槍となれ。
随時更新編集中
*
その青年が今でも覚えているのは、街の一角、石造りの家屋が立ち並んだ中に紛れる庭付きの小さな教会だ。敷地の裏に孤児院が併設されたその教会は、焦げ茶色の木材で組まれた簡素なもので、馬屋の後ろ姿に勘違いされようともおかしくない侘しいものだった。だが、街角を往く者の多くがその教会を知っている。雑草も禿げた庭で毎日のように遊ぶ子どもたちのはしゃぎ声と、日曜の朝にだけ出入りする身なりの異なる数人の大人達が存在感を与えていたからだ。
教会の扉を開くとまず目を奪われるのは、正面のステンドグラスだ。ベニヤ板を敷いたような軋んだ床から、決して高くない天井までの壁一面を色彩に瞬かせていたそれは、誰の視界をも当たり前に支配した。まだその頃は少年であった青年も例に漏れず。そればかりか、彼は頭一つ分高い礼拝堂の教壇へとよじ登り、そのステンドグラスをただじっと眺めることを好んだ。教会の裏に育つ樹木の木洩れ日が青や赤や緑となって、顔を、手を、足を、日に焼けた肌をきれいに塗りたぐる。「登ってはいけない」と、シスターには日曜日の昼下がりに何度も忠告を受けていた彼だったが、それを守ることはできなかった。
日曜の朝に訪れる大人たちが『ウィナ』と呼んでいる男がいた。七色の風の中で、棺桶から半身を乗り出した男。ガラスに描かれた男のことだ。大人達の語る彼の美も力も、少年には馴染まない。だが、時を忘れてガラスを眺め続けた時間は、誰よりも長く。
―ウィナ。ウィナ。父なるウィナよ。慈しみ深きウィナよ。私達は全てを赦し、誠実であります。いつまでも人であるように、全てを愛で、全てのかたちをありのままに。私達は―
意味を知らないがために祈りにも戒めにもならないそれを、少年は皆と繰り返した。その小さな頭では、大方、祈りを余所に目の前のガラスの魔法を独り占めできる時間をせしめることしか考えていなかったに違いない。
ウィナに誠実であったシスターは優しい。孤児院の子ども達はその慈愛を分け隔てなく与えられ、また、彼らはそれを独占することはなかった。孤児であった彼らは幸せの中で育った。不幸中の幸いではなく、不幸の上に芽吹いた大きな幸いであった。それが幸いか、子ども達は春の息吹を迎える度に、ひとり、またひとりと教会の外へと消えていく。たんぽぽの綿毛がとび立つようだ。シスターはそれを幸せそうに、しかしもの寂しげに、見送り続けるのだった。
「優しい子ども達。好きなように生きなさい。ウィナに従うのではなく、ウィナを内に秘めなさい。そうすれば、祈りは要りません。あなたたちの行いは全て、ウィナと共になるのだから」
「僕はどこにも行きません。僕は、シスターのそばに居たい」
誰かが孤児院を卒業する度に、シスターは同じ見送りの言葉を。少年は同じ呟きを。幾度となく繰り返し途切れ、繰り返した。その続きはやがて、最後から2つめの別れの日に紡がれた。「それも、いいかもしれませんね」―シスターは眉をハの字にそう返して微笑んだ。少年は喜んだ。
気が付けば、教会に残されたのはシスターと少年の2人だけとなっていた。シスターは最後まで誰しもに平等であったが、ついに、少年の頭だけにその柔らかな手のひらが添えられる日が来たのだ。少年は小躍りした。小さな胸の隙間が満たされた心地だ。
夏の向日葵に手が届き。鈴虫に紅葉。雪の一粒が冬の訪れと分かるころ。
「優しい子。好きなように生きなさい。ウィナに従うのではなく、ウィナを内に秘めなさい。そうすれば、祈りは要りません。あなたたちの行いは全て、ウィナと共になるのだから」
その言葉はついに、少年へと向けられた。
かつて暮らしていた少年少女らが描いたウィナの印も、その年の年長者がしきりに打ち直した屋根の板も。時間も意味も何もかもを否定するように、全てがごうごうと燃える炎にくべられ目の前で悲鳴を上げる。
夜空が焦げる炎の元で。教会が焼け落ちていく。
辛うじて、庭へ逃れたシスターと少年であったが。シスターの腹からは、見たことも無いような黒いゼリーと赤いジャムの混合物が、ぬめりどろどろ、漏れ出していた。
少年は何を思ったのだろう。青年が思い出すことはできない。
煤で黒く汚れたシスターの頬が青白くなるころ。教会と孤児院は、火柱の中で音を立てて瓦礫となる。彼と彼女の目尻に溜まる涙すら、肌に少しの張りを残してどこかへ消える。
熱い炎。燃え盛るオレンジと、息苦しい黒色の雲。
いずれも、あの日からずっと眺めていたガラスの中には無い色で。少年は、少年を抱きしめる冷たい彼女の腕の内で、ただそれをずっと眺めていた。
それは、青年が少年だった頃の記憶である。
――――
*
「レイン様。…おはようございます。ねえ。おはようございますったら。」
「…あぁんう…」
全く、だらしないですね、レイン様は。これでは掃除ができませんわ。早く起きてくれないと、ぶつぶつ…それは、悪意もなく、どこか楽しげで緩んだ小言。青年の耳から遠いところの、聞き慣れた彼女の声。少し高くて、言葉尻が優しくも諭したような音がなお心地良く、枕へと埋まる頭が更に深みへと導かれる。
「レイン様ったら!机の器具、片付けてしまってもいいですか?この紫のやつとか、お庭に捨てちゃっても?…うわくっさ何これ」
「…あー…ちょっと待って…勝手に触んないで…」
「あ」
まるでその後に、
私、忘れ物を思い出しました。
と、続くような軽い発声に安心していたのも束の間。耳元をつんざく、フラスコが真っ二つに割れる音に青年は飛び起きた。
「ちょっ、お前今何割っ…うわくっさ!窓窓!窓開けて窓!」
「くっさい!くっさいです!レイン様くっさい!」
「窓!」
「くっさ!くっさい!レイン様くっさ!」
「窓開けて!窓!」
「レイン様くっさい!レインくっさ」
「いいから!臭いのはいいから!早く!窓をね!開けようか!」
彼女の細い指がぎこちなく、両開きの窓のかんぬきを解く。開け放たれた窓から、室内を侵食し始めていた、生ごみを燃やしたような鼻腔から喉の粘膜を逆立たせるにおいが逃げる。代わりに吹き込んで来たのは、少し肌寒い晩秋の風で、薄手の寝巻に宿った温もりが一気に冷めていくのを感じた。絨毯に染み込んだ臭いの元へと注がれた意識が、ひと時のみ離れるくらいに久方ぶりの風だった。
「リリー…だから勝手に部屋の掃除はするなって、言ってるじゃないか」
寝間着姿で鼻をこするこの青年は、レイン・フォルディオという。この屋敷に住む、18歳の青年だ。焼失した教会孤児院より引き取られ、今はこの屋敷に住む養子である。歳相応の背丈だが、少しばかり痩せ気味で前のめりに曲がった姿勢が内気な印象を与える。栗色の髪の毛はこの国で珍しくはないが、はねやすいクセの毛先が彼の悩みでもあった。いつも毛先をいじるクセは、『垢抜けない男の子』を助長している。
「仕方ありませんね。とりあえずレイン様はこのスリッパをお履きください。私がこのガラスを片付けますから、終わるまで部屋の外にいらしてください。ついでに掃除もしてしまいますね」
「いや、仕方ないって、割ったのはリリーじゃないか。あ、じゃあついでに、器具を先生に返してくるから、持っていくよ…」
黒地のシャツにエプロンをした彼女は、腰紐に挟んだ塵取りと小ほうきでガラスの破片をおおざっぱに集めていく。目尻の釣りがちな丸い目と腰まである灰色のざんばら髪が印象的で、名をリリーシャという。歳は20歳とレインより少しばかり年上であり、レインが彼女を姉のように慕うような時もある。というのも、彼女はレインの義姉ではない。このフォルディオ家に仕える使用人である。形式的には奴隷階級ということになる。
「その、レイン様っていうのはやっぱり止めてはくれないのかな」
「…ええ。何事も、けじめというものが大事なのです」
「けじめ…って、何の」
「教えません」
そう言って微笑む表情を、レインは一度も直視したことは無かった。彼女の出自、将来の夢。この手の話に時折浮かばせる、何かへの信念。彼女が決してそれを覗かせないことへの戸惑いをずっと抱えたまま、レインは暮らしている。
彼女が言う、『けじめ』というものはどれほど重要なことなのだろうか。レインがそれを思案した夜の数は、枕の上で数えた羊よりも多い。彼にとってはリリーシャを家族そのものであるように思っており、彼女自身も言葉遣いはどうあれ、そのように接しているように思える。何より、この屋敷の主も彼女を娘として迎える気持ちがあるのだ。レインがこの屋敷に住むようになって十年が経つが、長らく共にした姿―料理を作る彼女、洗濯物を干す彼女、本を読む彼女、掃除をする彼女―どこを見ても、彼女が奴隷階級へ拘る理由が見つからない。
「ほら。レイン様。早く出て行かないとガラスと一緒に掃き捨ててしまいますよ?」
「分かった分かった。じゃ、掃除よろしくね」
レインは無造作にかごへ詰められた器具を彼女より受け取る。
こうやって、掃除、洗濯、炊事、全てを任せているから、彼女はいつまで経っても家族になってはくれないのだろうか。ある時はそう考え、彼女の意志を尊重している屋敷の主の『先生』に尋ねた。
『リリーは、なぜ家族になりたがらないと思いますか?僕や先生が、面倒ごとを全部押し付けているからですか?』
『はは。そう思うなら、手伝ってあげるといい。でも、そんな理由じゃないよ。いつか、彼女が話してくれるさ。レイン君。僕からのお願いは、それまでもそれからも、リリーシャには家族として接してあげてほしい。君が僕を先生と呼びながら家族としているようにね』
『頼まれてやるようなことじゃないけど、そうしますね』
『そうだな。頼むまでもなかった』
家族、という言葉は難しい。街の人々は揃いも揃って、父だの母だの、子どもだのが家族だと言う。だけれども、たまに、犬や猫がその中に入ってきたり、あろうことかぬいぐるみも仲間に入る。血が繋がっていなくても家族の時もあるし、遠く離れていても家族であったりする。
結局、自分が家族だと思っていればそれが家族なんじゃないか、と、彼は腑に落とすことにした。そういう意味では、リリーシャは家族だ。先生も家族である。この広い屋敷には、『青年』と『奴隷』と『先生』が家族として住んでいる。
でもそれは、脆くて危なっかしいように思えた。―あるんじゃないか?家族であることが揺るぎないとされる何かが。そういったものはどこから生まれ、どこで手に入るものなのだろう?―レインはその答えを見つけられずにいた。
2階にある寝室を出て、長いカーペットを歩き続けるレイン。スカーレットの濃色が所々にあるシミをうまく隠してはいるが、いたるところで年季を感じる屋敷だ。床へ響く踵の音はそう深くない。フォルディオ家が購入する前から、そのまた前から、改装や補修はされず、ほとんど手は加えられていないと聞いた。
1階へ降りるための中央階段まで部屋のいくつかを過ぎ去る度に、換気のために開いたドアから窓の向こうへ目をやった。たまに浮いた雲が良い。外を覗く窓が部屋と共に切り替わる度に、雲の位置は右に、右に。やがて枠の外へ消えていく。そんなパノラマ。
「よそ見していると危ないぞ。レイン君」
「あ、ごめんなさい。先生。おはようございます」
レインが歩みを進めるごとに、かごの中でぶつかり合いリズムをとっていた器具へそっと手を添えた眼鏡の男。白髪交じりのオールバックヘアに無精髭を生やすこの男こそ、屋敷の主であるイワン・フォルディオだ。知的な面持ちとそれに反して引き締まった肉体が、レインとは似ても似つかない。かといって、思考が相容れないわけでもない。互いの悪いクセは知っていた。それでもなお、他人としての嫌悪を知らない間柄だ。
「おはよう。朝食、リリーシャが作ってくれたから、それを食べなさい。器具は俺が運んでおくからね。…それにしても、また寝室で調合かい?有毒ガスが出るかもしれないんだ。ちゃんと、実験室を使った方が良い」
「ああ、ごめんなさい…先生」
「それから、少し早く起きることをやってみては?ついこの間まで、できていたことだろう」
「…いつか言われると思ってました。そうします」
相変わらず説教が多いイワンだが、それがレインに『先生』と呼ばれる理由ではない。彼は真の意味で、先生なのである。
幼少期より、魔法研究の名門であるフォルディオ家の跡取りとして育てられたイワン。物心ついた頃より徹底された教育プロセスを歩む彼は、両親の期待した通りの秀才として育った。やがて、彼が自立し、自らの研究に没頭するようになったことを見届けた両親は、更なる魔法の探求のため他大陸へと旅立ったのである。
『父さんも母さんも、俺から言わせれば逃げたのと一緒さ。魔法の新天地を、と言えば聞こえはいいが、まだまだこの大陸の魔法を追究する余地があり、そしてそれができる者として一番近いところに居るのが、俺たちのような魔法研究の名家のはずだ。他の大陸なんて、見て回る余裕があると思うか?』
酒に酔ったイワンは、必ずそう吐き捨ててコップを仰ぐ。とは言いつつも、両親が手紙と共に送って寄越す、他国の珍しい物品にはいつも心を躍らせている。結局のところ、イワンの両親が彼を大陸に置いていったことについて、許せないわけではないらしい。いつしか、それが単なる僻みのように聞こえるようになり、レインはその台詞を聞く度にクスリと笑った。
教会が焼け落ちたあの日。シスターの友人であるイワンはたまたまそこへ駆け付け、レインを保護した。細い道に群がる野次馬を押し退いて、シスターの亡骸ごとレインを固い腕で優しく抱きしめた彼の温もりは、どこかレインの記憶の片隅に残っている。
教会において、イワンは日曜日の常連だった。それでもレインが憶えていたのは、彼が来るのは決まって日曜日の昼下がりだったからだろう。午前のシスターの説教を聞くでもなく、祈りを捧げるわけでもない。それらが終わったころに現れる彼が、レインはとても不思議だった。だが、その時間があるおかげで、レインはガラスの魔法を独り占めできていたのだ。
そう、ステンドグラスのことを、ガラスの魔法、と呼ぶのも彼の影響だった。
『おじさんは、何をしている人なの?』
『おじさんは酷いぞレイン君。お兄さんはな、魔法を研究しているんだ』
『まほう…まほうって、なあに?』
『ん…あー…そうだな…ま、この、綺麗なガラスみたいなもんだ』
その時のレインは想像もしていなかっただろう。まさか、そのお兄さん(おじさん)の元で魔法を学び、研究を手伝うことになろうとは。
『レイン君が、魔法ってなあに、なんて言うから、気になって眠れなくなっちまったじゃないか。見ろぉ、このクマを。責任を取りたまえ。よし、今日から君は、ここで俺の研究を手伝いなさい』
『この子、今日からうちに住むの!?ほんと!?』
『そうだぞリリーシャ。今日からレイン君はお前さんの友達…じゃないな。うん、家族だ!あと弟だ!』
『よろしくね!レイン!あ…レイン様!』
―
「随分、今日はセンチメンタルになる日だな…」
それは、おそらく夢のせい。忘れかけていたあの日の夢を、一度全てを焼かれた夢を、おそらく夜に、僕は見ていたのだ…と、朧の記憶を惹起する。
温くなったトマトスープを啜り、残り汁をパンに吸わせて頬張る。少し胡椒が利き過ぎている味が、いつも通りで安心した。
――――
*
レインとイワンは夕食を終えた直後より、地下の実験室へ籠もり研究に勤しむ。これが彼らの日課であった。そして途中から、家事をひとしきり終えたリリーシャが合流し、二人の様子を階段に座りながら眺めるのもまた、日課であった。
それが、一ヶ月ほどくらい前だろうか。イワンの両親より、両手でようやく抱えられるほどのサイズの木箱が送られてきてからというものの、イワンは自室に籠もって研究をするようになった。
『すまない。レイン君。しばらくは、自室に籠もらせてもらうよ。実験室の方は自由に使って構わないからね。ただし、使ったことのない機材は使っちゃダメだぞ。通気口も必ず開けておいてくれよ』
今更、僕と先生の間で秘密にする研究とは一体、と、レインは不思議でならず、様々な勘ぐり探りを入れるものの、酒にも媚びにもなかなかどうしてボロを出さないイワンだ。結局、匙を投げたのはレインである。彼の自室籠もりを渋々黙認した。
「リリー。僕は研究室に居るから」
「ええ。私も、後で様子を見に行きます」
地下室へと続く階段がある書庫は薄暗い。それは天井を突くほどの高さがある本棚が部屋の四方を固めているからである。窓は数十年開けられておらず、本棚の裏で蜘蛛の巣にまみれていることだろう。
地下室への道はまるで大きな床下収納のような外観だ。木製の床の一部が四角く持ち上がるようになっており、そこから続く階段をランプ片手に下っていく。地下室は蒸し暑く、照明は壁に掛けられたランプがいくつかあるのみ。壁も床も土で固めただけの10㎡ばかりの空間に、木のデスクや実験器材を敷き詰めている。ビンやフラスコ、すり鉢や鏡、アルコールランプに瓶詰めの魔物の細胞。
以前、イワンの両親からより宛てられた手紙で知ったことだが、他の大陸ではこれらの器材を使った学問は『科学』や『化学』と呼ぶらしい。
『いや、レイン君。不思議なことにね。俺たちが魔法と呼んでいる事象は、他の大陸では見られないものらしいよ。何もないところから、手をかざして火や水の玉を飛ばす、なんてのはね。彼らの言い分は、それも、かがく、なんだと。何もないようで実は何かあると考えているそうだ』
『じゃあ、そこにある何かを探すのが、魔法の正体を暴くことにつながる?』
『…まあ、そうなるな。その瞬間、魔法は、かがく、になっちまうが』
魔法は誰しもが使うことのできるものとされているが、現実には限られている。ここで、通常人が魔法を使えるようになるための指導書『魔導書』の言葉を引用する。
『魔法を使えるようになるためには、まず、何らかのきっかけを以て特定の情景を思い出さなくてはならない。そして、思い出された情景を鮮明に思い浮かべることで、その情景に連なる魔法を行使することができる。―出版社:グリモア=グリモン 魔法基礎初級編 より』
他大陸の人間曰く、『魔法が発動するそこには、何もないように見えて何かがあるはず』。しかし、魔法の因果が目の前にある何かであるのならば、なぜ、魔法の行使が記憶などという非物質的なものをトリガーとしているのか。それも、身体の外ではなく身体の内側に力を働きかけるような。レインやイワンはその不整合を以て、他大陸の学者の仮説を本気にしない。
やはり魔法は、他大陸の人間の言う、かがく、とは異なる存在なのではないだろうか。そう思いたい気持ちが、彼らにはある。
「…とりあえず、僕は魔法を使えるようにならないと…」
そう。レインは未だ、魔法が使えない。
まだ、焦るような歳ではない。2つ上のリリーシャでも、未だ魔法が使えるそぶりはない。しかし、魔法を研究しようというのに、そんなことでは実験もままならないのだ。結局、レインはいつまでも物体の観測ばかりをしている。
魔法で生じた物質は、時を経てどこかへ消えていく。当初は、単なる物質の状態変化であると考えられてきた。が、どうやら本当に跡形もなく消えているらしい…そんな可能性が今日、民間の研究者の間ではもっともらしい仮説として広まりつつある。
『いや、当然だよレイン君。何もないところから何かを生み出しているんだ。当然、その何かが無くなってくれなきゃ、いつか世界が魔法で生み出された何かで埋め尽くされてしまうだろ?』
これはイワンの考え方。一方で、他大陸の学者の意見は。
『いや、そこにある見えない何かが変化して、一時的に見える何かとなっているに過ぎない。だから、見えない何かにまた戻っているに過ぎないのだ。』
結局、話の焦点は、魔法が行使されるそこに『何か』があるのか、無いのか。問題はそこへ行きつくのである。
レインは温度変化や混合といった方法で、目から見えなくなるものの観測をしてデータを集め、魔法により生じた物質の出現・消失のパターンと照らし合わせていた。これで何かのパターンと魔法が合致すれば、少なくともそこに何かがある『場合がある』ことの証明になる。
(でも、この方法じゃ、本当に何もなかった場合は永遠にそれを証明できないんだよなぁ…)
レインは魔法が好きだ。かがく、は、好きというわけではない。証明したいのは魔法。摩訶不思議な、かつてのステンドグラスにみた、ひと時の、美。だが彼は考えない。一度それを紐解いてしまえば、それは彼が見たステンドグラスのように、その神秘が人々を魅了することは無くなってしまうということに。探求心とはそういうものだ。人は手品の種を知りたくなるし、時として分からないことに恐怖する。やがて人は、探求心によって世界を支配するだろう。
「レイン様。本棚から魔導書、持ってきましたので、一緒に読みましょう?」
フラスコに入れた石を火で炙っている最中に。階段を下ってきたリリーシャが、腰から首のあたりまで積まれた本を両手で運んでいるのを見て、レインは察した。
いつもそうだ。リリーシャは身の丈を鑑みることが苦手だ。力量は勘案せず、今そこで必要とされている物事の最善を行おうとする。川で溺れた犬を見つければ、自らが泳ぎの苦手なことはさておき、飛び込む。背よりも高く木箱が積まれ、それを屋敷へ届けるとなれば一度に持ち上げようとする。無謀だ。だが、躊躇しないことが好転することも、ままある。
「おひゃーッ」
案の定、リリーシャは悲鳴と共にデスクと床へ本をばら撒いた。幸い、転んだ先に危険物は無い。事前に避けてある。レインは表情ひとつ動かさず彼女に駆け寄り、顔をしかめて下唇を噛む彼女を、馴れた手つきでイスに座らせて言った。
「リリーにケガはないよ。リリー」
「そこは、『リリー、ケガはないか?』じゃないんですかレイン様…」
彼女の足に生傷が増えていないことを確認したレインは、散らばった本を集める。
「あ。魔導書じゃないものも混じってるぞ」
「え?あーこれはうっかり…グリモア=グリモン社のものでしたので、間違いました」
グリモア=グリモン社は、専ら魔導書を出版する組織ではあるが。魔法に連なるものであれば、社会情勢、歴史、気象、地理…多様なジャンルを相応の情報量にて出版している。そして、その赤裸々な内容により禁書となることは珍しくない。
リリーシャが持ち込んだのは、歴史書であった。『宗教に始まる魔法の歴史』。これも既に禁書となった、古い書籍である。というのも、ここで語られる宗教がウィナ教であるからだ。
ここは帝国。ヴァッハ帝国の首都、デミランダ。国教はグラン教である。ウィナ教は異端とされ、近年の弾圧はより激しくなっており、ウィナ教にまつわる書籍が禁書とされたのもそのためだ。そして、レインの育った教会もまた、ウィナ教徒のためのものであった。
「あ…レイン様。その本は…」
「いや。いいんだ。今日は、これを読もうか。気分を変えて、宗教の観点から魔法の仕組みを探るのも悪くない」
リリーシャは遠慮がちに、小さく頷いた。
彼女がレインの過去を気遣い、その本に遠慮しているのは彼の目から見ても明らかであった。ウィナ教は彼にとって、シスターとの思い出そのものだと、彼女も理解していたからだ。が、レインはリリーシャと家族としての距離を縮めたい思いが強い。シスターを失った悲壮感の惹起を避けるよりも、リリーシャの遠慮を打ち消すことの方が、今の彼にとっては優先されることである。
ウィナ教は、この大陸にかつて栄えていたとされる古代文明へ降臨した『ウィナ』を神として信仰した宗教だ。
ウィナ教と魔法の絡みはこうだ。古代文明には、ウィナが降臨する前は古代魔法と呼ばれる、幸福を対価に発動する魔法しかなかった。が、ウィナの降臨により正しい魔法が伝えられ、人々の生活がより豊かになったとされている。
「古代魔法…というのは、今はすっかり使える者がいなくなった、とされる魔法ですよね?」
「うん。古代文明の終わりと共に、古代魔法の伝承も絶たれた、と言われているよ」
「ウィナが伝えた、正しい魔法、というのが今の私達の世に伝わる魔法なのですね」
「その通り。それゆえに、ウィナを神と信仰する者が多く、宗教になった」
ウィナの功績はそれだけではない。当時勃発していた魔族との戦争も、ウィナの導きにより退かれたと言われている。
「でも…滅んじゃったんですよね。古代文明」
「うん。伝承では、人間は魔族との戦争に勝利したんだ。でも、欲が祟った。古代文明は人間界から魔族を排除するだけでなく、今度は魔界を侵略しようと企んだんだ。ウィナは侵略に反対したけれども、人々はそれを無視した。ウィナを通してその経緯を見ていた4人の神々は、人々の欲望に怒り、わずか3日で古代文明を滅ぼしたんだ。そしてそのウィナもまた、人々に失望し、人の世を去る。そのとき、人々が真に誠実であれば、いずれ再臨することを人々に約束したんだ」
「なるほど。魔界…というと大陸の東部のことでしょうかね」
「うん。そう考えられてるよ。100年前に4人の勇者によって魔王が討伐されたっていう、魔王城は大陸の東部にあるからね。古代時代にもその周囲に魔族の都があったんじゃないか、って。明確に証拠があるわけではないけど」
魔王が勇者によって討伐されたのは100年以上前のこと。古代文明はそれより遥か昔にあったとされる文明だ。その時代のものと思われる遺物は時折発掘されるが、古代文明の存在そのものを疑う学者も多い。
そんなウィナ教に対して、国教であるグラン教は人々にとっては身近なものだ。グラン教は、ヴァッハ帝国の皇帝であるグラン・ヴィー・ヴァッハを神の代弁者として信仰する宗教である。
その教義の中で、ウィナは古代文明を滅ぼした罪人である、としている。そしてウィナを滅ぼし人々の復興に努めたグランの祖先は、神からの祝福を得たとされる。その祝福とは、人々に正しい魔法をもたらした他、ヴァッハ家が神の代弁者となり、いずれかのふさわしい子孫に不死の肉体を与える契約だ。そして、数百年の月日の果てに生まれたグラン。彼が不死の力の持ち主であり、ヴァッハ王国…現在のヴァッハ帝国を築き、皇帝となった。
「グラン教が真実だとすれば。グラン皇帝が百年以上前からずっと生きているということになる。現に、グラン皇帝は、ヴァッハ王国時代から一度も世代交代をしたことがない。これが、グラン教を真実とする生きる証拠になっているってわけだ。相反するウィナ教が弾圧されるわけだよなあ」
大方、僕たちの気付かないうちに世代が入れ替わっているに違いない、とレインをはじめとする非グラン教の人間は高を括る。が、心のどこかで、グランが不死身であることを否定しきれない。それはこのヴァッハ帝国の教育と環境に、グラン教の教義が当然に組み込まれているからだろうか。
「まあ、教義のことは置いておきましょう、レイン様。ところで、ウィナはどこから来たのでしょう。彼が魔法をもたらした、というからには、どこからか持ち込んだと考えるのが自然です」
「んー…ウィナは、ある日突然現れたとされている。棺からね。そしてまた、人の世を去るときも、棺の中へ姿を消したとされている」
レインは本に書かれたイラストを指差す。白い線で六芒星が書かれた黒い棺から、ウィナが半身を乗り出している。レインにとって、その構図は懐かしく思える。幼少時代に教会で見つめていた、ステンドグラスと同じ。
「故に、ウィナ教では生まれた赤子は一度棺に入れてから抱き上げる。そして亡くなった者も、ウィナの棺を象ったものに入れて埋葬するんだ」
「では、ウィナが魔法をどこから持ち込んだかは検討もつかない…ということですか」
「そうだね…ウィナ教でも、グラン教でも、魔法は神かその代弁者によってもたらされたということになる。結局、神の力を分け与えられた、という認識がどちらの宗教にもある」
黄色く傷んだ紙は固く、しばしばページの端に入った破れ目を、めくる度に深くしてしまう。現在は製紙技術が進んでおり、紙の原料となる植物繊維の扱いも繊細だ。この本が発行された頃は、まだ破れやすく虫にも侵されやすい材質だったのだろう。埃の臭いに混じり、牛乳が腐ったような臭いがめくる度に鼻を突くのは、紙の素材が粗悪だからなのか、誰かが牛乳を溢したのか。
「私は牛乳をこぼしていませんよ」
「怪しいな…」
ふと、レインは読み飛ばしていた文中に見慣れない記述を見つける。『ウィナによってもたらされた魔法とグラン教によってもたらされた魔法が異なる可能性について』。どうやらこの本は、ウィナ教とグラン教の魔法に関する教えが両立する可能性に言及しているようだ。
「…ええっと?ウィナによってもたらされた魔法とは、生まれながらに身体の一部分の成長を促進させる魔法であり、グラン教における神が祝福としてもたらした魔法こそが炎や水を生み出す魔法である…なんだこりゃ」
「身体の一部分の成長…ですか?」
「ああ。僕は人より握力が強い、とか、私は人より少し頭がいい、とか。それがこの本ではウィナがもたらした魔法だとさ。バカバカしい。それが魔法かよ。単なる個性じゃないか」
やれやれ、これだから宗教にまつわる魔法の考え方は突拍子もない、とレインは本を閉じた。魔導書の大手であるグリモア=グリモン社がこのような本を出していたことへの意外感はあるが、この本が古いものであることを思い出して納得する。グリモア=グリモンも駆け出しの頃は、真偽を横に置いてこのような斬新さで儲けを取る他なかったのだろう。
あまりこの本を虐めてやると、持ってきたリリーシャに悪い気をさせてしまうか、と、今更ながらに気付いたレインは、手ごろな魔導書を開いて話題を切り替える。
「ほら。とりあえず僕たちは、魔法が使えるようになる『情景』ってやつを思い出さなきゃ。そのためには…」
魔導書のいたるところに、様々な情景の絵が描かれている。これは、魔法が使える人々が思い出した情景を絵に記したものだ。空を覆う枝葉からの木洩れ日、暗雲とその下から迫る荒波の飛沫、火山の煙に重なる赤い太陽。
この情景の不思議なことは。どの魔法使いも、これらの情景を直に目にした記憶が無いことだ。それなのに、ある日突然に思い出す。似たような景色を見つけた時、夢から覚めた時、酒を煽った時、失恋に身を震わせた時。脈絡なくただひとつの情景が、突如として思い出される。
「どれも、ピンときませんね。それに、半信半疑です。見たことも無いはずの情景をある日突然、思い出す。それは果たして、思い出すと言うのでしょうか…」
「先生は、火口の挿絵を見て思い出したらしい。それから、炎の魔法が使えるようになったとか。火山なんて行ったことも行ったことも無かったらしいけど。デジャブ、とも違うとか。かなり鮮明に、その情景が思い起こせるんだってさ」
そもそも記憶とは、何だろう。最新の学術書にも、記憶を司る器官が頭にあるということくらいしか、書かれていなかった。それとも、他の大陸ならばこの研究が進んでいたりするのだろうか。
イワンの両親が特殊なだけで、他大陸との交流はかなり限定的だ。限られた港でしか貿易はできず、海には船を沈める魔物が多数存在する。また、港でないところへ船を着けても、陸の魔物が襲い掛かる。幸い、それを理由に他大陸からの目立った侵略はないが、貿易や学者の交流は命がけであるため、なかなか進まない。
それどころか、ヴァッハ帝国は他大陸との交流を禁止しようとしている節がある。今でも検閲は激しく、相当な権威でなければ他大陸の物資を調達することは難しい。
それでもイワンの両親が物資を送って来られるのは、魔法の名門であるからなのか、裏ルートなるものを使っているのか。
今、イワンが部屋に籠もっているのは、まさにその、他大陸の進んだ研究技術が送られてきたからなのではないか。
「なあ、リリー。ちょっと…先生の部屋、覗いてみないか?」
「…え?いえ、でも、入るなと…」
「覗くだけだよ。覗くだけ」
好奇心は研究者の原動力である。むしろ、今の今までイワンの部屋を覗かないでいた自分を褒めても良いのではないか。困ったように眉をハの字に吊り上げるリリーシャだが、レインの腕を引っ張り止めるくらいもできない。リリーシャもまた、彼が部屋で何をしているのか関心があったからだ。
「バレないように、そーっとな」
地下室を出た2人は、屋敷の2階にあるイワンの部屋を目指す。居間の古い掛け時計の振り子の音が聞こえなくなるまで階段を登ったところで。レインらは異変に気付き足を止めた。
「おい…なんだよ真っ暗じゃないか」
階段を登りきった先にあるイワンの部屋へと続く廊下は、明かりが一切灯っていない。それでも仄かににおう蝋の溶けた臭いが、明かりが消されてからまだ間もないことを示していた。
「明かりを、取ってきましょうか」
「…いや。ははあ。分かったぞ。ここで明かりを点けようものなら、それで先生の部屋に接近していることがバレるんだ。先生の部屋への廊下なんて、ほとんど僕たちは使わないからね」
「なんと…トラップでしたか。でも、そこまでして秘密にするなんて、一体ご主人は何を…」
リリーシャが転ばないように、彼女の細い二の腕を掴みながらゆっくりと歩みを進めていくレイン。カーペットの下で僅かに軋む板の音はどれほども響いてはいないのだが、思い返すと大きな音だったように感じる。それが尚更、足捌きを慎重にさせるものだ。
(あ…ドアが開いてるな。あれ?部屋の中も明かりを点けていないのか。)
廊下の突き当たりがイワンの自室である。ドアが僅かに開き、そこからは何の光が漏れ出すわけでもなく。
もしかすると、部屋には誰もいないのでは。そんな可能性に今更気付く2人。それならば明かりが消えていても不思議ではないし、なんなら後ろからイワンが現れて説教を始めてもおかしくはない。
(いや。…音がする。部屋の中から…)
暗がりの中で、ドアと壁の輪郭がはっきりと見分けられるまで近寄ってようやく。先刻の、リリーシャが本をぶちまけた音が耳に残っていたので、容易くその正体を察することができる。本。本だ。本を置いている。慎重な手つきであるが、完全に音を消しきれてはいない。
(妙だ。先生ではない。誰かがいるのか…?)
細く小さく息をしているのに、心臓の鼓動は大きく、大きく。リリーシャを掴むレインの手のひらに伝わる揺らぎは、彼の鼓動か、彼女の鼓動か、曖昧になるほどに、2人は緊張に揺れている。
ドアの向こうへ自らの吐息が漏れることを躊躇しながらも。意を決し。2人はついに、ドアの陰から中の様子を覗き込んだ。
月だ。
開け放たれた両開きの窓から。白い月が、部屋の窓際をほんのりと青白く照らしている。その脇で、本棚を物色する人影。フードを被った、見たこともないような人影に。
「誰だ!!」
「!」
レインは思わず、声を上げていた。限界だった。萎縮に耐えかねた心と身体が、握りつぶされようとする毬の弾力のように、飛び跳ねて言葉を発した。恐怖を言葉と共に、喉の向こうへ吐き出したかった末のそれは、人影の思考を封じるには十分だった。
「待て!」
人影は、脇に抱えた本をそのままに、2階の窓から飛び降りる。―正気か?窓の外の裏庭は芝が短く、生垣もない。無事で済むとは思えない。レインは賊の身を案じた。
「…あっ…!れ、レイン様…!そ、そ、それ…」
部屋の中へと踏み出したレイン。履いたブーツが、ぺちゃり、小さく水たまりを踏みつぶす音がして、足を止める。
雲に。遮られていた月明かりが窓際から広がっていく。それが、暗がりよりも冷たく感じるのは。彼の夢が絶たれようとしているからだろうか。彼の夢が絶たれようとしているからだろうか。彼女の夢が絶たれようとしているからだろうか。彼らの夢が絶たれようとしているだろうか。
―どうして僕から、また家族を攫っていくのでしょうか。
僕はいいから。僕はいいから、せめて、リリーにだけは、それをしないで欲しかった―
「先生?」
青の絨毯へ、横たわる者。
「先生。せんせ、い」
「ご主人!なんで?なんで?ご主人!ご主人!うわぁあああぁんぁあああぁ」
イワンの眼は虚ろに床を眺め、口と胸からは血液が漏れ出し。顔の側面を血だまりに埋める、変わり果てた姿があった。レインとリリーシャは駆け寄って、それを人肌の温度へ戻そうとするかのように、強く抱きかかえる。
「先生。せんせえ。せんせい!先生!」
「ご主人。ご主人!ご主人!」
どこかへと消えゆくイワンの魂を呼び止めるように、一生懸命に。呼んだ。叫んだ。叫び続けた。賊のことなど忘れ、血だまりの上に座っていることも忘れ。溢れる涙が血を濯ぐほどに泣き喚いた2人。
どうして。
それより先が、何も考えられなかった。点滅して消える、イワンとの思い出が泡となり、はじけては生まれ、はじけては生まれた。落涙と同じく、悲しみの波紋を広げどこかへと溶けていくそれらが、より一層、彼らの悲しみを煽るのだ。
せんせい。
そして、我に返り涙の枯れる頃には。東の空から、暖かな光が差し込んでいた。
*
賊の姿はなかった。足を引きずったままどこかへ消えたのか。はてまた、外への脱出の準備があったのか。今となっては分からないし、追いかけたとしても、おそらく返り討ちにあっていただろう。その点、イワンの死体を発見し足を止めたレインは幸運だった。
イワンの胸には深い刺し傷があった。心臓まで届く、深い傷だ。レインがイワンに触れたとき、未だその温もりがあった。冷たくなっていくシスターの温もりの記憶と重なる。そのため、彼がイワンの死を実感するのには、そう時間がかからなかった。
「先生は、死んじゃったんだよな」
「…」
「リリーは、実感がある?」
「…」
レインとリリーシャは、イワンの亡骸を見つめながら、未だ、その場から動けずにいた。既に太陽が昇り、2人の衣服は固まった血で床と繋がれている。いつまでも、いつまでも。繋がれていれば。少なくとも、イワンが本当にどこかへと居なくなるようなことが無いような気がしていたからだ。
しかし。
「僕が。僕が、大切なひとを失ったのは、2度目だ。1度目は、先生が、僕を立たせてくれた」
「…」
「でも、立ち上がらなきゃならない人が2人いた場合、どちらかが立たせる側にならなきゃいけないよね」
「…」
「僕が。リリーを…」
ふと。陽光に透かされる彼女の鼠色の髪が、白く輝いて見えた。リリーシャは立ち上がっていた。赤く紅潮した目元や、不自然な顔の皺も、黒く変色した血で汚れる給仕服に意も留めない彼女は、一夜のうちに、悲しみを全て使い切ったかのようだ。
立ち直るのか。彼女の強い精神力を、レインは期待した。が、彼女の口から出た言葉は、彼が予想もしないものだった。
「おかしいです」
「え?」
「こんな簡単に死んでしまうだなんて、信じられません」
「それは」
「そう…そうです。人は再び目を覚ます。ウィナがそうであるように。真に、誠実であれば。死者は甦る。甦る!早く、準備をしなくてはなりません!埋葬の準備を。棺桶に、寝かせ、埋葬を!火葬?ありえない!魂の器をわざわざ壊す理由などない!人が本当に死ぬとき、それは!その方を思う者の心が陰るとき!ウィナがそれを教えてくれた…!」
「ちょ、ちょっと落ち着いてよ。リリー、本気で…」
本気で言っている。
彼女は、独りで語っている。誰の追随も制止も求めてなどいない。彼女は奮い立った。どうかしている、そう咎めるにも、あまりにも彼女は真理を見つけたまなざしで、白日の表情のもとに、高らかにそれらを言い放った。
僕の理解を超えている。そう結論付けたレインは一度、唾をのみ込み平静を装う。今、彼女を否定してはいけない。そう直感した彼は、拾うべき言葉を見つけ、会話にした。
「…先生を。僕も弔ってあげたい。帝国のグラン教には…火葬には、従いたくない。ウィナ教徒の先生は、棺に入れて埋葬してあげたい。リリーに賛成するよ」
「流石、レイン様も分かってらっしゃいますね。本当に良かった。私ひとりでは不安で仕方ないですから…」
「あ、ああ。だけど…それには、問題がある」
火葬に従う気がないのはレインの本音である。が、それは自らと彼女への罪へと繋がる。
殺人が起これば、帝都の兵士へと通報するのが当然だ。しかし、その後の処理は全て兵士に任せられる。犯人捜しは願うところだが、死体の処理や葬儀といったものも、全て国教であるグラン教によって執り行われる。よって、火葬。そして棺桶を使わず、骨を埋葬する。
「火葬を回避するとなると、通報はできない。つまり…死体の隠蔽ということになる。死体の隠蔽は罪に問われる。それに、棺は帝都で手に入らない。そして、兵士達に犯人を捜してはもらえない。この3つが問題だ」
「簡単です。棺は作れば良いのです。板は、地下の実験室の机や棚を分解すればよろしいのです。ウィナの紋様だって、写しが書庫にあります」
「随分頭がキレるね、リリー。死体隠しの罪はどうするんだ」
「どうもしません。失踪届を出せば良いでしょう。棺は地下室に埋め、地下室の出入り口ごと、本棚で塞ぐ。血に濡れた絨毯も服も何もかも、全て地下室に仕舞い込む。地下室の存在など、誰も知らないのですから。犯人への裁きは、いずれご主人が戻られた時に判断を仰ぎましょう」
「…それは」
口に手を当て、伏目がちに淡々と答えていくリリーシャは、先ほどの高ぶりを微塵にも感じさせぬほどの冷静な面持ちである。その冷静さに救われたレインは、嗚咽で傷ませた喉で淡々と、彼女の問答に付き合うことができている。だが、その静かな思考の一片が抱いた疑問がある。一体、彼女は誰だろう。レインはその疑問が脳裏を過ぎったことへ恐怖した。彼女の知らない側面を垣間見たからだ。彼の縁者はもはや彼女しか居らず、そして彼女のことを全て知った気でいた。明るくドジで、少し頑固な年上の女の子。それらはどれも、目の前の彼女を説明していない。イワンの死が、彼女を変えてしまったのだろうか。それすらも自信がない。それだけ、屋敷での生活に不自由がなかった。笑顔は絶えず、差し迫ることもないものだった。人の本性を引っ張り出す出来事など、まるで無かったのだ。
「早速。行動に移りましょう。ご主人の身体を、地下室まで運びます。私は棺を作りますから、レイン様は穴を掘ってください」
「あ、ああ。やるよ」
「ほら、ご主人。今、起こして差し上げますからね…」
彼女は変わってしまったのか。
レインは青ざめた。イワンが死に、唯一残った彼女を守ると誓おうとしたのに。その彼女が、別の誰かのようになってしまうような、言いようのない孤独感と恐怖を覚えたのだ。
―――――
*
埋葬を決断してから半日が経ち、既に日没を迎えようとしている。地下室を照らすのは机に置かれたランタンのみ。時間を忘れさせる空間で、2人は血の付いた服装のまま、何も飲まず、食わず、イワンの死体を地下室まで運び、せっせと穴を掘っていた。
スコップで土を掬い、地面から押し上げる度にむわりと土のにおいがする。時々、土に絡まっていた細い根っこがブツブツと音を立て、持ち上げた土から引き千切られていく。汗と熱気がこもり地下室の温度を上げているのか、はてまたこれを始めるより前から地下室はこのような息苦しい環境だったかは分からない。地下の熱気と思ったよりも腕と腰に負担がある穴掘りに、僕の額や背中に汗が滲み出すのもそう時間はかからなかった。
「先生の顔、ちゃんと見たか?」
「ええ。もちろんです。しばらくは会えませんから…」
「…もっと、笑顔でいてほしかったな」
「それはお預けですよ、レイン様」
いずれ、彼女が縋った迷信から解かれた時。果たして、イワンの眉間に寄った皺の深さも、固く結ばれた口角の凹凸も、彼女は思い出すことができるだろうか。忘れてほしくない。誰もが当惑する彼女の曲解には、少しの真理があった。イワンを想う心には、ひとつの陰りもない。ただ、それは彼の復活を期待するのではなく、彼をありのままで覚えていることへ注がれるべき愛だ。
先生は最期に何を思ったのだろう。土を掘りながら、そればかりをレインは考えていた。―正しいことしか言わないけど、いつも言葉は優しくて、正しさを振るったりしなかった。叱るときだって静かだった先生は、どうやって悲しむのだろう。突然、僕達と会えなくなることになって。僕達みたいに泣いたのかな。無念って、どんな気持ちなんだ―レインが思い出すのはこの屋敷に住まうこととなった日のことだ。
『レイン君が、魔法ってなあに、なんて言うから、気になって眠れなくなっちまったじゃないか。見ろぉ、このクマを。責任を取りたまえ。よし、今日から君は、ここで俺の研究を手伝いなさい』
『この子、今日からうちに住むの!?ほんと!?』
『そうだぞリリーシャ。今日からレイン君はお前さんの友達…じゃないな。うん、家族だ!あと弟だ!』
『よろしくね!』
『…うん!』
ああ。短かった。ああ。惜しい、惜しい。恨みよりも深い悲しみが再び込み上げる。涙腺から収まり切れなかった涙が、頬を伝って掘り起こした乾いた土に吸われていく。リリーシャもまた、共に涙を流す。悲しみが、再び始まる。
―分かる。分かるとも、決して欠けてはならない3人に空いた風穴は、虚像でもいい、暫しの間でいい、埋めておかなければどこかがまた、何かが欠け始めてしまう気がするのだ。後をつける影の如く、喪失感だけが逃してくれないのだろう―
それは、リリーシャの妄信のことだ。彼女はそれに支えられ、あの朝から立っている。レインはリリーシャの在り方を、受け入れなければならないのだ。現実を直視できない彼女へ、怒りも憐みも決して向けられない。
「…う、ん?」
十分な深さが確保できるほどに、掘り進めた。
そこで、レインのスコップが土中で何かに刺さった。何度か、角度を変えてスコップを入れるも同じ感触に、大きな板のようなものが埋まっていることに気付く。
「レイン様…?どうかされましたか?」
「いや。なんか、埋まってるみたい」
表面の土を丁寧に掬い上げ、何度か手で土をほろうとようやく姿が見えて来る。やはり板である。表面には見たことも無い幾何学的な模様が描かれ、先ほどのスコップで数度刺した部分が傷となり、うまい具合にそれはそれで模様の一片に見える。
「これ、板ではありません。奥行があるようですよ。もう少し、周りを掘ってみては?」
「あ…あぁ。うん」
木製のそれは酷く傷んでいるが、腐食はまるで進んでいない。真四角のその形は箱のような。その箱の正体は、掘り進めていくうちに気付く。
「棺だ。」
ウィナ教の棺桶とは模様が異なる。この棺はあまりに複雑な模様をしている。複数の幾何学模様を重ね、細部には見たこともない文字が刻まれている。深さと形がくっきり分からなければ、棺桶とは気づかなかった。誰が埋めたか知らないが、このようなものが家の地下に埋まっているなど思いもしない。まさか、先生が埋めたのか、と、レインの脳裏を掠めたが、棺桶の年季にその考えを打ち消す。
「…どうしましょう」
「どうするも何も…いや…そうだな。この棺に先生の遺体を入れて埋め直すのはどうだろう」
「なんだかそれは…入れられるご主人は落ち着かないような」
「まあ確かに」
どちらにせよ、この中身は確認する必要がある。レインはそう考え、棺桶の蓋の端にスコップの先端を引っかけた。
「れ、レイン様!?開けるのですか!?」
「そりゃ、もちろん…いや、もし遺体が入ってたら、ちゃんと祈りを込めて再度埋葬するよ」
「ですが…」
「リリーは、後ろを向いてなよ」
もしも遺体が入ってたら。
虫が湧いているかもしれない。そうでなくとも、腐食が進んだ遺体なんて、見るに堪えないものだ。が、棺桶の状態を見るとそうとも言いきれない。むしろ遺体が入っている可能性の方が低いのでは、と、レインはスコップを握る力を理屈で後押しした。
徐々に蓋が開いていく。パラパラと落ちる砂が土煙をあげる奥で、次第に露わとなる中身。リリーシャは若干顔を逸らしてその様子を眺めていたが、そのあらましに段々と近寄らずにはいられなかった。
「…おい。おいおいおい!なんだこれ!嘘だろ!?」
それは、宝でもない。ガラクタでもない。ましてや屍でもない。しかし、空ではない。
「生きて…いるのでしょうか?」
寝息を立てて。腹をふくらませ、しぼませて。ただの1人の若い男が、あろうことか棺の中で気持ち良さげに眠っていたのだ。
―――――――――――――――
*
レインが生まれる、およそ100年ほど前。まだヴァッハ帝国が王国であった時代のことである。人々の敵といえば、災害・病・魔物といった今も昔も変わらないものの他に、もうひとつ。
魔族である。彼らは人類とおよそ変わらない知能の他に、人類では到底敵わない身体能力を持ち合わせていた。
人と変わらぬカタチ、人と変わらぬ感情。異なるのは、理性や見識。道徳、倫理、チカラとチカラ。偶にある角。稀にある尻尾。たかだがその程度、と言えないそれらが、人々の嫌悪を煽る。人は己と似て非なるものに寛容ではない。そこもまた、魔族と異なる。
魔族の中でも、一際目立つ存在があった。魔王である。正確には、魔族の中に生まれた特異体である。特異体はそれぞれの種族で、発生する確率こそ異なるものの、蟻やトカゲ、魚にすら、特異体は発生する可能性がある。
特異体の力は凄まじい。生物としての能力が、その種族の中で比べ段違いである。つまり、魔族の特異体ともなれば。人々の最大の脅威となり得る存在なのである。
現に、一体の魔王が大陸の東に城を構え、魔族を率いて軍を編成し、人々の住む大陸の西側を攻略せんとして数年。いずれ、手が。街と町に奴らの爪が。かかる秒読みが既に始まり数年。人類に安らかな夜は遠かった。が。
「僕たちはそれを倒した」
当然、並みの人間では魔王はおろか、魔族にすら敵う者は少ない。剣術、魔法、知恵、幸運…これら全てを駆使しても、ようやく倒せてただの魔族のひとり。魔王に切先のひとつを向けることもままならない。では誰が魔王を殺せる。我よ我よと名乗る名乗る、男や女の多いことたるや。その数だけ骸が転がったことを、誰かが弔い続けていた。王は言った。生物の頂点とも思える魔王を倒せるのは、やはり特異体に他ならない。そして、人間にも特異体は存在する、と。
「私たちは勇者なのです。だから魔王を倒すことは当然の務め…その栄華が誰のものになろうとも」
人間の特異体、これを王は勇者と呼び、人々は勇者を崇めた。来る災いに命を預けるのは、太古の歴史にのみ棲むウィナではなく。勇者であり、王であると、人々は知った。そして束になった4人の勇者を以て、魔王はついに討たれた。
「全ては王のお蔭。かよ」
特異体が同時期に4人も揃う確率はほとんど0だ。だが、それを無理やりにやってのけた人物がいる。勇者を『発生』させた英雄がいる。
「…ああ。正直、我々エルフ族も感謝していた。以前は、な」
それは王である。グラン・ヴィー・ヴァッハ王その人である。どのような手段を用いたか、特異体の出現を同時期に揃えさせたと自称する。誰しもが半信半疑ではあったが、現に人間族の特異体が3人とエルフ族の特異体が1人、ほとんど同時期に現れた。結果、魔王討伐に成功した。
が。これは全てグラン王の思惑の一部分にしか過ぎなかったのだ。
ここは大陸の南。フロムヒルデ山中。山は海と面しており、潮風が木々の間を通り抜けていく場所。麓は砂浜。登れば登るほど、砂が葉と根に混ざっていき、やがて葉や枝を養分として蓄えた森の土へと変わっていく。星のよく見える、穏やかな場所。そこへ4人の勇者が、息を切らせて逃げ込んだ。
「…く。ダメだ。まだ国王軍が追ってきている。すぐそばまで迫っている。あいつら、ここまで松明なしに山を登ってやがった。…くそ!あっちにもいる!囲まれるぞ!やはりこっちの居場所がバレている!」
木の上で、エルフ族の女狩人、シトラ・ルーベンが声を荒立てる。国王軍は決して多い人数を投入しているわけではないが、それでも勇者たちにとっては1人1人が脅威なのだ。
『勇者は人を傷つけることができない』。剣も弓も礫も、爪のひっかき傷すらも許されない。これは法でも道徳でもなく、生まれながらに身体へ染みついている特徴なのだ。エルフ族であるシトラですらも、祖先のどこかで人の血が混ざっているらしく、人を傷つけることができない。体術で躱すことはできても、少し腕に覚えのある者に剣を向けられれば、逃げる他ない。
「まだ遠いが…囲まれている。もう…ここまでのようだな。いや、むしろここまで、僕たちはよく逃げ切った」
腰に剣を携えた勇者の騎士、レヴン・フェルトは悔しそうに俯きながらも、まだその瞳の輝きは失わず。何かを決断したような面持ちで顔を上げた。
「その顔。何か策があるのか?期待しちまうぞ」
身の丈ほどの青い槍を片手に、ランサー・ロウことロウ・ビストリオは自らへ近づくレヴンに真っ向から対峙する。ああ、あるとも―レヴンの表情からは不自然に強張りが引け、そして、レヴンはロウの肩に手を乗せて言った。
「すまん」
「あ?」
謝罪の意味を理解できなかったのは、ロウだけだった。シトラはいつもの凛々しい顔で平然と、迫る国王軍の動向を観察する。そしてレヴンの言葉をきっかけに、動き出した人物がいた。聖女―ミラ・フルール。彼女が何やら近くの岩陰から大きな物を引っ張り出してきた。
棺。
「お別れです。ロウ。ロウ・ビストリオ。ここで、私達の旅は終わり。あなただけが、その続きを歩むのです」
「ど、どういうことだよ…?なあ、おい。その棺はなんだよ!?」
「これはタイムカプセル。ナナの刻印から作り出した、私の最高傑作よ。ここに入ればあなたは世界の膜へと組み込まれ、移ろわぬ時の中で永遠を過ごす。そして、再び棺が開けられたその時が目覚めとなる。それがいつになるのかが、分からないのが難点だけれども」
俺を逃がそうとしているのだと、ロウは察した。平静を保とうと強張るミラの表情、そしてレヴンやシトラが揃って口を噤んでことが物語っていた。これは、総意であると。ミラは聖女らしい、優しく柔らかい声色で続ける。
「さあ、棺の中に。…大丈夫。多少目覚めたときに記憶の混濁があると思うけど、すぐに調子は戻るわ。心配しないで。運命が必ずあなたを掘り起こさせる。私が保証する」
「お、お前らはどうするんだよ」
「僕とシトラは、引き続き王の軍勢の足止めを。ミラは棺の魔法の準備だ」
「レヴン!俺はそんな数秒先の話をしているんじゃねえぞ!」
「言っただろ。僕たちの旅は、終わりなんだ。ここで」
レヴンは胸倉を掴むロウの頬に手を添え、優しく笑った。「僕たちの旅は終わり」それがどれほど重たい言葉か、いつも3人を率いていたレヴンがそれを口にすることがどういう意味なのか、痛いほど分かっているのは他でもなく、彼自身だ。
「畜生!」決して口からは漏らさなかったロウの言葉が、3人の耳に響くようだ。ロウはレヴンから手を放し、渾身の感情を込めて、槍を近くの岩へと深く突き刺した。
「いつから、こんな準備をしていた?こんな術式、すぐに組めるもんでもないだろう」
「他大陸の国へ亡命する話が飛び込んできたときからだよ。もし、亡命がうまくいかなかったら。そう考えると、保険がほしくなった」
勇者4人が国王から追われる身になり3ヶ月。大陸に居場所を失った勇者たちは、仲間のツテで他大陸の国家へと亡命することを決断した。が、辿り着いた港には船のひとつもなく。代わりに待ち伏せていたのは国王軍だ。
「まあ。亡命の話から、罠だったのだろう。おまけに棺もひとつしか用意できなかった。僕は情けない。リーダーとして、君たちを導ききれなかった。だから僕たちは、逃げる。逃げるよ。ロウに、全て押し付けて…逃げる」
「…何?」
ここで、ロウは理解した。逃げる、と言うことの意味を。彼らはここで死ぬのだ。そして、ロウだけが生き残る。それは、3人の願いのために1人が生きる、過酷な道であるということ。
「…じゃあなぜ、俺が棺に入る役割なんだ。レヴン!なぜお前じゃないんだ!ミラや!シトラでもなく!なぜ、俺なんだ!?」
聞くべきではない、ロウはそう知っていながらも尋ねてしまう。昔からその性格は変わらない。考えより口が先に、先に。そして後から思考が追い付いてきて、これから彼らの語る理由など、どうせ全てが言い訳がましく聞こえるだけなのだろうと分かってしまう。
しかし。
「それは…」
聞いてよかったと、思うことになる。
「あなたが、とても強い人だからよ」
そう言って微笑んだミラの表情を、ロウはこの先ずっと忘れないだろう。
「俺が…強い?」
「そうだよ。僕は、正直もう限界だった。魔王を倒してもまだ戦いが続くなんて。心が折れそうだ。いや、折れているのかもしれない。今、僕の心のどこかではようやく背負った重荷を下ろせると安堵している。ダメだね、リーダー…いや、勇者失格だ」
レヴンの強がりもしない自然な言葉は、誰に向けられた言葉か分からないほどにか細く、誰もが久しく聞かなかった本当の声。
「私は、お前らと一緒だったからここまで来られた。エルフは長生きだからひとりには慣れている。でも、それはひとりで戦うのとは違う慣れなんだ。私はお前たちのために戦った。お前たちがいなくなったら、私は弓を置くだろう」
「シトラ…」
そのシトラの横顔からは何も感じられなかった。空虚。もうその先には何もない、と。周囲の全てを許し全てを投げ出すような、諦めよりも深い、深い、喜びも悲しみも生も死も、全てを平等とした極地。そこに至るのは、彼女が長命なエルフだからだろうか。いや違う。それ以上にきっと、世界の起伏へ触れることに疲れたのだ。誰よりもずっと、疲れたのだ。
「私は、みんなとは違う、もっと我が儘な理由。聖女なんて呼ばれる者が語る理由としては、笑ってしまうほど相応しくないの。聞きたい?」
「…いや。いいよ。知ってるさ。聞きやしねえ。野暮ってえからな」
ミラの落ち着いた色を宿す瞳が、レヴンの姿を捉えていたところから、ロウは理由を察した。そうでなくとも冒険を共にする中で、レヴンとミラの間にある4人の絆とはまた異なった絆を、ロウが誰よりも温かく見守っていた。不変の純心がそこにはあった。
ああ、理屈ではなく、後付けもなく。俺の仲間は、みんなは、ただ一重に俺に託すのだ―と、ロウは知った。
「分かった。分かったよ。仕方ねぇな。この俺、ロウ・ビストリオがお前らを置き去りにして、未来へ行く。王様の忘れたころにひょこっと現れて度肝を抜いてやるさ」
「ハハ、そうだよ、その意気だ。僕たちは君のそんなところが好きなんだ。いつだって明るくて、前向きで。諦めるよりも先に行動する君が、僕たちは大好きだ!」
「よせよ…小恥ずかしい」
ロウはミラより受け取った、手のひら大のボトルの薬品を一飲みに、彼女に導かれ自らの身体を棺へ寝かせる。ひんやりと冷たく、死者の温度に合わせたかのような心地がまだ彼には合わない。木々の隙間から見える数多の星が、手を伸ばしたくなるほどに瞬いている。土のにおいが近くなった。
「じゃあな」
「ああ、さようなら」
「さようなら」
「さようなら」
「俺も」
ミラが薄い棺の蓋を手に取った。
「俺もお前らが大好きだ―」
―ミラには聞こえていただろう。レヴンやシトラにはどうだろうな。
ああ、もっと旅をしたかった。もっと冒険をしたかった。もう一度、ひまわり畑を4人で歩き。もう一度、雪原で足跡の大きさを比べ。洞窟の水晶壁に写った顔を笑わせて。川のせせらぎの隣で魚を焼き。夜の森でお前らが寝付くまで、ただ星を眺めていたかった―
木の重なり合う重たい音とともに棺の蓋は閉じられ、それまで聞こえていた木々の賑わいも聞こえなくなった。無音。何も聞こえない。何も見えない。ただ四角いはずの空間。
「ありがとう…を、言いそびれたな」
ふう、と、深く短いため息をつく。それがためだけに幾年後、墓に手を合わせに行ってやるとしよう―ロウはそう決心した。
「それじゃあ、最後に一仕事やってくるよ。忘れねえ。忘れねえぞ。俺達にはまだ冒険の続きがあったことを。それを奪ったアイツを。お前らの無念を。晴らす。晴らす!グラン・ヴィー・ヴァッハを、殺害する。この手で。この手で、だ!」
彼は闇の中で、彼らに託された命の使い方を、決めた。
―――
*
イワンの殺害。持ち去られた書籍。掘り出された棺。そして、棺の中で眠っていた男。そもそも、イワンは一ヶ月もの間、部屋に籠もり何をしていたのか。
埋葬は終わった。掘り出した棺から男を取り出し、空いた棺へイワンの遺体を収め、埋めた。なお眠り続ける男を客室のベッドへ寝かせ、レインとリリーシャはリビングでテーブルを囲い、座ったままでひとまずの仮眠をとった。昨夜の食事に使ったチーズのかおりが少しだけ漂い、空いた席にイワンの面影がある。それでも、食事をする気にはならなかった。目を覚ます頃には、丁度朝日が昇り切り、イワンの殺された夜から2度目の朝を迎えていたのである。それでも二人はまだ、掘りあげる土の重みも、冷たいにくの温度も、手のひらに残したままだった。
「…あの男。何者なんだ。生きた人間が棺の中で眠っている?魔法か?聞いたこともない」
「…ウィナ。やはりあの男も、ウィナの教えに従う者なのでは?真に誠実な心で、蘇生を願われたからこそ、甦った。そうです!でなければ説明がつかない!いずれ、ご主人も…!」
「いや、それは…まさか…」
リリーシャの気色が戻り始めている。これほどタイミングの悪いことがあるだろうか。まさに蘇生の証拠足り得る事象を、一日も経たぬ間に遭遇してしまった。このまま、彼女の妄信が真実となるなら、それでも良い。だが、現実はそれほど優しくはないはずだ。いずれ砕かれる。どれほど確信をもってその帰結を望もうとも、事実はいとも容易く希望を覆していく。彼女はきっと、耐えられない。
「そうとなれば、甦った彼に話を聞かなくては。…いえ、まずは予定通り、血に濡れてしまった書斎の家財を地下室へ移しましょう。あの男が目覚め、探られても厄介ですから」
「…そうだね。リリー」
レインは問題を後へ回した。-そうとも、彼から事情を聞きさえすれば、おのずと彼女の考えとは食い違いが出る。そうやって、徐々に。少しずつ、認めさせていけばいい。先生は戻らないのだということを。
「泣いているのでしょうか。レイン様。仕方ありませんね。ですが、希望を信じて。ね?」
「…リリー」
そっと彼女は、彼の頭を撫でる。温かい手のひらの優しい重さが、彼の心を少しだけ癒した。彼は彼女の、脆く危うい強さほど、強くなかったからだ。
―――
*
「血痕が残っているのは、絨毯に、本がいくつか。それから床に落ちていた小瓶と、机の脚か」
「机の脚は拭き取りましょう。私たちの服も、お忘れなく」
青い絨毯がないだけで、イワンの書斎の雰囲気はまるで違ったものとなった。焦げ茶色で統一された家具による落ち着いた雰囲気に変わりはないが、どこか、余生を過ごす老人の書斎であるかのよう。
絨毯の剥ぎ取りにはてこずったが、半刻としないうちに片づけは終わった。地下室への出入り口は名残惜しくもあったが、違和感の無いよう丁寧に本棚で塞いだ。
「先生が殺された理由をずっと考えていた」
書庫の扉を閉め錠前をくぐり付けるリリーシャの背中へ、レインは語りかける。
「棚から持ち去られた本は、先生の著書だ。犯人の目的は、先生の研究成果…だと思う。ただ、全てを持ち去られたわけじゃない。また来る可能性だってある。数日経てば、僕たちが衛兵に通報していないことにも勘付くかも。なんなら、今日にでも…そしたら僕たちは…」
「レイン様。落ち着いてください。それについては考えがあります」
リリーシャは冷静だ。少し高い声のトーンに掠れるような障りもない。血痕や荒らされた家具や本の片付けが、屋敷の世話をしていた彼女にとっての日常の所作に通じていたことで、普段の落ち着きを取り戻していたのだ。対するレインは、未だ夢の最中を歩くかのよう。心の揺らぎを見透かされているような気がして、彼は黙った。
「棺から現れたあの男…重い身体と、そのラインから分かる筋肉量。相当鍛えているのではないでしょうか。それこそ用心棒など、いとも容易く勤めるほどに」
「…それは、あの男を使うって話か?流石にそれは…どんな奴かも分からないのに…」
消極的にたじろぐレインに、リリーシャは苛立ちこそしないが、子に言い聞かせるような物腰とならざるを得ない。
「いずれにせよ、屋敷には上げてしまっているのです。彼と友好的でなければ、追い出すのも骨が折れますよ、レイン様。それに、彼が入っていたのは棺です。少なくとも、グラン教の人間ではない。であれば、私達がご主人を棺に入れて埋めたことも、理解いただける余地はあります」
それは、と、レインは言いかけて口を噤んだ。反論の余地はない。教義は、法に比肩して順守されるものだからだ。
レインは書斎の片隅に置かれていた正方形の木箱を、リビングへと持ち込んでいた。イワンの部屋にあった目を引くものはこれくらいだ。それ以外には見慣れた彼の愛読書や資料くらいしかなく、彼が特段自室に籠もり研究していたことを連想させるものはなかった。これは一ヶ月前にイワンの両親から宛てられたもので間違いない。それほど重いわけではないが、空ではない。レインは丁寧に、蓋となっている木箱の上部を開けた。
中には藁が敷き詰められていた。思えば、書斎の絨毯にも藁のような繊維がいくつか散らばっていた。緩衝材として入れていたのだろう。繊細な品なのかもしれない。レインは丁寧に藁を取り出し、中身を露わにさせていく。
出てきたのは、焦げ茶色をした木製の筒だ。ただの筒ではない。丸い台座に手のひらサイズのその筒が縦に固定され、台座を見下ろすように筒の中を覗くことができるようになっている。レンズがはまったのぞき穴だが、特に何かが見えるわけではない。
添えられた手書きの説明書を、リリーシャがレインへ差し出す。
「ご主人の母様の字ですね」
「…まいくろ…スコープ?目に見えないほどの小さいものを観察することができる道具。ロンドンのロバート=フックが作成したものに私達が手を加えた…ロンドンって?」
「他大陸の国ですね。以前、ご主人がおっしゃっていました。ロンドンは進んだ文明で、何もかもこの大陸より優れていると。もし魔物の輸出が可能なら、ロンドンからきっとものすごい富を得ることができるのに、なぜ帝国はそれをしたがらないのか…って」
「ふうん。じゃあ先生の両親はそのロンドン、ってとこに居るのかな」
「ええ。その可能性は高いのでは。…レイン様、続きを」
「あ、うん。えーと…私達は魔法結晶による光の屈折を応用させ、従来のマイクロスコープの倍率を底上げし、細胞内組織の観測に成功した。これは100年先の技術を先取りするもので、観測記録は同梱した著書を参照するように。結論から述べると、魔法のメカニズムを証明する手がかりを発見した…!?」
「そんな!?」
レインとリリーシャは顔を見合わせ、目をまん丸に息を詰まらせた。彼にとっては『魔法結晶』も、『細胞』も『倍率』も、まるで知らない言葉であったが、ここに綴られたものがどれだけ価値があるかは分かる。大発見だ。大発見をしていたのだ、彼らは。
レインは固唾を飲み、文の続きを指でなぞる。
「…だが、ついに私達は帝国の者に勘付かれた。ロンドンも安全ではない。うまく逃げ遂せているが、このままでは危ない。よって、研究成果をそちらへ戻す。くれぐれも帝国に嗅ぎ付けられないように、上手く立ち回ってほしい。―エルダ・フォルディオ」
なんてこった―レインは箱の奥底にいくつかの本が押し込まれていることを確認し、酷く狼狽えた。知の興奮で、少しばかり戻った血の気も冷めるというものだ。これでは、イワンを殺したのはまるで、帝国のように思えるではないか。
「帝国が…この、私達が住んでいるヴァッハ帝国こそが…ご主人を殺した…?」
「バカな。だが、この書きぶりはまるで、確かに…いやしかし、なぜそこまで帝国は、魔法の根源に触れることを許さないんだ?」
信教の違いはあれど、帝国への不信感をさほど抱いていない彼らにとって、この事実をもって素直に帝国を恨む気持ちにはならなかった。ただ、驚き、困惑する。そしてかねてより理解に苦しんできた点が噴出した。魔法に対する帝国の歪さだ。
帝国は魔法の研究を後押しする。名門の魔法研究家には資金援助をし、魔法に関する本の出版も、広く帝国が庇護して行っている。一方で、魔法の原理や根源への研究は禁忌として固く閉ざす。『神の祝福を解明することは、神を疑うことに他ならない』そのような宗教上の理由を掲げてはいるが、魔法をより強固なものとするためにはそれらに触れることは必然であり、むしろ推奨されるべきもののはず。
「レイン様。もし仮に、昨夜の賊が帝国のものだとすると、今一度襲撃に遭うことは間違いないのでは」
「…確かに。もし仮にこの研究内容が帝国の目的であったなら、奴が持ち去った資料ではおそらく不足だ。この木箱に隠されていた資料を、再度狙いに来るかもしれない。…早急に、屋敷を出る準備をするぞ。あの男も、使えるかどうかは分からないが…起こしてきてくれ、リリー」
リリーシャは頷き、体重の乗せ方がちぐはぐないつもの足音を立てて走り去る。リビングの残ったレインは、木箱にしまわれたいくつかの本や資料とマイクロスコープを、紐でくくっていく。
何を持って行けば良いのだろう。レインは、生まれてこの方、家出のひとつもしたことが無かった。教会で暮らし、その教会を失った後もすぐにイワンの家へと連れて来られた。幸運だったのである。おそらくリリーシャの方がまだ、イワンと出会う前の経験に期待ができるかもしれないが、それもまた切り出しにくく、レインは心内焦りながら、もたついてた。
「レイン様!大変です!」
先ほど飛び出して行ったばかりのリリーシャが、息を切らせてレインの元へと戻ってきた。青ざめ、泣きだすかのような様子ではないことにひとまずの安心こそすれど、真剣な表情にレインは身構える。
「ど、どうしたんだ、リリー」
「あの男がいません!」
―――
*
ヴァッハ帝国の首都、デミランダ。皇帝であるグラン・ヴィー・ヴァッハのお膝元であり、大陸の中では最も栄えた都市である。デミランダの高級住宅街にフォルディオ家は屋敷を構えている。
「間違いねえ。ここはデミランダだ。デミランダだが…」
そんな一等地から現れた男は、まるでこれから戦にでも向かうような恰好をしていた。牛革のベストに鉄の肩当て。泥のこびりついたアイアンシューズがレンガ造りの道を歩くごとに耳障りな音を立てる。時折すれ違う人々は彼へ奇異な目線を送るが、彼自身は特段気にする性質ではない。
彼の目に映るデミランダの姿は建築物の量こそ増えども、以前訪れた状態とは変り映えのないものだった。装飾の傾向は異なれども、柱を多用し、建築物の節々には細く尖ったアーチを好んで用いるやり方に変わりはない。―これは、思ったよりも早い目覚めであったか?男は少しの安堵と共に、自らの顔を周囲に知られることへ怖れを抱いた。
やがて男は足を止めた。馬車が2台ほど並走できるほどの道幅を確保し、露店が立ち並ぶ大通りへたどり着いたのだ。急ぎ歩く者も多い中、商品の陳列に足を止める者が邪魔がられない程度に、秩序立った人の行き来がある。既に朝と呼べる時刻は過ぎ、叩き売りや人寄せの大声が周囲に満ちていた。道の先を背伸びで確認できるか否かの混雑具合に、男はこれ幸いと顔を伏せながら、人混みに紛れる。
人の群れから頭半分出るほどに背の高い彼は、するりするりと道行く肩を避けて進む。まるで紙の一切れが細い隙間へ吸い込まれていくかのような足の運びは、およそ戦士の装備を着た人間の歩みとは違う。それを周囲に悟らせないこともまた、足捌きが成せる技。
そんな彼の脳裏には、見知らぬ屋敷で目覚めてすぐに耳にした会話が反芻していた。
―『先生が殺された…』『…それは、あの男を使うって話か?…』『…昨夜の賊が帝国のものだとすると、今一度襲撃に遭うことは間違いない…』
(…レイン、にリリーつったか。悪いが、目覚めて早々に面倒ごとは抱えられねぇ)
彼は、先刻レインらが掘り起こした棺から現れた男である。―眠りから覚めた彼は、人の気配を追って屋敷のリビングへたどり着き、レインとリリーシャの内緒話に耳をそばだてた。ロウの2人への評価はこうだ―タダの成人モドキのガキ2人。それが『殺された』だの『賊』だのと、尋常ではない様子だったが、それに耳を傾けていられるほど彼の心境もまた尋常ではなかったのだ。どれほどの時が経っているかの感覚も覚束ないままに、地に足のついた心地がしない男は屋敷を後にし、今に至る。
「新聞!新聞だよー!要るかい!新聞だー!」
「お…こりゃ都合がいい。」
彼は有象無象の音の中で、若い青年の声を捉えた。音の聞き分けを得意とする彼だからこそできる芸当である。3つばかり先の露店の脇で声を張る青年こそ声の主だが、その姿は見えないばかりか、さほど声も通らない。結果、彼の肩に提げられたカバンに丸めて詰められた新聞は、いくつも売れてはいない様子。つば付きのワークキャップを深く被り、よれたシャツにいくつかのシミを残す彼の身なりは、いかにも日銭を稼ぐ若者の形容だ。男はそんな青年の元へ、人混みの中を最短距離に近づいた。
「おい。くれよ。」
「おっ!ありがとな、兄ちゃん!200ヴィラだ!」
「…?ヴィラ?」
はて―男は首を傾げた。それほど遠くない未来へ行き着いたと思ったが、どうやらそうでもないらしい。貨幣の単位は彼の知るものではなかった。男は念のため、尻のポケットにしまっていた硬貨を青年へ見せてみた。
「これじゃダメか?」
「…はあ?おいおい…兄ちゃん、これ100年前の通貨じゃないか。ダメだよ。使ったら騎士団に怒られちまうんだぞ?知らないの?」
「冗談だろ?じゃあせめてコイツを換金できそうなところを教えてくれ」
「無いに決まってんだろ。ウィナの刻印が入ったものなんて、汚くて使えないよ。知らないの?」
男の差し出した青銅の硬貨の幾何学模様を指差し、青年は煙たそうな手つきでそれを払った。それは随分と無礼な仕草だ。体躯が一回りも大きい男に対し、青年がおいそれとできるようなことではない。が、対する男は冷静だった。激昂するわけでもなく、硬貨をポケットへ仕舞うと、おどけた口調で青年に取り入ろうとする。
「…は、はーはっは。わりぃわりぃ、捨てるのも勿体なくてよ、知らねえやつに押し付けようと思ってただけなんだ。見なかったことにしてくれ」
男は察したのだ。かつて、人々の拠り所であったウィナの失墜を。ウィナの教えは、間違いなく軽んじられている。それは、例え巨人がウィナを語ろうとも、ただの小人のひとりにも相手にされないほどに。
「あー兄ちゃん、あんまり悪戯が過ぎると、危ないよ。知らないの?今、治安維持の当番、サラ様の騎士団なんだから。サラ様は怖いぞ!なんたって、正義の中の正義のお人だからな!って、おい!聞いてんのかい、兄ちゃん」
「…あー、ああ。いやな。財布をよ。家に置いて来ちまった。それの憂さ晴らしだったのさ。許してくれよ。そうだ、その新聞、なにかと交換してはくれねえか」
男は両手を頭の左右に掲げ、その身なりを見せる。青年は一瞬、眉間に皺を寄せて困った顔を演出したが、すぐに彼の耳を指差して「じゃあ、これ!」と無邪気な声をあげた。青年は男の右耳の端を綴じる、銅のイヤリングを欲しがった。
「これか。まあ…たが新聞とは釣り合わねえ。少し付き合ってもらおうか」
「なんだい?」
「何、簡単なことだ。俺が分からないことをお前さんに尋ねる。お前さんはそれに答える。単純だろ」
男は青年から新聞を受け取ると、青年の脇へどかりと胡坐をかいて読み始める。「生憎、俺っちは忙しいんだよ」と、小言を呈しながらも彼のふてぶてしさに青年は根負けする。再び売り文句を周囲に撒きながらも、新聞を熟読する男の様子を物珍しそうに横目で覗いた。
新聞は裏表が活版印刷で印字された一枚のみで、文字はそれほど小さくなく、得られる情報量は限られる。それでも男が元居た時代のものに比べれば印刷精度は相当段違いで、時代の変遷が垣間見えるものだ。特に、インクの染みや裏写りといった点が見事に改善されており、男は素直に感心して口笛を吹いた。
「…そういや、お前さんさっきも言っていたが、この騎士団ってのは、なんだ」
「おいおい。兄ちゃん。冗談キツいよ。騎士団も知らないのかい?それともまた、おちょくってる?」
「黙って答えろよ。そういう約束だろうが」
「約束なんかしたかな…強引だなあ…ま、いいや。騎士団っていうのは、このヴァッハ帝国を治める皇帝陛下直々の兵隊さ!それぞれ、炎の騎士団、水の騎士団、風の騎士団、地の騎士団の4つがあるんだ。それぞれ、騎士団長が扱う魔法に準えた名前になってる」
青年の視線が空へと注がれ、男も釣られて空を見上げる。いや、青年は空を見ていたのではなかった。
艶やかな装飾が凝らされた一等地。その尖り細った屋根と屋根の間に、遠く、聳え立つ権威の象徴がある。城だ。誰をも取り付かせぬように反わせたくびれのような壁と、その上方には枝を空へと伸ばす木々を思わせる宮殿がある。まるで燭台だ。節々には虎や女性の石像を壁面に施しており、石造りの無骨な色合いを忘れさせる、豪華絢爛な様式美に包まれた王の居城。
間違いない―男は確信した。あの最上階に、王が居る。グラン・ヴィー・ヴァッハ、宿敵のあの男は、あそこに居るのだ。
「騎士団はあそこに住んでるんだ。すげーよな!…騎士団の記事っていえば、その大見出し。ようやく、北の大地が帝国の領土になるんだ」
表の大きな見出しには、炎の騎士団が北の大地へ遠征に向かったことがこれ見よがしに記載されている。男の知る北の大地は、それほど魅力的な土地ではなかった。冬になれば雪が積もり、凍える寒さに誰もが進行を阻まれる。かといって温暖な季節に花が芽吹き蝶が舞うわけでもない。低い気温下で針葉樹林の足元では分解の進まない落ち葉が積もる、生物にとっては厳しい環境だ。
「北の大地に何があるんだ。何もねーだろ」
「レジスタンスだよ。レジスタンス。帝国の反乱分子。それが北の大地へ逃げ込んでるって、誰もが知ってるよ。元から帝国に対して中立だった、氷結の魔女が居るだけの頃はよかった。それがまさか、あんな連中を匿いだすなんてさ…あーあ。俺っち、氷結の魔女って、なんかカッコよくて好きだったんだけどなあ。見たことないけど」
「まだ、騎士団が遠征に行っただけだろ。その口ぶり、随分早計じゃねえか」
「…え、まさか兄ちゃん、炎の騎士団が何の手土産も無しに帰って来るって?あり得ない!全戦全勝。無敗の伝説。炎の騎士団の通り道に残るのは、陽炎の残像ただそれだけ、ってね。知らないの?」
「知るかよ」
男はそっぽを向く。彼にとって強者の存在は垂涎ものであるが、彼は決して人と戦うことはできない。これ見よがしに他人の武勲を間近で囁かれることほど、彼の武人としての滾りに油を注がれながら燃えるなと言われる、耐え難い仕打ちは他にないのだ。
「兄ちゃん、なんでヘソ曲げてんのさ。他の記事読んだら?」
「うるせーな、今読んでら。皇太子ヴォルムの凱旋。皇太子…皇太子だと?」
「ああ、そうそう。この間、海外留学から皇太子様が帰っていらしたんだっけ。不死の皇帝ヴァッハ様に、その息子の才色兼備ヴォルム様。この国も安泰で…」
「嫡子か?」
「お、おい!あんまり滅多なこと言うなよ!そうに決まってるだろ!」
青年は声を小さくしながらも強い口調で、その男に言い聞かせた。―どこで騎士様が見てるか分からないのに!世間知らずにもほどがあるんじゃないの?…そんな青年の言葉に悪びれる様子もなく、男は目線を合わせようともしない。男には分かっていた。周囲のどこからも敵意の眼差しは差し込んでおらず、時折目の前を好奇の目が去っていくだけの様相に、危険など何もないことを。
「あとは、大した記事はないな。…お前さん、騎士様を相当敬い畏れているが、それほどまでにこの街の治安が行き届いてるとは思えないな」
「そんなことはないよ!街は平和そのものだし、悪者はみーんな捕まっちまうんだ!」
「だってよぉ、連続猟奇殺人犯の見出しがあるぞ。何が平和だ。しかも、もう他の街に逃げたらしいじゃねえか。取り逃がしたな」
「騎士団が強くてこの街に居られなくなったんだよ!みーんな騎士団のおかげさ!」
「分かった分かった。とりあえずその声量で残りの新聞も捌けよ。ほれ」
駄賃だ―男は立ち上がると、いつの間に外していたイヤリングを青年の胸元へ指で弾いて飛ばし、人混みの中へと消える。突然のことに慌てながら、青年はそれを両手でしっかり受け止めて、
「あ。ありがと!またよろしく!」
お決まりの台詞を、既に姿の見えなくなった男に届くよう、精一杯の声量で人混みへと響かせた。するとどうだろう。青年の視界のどこかで、ひとひらの手が大衆の頭上でふわり、振られた。
*
新聞を片手に、男は城の方へと歩を進めていた。
見知らぬ屋敷と、そこで青い顔をして話し合う若い男女と、様変わりしたデミランダの街並み。それらが夢の始まりのように思えてはいなかったか。彼はどこか、夢見心地だったに違いない。ウィナ、ヴァッハ、城、騎士。今や変わり果てたはずのものたちが、彼の記憶を引きずり出して結びついていく。喜び、感傷、焦燥、そういったものが、乾いた布を水滴へ被せたように染み出してくる。それは実感と呼ぶ。気付けば彼はひとり。ひとり喧噪の中を歩いている。消えた仲間達を求め、つい視線は傍らを追う。その度に、どこかへ後ろ髪が引っ張られるような思いだ。もがいても振り解けない、張り詰めた薄いベールが正面をピタリと覆っている思いだ。
「別れは済ませたろうに」
彼は非常にさっぱりとした性格であった。女をひとり町へ残すことも厭わないほどであった。それがこの体たらくであるからして、彼自身が戸惑っていた。ただひとつ、概念で理解していることがある。『仲間っていうのは、そういうもんだよ』
彼の脳内では、先ほどの青年の声色が、彼の思考を読み上げていた。彼の癖である。出会った人物の物言いが、彼の脳内でしゃべり続ける。
『ぐずぐずするより、これからのことを考えるべきさ』
『コレが100年前の通貨ってことは、あれから100年は経ってるんだね。それに、あの感じ。ウィナ教は弾圧されているのかな?』
『それにしても“王国”から“帝国”とはね!随分偉くなったなあ、グラン・ヴィー・ヴァッハ。大陸の数ある王国のたかだかひとつだった頃とは大違い!今の勢力図ってどうなってんだろ』
『王は健在。“不死”は相変わらず。でも昔とは違って、今はアイツが不死だって、誰もが知ってる!不死の皇帝ヴァッハ様ってね!人間じゃないって思わないのかな?』
『それに騎士団が居るんだって。王だけならまだしも、人間も相手にするのは分が悪いでしょ?』
『更に王に子どもがいるなんて。じゃあその子どもは…』
『これからどうする?人間とは戦えない兄ちゃんが、騎士団の目を掻い潜り、王の寝首をかこうというの?万が一王の元へとたどり着けたとして、本当に王を倒せるっていうの?』
『本当にできるの?』
『約束は?』
『ミラとシトラとの約束は』
『僕との約束は』
『本当に果たせるのか?』
『ロウ、教えてくれ。』
『君は本当に、ヴァッハ王を殺せるのか。』
『本当に…』
『本当に。』
『本当に?』
『本当に』
『本 当 に 』
「やめろ。」
彼は思考を止めた。彼の頭の中には、いつの間にかレヴン・フェルトが彼の思考を支配していた。優しい眼差しと、彼が人を慮る時の首を少し傾けて語りかける癖が、何度も何度も繰り返された。彼がそこから解放されるには、幾ばくかの時間が必要だった。
男―槍使いの勇者、ランサー・ロウことロウ・ビストリオの中には、時の流れはなかった。身体は腐らず老いもせず、精神もまた27歳の若さへ少しの鍛錬を足したままだったが、100年の時はロウを除いて流れていた。突如。彼を孤独が襲う。100年が経過した後の、2度目の目覚めとなる。
あれ?
レヴンと、ミラと、シトラが、いない。
もう、どこにも、いない。
みんな、死んで、しまった。
君を、残して、ね。
ね。
「―おい、君。何を突っ立っている。そこをどかんか」
ロウはいつの間にか、繁華街から外れた人気のまばらな通りの真ん中で、しばし立ちつくしてしていたようだ。彼の目の前に現れた皮の防具に鉄の胸当てを重ねた中年の男と、その後ろに続く同じ格好をした2人の若者が、訝し気な目線をロウへと向ける。
「…なんだか見た顔だな?そう思わんか?」
「いえ…私には何とも」「私も、特には」
「ふぅむ…手配書にあったかな?」
中年の男は腹部の貫禄が印象的だ。背が小さい割に小太りなものだから、余計に大きく見える。口角の端で先端がはねるほどに蓄えた口髭を指で擦りながら、ロウの顔をまじまじ眺めて上から下へと数往復。流石のロウも、この男の無遠慮な態度に背筋を逸らす。
「うーむ。分からん!いや待て、もう少し…」
「デプリッチさん。早く行かないと。ただでさえ、迷っているんですから」
「あーすまん。分かった。おい、君。フォルディオの屋敷の場所を知らんか?もしくは、レイン、という青年が住む屋敷だ」
デプリッチと呼ばれる中年の男を急かした若い男の手には、目の粗そうな茶色い紙が握られている。手配書。視界の端で捉えてはいるが、見出しには確かにそう書いてある。
「ああ、それなら」
あっちだよ、と、ロウは左手に広がる住宅街を指差して答えた。
咄嗟の返事は、間の抜けた声で仕上がった。デプリッチと呼ばれる中年の男と2人の連れには、彼の言葉が何の気も無しに発されたものとしか思わなかった。大嘘である。ロウは不思議だった。『なぜ、自分はこのような嘘を吐いたのだろう』つつがなくやり過ごす方法は少なくともこれでもないと、誰もが分かるようなものなのに。
「向こうか!やれやれ、帝都というやつは広くて敵わん。おい、行くぞ!」
「はい!」
ロウは小走りに去る彼らを見送ると、ゆっくり踵を返し、歩き出した。向かうのは、真にフォルディオ家がある方向だ。彼らとは真逆の方向だ。自らの嘘へと、躊躇なく従う。なぜ、迷わない。なぜ、彼らに温情をかける必要がある。なぜ、対岸の火事へ駆けつけようとするのか。彼自身、面倒ごとを背負う性質ではないことは百も承知だ。これではまるで。
「…ああ、そうか」
自問は数度重ねれば答えの出るものだった。レヴン・フェルトの物真似なのだ。清く正しく、道徳の元に正義を貫き続けるホワイト・ナイト。誰しもの憧れである彼を、ロウは敬い仰いだことなど一度もない。彼とは常に対等であった。彼のようになろうとする発想も有り得なかった。だがそれが今、された。ロウの魂に彼の血の一滴が混じったのだ。それは間違いなく、レヴン・フェルトが死んだからだ。死して彼は、ロウの遥か先へ、光の向こうへと消えた―
「随分と遠いところへ行っちまったんだな。お前」
気付けば、ロウは走り出していた。彼は笑っていた。思えば、旅はいつもそうだった。怖しく巨大な目標に頭を抱えているのにも関わらず、焦燥の最中でレヴンのお人好しに付き合った。苦難の中心でミラの好奇心に付き合った。迷走の途中でシトラの身勝手に付き合った。挙句、ロウの無茶に付き合わせ。それで世界を救えると信じ。まだ途中だ。
『レヴン!今はそんなことしてる場合じゃないのよ!明日には山を越えなきゃいけないのに!』
『駄目だ!助けを求めている人が居るんだ。勇者は心だ!全てを救おうとすることを諦めないから勇者なんだ!』
『はぁーまた始まったか。ミラ、残念ながら何を言っても無駄だぜコイツは。なあ、姐さんもそう思うだろ』
『姐さんじゃないと言っているだろ!シトラと呼べ。…全く、仕方ないな。私とロウが先に山を越える。それで良いだろ』
『ありがとう!みんな!』
―なあ。どうだ。
お前らとの旅は続けるぞ。俺は上手くできそうだと思うか?レヴン。ミラ。シトラ―
―――
*
馬革のよれたリュックサックに詰めるものを探し、レインは屋敷の中を歩き回った。何を仕込めばよいか、まるで分からなかった。屋敷中のものを見て回り、インスピレーションを得るところから始めた。少なくとも、小銭や手ごろな装飾品を見つけては小袋へと放り入れるくらいはした。
屋敷を出るとは、どういうことなのだろう。いくつの夜を、屋敷の外で暮らせば良いのだろう。どこで、寝起きをするのだろう。宿屋は一体、いくらで泊めてくれるのだろう。ほとぼりはいつ、冷めるのだろう。冷めたことを知るには、どうすれば良いのだろう。そもそも、街の外には無事に出られるのか。街の外へ出るには、関門を通らなくてはならない。必要な手続きがあるのだろうか。
「ここには戻って来られるのかな」
ぽつり、こぼした言葉は不安のものではない。問い。心から得たいのは、答えではなく、応えだ。あてもない、果てもない―そんな旅を始めようとしているのではないか。仮初めでもいい。嘘でもいい。『ここをめざせ』と、誰かが言ってはくれないものか。
「…レイン様。いかがでしょうか。何か使えそうなものは。」
玄関を前に広い階段を構える、2階と1階が吹き抜けの広間に、1階からレインを呼ぶリリーシャの声が響いた。丁度そこへ差し掛かったレインだったが、未だ中身の乏しいカバンが恥ずかしく、聞こえないふりをして黙った。
「レイン様!聞こえませんかー?」
「ああ!ごめん!何か言ったかい?こっちのことは気にしないでー!」
「承知し…」
ベルが鳴った。
来客が鳴らすための、玄関の外側にぶら下げたベルだ。広間によく響く、高音の耳当たりが心地よい上等なもの。それがこれほど胸を竦ませたことはあっただろうか。レインは青ざめた。来客など、当然に予定はしていない。無論、突然の来訪者は日常にあるものだが、彼にとって今このタイミングのそれは不都合極まりない。
「…はい」
レインは階段を下りながら、小さく返事をした。当然、玄関の外に居るであろう人物にその声は届かない。再び、ベルが鳴らされた。
「はい!今行きますから!」
応じる必要があっただろうか。いや、つい先ほどまで、レインとリリーシャは大声でやり取りを交わした。来訪者にそれが聞こえていることは想定し得る。間違えていない、と、レインは自分へ言い聞かせ、胸を右手で抑え込み心臓の鼓動を無理やりに押し留めた。そしていよいよ、玄関の両開きのドアの片側を小さく開けた。
「イワン殿は居るかね?」
「あ…ええっと。あなたは…シェール伯爵」
来訪者は、シェール・ムルシェルゴという初老の男性であった。細身の長身と白髪の、黒い貴族服がよく似合う男だ。イワンの友人であり、彼の家もまた、魔法の名門として知られる。フルフェイスの白い髭が彼の特徴である。
「何やら体調が悪そうだな。顔が青いぞ、レイン殿」
「い、いえ…はは。生憎、イワンは出かけておりますので」
「ふむ…これは失礼した。近くを通ったものでね。ここ最近、彼の姿を社交場でも確認できず、心配していたところだったのだよ。それもあって、突然押しかけてしまった。日を改めるとしよう。何やら彼は忙しいようだからね」
「すいません」
「で、レイン殿。貴殿は何か、悩み事でもあるのかね?」
「あ…」
何かに勘付いたのか。それとも。
彼は終始笑みを浮かべていたが、丁度彼の背後から照らす陽光が陰となり、その柔らかさがレインへ伝わらなかった。幸か不幸か。レインが彼の優しさへと縋らなかったのは、一重にその印象のみ。
「いえ…」
「そうかね。ふむ、お節介は隣人には毒というものだ。では、失礼する」
装飾の少ない二角帽子を被り直したシェールは、早々に立ち去る。無駄を嫌うさっぱりとした性格は相変わらず。コツコツと靴の踵を鳴らす音が次第に遠くなる。
走ってでも呼び止めるべきか。レインは迷った。シェール伯爵はイワンの両親とも面識があり、旧知の仲だ。レインも彼とは、食事を共にしたことだってある。だが、気になるのはその『伯爵』という地位にあることだ。
ヴァッハ帝国は、皇帝を最上位にピラミッド型の階級社会を敷いている。順に、皇帝、仕衆、貴族、平民、奴隷と位置づけられる。このうち、仕衆は帝国へ従い皇帝より役目を賜った個人を指し、貴族はその専門知識や財力、権力などを勘案し、平民では到底保有を認められない単位の財産の保有を認められた家名のことを言う。続いて平民、奴隷とあるが、平民は一定の財産の保有しか認められない民のことを指し、奴隷は財産の保有が認められず、貴族や平民の一部に養われることでしか生きられない者のことだ。
レインらフォルディオ家は、魔法の名門として貴族を名乗ることを許されており、シェールのムルシェルゴ家も同様である。両家とも、大きな財産を保有する許しこそ受けているが、帝国と懇意にしているわけではない。が、問題はシェール個人だ。シェールはかつて、仕衆としてその魔法と剣士としての腕前を買われ、帝国に仕えていた経緯がある。爵位は役目を終えた者に敬意を表す意味で帝国から個人へ贈られる地位。今もなお、他の仕衆たちとの繋がりはあるだろう。
「レイン様。…シェール様は大変、人の好い方です。ですが…」
「ああ。分かってるよ。彼は頼れない」
門の陰へと消えるシェールは、最後に彼らの方を一瞥した。笑っていたのだろうか。彼の表情を、レインは見届けることができなかった。
「リリー。これから…」
「…!れ、レイン様」
突如。
リリーシャは息にもならない細い声で彼を呼んだ。
何事だろう―彼の目に写る彼女は、ただレインの背後の一点を見つめ続けていた。レインは固まった。それは彼女の所作によるものではない。彼が玄関を閉めようと、後ろ手に引いたドアがピクリとも動かないからである。ドアの上部を、誰かの手が掴んで離さないのだ。
「誰」
「俺だよ」
食い気味に割り込んだ男の声に、聞き覚えはなかった。しかし、男にはレインの声に覚えがあり、レインは彼の顔に覚えがあった。ほっ、と胸を撫で下ろしたレインとリリーシャの動作が同調する。彼に対する比較的低い警戒心は、おそらく寝たままの彼をソファへ運んでやったことによる心理的優位の獲得が影響しているのであろう。
ドアから顔を出したのは、あの男である。
「ロウ・ビストリオ。ランサー・ロウだ。知らねえのか?なあ、レインさんよ」
「…なんだって?」
その顔は間違いなく、昨日棺の中より出でた謎の男であった。紺色の髪に細い眉、アーモンド形の目に二重まぶた。少し尖った輪郭が凛としている一方で、気の強そうな印象も与えるその顔。見間違えようもない。
だが、真に驚くべきは。
「な、何をふざけたことを。故人の名を名乗るなんて…それも、あの勇者の名を!憧れは理解できても、その無礼には憤りを通り越して…呆れさえしますよ」
その男が勇者ロウ・ビストリオを名乗ったことだ。リリーシャの言う通り、英雄を騙る輩の見苦しさはこの上ない。特に、この大陸の歴史上においては至高とも云わしめる勇者の4人の名を使う者など、非常識にも程がある。
だが、どうだろう。
レインは呆れに冷めた目線で彼の顔を見てみれば、ふむこれは確かに、本や絵画に描かれた槍使いの勇者の顔の特徴を抑えているとも言えなくはない、とまでの所感は生まれるではないか。
「まあ…言われてみれば。そっくり?というほどでもないが、まあ…うん」
「誰がそっくりさんだ。ったく。まあ仕方ねえな。そもそも俺は、どうせ死んだことになってんだろ」
「そんな戯言はほっといて、レイン様。すぐに問うべきです。ウィナの教えに従い、この者は蘇生したのかどうかを」
「ああ?ウィナの教えで蘇生?…ああ…おいおい待て待て、その話は長くなる。それよりも、急ぎ話さなきゃならねえことが」
「いや、まずは棺から出てきたことから納得のいく説明をしてもらわなきゃ、話をどこへも広げることはできない。どこの誰とも知らぬ相手から得る情報ほど、判断に困るものは無いだろ。リスクはなるべく回避したい」
「そんな悠長なことを言っていては、この男の気がいつ変わるとも分かりません!話が長くなっても構いませんから、さあ、あなたはウィナの教えに」
「あー!黙れ!人の善意を台無しにする気か!」
男の叱咤。木材のひしゃげた音。沈黙。
2人は唖然と、我が家の玄関にたった今入れられたヒビを見据える。「ラ・ゴーリーかよ…(※魔物名)」呟いたレインの表情にあるのは恐怖ではなく困惑だ。男の握力は常軌を逸していた。
「いいか、よく聞け。今、兵士らしき人物がお前さんの手配書を持ってこの屋敷を探している。兵士達が方向音痴で良かったな。早く準備して逃げろ。殺しの濡れ衣だろ?災難だな。家族でもやられたか」
「は…?」
まるで、スリにでもあったのか、という物言いにレインは反応した。腹が立った。無神経な言葉は理不尽と同じように感じる。「別に大したことはないだろ?」「分かる」不幸を不幸のものさしの上で見下すことで情けを不当とする、理解の呪文で深刻を平常へと引きずり下ろす、そういった概念の塊。許せない。災いはお前のものにはならない。
だが、リリーシャは冷静だった。口を開きかけたレインを制し、彼女は話の筋道に車輪を乗せるべく問いた。
「なぜ、殺しの濡れ衣だとご存知なのでしょうか。そして兵士達の動向は、どうやって」
「全て偶然だ。何が起きているかはお前さんたちが明朝、ひそひそ話しているのを断片的に聞いただけだし、街を歩いてみりゃ、手配書を持った兵士にこの屋敷の場所を問われた」
「偶然に偶然が重なり、私達を助けようと?」
「ああ、そうだな…」
男はそこで思いついた。ここまで、彼の行動は純然たる善意であった。レヴンのように。が、理性の閃きは時に無償の愛すら汚すのだ。何ということはない。彼は人間らしく、交換条件を提示することで信用を得ることを選んだ。
「そう、助けようとしている。が、見返りがないのはつまらねえ。助ける代わりに、俺の目的を手伝ってもらおうか。何、悪いようにはしないさ。少なくとも、今よりは…」
「随分含みのある言い方だな。何をさせる気なんだ」
「おいおい、これを話すのは俺にとってもリスクがあるし、それはそれは長い話になるんだ。…いずれにしても、選択肢なんてないだろ?お前さんたちは今から、帝国に追われて逃亡生活。少なくともデミランダを出て、魔物がうろつく外の世界を歩かなきゃならねえ。…うろついてるよな?今も。剣は?魔法は?使えるのか?そもそも旅は?したことあるのか?…俺はあるぞ。で?どうするんだ?」
急所を突く問いの連弾は、この男の得意とするところだった。これで幾度となく、優柔不断な騎士の背中を蹴り倒して前へ進んだ実績がある。騎士に次いで餌食となっているレインは当然にたじろいでいた。彼が目下、不安を膨らませていた『屋敷を出るとはどういうことか』という暗雲を、男は的確に捕まえて彼へと突き付けた。この男を頼れ。全てのシグナルがそう言って点滅して止まないではないか。先ほどの憤りだけが、彼の裾を引っ張っている。
「レイン様。腹を括る他ありません」
レインは彼女の言葉に、またしても冷静さを誘引された。最後のシグナルが点ったことになる。
「…分かった。信じよう」
「信じろ、とまでは言ってないんだがな。そういうところだぞ。舐めれられるやすいタイプだ」
「うるさいな」
「さっさと準備を済ませるぞ。お前らの身に起こった成り行きは、その間に聞かせろ。まずは…」
既に陽は昇りきり、暖かさを感じるのは日差しを受けている間だけ。「もうじき、冬が来るよ」いつかの何気ない会話の中で、レインは溜息混じりに言った。冬が来る。大陸には明確な四季があり、冬は雪が積もる地域もある。レインは冬が苦手だった。帝都の冬は小降りの雪が降るのみで、何も不自由はしない。だが、彼にとって冬は教会の焼けた季節である。彼は何の理由もなく、喪失感を怖れる―そんな季節になってしまっていた。
だが、レインは思い知らされた。失うのはいつも突然だ。季節など関係なく容赦ない。イワンを失うことでそれを悟ったレインの心には、安堵が訪れることがなくなってしまったのである。と、同時に、もはや冬には何の感慨もなくなった。これも失ったものに入るだろうか。彼はセンチメンタルに失ったものを指折り数える。だが一方で、得たものを勘定に入れていなかったことを思い出す。この男を数えることになるだろうか。レインは彼への不信感をさておき、少しの期待が心内に芽生えていることを自覚した。
―――
*
『屋敷を燃やす』。3人が辿り着いた結論は、結果的に突拍子のないものだった。
ロウ・ビストリオを名乗る男の指示は的確だ。リリーシャが既に用意していた山のような荷物はリュックサックひとつへと圧縮され、持参する道具のひとつひとつに理由があった。特に彼の「旅先で、今と同じ生活をしようと思うなよ…」という呆れたトーンの台詞ほど、2人が自らの甘さを思い知った瞬間はない。
その指示の中でも、唯一彼らが異議を唱えたものがある。それが、屋敷に火を放つことだった。
「本当に、燃やすしかないのか?」
「仕方ないだろ。この屋敷のどこに、帝国が目をつけるものがあるか分からねーんだろ?魔法の根源は俺が居た100年前の時代から禁忌とされていた。俺の仲間のミラもその探求をしていたが、内容は一切明かさず、その情報の痕跡を一切合切残さなかった。魔法の原理を探求していた証拠のひとつでも屋敷から見つかれば、帝国に地の果てまで追われかねない。人ひとり殺すより、数百倍の罪だぞ。帝都から出ても、追われ続けることになる」
「なぜそこまで…」
「さあな。理由は知らん。だが、脅しじゃねえぞ」
「レイン様…」
レインもリリーシャも、準備をしている間は、屋敷を燃やさずに済む方法ばかりを考えていた。いずれここへ帰りたい、その思いは間違いなくあった。だが、現実はどうだろう。屋敷をそのままにしておけば、兵士は土足でこの屋敷を漁り、絨毯は踏み散らかされ、壁は隠し扉を探すために砕かれる。直ちに土地を奪われるまではしないだろうが、ここへ戻って来られたとして、その時、屋敷が今のままであることは期待できるだろうか。フォルディオ家のものであると期待ができるだろうか。
できるはずがない。ならばいっそ、自らの手で焼き尽くす他ないではないか。誰かの手で失うことほど、辛い思いはないと知っているのだから。
「今は最善を尽くす他ない。何、今はまだ帝国はお前さんを殺人の罪だとしか思ってないさ。デミランダ王国時代ですら、魔法の根源に触れようとした者を捕まえる時には、何十人の兵士でたったひとりを捕まえてたからな。俺が見たのは3人だ。安心しな」
そうこうしているうちに、旅の準備は整う。レインとリリーシャは背中へ、口元がきつくなる程度に物を詰め込んだ革のリュックサックを背負った。加えて、レインは腰にロングソードを差す。物置に眠っていた代物で、刃こぼれや錆びが刀身を汚し、見るに堪えない有様だが、それでも無いよりはマシだ。
さて、決断の時である。レインは誰に向けるでもなしに言った。
「屋敷を燃やす」
葉の落ちかけた生垣や、枝だけとなった草木が冬の訪れを待つ庭で、レインは3人が佇む。
撒いた油の臭いが漂い始めていた。質の悪い油の臭いだ。生臭さとは違う、汚い臭いだ。これで、かつて共にした屋敷の空気もにおいは戻らなくなった。2人がそれを実感したこの臭いは、忘れられそうもない。リリーシャは瞼の裏で屋敷を歩いた。レインと共に2段飛ばしで駆けた階段。壁の継目に残した爪の痕。溶けた蝋が滴り黒い点となった絨毯や、月明かりを浴びる本棚の色と、朝焼けを漏らして闇に浮かんだ青いカーテン。居間の簡素なシャンデリアを最後に掃除したのは、何年も前で。寝静まった庭を眺める午前4時の窓のサッシは冷たくも心地良かったのは、御主人やレインもきっと知らない。
「もう、さよならですね」
リリーシャはそう呟き、口角を上げた。彼女は隣で小さく揺れていた手を、優しく握った。寂しさを温めるように。一瞬、ピクリと反応した手はしばしの間静かだったが。少しだけ、握り返された。彼女はそれが嬉しかったが。
レインの目には、既に炎が映っていた。「この臭いを知っている」。脳裏にこだまするその言葉に支配され、記憶を呼び起こした。炎だ。炎の記憶だ。それは知っている炎だ。あの日の炎だ。教会の焼けた、あの日の。あの日の臭いだ。
「なぜ…気付かなかったのだろう」
イワンは言っていた。教会が燃えたのは強盗による思い付きの放火で、それは既に捕まっていて。シスターは運悪く、その強盗に殺されたのだと。違う。思い付きの放火に大量の油が使われるものか。これと分かるほどの臭いを、庭へ放つほどの油を。
強盗じゃなかったなら―それはきっと、ウィナ教徒のための教会だったからだろう。彼の考えは至って自然に、その答えを導いた。と、同時に、それは考えてこなかっただけだと気付く。そしてもうひとつ。イワンが嘘をついた理由も、また。
―恨みに生きることはしないよ、先生。先生が嘘をついたのは正解だ。そう思えるには時間が必要だったから。でもね?報いは受けさせる。その機会があれば―
「レイン様」
「…ああ。これだけの屋敷が瓦礫となれば、撤去に時間と金がかかる。となると、帝国がここを漁ることはしないはずだ。燃えはしても、一応はフォルディオ家の財産。先生の両親が居る以上、手は出せないはず。…心の準備はできたよ。頼む」
「おう。…辛いだろうが、お前さんたちが心配するのはこれからだ。まだ泣くんじゃねえぞ」
ロウを名乗る男は、燃える一本のマッチを玄関の中へと放った。少しずつ、屋敷の玄関より炎が大きくなるのが見えて。
次の瞬間。真昼の空に、一瞬の光が走る。爆発と同時に屋敷の中を突き抜ける火柱が勢いよく立った。「うおっ」マッチを放った彼も、突然の爆発に身を伏せる。残りの油が入った樽に引火したらしい。冬に備えて多く備蓄していた油は、屋敷中へ撒き尽くせないほどあった。
「その目にコレを刻んでいる時間はねえぞ!レイン!リリー!逃げるぞ!人が来る!」
既に周囲の家屋からは、窓から外を覗く人影がある。男の声にレインは我に返り、リリーシャの手を引き、走って庭を出た。男の足は速く、庭を出る頃には2人の前を走り、行き先を誘導する。前を行く男の奔りが軽快に見えるのは、地面を蹴るあの脚力によるものだろう。まさしくバネと呼ぶべき弾力のある足つき。姿勢を若干の前傾姿勢に走るのは、あの推進力を最大限に得るためか。屋敷にあった装飾用の重たい槍を背負っているとはまるで思えない動き。
「ついて来い!」
「速すぎる!置いてく気か!リリー、しっかり!」
「は、はい」
炎が屋敷を焦がす音、窓ガラスが割れる音、それらが次第に遠退いていく。もう本当に、あそこには帰れなくなってしまったのだと、レインはようやく理解し始めた。立ち止まれば、きっと、あの平和な日々がむせ返るに違いない。夢の最中のように、足へ込めた力が浮いた心地だ。何かを呪わずにはいられなくなるほど、胸が締め付けられる思いが立ち込めた時、彼の手をリリーシャが握った。
「今は、走りましょう。レイン様」
重心の覚束ない足取りながらもレインの隣を必死に走るリリーシャが、そう言って彼を励ます。レインはその手を強く握り返し、離した。彼は思い出したのだ。彼女の強さは妄信に支えられた虚栄。イワンが蘇らないことを知った時、彼女の本当の悲しみが彼女を貫く。それを支えるには、レイン自身が彼女よりも強く在らなくてはならないことを。
「ありがとう」
最後の家族を守るために、今は、悲しみを思い出さないでおく。レインの中で、霧のように立ち込めていた覚悟が一本の太い信条として顕れた瞬間だった。
空へうねりあがる黒煙を指差す人のかたまりを、いくつも、いくつも通り過ぎた。時折差し掛かった下り坂に踵を痛めながらも、一方向を目指して駆け抜ける。前を行く男は道など知らない。時折行き止まりを確認すると、踵を返して別の道へ行く。ただ一つの方角へ向かい、走り続ける。街は石畳を敷き詰めた固い地面で、障害物といえば無秩序に立っている人と人くらいだ。大通りには馬車も見つけたが、決まってそばには兵士らしき人影がある。自然と、繁華街を避けることとなった。
やがて、建物に囲まれた暗く細い路地を抜けたところで、街の中を流れる川沿いの道へと辿り着いた。
「…ふう…ようやく着いたぜ…」
幸い、繁華街から大きく離れ人気がない様子だ。川は街の歩道よりも建物一階分低いところを流れており、腰の高さほどの塀から川を見下ろすことができる。川幅は5メートル程度と存在感を際立たせつつも、石造りの塀に掘られた花の装飾や街中に点々とあるアーチ状の橋が川を街の景観と融合させ、デミランダの観光名所ともなっていた。男は、「こりゃすげえ」と、そのあらましを初めて見たような素振りをするものだから、レインは怪訝な目を向ける。
「…ここが目的地じゃなかったの?」
「そうだが、どうした。…ああ、俺の居た時代は、川がこんなふうにはなって無かったんだ。一部は整備されていたが。基本は土の堤防があってだな。ガキがよく川のふちまで降りて、泥遊びをしてたっけなあ…」
レインはこの男が100年以上前からやってきたというスタンスを、一向に変えない素振りに関心さえしている。よもや本当に?などとは一片も考えたことがないが、この男の話に付き合うのがそれなりに面白い。
「それで、これからどうするのでしょう。まさか、川を泳いで街を出る、なんてことはないですよね?」
デミランダ王国は街の周囲を小高い壁で囲み、魔物の来襲を防いでいる。壁の上へ登れるような階段もところどころあるが、それは砦としての機能であり、壁の外へと降りられる話は聞いたことがない。少なくとも見張りはついているもので、とても越えられるものではないのだ。よって、街を出るには東・西・南と3つある関門のいずれかを通る必要がある。だが、当然に帝国の兵士による人物確認が行われるだろう。
リリーシャが言うように、川は街の外へとつながっている。が、街から外への境目には、川に大きな格子がはめられており、人が出られる仕組みになっていない。男はそれを知らないようだった。
「それでも良いが、この川の近くに街の外への抜け道があるんだ」
「そんな都合の良いものが…」
「あるんだよ。そもそもこの帝都の下には…って、そんな話をしている場合じゃねえんだ。早く行くぞ」
男は塀をひらり飛び越え、川の縁の足場ともいいにくいスペースへ降りた。「おら、リリーの姉さんからだ」戸惑いながらもゆっくり塀から降りるリリーシャを、男が受け止める。足場となったそこは、塀の壁にぴったり背をつけ足のつま先が水面へと晒されるほどの幅の狭いもの。降りるのも一苦労だ。レインもそれに続いて、三人は塀の歪な壁面を指で捉えながら、川に沿って進み始めた。
どれくらいの時間が経っただろうか。10分。30分。1時間。足元を滑らせないよう、集中力を研ぎ澄ました神経へ時間を尋ねるのは酷だ。「別に落ちたって死にやしねーよ」ロウを名乗る男は必死そうな2人の顔を見てそう笑った。時折、川からはねた僅かな飛沫が靴を濡らしていく。
やがて、いくつ目かの橋の下へ差し掛かった頃。男は足を止めた。橋の下は小さな踊り場のようなスペースがあり、そこで一息つくことができる。足に込めた力を抜けるほどの、両足の落ち着く空間へ至る度に、レインとリリーシャは胸を撫で下ろす。
「…誰かが通った形跡があるな」
橋の下に位置する壁へと手をつき、男は呟く。
橋台である壁は、両手で抱えるほどの石を積み重ねた構造になっているが、どうやらその石のいくつかが固定されていないらしい。男は何度か強く石組の壁の下部分を叩くと、積まれていた石の下部分が組から外れ、人ひとりが這いつくばって通れるほどの穴が現れた。壁の内側は空洞だったのだ。男は躊躇なくその中へ頭から入っていき、蜘蛛の巣か何かを払う仕草をしながら「早く入れ。おい、レイン。入ったらテキトーで良いから石を積んで元に戻しといてくれ。石の隙間は、足元の砂の下の粘土を詰めてくれ」と命令した。
「レイン様、行きましょう」
「あ、ああ」
「リリーの姉さんはランタン貸してくれ」
穴の中から立ち込める、鼻腔を閉じさせるような硫黄臭が僅か。生温かい空気が顔を撫でるのは、動物の欠伸を正面で浴びる連想をさせるようで気持ちが悪く。しかし、まるで自然的なそれが記憶にない野性を誘うようで、何かが満たされる心地もする。砂の中へ差し込んだ手を包む温もりの感覚に近い。
レインは帝都を隅々まで知っているわけでもないし、リリーシャもまた同様であった。少し歩けば知らない路地や店や施設はいくつもあるだろう。しかし、このような場所は。以前のままに帝都で暮らしていては、知る機会などあるはずもないだろう。よく知る街の足元で始まった小さな冒険だ。2人の胸は少しだけ高鳴っていた。それは彼らにとって、喪に服していない不謹慎なものという後ろめたさとして感じる部分もあるが。「好奇心には勝てない」そう言って笑う年甲斐もないイワンの顔を思い出してしまうのが、ずるい。
「ここは、何なのですか?」
「ウィナの忘れ形見。都の真実。デミランダの意味。この先にあるのは、そういうもんだ。その様子だと、100年経っても隠されたままか」
彼の言葉の多くが謎だった。思わせぶりだとさえ思った。だが、この洞窟を悠然と進む彼の口から語られたそれは、神秘的に聞こえてはこないか。
男が照らすランタンの光が、穴の奥への闇へと溶ける。穴は相当深くまで続いているようだ。僅かだが、道は平衡ではなく少しずつ下っていた。道は虫どものねぐらだ。足元を何か小さい者たちが這う僅かな音が聞こえ、2人は身の毛をよだたせる。想像力は蜘蛛だ甲虫だと囁くが、鼠の方がまだマシだ。答え合わせを望みはしない。ロウがランタンを前へ掲げ続け、足元を照らさないのがまだ救い。ただでさえ、亀の甲羅ほどに摩擦の少ない岩の突起が洞窟の上に下にとあちこち存在し、非常に歩きにくいというのに―これ以上何を気にしたものか、と、2人はげんなり、会話へ集中することで心の安寧を得ようとする。「そろそろ、アンタの目的を教えてはくれないのか?」レインはついに尋ねた。
揺れるランタンが、ぴたり。男は立ち止まった。
静まり返った。ありもしない洞窟に蠢く声が、耳を澄ませば聞こえてくるかのよう。その闇と彼の手元で揺れる火の近くで、虎のような眼光を男は宿した。威風ではない。威嚇でもない。本気、真剣、それらに類し、かつ、切れ味という尺度が正しい。その眼が後ろを歩くレインら2人へと向けられ、彼らの浮つきかけていた心持は垂れ下がった。生唾を飲まされるほどに。
「…な、何を言おうとしているんだ?」
「恐ろしい話だよ。それはそれは、聞いただけで世界中が棘で覆われた心地になるぞ。それでも聞くのか?聞いた上で、協力するのか?できるのか?」
そう言って瞬きひとつしない彼は卑怯な男だ。いや、堂々とした武人であることには違いなく、その芯は曲がらず揺らがず、信念を宿した強い男である。だが、他人の決断を導く道理においてフェアではなかった。自尊心や羞恥心、目先の感情で相手自身の背中を押させて骨をしゃぶる。こと今のレインにおいては、彼に好奇心と少しの自尊心を煽られ、首を縦に振らされる。「教えてくれ」その言葉さえも引き出した。
再び歩き出したロウは、洞窟の狭い壁にも響かぬ声で、だが2人の耳へ確かに届く呟きで、告げた。
「俺が今生きているのは、皇帝グラン・ヴィー・ヴァッハを討つためだ。お前さんたちには、その方棒を担いでもらうつもりだ」
「は?」
2人の理解が追い付くには、間が沈黙へ切り替わる寸でのくらいに時間がかかった。レインはまず、緊張の糸を解く冗談を口にしたのだと思った。次に、帝国に追われることになった自分らへの同情の姿勢を見せられているのかと思った。リリーシャは、頬辺ひとつも動かさなかった。
「なぜ皇帝を?…そもそもアンタ、自分が勇者だって言ってたじゃないか」
「?勇者だからなんだってんだ?」
「?だって、勇者は…」
レインは自らが知る勇者の全てを彼に話した。勇者はヴァッハ王によって集められたこと。勇者はヴァッハ王に導かれ魔王を倒したこと。勇者はヴァッハ王に祝福され、戦いの後は城で、争いとは無縁の幸福な一生を過ごしたこと。勇者はヴァッハ王と共にあり、共に栄え、その栄誉は帝国繁栄に係る最大の礎となったこと―それを聞いた男は。一瞬、虚ろな表情浮かべ。
「フフ…ファファファファファファ!!」
次の瞬間には、大笑いを始めた。
ただ笑うのではない。
白い歯を食いしばり、噛み殺した笑いを狭い通路いっぱいに響かせた鬼の呻きだ。目を見開き、髪の毛を握りつぶして笑うその姿。怨み。漏れ出した感情が真っ赤に男を染め上げるかのように。青筋を浮かび上がらせるその身を震わせ、彼は次々指をさして叫んだ。
「最ッ高に最ッ低な脚本だなァッ!誰が信じた?お前か?お前か?いや、誰もが!誰もが信じているというんだな!?これほど滑稽なことはないなぁ!?教えてやる!俺達を殺したのはグラン・ヴィー・ヴァッハだ!王城で平和に?バカな!魔王を討伐した後、数ヶ月で俺の仲間は殺された!あいつは!魔族だ!それに勘付いた俺達は、消されたんだよ!―
そして彼の口から語られた、彼と彼の仲間達との最後の夜。逃げ込んだ山中。迫る王の手先。死を覚悟した仲間。ひとり生き残らされたロウ。綺麗な星空。大好きだった、仲間。最期の言葉と、暗闇。それらの話は、怒りに興奮した彼自身を落ち着かせるには十分だった。そして最後に、一筋の涙を頬に伝わせた彼は、黙った。ランタンが掲げられていた腕が下がり、目を閉じる彼の表情は暗闇へと、消える。
レインは、信じられずにはいられなかった。人から、これほどの生の感情をぶつけられたことなど無かったからだ。これが嘘だと言うならば、人の感情はおよそ理性の人形だ。彼が勇者であることの実感は得られていないが、彼が勇者であったことは間違いないと確信できる。
一方、リリーシャはそんなレインの後ろで、奥歯を軋ませ誰の耳にも届かぬ深い音を頭蓋へ響かせていた。ロウは蘇生し棺より目覚めたわけではなかった―その事実にリリーシャは不満だったのだ。だが、彼女の妄信は後がない。「諦めません」―その言葉を喉奥にしまいこみ、「…どうやって、ヴァッハ王が魔物だと、気付いたのですか?」いつもの優しい声色で平静を装う。再び歩み始めたロウに、2人は続く。
「あれは、魔王討伐後の何度目かの国賓パーティーのことだ。シトラがグランと、ワイングラスを片手に談笑している時だった。グランがグラスを落として、割っちまったんだ。普通なら召使いでも呼んで終わる場面だが、シトラは作法も知らないもんだから、慌ててグラスの欠片を拾い始めた。あいつはたまに、そういう可愛げのある女だったな。それでグランが、欠片を拾うシトラを手で制したところ、たまたまシトラが拾い上げた破片がグランの指先を掠めてな。若干血が滲むくらいの浅い傷をつけたんだよ」
「ああ…それで?」
ロウはそこで黙った。しばしの時が流れた。不自然な歯切れの悪さに、リリーシャは少しの苛立ちを込め、「…だから、何だと言うのです?」怪訝な声を露わにした。
意外だったのは、ロウの態度だ。一呼吸置いた彼は、迷っていると言わんばかりに息を詰まらせたり吐き出したりした後、神妙な面持ちとなって語り始める。
「こいつは。絶対に人に漏らせない話だ。だが、お前さんたちを信じて、話す。勇者には弱点があってな。類稀なる肉体とセンスを授かる代わりに、ひとつの枷がかけられる。それは『人を傷つけることができない』ことだ」
「人を…?ああ、だから100年前、国王軍と戦わずに逃げたっていうのか?」
「そうだ。勇者の行為が一次的に人を傷つける因果に繋がろうとすると、結果から逆流する何かによってその行為にストップがかかる。と、思っている。現に、槍を振るおうとすれば槍を落とし、魔法を使おうとすれば頭に靄がかかったように必要な情景が思い浮かばなくなる。シトラはそれによって、グラスの破片を落とすはずだった。しかし、王の指に傷をつけた。これが意味するのはひとつだ」
シトラはロウと同じく、勇者であるがために人を傷つけられない。
彼女の手に握られたグラスの破片は、本来ならば国王を傷つける前に彼女の手から零れ落ちるはず。―国王が、ヒトであるならば。
だが、グラスの破片は王を傷つけた。
「俺達はその後、王に探りを入れた。何かの間違いじゃないか、ってな。だが、間違いじゃなかった。そして…さっき語った始末さ。俺の話はいいだろ。いいか?お前さんたちの夢…魔法の原理を追い求めた時、帝国は間違いなくお前さんたちを消し去るべく動いてくる。今も、その片鱗が見えているだろう?お前さんたちは逃げながら、研究を続けなければならない。毎日、刺客から怯える生活だ。それでいいのか?」
「だから、皇帝を討つのを手伝えって?」
「いや、いや。何もお前さんたちの剣や拳で王をやれと言っているわけじゃない。そういう、帝国に歯向かう人間の集まりの中に居れば、お前さんたちをより多くの人間が守ってくれるわけだ。まずは、そういう集団を作る協力をしてくれってことだよ」
彼の言うことはもっともだった。元より、レインには他に選択肢が無いように思えている。彼は疲れていたからだ。数日のうちに、イワンを失い、屋敷を失い。それでも音を立てて崩れ去る日常の先へがむしゃらに飛び出した。だが、そこまでだ。もはや自力でこの先を往くには、知識も経験も、体力すら、まるで足りてはいないのだ。人は簡単に、冒険などできやしない。
「やるよ…それで、僕達の夢と、リリーを守れるのなら」
そう言ったレインには、一抹の惨めさを忍ばせていた。自らの言葉に重さを感じなかった。あるのは“楽”だ。先刻、誓いと共に負ったばかりの肩の荷を下ろす、格好の待遇。つまりはそういうことを考えたのだ。それを恥じ、無力を感じる断片がある。だがそれもまた、おこがましい。レインは、彼の提案を大きく侮った。最早思慮さえも及ばせていないに等しい。それでも、当てのない旅を2人だけで始めるよりは、命の保証はあるだろう。だが、それはまたロウの冒険を大きく誤解している。今、彼ほど困難な道を歩もうとしている旅人は他にいないというのに。
「リリーの姉さんも異論はないか?」
「ええ…ありません」
「そうか。お前さんたちがその気なら、この先だって見せることができる」
「この先?」
いつからか、足首を捻りそうになる滑りのある小道が乾いた砂の道へと変わり、手を伸ばせば届きそうだった天井は頭上へと遠くに。人ひとり、横へ腕を広げれば両手が左右へつく幅だったのも、リリーシャがレインの隣を歩いている。次第に、ランプに依らずとも前方がほんのりと明るくなってきた。そして、ずっと真っ直ぐに続いていた道は2つの分かれ道へと差し掛かった。
「こちらへランプをかざすか否か。これはそういう話でもあった」
明るい左の道とは反対の、右側の道へとロウは進み、立ち止まってその先へとランプを掲げた。レインらはロウの背後からその先へと視線を凝らす。洞窟からそのまま続く天井を除き、壁は途切れ足場も途切れ、その先は何もない暗黒だ。徐々に目を凝らしていく。そして分かった。そこから先は、道ではなかったのだ。
「…道がない…?崖か?…空間?下に…何かある…?」
分かれ道を右へ数歩進んだ先は、巨大な空間へと続いていた。レインたちが居る場所は、その空間へ足で蹴り落とした小石が音となって返ってくるのも時間がかかるほどの高さだ。そんな崖下に、ようやく見えて来たのは、柱。次いで、四角い建造物。次第に露わになるそれらの群れ。瞳孔が開くほどに飛び込んで来る、遺跡の数々。さながら、街である。光が足りず、詳しい外観までは視認することができないが、空間の奥を暗闇が支配することから察するに、とてつもなく広い空間だ。
「こ、こんなものが、帝都の地下に…?」
「地下に造られたのか。それとも地下に埋められたのか。それは分からん。だが、これはウィナの神話にある、古代文明…だと、俺達は考えている。コイツは偶然、ミラが穴へ落っこちて発見したものだ。一度はこれの正体を調べたが、何者かに徹底的に邪魔された。今思えば、邪魔してきたのはデミランダ王国だったのかもな。いや、今はヴァッハ帝国か。ハハッ。クソが。この穴が埋められていなかったところを見るに、まだこの横穴は帝国へ知られていないようだが…」
ロウは自らが進んできた道を一瞥し、腑に落ちない表情を浮かべる。彼はここへの入り口を遥か昔に隠匿した。入り口を塞ぐ石にはそれぞれ傷が刻まれており、それが表へ見えないように積んであったはずだった。だが、表側のいくつかの石に傷を見つけたのだ。
これを見つけた者は、通常なら間違いなく大騒ぎをするだろう。歴史的大発見を吹聴して回るに違いない。そして帝国がそれを黙らせ、穴を塞ぐ。ウィナの教義を確からしめるものになり得るからだ。そうでなくとも、この穴を野放しにする理由はない。
考えられるのは、これを見つけた者はこの秘密の意味に勘付く頭の良い人間だったということだ―ロウはそう考えた。
「…まあいい。100年も経てば誰かは見つけるか。むしろ、相当運が良い方だろう」
「分からないことがあります。古代文明があった証明ができたとしたら、確かにそれはすごいです。そしてロウ様はこれを知ると帝国に追われると思って、私達に見せるのを躊躇したのでしょう。ですが、グラン教もまた古代文明があったことを前提とした教義なのですから、別に問題はないのでは?」
「…?グラン教?教義は?」
「皇帝グラン・ヴィー・ヴァッハは神の代弁者。ウィナは古代文明を滅ぼした罪人であり、そのウィナを滅ぼし人々の復興に努めたグランの祖先は、神からの祝福を得た。その祝福とは人々に正しい魔法をもたらした他、ヴァッハ家が神の代弁者となり、いずれかのふさわしい子孫に不死の肉体を与える契約。そして、数百年の月日の果てに生まれたグラン。彼が不死の力の持ち主であり、ヴァッハ王国…現在のヴァッハ帝国を築き、皇帝となった。これが教義だよ。やっぱり、これは嘘なんだな?」
「いや。分からん。俺は無神論者だ。グラン教は俺の時代には無かった。おそらく、ヴァッハの野郎が皇帝になった時に触れ回った内容だろ。そりゃ、昔からあるウィナ教の方が信用できるかもしれないが、正しい内容をグラン教として後出しした可能性もあるだろ。俺は宗教なんて興味ねえからそこらへんは分からん…あ、ミラはウィナ教徒だったな。とにかく、俺の時代はウィナ教が主流で、あとは…なんかひとつあったな。邪教扱いされていたやつ。そんなもんだ。やめろやめろ宗教の話なんざ興味ねえ。早くこの洞窟を抜けようぜ」
ロウはそう言って、光差す道の方へと歩き始めた。光源を握っている彼に逆らう術はなく、自ずと彼の後を追う。リリーシャの不満げな表情は目にするまでもなく感じ取れるが、それに付き合えるほどのんびりもしていられなかった。
洞窟は古井戸の底へと続いていた。続いているといっても、これもまた石でカモフラージュされており、また、井戸の外へと這い上がるのも一苦労であった。ロウの身体能力は見事で、背丈四つ分ほどもある井戸の壁を軽々と上り、レインらへロープを降ろした。見上げると、丸型の空が今か今かと雨を落としたがっている。
古井戸の周囲は鬱蒼と茂った雑草と、苔を根本に侍らす樹木が不規則に連なる森の中だった。レインにとっては初めての光景だ。庭のものよりも深い土のにおいは青臭く、思わず息を止めてしまう。踏み出した足の感触もまた不思議で、反発をしないまでも体重を吸い取られるような土の柔らかさに戸惑った。
随時更新編集中