第6話「嫌がらせ」+幕間2−5「ンラ・ンロ・ンル・ンン」
ある日、こんな事があった。
「…??」
文学の授業の前、お手洗いに行くので少しだけ席を立ったハルシェイアは、戻ってきて首を傾げた。
閉じた状態でそのまま置いておいたはずのノートが開いて逆さになっていた。
ハルシェイアは首を傾げつつも、とくに気にすることでもないと思い、ノートを正位置に戻して何事も無かったかのように座った。
ちなみにそれを悔しそうにアステラとハルニーが見ていたのだが、ハルシェイアはちょっと気にしただけで、すぐに始まったプリメラの文学に集中した。
また、こんな事もあった。
「開いていますわよ?」
「あれ…?ほんと、だ…」
体術の授業の後、更衣室に戻ったハルシェイアはとなりのロッカーを使用していたリスティにそんな風に指摘された。見れば確かに、ハルシェイアのロッカーが全開になっていた。
「ちゃんと…閉めた…のに?」
確かに授業前、運動着に着替えた後、ロッカーの扉を閉じたはず。
(少し、緩かった…?)
ただ、無くなっている物は無さそうなのでハルシェイアは少し安心した。
「あの…」
そう声をかけてきたのは、眼鏡をかけたクラスメイト。
「あなたのロッカー、セラフィナさん達が開けていたわよ。――開けただけだったけど」
「なんで…?」
「さぁ…?そこまでは…」
(間違えた…の、かなぁ?)
ハルシェイアは訝しげに首を捻った。
その後もこんな事が…
ハルシェイアが三人の横を通るとき、そのうちの一人がハルシェイアの通り道に脚を出してきたが…
「?」
そのタイミングはまったく合わず、何事も無かったようにハルシェイアはそれを歩幅も歩調も変えず脚を跨ぎ、それから不思議そうに三人を見ると、彼女達は肩を怒らせて歩き去ってしまった。
「???」
(…えっと、…どうすれば、よかったの…私?)
――こんなことが一週間のうちに何度かあった。
「それって、嫌がらせだよ、絶対!」
「そ、そうなの…?でも、特にどうってこと、ないよ?」
放課後、今日は寮で食事をとろうと、帰る道すがら、そんなことを話したハルシェイアはジンスから嫌がらせだ、と忠告されても、やはりいまいちピンと来なかった。
授業中もずっと一緒のメイアは後ろでその話題に対して苦笑いしている。メイアももちろん既にこの珍事には気が付いていたのだが、嫌がらせだとするとあまりにも手段が稚拙すぎて、逆に本当にそうなのか、と二人で顔を見合わせてしまうということが何度かあったのだ。
「というか、そのお嬢さま達、人の苛め方すらしらんくらい箱入りなのかなー?――その点は星3つの評価かなぁ?」
そのメイアの横にいたベティが半ば馬鹿にしたように、半ば感心したようにそんなことを冗談めかしに言うと、当のハルシェイアはきょとんとして、
「…悪い人達じゃない、と思う、よ。ちょっと、ずれている、のだけ…かも」
と当然のように、そして後半には少し残念そうにそんなことを呟いた。
その発言に意外なことを聞いたとばかりに三人がハルシェイアを見た。自然とほんの一瞬、足が止まる。
それがいけなかった。
「ハル、いくらなん「ジンスっ?!」――きゃぁっ!」
ハルシェイアに何か言おうとしたジンスは、その事に気が付いたハルシェイアの注意も遅く、思いっきり、しかもジンスっぽくない可愛らしい声を上げて尻餅を付いてしまった。
見れば、ジンスの背後に、ハルシェイア達より年長な少年達がいた。ジンスは彼らにぶつかってしまったのだ。
「ちょっと!」
「ふん…どうかしたのかい?おや――フェデク、君の制服がよごれてしまっている」
「おぉ、本当だ、本当だ」
原因に対してベティの抗議の声をあげたが、それに意に返した様子はなく、むしろ馬鹿にしたようにすぐ無視をしたその中の一人が、ジンスにぶつかったフェデクという同年代の少年にわざとらしく声をかけた。そのフェデクと呼ばれた少年もまたわざとらしく、汚れた様子のない制服を見せつけつつ、言葉を返した。
そこにいた蘇芳色のジャケット――つまり第三学校の制服――を来た五人の少年、最初に声を出した黒髪の少年とフェデクが年長のようで、剣を帯びていることから傭兵科の、それも四角い銀バッチに“I”とあるので一年だろう。あとは丸いバッチの中等科生だ。
よく見れば一番後ろには、あのダッテンがいて、他のメンバーと共にニヤニヤ笑っている。
それを見て、メイアの視線が警戒したように厳しくなった。
「おい、お前等、謝れよっ」
勝ち誇ったような笑みを浮かべてダッテンが怒鳴る。
「おやおや、オードダルト卿、怒鳴るものではないですよ」
そうダッテンを窘めたのは最初に声を上げた黒髪の少年だったが、その口調は軽く言葉通りの意図が全くないことは明白であった。
「しかし、先輩にぶつかっておいて、謝りもしないとはさすが、ならず者とその友人というところか」
ならず者、というのはおそらく教師に反旗を翻したメイア、それにハルシェイアのことだろう。その言葉に真っ先に反応したのは、立ち上がって、当初の混乱から我を取り戻したばかりの、ぶつかった当の本人、ジンスだった。
「ナっ!…たしかに、よそ見して先輩にぶつかったのはあたしが悪い。でも、その言い方は酷いんじゃない!?」
ジンスの上げた抗議の声は、少年達の嘲笑で軽くあしらわれた。
「何か僕は酷いこと言ったかなぁ?ああ、でもぶつかったのは君が悪いんだろう、だから…」
「ぶつかったこと、謝ることないよ、ジンス」
その少年の声を遮ったのは驚くことに普段大人しいハルシェイアだった。凛とした彼女の声音に、その場の全員が驚いたようにハルシェイアを見つめた。
「…な、な――」
「その人達が、ジンス、ううん、私達に、わざとぶつかってきたんだよ。だって、その人、そのまま歩けばジンスにぶつからなかったのに、直前、不自然に動いた。…そう、ですよね?」
ハルシェイアは確認という形を取っていたが、それは事実上、断定した事実に基づく詰問だった。その目は鋭く冷ややかで、ハルシェイアの整った顔と合わさって妙な迫力があった。
「え…それって…?!」
「…ぅ、ぅ」
ハルシェイアの碧の瞳にじっと見つめられ、ジンスにぶつかってきた少年が微かにたじろいだ。それを見て、ジンス、メイア、ベティは彼らにより厳しい視線を送り、少年達は呻いた少年に非難めいた目線を送ったが、それこそが事実を雄弁に語っていた。
「ぼ、僕らは皆、誇り高いゴリウスの貴族だぞ!」
興奮したようにダッテンが叫ぶ。しかし、ハルシェイアは眉一つ動かさず、ただ一言発した。
「ここは、アステラルテだよ」
その言葉尻には少し残念そうな響きを匂わせていたが、それは当の彼らには伝わらない。彼らはそれを聞いて顔を赤くする。どうやら、少年達にはハルシェイアの言葉がゴリウス貴族の権威を傷つけるものだと移ったらしい。
「ふん、黙って聞いてやっていればいい気になりやがって」
傭兵科の一人、ジンスぶつかったフェデクが剣を抜こうという様子を見せ、柄に手をかけた。
「ハルっ!」
「は、ハル!」
しかし、ハルシェイアはまったく動かなかった。どうせ、抜いても威嚇程度だろうし、何より、それを視角の端でそれを捉えていたから。多分、この場は彼らに任せた方がいいと判断した。こじらすつもりで来た相手に、自分がもう何を言ってもその通りになるだけ、そう思ったから。
「――そこまでだ!君たち」
外野から制止の声をかかり、ハルシェイアに剣を向けようとした少年は手をかけたまま、驚いたようにそちらを見た。他の者やジンス達もそれに習うように見る。
気が付くと騒ぎを聞きつけたのか彼らを囲むように円状に人混みが出来ており、その中からハルシェイア達に向かって、二つの影が進み出てきていた。
二人とも男性だった。一人は黒髪で中肉中背の、二十歳前後の青年で、もう一人黒い長髪を後ろで結んだ美青年。共にアステラルテの特任騎士である円卓騎士で、ハルシェイアの知り合いのジグルット、それにシブリスだった。
「円卓…騎士の…」
少年達の誰かが呻く。それともに少年達に明らかな動揺が広がっていた。
二人は騎士の制服ではなく、私服であったが円卓騎士の印章が入った剣を帯びていた。ただ、それ以上にこの都市に数年住んだ人間にとっては顔を見た瞬間わかるほど有名人だった。
二人はそんな少年達とハルシェイア達の間に割ってはいる。
「さて、何があったのかな」
「…あ、その、彼女たち、が、そのよそ見してぶつかってきて、先輩として、注意しようと…」
ジグルットは冷静に、彼らしく柔らかく訊ねたのだが、先ほどまで居丈高だった傭兵科の少年は、そんなジグルットを前にして平静を失い、完全に萎縮していた。
「なるほど…理由は分かった。でも、だからといって、抜こうとするのはいただけないな」
「うんうん、そうですよ。そんなことでは女性にモテませんよ」
本気で諭すように言うジグルットに、笑顔で冗談めかしに忠告するシブリス。これだけで二人の性格の違いが見えるようだった。
「あ、いや、それは…」
少年はしどろもどろに弁解しようとしていたが、巧い言葉が見つからないようだった。
そこでジグルットが息をつく。
「彼女は僕の知り合いだ。彼女がもし本当に君たちに失礼を働いたというなら、僕が代わりに謝罪しよう」
「え、いや…」
少年達は明らかに青ざめた様子で顔を見合わせて、何故か一瞬ダッテンを厳しい目で見た後、
「あ、もう、ちゅ、注意し終わったので、それに大したことではなかったので…いい、です」
と今までとうって変わって平身低頭に弁明する。
「そうか?なら良かった」
「もう、行っても…?」
「ああ、かまわないよ。僕も後輩相手に事を荒立てたくはないからね」
ジグルットが人当たりの良い笑みを浮かべつつ、暗にその後輩達に釘を刺した。
それを聞くと少年達は何処かホッとしたように礼をして、一人、先輩達の変わり様に何が起こったのか理解できない様子のダッテンを半ば引きずるように、野次馬をかき分けてその向こうに消えていった。
それを確認すると誰ともなく安堵の溜め息をつく。
「ジグルットさん、ありがとうございます」
ジグルットに向き直ったハルシェイアが御礼を言うと、他の三人もそれぞれ彼に感謝の意を伝えた。
「いや、困っている人がいたら、助けるのが僕たちの仕事だよ」
ジグルットが照れながらも、迷い無くそんなことを言った。それをハルシェイアはすごく眩しいな、と思った。
「ハルシェイア、ところで…僕もいるんですが?」
「えっ?あ、シブリスさん…こんにちは」
ハッとしたようにハルシェイアはシブリスにも挨拶した。と言っても、別に忘れていたわけではない。ちょっと、反応が遅れただけである、おそらく。
(そういえば…シブリスさんに会うの、お墓参り、以来……)
「…こんにちは、ハルシェイア。というか、僕には、こんにちは、だけですか…」
「…?あっ、ごめんなさい…。シブリスさんも…ありがとう」
「いえいえ、僕としても可愛い女の子達の役に立てれば幸いですよ」
ハルシェイアが二人、特にシブリスと親しげに挨拶していると、ハルシェイアの袖を誰かがくいくいと引っ張った。不思議そうにその光景を見ていたジンスである。
「ねぇねぇ、誰さん?この美形さん達?」
「円卓騎士ジグルット・カティと、同じく円卓騎士のシブリス・アデルフィーン子爵、だよね…?」
ジンスのその疑問にたいして、ハルシェイアの代わりに自信なさげに答えたのは、四人の中では一番アステラルテへの滞在期間が長いベティだった。
「うん、そう…だけど…?」
「円卓騎士って、まさか、円卓十六士?」
そう瞠目して言ったのはジンスだった。出身地がアステラルテに比較的近く、また縁者がアステラルテにいるらしいジンスはこの都市独特の制度のことを知っていたらしく驚いている。一方、ハルシェイアと同じく遠方からきたメイアは首を傾げていた。
「な、な、なんで、ハルはそんな有名人と知り合いなの?!」
「え、えっと…」
ベティに詰め寄られたハルシェイアは困ったように当の二人を見ると、そこは大人の貫禄か、自然に助け船を出してくれた。
「紹介が遅れてしまったね。僕はジグルット・カティ、ハルシェイアとは同じ村の出身だよ。それで――」
「――僕はシブリス・アデルフィーン、気安くシブリスと呼んでください。ジャヴァール出身なので、ハルシェイアとはそちらでの知り合い、ということになります――ということでいいですか、ハルシェイア?」
「あ…、ありがとうございます…」
その後、ジンス、ベティ、メイアの順番で、ジグルット達に自己紹介をした。
「そういえば、ジグルットさんたちは、何処かへ向かわれる途中だったのでは?」
一段落ついたところが、メイアがそんなことを訊ねた。すると、二人はあっと思い出したように口を開いた。
「そうでした、そうでした。これから昼食を取りに行くところだったんですよ。騎士ジグルットの奢りで」
「奢り?」
「騎士シブリスに、仕事を手伝ってもらったんだ。その御礼に、僕のお薦めのお店でごちそうする、ということに」
「…円卓騎士、おすすめの、お店?」
ベティが呟く。シブリスのその言葉は、お店巡りが趣味のベティの琴線に触れる者があったらしい。
「ちなみに、そこはどこ、ですか?」
「え?…ああ、お店?すぐ近くにある『ヅズの海小屋』って、エンコス料理の店だよ。父の友人が経営しているんだ」
「この近くの…エンコス料理の、お店…?――しらない」
ベティは愕然とした様子で言った。おそらくこの辺りの飲食店は、まだ入ったことないとしても名前だけはチェックしていたつもりだったのだろう。また今は教会を中心とする共同管理地となった今は無き小国、エンコスの料理というのも、驚きと共に、一瞬のマニア魂に火を点けてしまったようだ。
ただ、ハルシェイアの反応は違った。少し呆然とした様子で呟く。
「…『ヅズの海小屋』、エンコス…」
「うん、村の人」
その二人の会話は他の人(シブリスは察しているかもしれないが)には、その本当の意味は分からなかった。
「ね、ねぇ、みんな」
そこで声をだしたのは、先ほどから大いに積極性を見せているベティであった。これは、ジグルット達ではなく、自身の友人三人に投げかけられたものである。
「今日、そこで食べない?」
「え?」
「予定を変更して…私の知らない騎士様推薦のマイナーな地方料理の店――是非行きたいの」
「私は…別にかまいませんけど――そのどのくらいするんでしょうね」
「…あ」
そう財布の心配だ。四人とも貧乏ではない、むしろジンスやベティは裕福な方だろう。だからといって、贅沢できるほどの資金力はない。とくに今月は新生活で何かと物入りだったことに加えて、生活になれるまで楽な外食に頼っていたこともあり、皆少々きつい。なので、今日の昼食は自炊にしようと(既に夕食・朝食は自炊を始めている)、材料を買いに行く途中だったのだ。
「それなら平気だよ、昼の定食は学生でも大丈夫な値段だよ…むしろ安いぐらいかな。現にここに学食代わりに使っていた先輩がいるしね」
とジグルットは自分を指して言った。
「ねっ、みんないいでしょ?」
「うーん…」
「あの、私…行きたい」
「ハル?」
こういう時、あまり積極的に自分の意見を言わないハルシェイアが珍しく自分の意志を見せたことに仲間達は少し驚いた。そして、これは好機とベティが畳みかける。
「ほら、ハルが珍しく、行きたい、って行っているし、ね」
「――そうですね…、ハルが言うなら…」
「うん、そうだなぁ…ハルがこういうときに、主張するのも珍しいし…」
元々強く反対はしていなかったメイア、ジンスもハルの言葉が効いたようで、あっさり同意した。
彼女たちがまとまったことを確認すると、シブリスがハルシェイア達に口を開いて、こんな提案をする。
「お代は、僕が支払いますよ」
「はい?」
「…それは」
「…?」
「えっ、ホントですかー!」
先ほど会ったばかりの人物にそんなことを言われて微妙な反応示すジンスとメイアに対して、ベティはぴょんぴょん跳ねて喜んでいる。ちなみにハルシェイアは釈然と行かず首を傾げている。
(えっと…シブリスさんはジグルットさんにごちそうしてもらうのに、私達にごちそうする、の?)
ジグルットに目線を送ると彼も少し呆れたように苦笑いしていた。そんな二人を端に置いてシブリスは加えていった。
「可愛い女性には、僕は優しいんですよ」
その言葉に喜んだのはベティ、それにジンスが軽く照れていた。メイアはその言葉にやや不審の目でシブリスを見て、ハルシェイアは何故か酷く不安になった。
そして、ジグルットが溜息をつく。
「……とりあえず、店に行こう」
ジグルットが溜息をついたまさにその時、ハルシェイアは、一瞬視界の端に変なモノを見た気がした。それは、妙な人影だった。一瞬だけだったので、具体的にはよく分からなかったが、それはとにかく異常に派手な格好をしているように見えた。
だが、真正面に見えたのにも関わらず、ハルシェイア以外は誰も気づかなかったようで、誰もその事に触れなかった。だからハルシェイアは、気のせいだと、この時は思った。
(多分、色んな人の服が重なって、そう見えたのかな)
あれぐらい派手な人間が居れば、それこそ大騒ぎである。
だから、この事をハルシェイアは忘れてしまった。それが見間違いではなかったことに気づいて後悔するのはもう少し未来の話である。
『ヅズの海小屋』はちょうど第二女子寮の裏手の細い路地にあり、その近さにベティが多少の衝撃を受けていた。ただ、寮からだと、その路地へ行くまでぐるりと道を回り込まないと行けないため、直線距離に対して少々時間がかかる。
店自体は特に看板も出て居らず間口も大人一人が両腕を広げたよりも少々広い程度、扉に付けられた鈴の音をならしつつ中に入ると、中は細長く奥行きがあり、席は十ほど、全てがカウンター席だった。
「いらっしゃい…、お、ジグルットじゃねぇか、久しぶりだな」
カウンターの中にいた禿頭の中年が言った。おそらく彼が店主だろう、店の中には他に二人の男性客が居て、常連なのかジグルットと親しげに挨拶していた。
「…と、客連れて来てくれたんか」
「あ、はい、こっちが同僚の騎士シブリスで、この四人が後輩――それで」
軽くぽんと押してハルシェイアを前へ出す。
「あ、あの…ハルシェイア…ジヌール、です…」
その名前を聞いた途端、がたんと音を立てて客の一人が立ち上がり、店主やもう一人も驚いたように目を丸く見開いていた。
「おいおいおい、ま、まさか、グルブんとこのガキか…?!」
「あ…あの…」
ハルシェイアの記憶にはグルブという名前は無かった。でも、ただ、漠然とそれが、自分が「おとー」と呼んでいた、あの人の名前だと知った。
あの日、最後に見たあの人は――
――胴体のない赤い……――
ハルシェイアは俯いて、自分の思考を静かに振り払う。尤もそれ以降の記憶はない、のだが。
そんな様子には気づかず禿頭の店主はそのごつい外見に似合わず、眼を潤ませていた。
「そ、そーか…生きていたのか!生きて…いたのか…。良かった――こんな吉報は久しぶりだぜ。こりゃあ、祝いだな。そうだ、今日は一日、うちのお代はいらねぇ、タダだタダ!…先生にも随分世話ぁなったしなぁ」
店主の言葉に、おぉ、と歓声が上がるが、ハルシェイアは曖昧に笑みを浮かべた。それよりも気になったことがあり、隣のジグルットに訊ねる。
「…先生って?」
「え?…先生って、それは――そうか、ハルシェイアは村のことはほとんど覚えていないんだったね。先生というのは、君のお母さんのことだよ。王都からわざわざ訊ねてくる人がいるくらい優秀な医療師だったんだ」
(お母さんが…医療師?)
初耳だった。そもそも、母のことは何も知らない名前も、顔もどんな人なのかも、何も覚えていない。ただ、温かいイメージだけ、それだけが記憶の中に残っていた。
だから、ハルシェイアは今日いっぺんに本当の両親の話題があがって、嬉しくなった。
(そう、なんだ…お母さん、医療師、だったんだ――)
それと同じくらい、自分の両親のことなのにその話題に乗れないことが寂しかった。
そのあと食べた故郷の料理は、美味しかった。記憶の内では食べたことがないのに、とても懐かしい味がした。
幕間2−3「ンラ・ンロ・ンル・ンン」
(くそぉ、くそぉ…)
ダッテンは暗く汚い袋小路で立ち上がった。見れば、その前に目に映った光景と違い既に日が暮れてしまっている。
(馬鹿にしやがって…!)
ダッテンは無惨に鼻血を流し、顔には大きなアザ、制服も汚れ一部は裂けていた。これは、憂さ晴らしとばかりに先輩達に私刑にあった結果である。
ダッテンはハルシェイアを「懲らしめる」ことを決めたものの、先の模擬戦での敗戦が頭にこびりついており、自らは臆していまい、結果、摂政の孫娘の名を出しにゴリウス人の先輩を巻き込んだのだ。しかし、それは先ほど失敗、円卓騎士まで出てきてしまい、恥をかいた先輩達は言い出しっぺのダッテンに暴行を加えて、憂さを晴らした訳である。
(なぜ、うまくいかないんだ…それこれも、全部全部、あいつのせいだ――)
「あいつの…」
その時だった。
「―――――ほほぉ、これはこれは、なかなか麗しい負の感情…いやはや素晴らしいぃぃ!!」
「え…?」
人気のない路地裏に突然の声。反響したような声で、どこから聞こえたのか、甲高いのか、低いのか、男なのか、女なのか、まったく分からなかった。
ダッテンはハッとして前を見る。
「いつの、間に…?」
彼のすぐ前に男が一人立っていた。いや、多分、男だろう、というのが、正しい。トップハットに、派手な仮面、ボロボロの黒いマントに、中は道化が着るようなだぶだぶで飾りの多い服、皮の手袋に、先の尖った靴を履いた<何処でもいるような普通の>男だった。
そして、この場にハルシェイアがいたら気付いたはずだ。街中で見たのが、決して見間違いではなかったことに。
「くふふ、そんなことはどうでも良いじゃないですかぁ。それより、私の話、耳を傾けません?」
動作は芝居かかったように大仰で、言葉使いも不安定。感情も思考も、言動からまったく読みとれない。そもそも、本当にそこにいるのか、それほどに現実感が皆無だった。
「今、チカラ、欲しいでしょ?」
「力…?」
「そそ、チカラですヨ、チカラ。これさえあれば何でもできます、知っているデショ?」
まったく誠実感も、現実感もない、そもそも意味すらあるのか疑わしい、戯れ言の如き彼の言葉。しかし…
(これさえ、あれば、何でもできる…?力がもらえる?)
こんな言葉で、ダッテンの心は傾きつつあった。しかし、それはダッテンの性格の問題ではない。この男が現れてから、ダッテンの瞳は酔ったようにとろんとしてきており、明らかに異常だった。だが、哀れなことに当の本人はそれに気が付くことが出来なかった。
「そうそう、なぁんでもネ…力があればどんな無茶も無謀を行えます。勇気も、栄光も、富も、破滅もなんでもこの手の中!こんなに良いことはないですヨ!」
ダッテンは気づくことができない。この道化がダッテンの心中の声に答えたおかしさに、滅茶苦茶な彼の道理にも、もう気が付けない。それは彼を見てしまったから。
「契約しよう、契約。この私と、この我、と、ナ――」
鳥の面をした、その何か、と。
“悪意”そのものと会ってしまったから。
最近、ダッテンが可愛くて仕方ありませんw
ところで幕間で出た怪人。こいつの所為で第二章の予定がだいぶ狂いましたorz
二ヶ月前の自分は何でこいつを先行して出そうと思ったのだろうw先を書いちゃったから今更、無かったことにはできません。
ちなみに幕間のサブタイは一応、怪人の名前と思って下さい。