第3話「遙かなる故郷の残景」
僕には実の妹の他に、妹のような子がいた。
六歳年下で、妹と同い年。黒髪が綺麗な子だった。
その子はお隣の一人娘で、僕はおままごと程度だったかも知れないけれど生まれたときから妹と彼女二人の面倒をみて、歩けるようになったら一緒に遊んだのだ。年の近い子どもがそれほどいなかったから毎日のように。三人だけか、もしくはそれに一人二人が加わるような感じで。
でも、僕が九歳の時、あの事件が起きたんだ。あの時、僕と妹は東のロガル伯国のレルデの市に塩漬け魚を届けに行く父さんの馬車に潜り込んで、勝手について行った。だから、無事だった。だけど、村はその間に無くなってしまった。
教会の軍が奪還したあと村へ戻ったときの光景は忘れない。何かも焼け、腐臭が漂い、最初ここが何処だが理解できなかった。自分のうちも、隣のうちも何か黒い固まりが石の台に乗っているそれだけだった。
母は死んだ、村の多くの人が死んだ。いつも笑っていたパン屋のテルミさん、同い年で良く一緒に釣りをしたガル、口うるさかったけど色んなことを教えてくれたマ-ロじいさん…、それに父さんの親友だった隣のおじさんも。でも、おばさんと、あの子の死は確認できなかった。でも、その時、あの場所は、絶望に支配されていたんだ。
きっと彼女たちも生きていない、そう思った。僕も、生き残ったみんなも、軍の人たちも。
その後、生き残った殆どの村人は駐留していたアステラルテ軍と一緒にアステラルテに移住し、僕たち一家も元より叔父がアステラルテに住んでいたこともあって、同じく移り住むこととなった。
そして、それから十年近く経ち、エンコスの記憶も薄れ欠けた頃…その子と、ここアステラルテで再会したのだ。
それはまさに“全なる者”が与えてくださった奇蹟に違いなかった。
その日、非番だったアステラルテ円卓騎士ジグルット・カティは妹のエルケの様子を見にアステラルテ第三中等高等学校第二女子寮に来ていた。
ジグルットは十八歳、黒髪で顔つき自体は凡庸な感じがするが、性格からにじみ出す生真面目さや人当たりの良さが人に非常な好感を与えていた。また騎士団の特別職である円卓騎士という肩書きも生来の人格に箔を付けるものとなっている。
さて、この寮なのだが、本来は男子禁制である。しかし緊急時と寮生の家族であれば、寮監の許可によって入ることができる。ちょくちょくある意味問題児の実妹の様子を見にくるジグルットはもう常連と言ってよかった。
その寮の三階、本人の性格を表すように奥張ったところにある角部屋がエルケの部屋だった。
「兄さん、いつも来てくれるのは嬉しいけど、少しうざい」
そう殆ど抑揚をつけずに言ったのは、黒髪で黒目の十代前半の少女――これがエルケだ。いつでも愛想がなくその日の気分の上下が分かりにくい彼女だが、今日は魔導書からちゃんと目を離しジグルットを見ながら喋っている所から見ると機嫌は良い方らしい。
「しかし…そういっても、また登校しなかったと聞いたよ」
エルケは魔法の分野で、天才と称されるほど優秀な魔導師で、飛び級により十二歳(普通入学最低年齢)という年齢で魔法科三年(高等三年)なのだが、サボり癖というか引きこもり癖があり、滅多に登校せず自宅で研究に勤しんでいることが多く、そうでないとしても大学図書館へ行くか登校しても講義には出ず実習室を借りるだけだ。
本人に言わせれば、最低限の出席日数は満たしているし、必要な単位も成績もとっているので大丈夫ということだが、生来真面目なジグルットにはそれがとても不真面目に見えるのだ。
だから今日もそうだった。彼女は兄の諫言を聞こうともせず、
「私の勝手」
とだけ、兄に告げ、本へと目を落とした。
ジグルットはそんな妹の様子に頭を抱える。もっともこれはいつものことなのであるが、こうなると妹はもう兄の話を一切聞かない。
ジグルットは溜息をついた。
「分かったよ、まったく」
ただ結局の所、ジグルットも何だかんだいって妹の無事が分かれば良かったのだ。いつものことであれ、もし本当にエルケの具合が悪かったらと気が気ではない。だから、いつもこの程度の忠告をすると帰ることにしているし、それが暗黙の了解だった。
それでいて兄弟仲は悪いわけではない。むしろ良い。でなければ、こうも頻繁に兄は妹の所に通わないし、妹も文句言いつつも部屋に入れはしない。淡白に見えて深いところは繋がっている。これが彼らの兄弟関係なのだ。それはともに生き残ってしまった、という思いが強かったから、かもしれない。
「それじゃあ、そろそろ行くよ」
ジグルットはそう言って、立ち上がる。すると、エルケは顔を上げずに、
「また来て」
と言う。愛想は無いが可愛い妹なのだ。
「うん、また来るよ」
そうやってジグルットは笑顔で部屋を出た。
(うん?あれは……)
ジグルットが妹の部屋を出て、階段を降り踊り場から階下の二階が見えたとき、身を覚えのある少女達の姿が見えた。その中に一つ、綺麗な白色もある。
ジグルットは慌てて段を降りて、その背中に声をかける。
「ハルシェイア」
「…え?」
「お」
「あら」
「あ~~、ジグルットさん!」
上からジグルットが声をかけた白髪の少女、少し少年っぽい容姿の黒髪の少女、金髪で白髪の子のルームメイトだという少女、そして元気そうな栗毛の少女。彼女たちがジグルットに気がついて驚いたように声を上げたのだ。
「おはよう」
「「おはようございます」」
ジグルットが挨拶すると、揃って挨拶を返してくれた。それに満足して、先輩として騎士として柔和な笑みを浮かべる。
「あの、ジグルットさんは妹さんに会いに来たんですか?」
真っ先に聞いてきたのは前に一度だけ会ったことがある栗毛の子――ベティという名だったジグルットは記憶していた。
「ああ、そうなんだ。相変わらず大した話は出来ないんだけどね」
「そーなんですか……そういえば、ジグルットさんの妹さん、見たこと無い?ジンス達は?」
ベティに振られたのは黒髪の少女ジンス。彼女は首を振る。
「あたしも見たことないなぁ、二人は?」
残りの二人、白髪のハルシェイアと金髪のメイアにも聞くが、二人も同じく首を振った。
(あの子は……)
ジグルットは内心頭を抱えたくなった。彼女たちが入寮してから少なく見ても二ヶ月あまり、そんな長い間、姿を見られていないとは、どれほど出不精なのか。
「すまない、いつもちゃんと挨拶をしろとは言っているんだけど…」
「あー、いえいえジグルットさんが謝ることじゃないですよ」
不肖の妹の代わりに謝ると、恐縮したようにベティが声を上げ、他の少女たちも同意の声を上げた。
「ありがとう。――そう言えば、何処かへ行くところ…だったのかい?」
「はい、ちょっとアズリー史跡公園まで」
ベティが元気よく答えると、少しからかうかのようにジンスが補足する。
「うんうん、ハルが行きたい!って」
「ぁ…うん」
それにハルシェイアがはにかむようにまごついた。
「へぇ…、ラムド砦跡か。あそこは景色が良いんだ。実家の近くだから、数年前までよく行っていたんだよ」
アズリー史跡公園と聞いたジグルットは一瞬だけ懐かしそうに眼を細める。どこか郷愁めいたそんな表情だった。
「あの…?」
「ああ、ごめんごめん、懐かしくてね、色々と」
ジグルットは笑顔で誤魔化した。本当に懐かしいのは公園の思い出ではない。公園で懐かしんでいた、故郷の風景だ。公園からは都市の西側を流れる大河エテルナを臨むことができる。その水は奥リーメンス海に注ぎ、ヅズ村に繋がっている。
実像の風景を眺めているのか、それとも幻想の情景を見ているのかが分からないまま、少年だったジグルットは失ったものに涙を流し、奪った者達へ憎しみを募らせたのだ。
でも騎士となったジグルットにとっては気恥ずかしい思い出であると同時に今の自分を形成した大切な追懐だ。だから誤魔化したのだ。
少女達も怪訝な顔をしただけで深くは突っ込まなかった。ジグルットの心情を汲み取ったというよりも些細なことだと思ったのだろう。
それを示すように、先ほどから彼と主に話をしているベティがこんなことを訊ねた。
「ジグルットさんの実家って西側なんですか?」
彼女の好奇心はこちらへ反応したらしい。ジグルットもそれに親切に答える。
「ああ、うん、アズリー区の区庁近くにね。今も実家に寄ろうと思っていたんだ…けど、――そうだ、良ければ案内しようか?」
「え、案内ですか?あっちのほうへ行くのは私も含めて初めてだから、嬉しいんですけど…良いんですが?」
「ああ、お安いご用だよ――美味しいお店も紹介するよ?」
言葉だけならナンパ以外の何ものでもないのだが、ジグルット自身を含めてここにいる全員がそのことに気がついていなかった。ジグルット本人にまったくその気がない上に、だからこそかジグルットの醸し出す雰囲気がとても紳士的なのだ。残念ながら、同じく円卓騎士のシブリスがやってもこうはならない。
もっとも相手はまだ十二、三の少女。本当にナンパしようものなら、しばらく臭いご飯を食べて頭を冷やすことになることだろうが。
「美味しい、お店…ですか?!」
美味しいお店という言葉に真っ先にベティ、続いてハルシェイアがぴくりと動き、その反応にメイアとジンスが笑う。
「うん、友人の家がやっているとこ何だけど、レザムテ(平たい麺に各種ソースを絡めた料理)が美味しいんだ」
「あ、是…――」
勢いで是非と言いかけて、ベティは気がつく。自分一人で決めることではない、と。他のメンバーの表情を窺う。
「あたしはいいよ――騎士様に観光案内してもらえるって滅多ない機会だと思うし」
「私も賛成。ハルは?」
「うん、私も……」
三人が同意する。決まりだった。
「是非お願いします!」
ジグルットは快く笑顔で頷いた。
アズリー史跡公園は都市の中央よりやや西側にある市立公園で、アステラルテの七つの丘の一つアズリーの丘の台地状の土地にあり、そこに建てられた新太陽帝国時代の要衝であったラムド砦の遺跡を保存・公開している。
ラムド砦は千三百年ほど前、アルナス王国(後の新太陽帝国)が当地を獲得した際、西への警戒のため見張り台と烽台を設けたことに始まり、それから百五十年後、西のルーデ・ベルテン王国との緊張を背景に大幅に拡充された。しかし、その末期の「ブルルーグの変事」の際、魔獣と化した魔剣兵たちにより大規模に破壊された後は、斜陽の帝国にそれを修繕する余裕はなかった。それから三十年ほど後に賢者アステラルテがこの地に移住したときには、荒廃して往時の見る影もなかったと、彼の日記に記されている。
その後も長い間遺跡は放置され、半ば雑木林となったもの、百年前にようやく発掘調査され、さらに三十年前に二回目の発掘が行われた後、公園整備された。
現在では当時の建物としては第三兵曹のみがかろうじて形を留め、あとは建物の壁や城壁の一部と基礎部分が残っている。また、近年城門付近と第一見張り塔が復元され、塔からみる景色は市内随一で、市民の憩いの場となっている。
石段を登ると頭上には復元された堅牢な石造りの塔がそびえ、段の上に上がればアーチ状に組まれたアーチ状の門。それを三つ潜ると城内であり、綺麗に芝生が敷かれている。第一塔や門がある北東部は、門の背後がうずたかくなっており、その上がアズリーの丘の最高点となっている。それに対して南西部は平坦で、中央には記念碑が建てられていた。
「うわぁ、絶景!」
そして何より、破損した城壁の間からは市街や隣接するエテルナの流れだけではなくそう向こうの平野まで見渡せる。
「結構、人もいるのですね」
そうメイアが指摘したとおり、ちらほら所ではなく人影が見える。石碑や遺跡を眺める人、ベンチに座りまどろんでいる老人、かけずり回って遊んでいる子供、崖と距てる柵近くで景色を見ている女性など、老若男女の姿を見ることが出来る。
「まぁ…近所の人にとっては史跡というか憩いの場、だからね」
どちらかと言えばその近所の人にあたるジグルットの実感としては、学術的なフィールドワークや趣味の勉強ないし観光にくる人よりも、見晴らしの良い公園へ遊びに来る近隣の人間が圧倒的に多いと感じていた。大昔に多くの人間が死んだはずの曰く付きの場所の割には不思議と居心地が良いのだ。
そんな雰囲気に侵されたのかジンスがハルシェイアの手を取り、
「ハル、ほら、あっち見てみよう!」
「ぇ、ジンス、ちょっと待って――」
と引っ張って、ちょうど北西の方、第二塔跡の方向へ走って行ってしまう。ベティも「ちょっと、ちょっと…」と慌てて後を追う。残ったメイアもジグルットの顔を見て、ジグルットが笑顔で頷くと会釈をして静かにそちらへ向かった。
「元気だなぁ…」
少女達のそんな様子をみて、相対的なものだと思うのだが、何となく老いた気がしてしまう。そのことに軽く苦笑して、一応、一時的な保護者ということもあるので、心配ないとは思うが彼女たちを歩いて追った。
史跡公園は大きく二つに分かれており、南北を低く狭い谷状の地形(昔の川跡だが、現在は谷底部分が都市西部からアステラルテ大学へ向かう道となっている)が隔てている。そのうちラズリー砦跡は北部分にある。
公園に来て一時間ほど経った頃、ジグルットは第三塔跡近くの吊り橋を渡り、その一方である南部分に来ていた。ハルシェイアの姿が見えないこと気がつき、辺りを見渡したところ、谷の向こうの木の間に彼女の白い髪が見えたからだ。
「ハルシェイア?」
「あ、ジグルットさん」
黄緑色の芝生がこんもりとやや崩れた方形状に盛り上がっている部分を興味深そうに眺めていたハルシェイアは、ジグルットの呼びかけに機嫌良さそうに答えた。なんだが目がきらきらと輝いている。
(本当に、好きなんだなぁ)
実を言えば、ハルシェイアが熱心に見ていたのは、烽台跡――つまり砦発祥の場所であり、この遺跡全体で一番古い遺構である。専門家にとっては新太陽帝国初期の、未だ魔法伝達方式が発達していなかった時代の、通信手段を知る上で重要な構造物であるらしいのだが、門外漢のジグルットにはよくわからない。
ちなみに烽台跡は遺跡北部、砦内にも存在する。烽台の機能は砦拡充後に砦内へと移設され、それに伴いこちらのものは廃絶したようだ。
それでも読書が趣味で歴史好きのハルシェイアには十分楽しかったらしい。今日、この公園へ行きたいと言ったのも、普段自己主張しない彼女だったようであるし。
「楽しい?」
「はい!」
ハルシェイアが元気よくハッキリと返事する。ジグルットはよく知らなかったが、彼女にしてはそう言う反応は少々珍しい。そのことに自分でも気がついたのか、頬をかあっと赤くした。
「あ、あ、私…その」
「それなら、良かった。僕も案内してきた甲斐があるよ」
「ぁ、あの――ありがとう、ございます」
ハルシェイアがそうやって恥ずかしそうに感謝の意を伝えてきたことが、ジグルットはとても嬉しかった。それは単純に案内した年下の子が楽しそうにお礼の言葉を述べてくれたというのももちろんあるが、それだけではない。
ジグルットはいつも嘆いていた。この公園に登り、エテルナの水を眺めて。無くした故郷を、亡くした人たちを――とくにいつも一緒だったもう一人の妹を。
ここで死んだ彼女を想って泣いていたのに、今、目の前にその彼女が笑ってここにいる。
(こんなに嬉しいことが他にあるんだろうか?)
そう思うと、自然と涙が溢れてくる。でもそれは過去に流した涙とは違う。失った悲しさから出たものではなく、取り戻せた喜びから出るもの。
「え…?あ、あの、じ、ジグルットさん、っ?!」
気がつくとジグルットはハルシェイアを抱きしめていた。
「ありがとう、本当に…ありがとう…」
こうして、ジグルットはこの場所で初めてうれし涙を流した。
「ごめん……いきなり」
「あ、あの……大丈夫、です――私も実感無かったけど…私が生きていて、喜んでくれる人が居たこと、嬉しい、ですし……」
我に返ったジグルットは恥じたようにハルシェイアに謝罪し、そのハルシェイアも逆に恐縮したようにそんなことを言ってはにかんだ。
その後、何となく気まずくなる。ジグルットはジグルットでこんな年下の女の子に抱きついて泣いてしまったことが恥ずかしいし、ハルシェイアはハルシェイアで父親以外の異性に、少なくとも記憶の上で、抱きしめられたのは初めてだし、泣いてそういうことをされたことなんてもちろんない。
そして、一瞬の間の後、先に口を開いたのは、珍しくもハルシェイアの方からだった。
「あ、あの…」
「え?」
「聞きたい、と思っていたこと、あって…」
「あ…――何?」
あまりに唐突なハルシェイアの質問にジグルットは面食らいながらも快く応じる。話の糸口を見いだせない彼にとっても助け船であったからだ。
「なんで騎士になろうと思ったんですか?あの、色々聞いて…飛び級を利用して十四才の時には傭兵科卒業して、最年少の十五才で円卓騎士なった、って…それって、ずっと前から騎士になるって決めていた、こと、ですよね?だから……」
「あぁ、そういう話か…」
ハルシェイアの話を聞いたジグルットは納得した様子を見せた後、なぜか苦笑した。ハルシェイアはそんなジグルットの顔を不思議そうに眺めた。
「ごめん、ごめん……実は、騎士になりたいと思ったのもこの公園なんだよ。だから、つい、ね」
「あ、そう、なんですか?」
「うん」
ジグルットは肯くと何処か寂しそうな表情を見せる。
「僕は何も守れなかった…いや、あの時、村に居たところでその時の自分が何か出来たとは思わない。でも、偶然生き残ってしまった。それでも守りたかったし、もう失いたくはない。そのための力が欲しかったんだ――もう悪魔達の好きにはさせない、そんな力が」
悲しみ、怒り、後悔、正義感……それらがない交ぜになった複雑な感情。ただそれらは力強く、負の影はそこに見いだせない。まっすぐな意志だ。
「それが僕が騎士になろうと思った理由だよ」
そんなジグルットをハルシェイアはとても眩しそうに眺めていた。
「ハルシェイア?」
「…ぁ、ごめんなさい。すごい、と思って」
「すごい?僕が?」
こくり、と頷く。
「……私、やりたいことが…ないんです…。何かしたいことが見つかるんじゃないかと思って、アステラルテに来たけど……。来ただけで何かが変わって見つかると思っていて…だけど、違うこと、最近思い知って……」
自分でも何を言っているのか上手くまとまらなくなってきたのに気がついたのか、ハルシェイアはかぶりを振ってから俯く。そして小声で、
「だから……ジグルットさんは純粋にすごいと思って……あの、その」
「でも、僕の場合は少し特殊だから…」
「それでも、自分で歩いている、から……人のためにちゃんと力を使おうとしていて、私とは違う…から」
「ハルシェイア………?」
そこで、ハルシェイアの様子がおかしいことに気がつく。最初、泣いているのかと思った。しかし、そうではなかった。
だが、どこか虚ろだった。
そこで、ハタと気がつく。そういえば自分はハルシェイアが今まで何をしていたかを全く知らない。知っていることと言えば、養父に拾われジャヴァールに住んでいたことと、彼女の髪の色がジグルットの記憶にある黒髪が白髪に変わったのは事件の影響であるらしいこと、この二つだけだ。
ジャヴァールでどういう生活をしていたのか、養父がどんな人物なのかなど全然聞いては居なかった。
「ハルシェイア…君は?」
その事を聞こうとしてジグルットが声をかけようとした時、
「あー、いたいた、ハルとジグルットさん!」
と声。橋の向こうにジンスが見えた。どうやらジグルット達を探していたらしい。
「あ…ああ」
ジグルットは出鼻を挫かれ、それ以上突っ込んで訊ねる気にもなれず、戸惑ったようにとりあえず手を振る。そうするとジンスも手を振って返してくれた。
「……そろそろ、行った方がいい、ですよね?」
ハルシェイアが微笑みながらそう言って、軽やかに一段低くなっている橋が架かる面に降りる。それがどことなく、ジグルットは誤魔化されたような気がした。
(ハルシェイア…君は…?)
ジグルットは首を振る。この十年、エンコス難民として自分にも色々あった、良きにしろ悪きにしろ。詮索するのは良くない。
だからこの言葉を飲み込んだ。ジグルット自信も気がつかなかったがそれは本能的にそれを聞いたら、自分と彼女の再び繋がった絆が壊れてしまうかも知れないということを察したから、かもしれない。それは本人ですらわからないことだった。
「ジグルットさんも、はやくー…お昼、美味しいところしょうかいしてくださるんですよね?!」
「うん…ああ、今行くよ」
だから、ジグルットはそんな疑問は今は忘れることにした。現在、重要なのは彼女たちとの約束を履行することだ――そんな理由を付けて。
この後、一行はジグルットに案内されて、昼食をとり(ハルシェイア達は恐縮しつつ、ご馳走になってしまった)、それから少し行ったところにあるジグルットの実家に案内された。というのも、ヅズ村の生き残りでありハルシェイアの父と幼なじみだったジグルットの父が会いたいと言っていたことをジグルットが昼食中に話し、午後は寮に戻るぐらいしか考えていなかったハルシェイア達も、それじゃあ、ということで訪ねることにしたのだ。
そこで、ハルシェイアは輸送船の船長をしているというジグルットの父親に泣いて抱きしめられて、おたおたすることとなった。
ジグルットがそれを本当に嬉しそうに眺めていると、父親はジグルットの飲み込んだ疑問を当然のように口に出した。しかし、ハルシェイアの口から、既にジグルットから報告されていたはずの、今の養父に拾われてジャヴァールでちゃんと暮らしていたというようなことが直に話されるとそれで満足したようで、その後はまたガラにもなく男泣きしていた。
(そうだ、それで十分じゃないか、ハルシェイアは生きていてくれたんだのだから……)
ジグルットもこの時はその答えで納得することにした。
ハルシェイアがここで笑っていたのだから――
――後々、彼女の事情をこの時、深く訊かなかったことを彼は激しく悔いることになる。もっとも、訊ねたところ何が出来たかなどということは分からないが、だからこそ彼は後悔したのだ。
ただ彼の後悔も怒りも、そのこと自体はかなり未来の話だ。今はただ優しい時間が流れるだけである。
<おまけ>「私のルームメイト」
「言え…なかった、な」
「何を?」
ハルシェイア達はジグルットの家で夕飯をご馳走になり、ジグルットに送られて寮に帰ってきた。今は自室で、ここにいるのはハルシェイアとメイアのみ、日は既に沈み、部屋は魔力灯の淡い光によって照らされている。
「本当のこと……私が何を、してきたか…言えなかった。言おうと思って…ジンスが来て、思わず誤魔化しちゃった…」
そんなことをベッドに座ったハルシェイアがそんなことをつぶやく。俯いて本当にすまなそうな顔をして。
「それは、ジグルットさんに…ということ?」
メイアが念のため訊ねると、こくりと彼女は肯いた。メイアは思わず、頭を抱えたくなった。
メイアのルームメイト、ハルシェイアはすごく良い子だ。同じ部屋で共同生活を初めて、まだ一ヶ月半ほどだが、それでもよくわかる。例え過去に何があったとしても。
ところが一方で色々と残念なところも多い。例えば料理、最近は主に自炊をしているのだが、主に作っているのはメイアである(平日の朝は各部屋で、夕食と休日はジンス達と持ち回り制としている)。とはいうものの、ハルシェイアは料理が出来ないわけではない。ただ、非常に大雑把なのだ、分量も、切り方も、味付けも。野戦料理に近い。美味しいものが好きな割には、自分で作るのはお腹いっぱいなればそれで良い、といったようなもの…。
(不味くはないのだけれどね…)
そう不味くはない。ただ何かがいまいちなのだ。
他にも家事全般は割と大雑把な傾向にあるが、もっともそれらは料理ほどではなく、比較的にはそのような感じなのだ。例えば掃除をしても全体的には出来ているのに、何故か変な掃き残しや拭き残しがあったり、洗濯物もちゃんとしまうのに軽い皺が付いてしまうようなたたみ方だったり、と何かがずれているのだ。
もちろん本人は大雑把にやっているつもりはなく、むしろ真面目で一生懸命なのである。ただ、少しだけ大雑把なだけで。
しかし本だけは別で、細かく几帳面に整理してある。ちなみに彼女の本棚に納まっているのは、昔、この街に住んでいた彼女の先生が残していった蔵書から本人の許可の元、管理者から借りてきているらしい。メイアが見ただけでも、レテイアの『舊帝国残闕文集』やオルトラン工房版『トルニア戦記』初版など貴重なものを含む、二十冊程度の書物が整然と項目別に並んでいる。
読書が趣味だという彼女は暇があれば読んでいるし、メイア自身もよく借りており何かとお世話になっていた。
性格面では、優しいが引っ込み思案でおとなしい。良いところでも、悪いところでもあるが、とりあえずは良い面に働いているように見えるし、メイアの目には好ましい物と映っている。
ただ、人と大きくずれているところが多々ある。その多くは人付き合いが下手なことに起因するらしく、どのように人と接して良いか、よく分からないようだ。
引っ込み思案かと思えば、先ほどの発言のように大胆な行動に出ようとしたり…と、それを近くで見ているメイアはそんなハルシェイアに対してちょっとハラハラすることも多い。
そんなところも含めて、メイアはハルシェイアのことが好きだった。
ただ、正直言って、今回のことは、
(それは…ないわね)
と思う。常識的に考えても、いきなりそんな重いことを話す物ではない。
「ハル…多分、言わなかったことは正解だと思うの」
「…え?」
ハルシェイアは分からないといった様子で可愛らしく首を傾げる。そんな光景をみてメイアは、やっぱりといった感じで軽く息を吐いた。
「え?え?」
「もう、ハルは……そういう話は必要があるとき話すものよ」
「必要……?…なかった、かな?」
「それは…そうね、本当のところはハル次第、だけれど…私はなかった、と思うわ。あとは頃合いもあるけれど、それでも唐突すぎると思うし…」
「……――」
そうメイアが指摘すると、ハルシェイアは少し考え込むような様子を見せた後、
「――なかった…かも」
と目から鱗が取れた、といった様子でつぶやいた。
「そうね。でも、ハルが話したいと思うなら、機会をみてゆっくり少しずつ打ち明けると良いわ。でないと、ジグルットさんだってびっくりしちゃうわよ」
「うん」
メイアはハルシェイアと話していると、偶にもっと幼い子と話している気分になることがある。今がまさにそうだ。
だがその一方で彼女は時に大人びた表情を見せる。
メイアはハルシェイアの過去の一端を聞いて知っている。だから、思うのだ。彼女は、まだ成熟しなくて良いところが成熟して、育たなくてはいかなったところの発達が人より遅れてしまっているのだ、と。
ハルシェイアは非常に不安定だ。何処に転がるかわからない不安定さがある。
(私に…何ができるのかしら?)
メイアにはわからない。そんなことを考えてしまうこと自体、おこがましいのかもしれない。
それでも、彼女は思うのだ。
親友としてハルを支え続けようと。
だって、ハルシェイアのことが本当に好きだから。
毎回、ぼやいているかもしれませんが、いまいち文章がまとまりませんでした。
今回の話は、ハルシェイアの幼なじみ(と言って良いのか?)、ジグルット君のお話でした。名前だけで出ていた妹も初登場。
ハルシェイアの出番も比較的多めに。
良くも悪くもジグルットはヒーロータイプの人間です。ピカレスク的というか、アンチヒーロータイプのハルシェイアは反対にいる人物と書いている…つもりです。
オマケはほんとにオマケです。突然思いついて書いてみた…ぐらいのもの。
しかし、未だにメイアのしゃべり方がいまいち安定しません。
次回は本編に戻って三章をお届けする予定。
時期は未定…です。すみません。その間に、「前日譚」のほうを何回か更新…できたらいいなぁ…いえいえ、します!
それでは。
2011/08/09 感想の指摘により修正
(誤)ジグルットは慌てて段を降りていて→(正)ジグルットは慌てて段を降りて
(誤)常識的に考えても、いきなりそんな思いことを話す物ではない→(正)常識的に考えても、いきなりそんな重いことを話す物ではない




