、それからほどなく婚約を白紙にするという旨の手紙がカールソン伯爵から正式に届けられた。


(わたくしを好いてくれていたわけではなかったのね)


 それはもう否定しようがなかった。


 この一件は、ハンネを否応なく大人にした。生まれて初めて自身の価値というものを客観的に把握したのだ。

 それまでハンネは良くも悪くも大切に育てられたお嬢様だった。誰かに負い目を感じることもなかったし、自分を卑下することもなかった。だが、イザークの「恩義に報いる」という言葉――イザークはハンネとの婚姻が恩義に報いることになる、即ち、ハンネにイザーク以上の相手が見込めないと思ったということである。彼はハンネを下に見ていた。

 だが、悲しいことにそれは事実だとハンネは思った。イザークにはたくさんの見合い話がくるようになったが、ハンネのところにはこなかったことがその証明だ。可哀想に思ってイザークはハンネと婚姻を決めたのだ。

 どうしてそのことに気づかなかったのか? ハンネは自分の愚かさを悔いた。

 容姿が優れているわけでも、勉強が飛びぬけてできるわけでもない、平凡な娘。父が伯爵の地位に就き、領地を治める貴族であることが取り柄。それが自分である。婚姻も個人としての魅力ではなく、背後にあるこの条件で結ばれる。だから、そのことを忘れてはいけない。自分個人に魅力があるわけではないのだから――ハンネは心に刻み付けた。


 故に、シーグルドから婚約指輪を贈ると言われても複雑なのだ。


 二人は完全なる契約婚約だ。シーグルドは自分の望みを叶えるのと引き換えにハンネと婚姻する。契約者はシーグルドと両親であり、ハンネはその条件にすぎない。イザークのときとは違い、今回はハンネもそのことを最初から理解し立場を弁えている。だから、これ以上シーグルドがハンネに何かをする必要はないし、もしどうしても礼をしたいなら直接両親にしてほしいと思う。

 とはいえ、そんなことを言えば角が立つというのも理解できた。

 親、特に母親の一番の願いは子の幸せ――だから、感謝の気持ちを娘のハンネによくすることで示そうとするのは的を射ているし、婿養子に入る者なら誰しも似たような行動をするものだろう。これから夫婦となる相手と良好な関係を結べるよう誠意を見せるという意味でもシーグルドの行動は理に適っている。婚約者として誠実に努めようとしてくれているのに、拒絶したがるハンネに問題があるのだ。 

 ハンネとてシーグルドと友好な関係でいたいと思う。だが、どうしても、素直に受け取れない。シーグルドとイザークは別人であるのに、シーグルドの行動にイザークを重ねてしまう。優しさの真意を見抜けず勘違いして自惚れていた日々が蘇ってきてたまらない気持ちになる。考えるほど、どんどんと底なし沼に引きずり込まれるような心許なさをハンネは無理やり振り払って平気な振りをするしかない。


「着いたようですね」


 馬車が停止したと同時に、シーグルドの声がしてハンネは我に返った。


 シーグルドにエスコートされて降りると店の者が出迎えてくれた。

 通された応接室。大きな窓には美しい刺繍が施されたレースのカーテンがかけられていて、日の光が優しく差し込んできて床に模様を描いている。店はまだ新しいようで掃除も行き届いているのでこじんまりとした室内だが清潔で心地が良かった。

 従業員がお茶を運んでくる。

 その後ろに柔らかい緑の髪と茶色の目をした三十代くらいの男性が立っていて、

 

「ようこそお越しくださいました、ハンネ様。私はこの店を任されているヘムルートと申します。以後、お見知りおきを」


 国王陛下にでもするような深々としたお辞儀をする。明らかに大仰すぎるそれに、シーグルドが咳払いをするとへムルートは顔を上げる。


「坊ちゃんが婚約者様とお見えになるというので、張り切ってしまいました」

「そう思っているなら坊ちゃんはやめてくれ」

「左様ですか。しかし、長年の呼び方というのはなかなか抜けませんで」

「其方は、相変わらず性格が悪い」


 気軽なやりとりにハンネは思わず笑った。


「随分と、親しいのですね」

「……私の父の代からの付き合いなのです」


 シーグルドの父・ダニエルは城務めの文官だったが、資産運用に商売人への出資も行っていた。その一つがへムルートの店だ。

 へムルートが兄のシモンと共に商家や裕福な平民のための服飾を扱う店を始めたのが十五年前。

 駆け出しながらも、堅実で丁寧な仕事ぶりが評判を呼び業績を上げた。だが、新興の店が流行ると嫌がらせを受けるのが世の常だ。職人の引き抜きや大商家からの圧力を受けた取引先の卸問屋が不当な値上げをしてきた。窮地に追い込まれたところを救ったのがダニエルである。出資だけではなくダニエルのコネで新たな卸問屋との流通ルートを確保した。また職人が減ってしまったので大幅な路線変更を行った。高価で一部の者しか手を出せなかった髪飾りやブローチなどの装飾品を安価で購入できるようにしたのだ。これが大当たりでおかげで店は息を吹き返した。軌道に乗り着実に大きくなり、やがて下級貴族向けの商品を扱うようにもなっていった。

 これで、ようやくダニエルにも恩返しができると思っていた矢先にあの不幸な事故が起きた。

 シーグルドたちに目を付けたマッティラ伯爵はヘムルートたちに嫌がらせをしてきた大商家の後ろ盾もしており因縁の相手だ。恩人ダニエルの家が乗っ取られるなど放っておけるはずがない。しかし、流石に貴族相手に自分たちだけでは立ち向かえない。そこで同じ伯爵家に訴えることにした。それが、ベルタの姉・プリスカである。

 へムルートは子爵家や男爵家といった下級貴族との商談はするようになっていたが、伯爵家であるプリスカとの面識はなかった。ただ、公正な人柄で定期的に孤児院を訪れているという話は知っていて、罰されることも覚悟で訪問日に待ち伏せして請願した。

 それが思いのほかうまくいった。

 プリスカの方もまたベルタからの願いで婿養子に入ってくれる優秀な貴族子息を探していた。シーグルドはその条件に見事に当て嵌まり婿入りが決まった。


「まぁ、ではシーグルド様とのご縁が持てたのはへムルートのおかげなのね。お礼しなくてはなりませんわ」

「いいえ、お嬢様、そのようなお気遣いは無用です。それに礼ならばすでにいただいておりますから」


 オールグレーン家とシーグルドの出資でシュメール領に支店を出すことになった。

 まだ真新しいと感じていたこの店は本当に開店したばかりなのである。


「其方の話はもうよい。商品を見せてくれ」


 にこにこするへムルートにシーグルドがげんなりして言った。

 へムルートは「失礼いたしました」と言いながらあまり反省している様子もなく赤に金縁で細かい細工が施された宝石箱を開けた。

 磨き上げられた宝石がいくつも入っている。

 へムルートは真っ白な手袋をしてから、綿の入ったシートを広げて一粒ずつ取り出す。


「いかがでしょうか。どれも自信を持ってお勧めできる商品です」


 へムルートは本当に自信満々といった顔で掌を上に向けて並べた商品の上を撫でるように流した。


「どれか気に入った物はありますか?」

「え、っと……」


 シーグルドに尋ねられてもハンネはどう答えればよいか困惑した。


「すべて、ルビィなのですね?」


 婚約指輪といえばダイヤだ。

 ベルタが用意したものもそうだった。

 被らないようにルビィにしたということだろうか? とハンネは思ったが。


「……ああ、そういえば一般的に婚約指輪はダイヤモンドが主流なのでしたね。リングリドア領では瞳の色の石を贈るというのが伝統としてございます」

「そのようなことが……」


 それでシーグルドの瞳の色であるルビィを用意したと。

 ところ変われば品変わる。隣接した領地であれ伝統はまったく違っていたりする。


「ええ、婚約指輪だけではございません。瞳色の婚約指輪と、髪色のドレスを贈り婚約式を行うのがリングリドア流です」


 へムルートはそう言うとチラリとシーグルドに視線を向けた。シーグルドが頷くとそれを合図にへムルートが立ち上がり奥の扉を開ける。すぐに女性の従業員が入ってくる。その後ろからトルソーも運び込まれてきた。

 トルソーにはドレスが着せられている。シルバーの落ち着いた光沢の生地を繊細に織り上げられたレースで覆った上品なドレスだ。


「まぁ、なんて美しい」


 ハンネは思わずため息を漏らした。


「シーグルド様の髪の色は年若いご令嬢には少々難しいお色味ですので、ボールガウンにすることでスカートにたっぷりの生地を使い豪華さと華美さを出せるようにしました」


 へムルートの言う通りふんわりとしたスカートの形は目立つ色なら相当派手な印象を与えるだろうがシルバーという少し大人しめの色味のおかげで華やかさの中に品がある。


「私の色を身に着けていただくのは厚かましいとも思ったのですが、『寿ぐ会』には私と同じ年の者も出席するのでしょう。学院で顔を合わせているので、私がリングリドア領の貴族であることを知っている者もいる。ならば、この習わしを知っている者も。ですので、リングリドア流をさせていただくのがいいかと勝手ながらご用意させていただきました」


 シーグルドは鋭い眼差しでドレスの出来を検分しながら言った。その真剣さにハンネは戸惑いながら、


「……あ、そうですね。申し訳ございません。そのようなご配慮までしていただいて……本来であればわたくしがきちんと考えてお願いしなければならないことですのに……」


 と自分の考え足らずを詫びた。


 正直なところ、ハンネはこの計画に乗り気ではなかった。

 両親が自分の名誉を守ろうとしてくれていること。いずれは婿を取らねばならないのだから、それならこのタイミングで婚約者を決めるのはおかしくないこと。来年の貴族学院での生活を考えたら婚約者がいた方がよいこと。

 シーグルドとの婚約について、いくつも正当そうな理由をあげられる。でも、結局のところ見栄でしかない。矜持を守るといえば聞こえはいいが見栄である。そのための茶番劇の主演を演じるのは想像するだけで気づまりだ。だから、意図的に思考することを避けてきた。

 しかし、考えてみればイザークとのことはハンネの自業自得でもある。もっと自分の立場を知っていればイザークの真意を見抜き、婚約話が浮上した時点でどうにかできたはずだ。

 一方でシーグルドは違う。なんの非もないのにこの茶番劇に参加させられるのだ。それが契約の条件にしろひどいことをさせている。そうであるのに、ハンネはそれについてきちんとシーグルドと話したことがなかった。本来であれば、この件を一番切実に考え、シーグルドに協力を願わなければならないのに、放置しただけでなく、シーグルドに考えさせている。

 ハンネは胸が詰まった。

 何も考えずに、ぬくぬくと生きていたからこのような状況になったのに、ただそれを悔いるばかりで、まるで成長していない。そのことを嫌というほど実感してしまったのだ。


「あの……わたくし本当に……シーグルド様にはご迷惑ばかりをおかけしてしまって……」 

 

 言葉にすると気持ちはますます沈んでいく。


「婚約者に指輪とドレスを贈るのは当然のことですから。ハンネ様が気にすることはありません」 


 ハンネの言葉を遠慮と捉えてシーグルドが微笑んだ。


「そうですよ。ハンネ様はもっと甘えてよろしいかと。婚約者に遠慮させるようでは坊っちゃんもまだまだですね」 


 それに、やれやれ、とヘムルートが追従する。


「ヘムルート」


 ダメ出しされてシーグルドはハンネに向けていた柔らかな笑みをひっこめジロリとヘムルートを睨む。美しい相貌のつくる冷たい眼差しは寒心に堪えないがヘムルートは慣れているのか飄々として、


「事実でございましょう。反省してください」

「ヘムルート!!」


 ついにはシーグルドが声を荒げた。

 それはまるで仲の良い兄弟がじゃれあっているようで、二人のやりとりにハンネは少し笑った。

読んでくださりありがとうございました。


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