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私は猪です。  作者: 村崎羯諦
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後編

 校内は阿鼻叫喚の叫び声で満ちていた。教室の横を通り抜けるたび、椅子や机がぶつかり合う音、人の身体が壁にぶつかる音が聞こえてくる。私は耳をふさぎながら廊下を駆け抜けた。時々、私と同じように教室を飛び出した生徒と身体がぶつかったりしたが、それでも私は走り続けた。自分が今、どこへ向かって走っているのか、どこに向かえばいいのか、全くわからなかった。職員室に行って先生たちに助けを求めればいいのか。それとも自分の身を守るためにも校舎の外へと避難するべきなのか。恐怖と焦りで私の頭は全く機能しない。その代り、発狂した人間が近くにいる人間へと襲い掛かる場面が、頭の中で繰り返し繰り返し再生されていた。


 その時、前方から教室の扉がけたたましく開かれる音が聞こえてきた。私はハッと顔を上げ、立ち止まる。目の前の教室からはちょうど一人の女子生徒が飛び出してきて、廊下へ出るなり勢いよく後ろの扉を閉めた。それと同時に扉が内側から強く揺さぶられ、衝撃で扉全体が外側へしなった。


 私は廊下に飛び出てきた女子生徒の姿を見て思わず声をあげた。目の前に現れたのは、私の部活動の先輩である東雲先輩だったからだ。私の声を聞き、東雲先輩も私の方へ振り返る。その表情は恐怖と憔悴で暗く青ざめていた。


「東雲先輩!」


 私は寄る辺のない状況の中で見つけた知人の名前を叫んだ。しかし、その瞬間、私ははっと自分の口を手で押さえる。東雲先輩の青ざめた表情に困惑の色が加わった。早川先生、権田先生の発狂前のやりとりが走馬灯のように駆け巡り、一つの仮説が閃光のように私の頭の中をよぎった。東雲先輩は私の方をまじまじと見つめながら、か細い言葉でつぶやく。


「何を言ってるの? 私は東雲先輩じゃないよ」


 私は東雲先輩に背を向け、今来た方向へと全速力で走り出した。一呼吸置いた後、後ろから東雲先輩が私を追いかけてくる足音が聞こえてきた。おしとやかでお上品な先輩からは想像もできないほどに荒々しい足音。校舎内の喧騒に混ざって、先輩の興奮した息遣いが聞こえてくるような気もした。私は乳酸が溜まった両足に鞭をうち、私は全速力で廊下を駆け抜ける。それでも、先輩の足音は徐々に大きくなっていき、距離が縮まっていることが嫌でも実感できた。後ろを振り返る勇気はなかった。 


 このままだと追いつかれる。


 私は咄嗟に、ちょうど目と鼻の先に現れた理科準備室の扉を開け、中に入る。身体全体で扉を閉めるのと、先輩が恐ろしい形相で飛びかかってきたのはほぼ同時だった。先輩の身体が扉に勢いよくぶつかり、けたたましい激突音が轟く。


 私は急いで内側から鍵をかけ、部屋の奥へと退避する。先輩は力づくで扉をぶち破ろうと、何度も何度も外側から扉に体当たりをし続けている。そのたびに扉は大きく揺れ、私の身体が反射的にびくっと震えてしまう。痛みなどは感じないのだろうか。私は部屋の隅っこに力なくへたり込みながら考えた。身体をあざだらけにしながらも、なおも鍵のかかった扉にぶつかり続ける先輩の姿を想像し、私は暗澹たる気持ちに襲われた。


 なぜ先生や先輩が発狂するのかは謎だ。それでも、発狂の引き金らしきものには見当がついていた。私の目の前で発狂した人たちは皆、その直前に自分の名前を呼ばれていた。それがきっかけとなって発狂するというのはほぼ疑いようのない。なぜ名前なのか。それは全く分からないけれど。


 理科準備室は暗く、薬品の匂いが充満していた。私は隅っこで縮こまりながら、じっと息をひそめた。いつの間にか体当たりの音は止んでいた。先輩は私を追いかけることを諦め、別の獲物を探しに行ってしまったのだろう。それでも、外へ出る勇気はない。先輩から襲われることだけでなく、誰かから私の名前を呼ばれてしまうことが恐ろしいからだ。


 名前。誰かから名前を呼ばれなければいい。それにしてもなんで名前なのか。さっぱりわからない。私の名前が呼ばれたらアウトだ。早川先生たちみたいに発狂してしまう。そうなってたまるものか。私はそう自分を鼓舞するが、一滴の黒い絵の具が水の中に落とされたかのように、私の胸の中で少しづつ不安が広がっていく。


 耳を澄ますと、部屋の外から誰かの悲鳴が聞こえたような気がした。いや、もしかしたら空耳なのかもしれない。しっかりしろ、私。あれ、私? そういえば私の名前ってなんだっけ。あまりにも疲れているからだろうか、いくら思い出そうとしても、私の名前が出てこない。


 私は震える手で、胸ポケットのに入っている生徒手帳をとり出す。最後のページを開き、そこに載っている自分の顔写真と「藤沢あかね」という名前を確認する。


 「藤沢あかね」。それが私の名前らしい。しかし、なぜだか、その名前も顔写真も、別の誰かのものであるかのような気がしてならなかった。私は目をつぶり、懸命に自分の過去を思い出してみる。先月の文化祭、高校の入学式、小学校の卒業式、そして幼年期に両親に連れられて行ったアミユーズメントパーク。しかし、いくら昔の記憶を呼び起こしたところで、私が藤沢あかねであるという確信は得られなかったし、何よりも私が猪ではないということをどうしても証明できなかった。


 がたがたと理科準備室の扉が動かされる。しばらくして、がちゃりと開錠される音が聞こえた。それでも、私はその事実すらもまるで自分とは無関係なもののように思えてならなかった。私はもう一度自分の生徒手帳を見る。おさげの黒髪に、一重まぶた。まっすぐと前を見てぎこちなくはにかむ写真の少女がいったい誰なのか、私には理解できなかった。この人は誰。写真の横には藤沢あかねと書いてあるがそんな名前など聞いたことがない。いや、名前っでなんだ。なぜ私はこんな薄暗い部屋の隅っこでうずくまってるんだっけ。


 扉が開かれ、廊下の照明の明かりが薄暗い部屋の中に差し込む。入り口に立っていたのは、似たような紺色の服装をした少年、少女たちだった。彼らは私の姿を認めるやいなや、はっと表情を険しくし、その場で固まってしまった。


「誰だ!!」


 私は誰? 手に持っていた手帳をもう一度ちらりと一瞥する。見覚えのない写真の横に書かれている見覚えのない名前。違う。私は藤沢あかねじゃない。


「おい、誰なんだよ……?」


 私は顔を上げた。先頭に立っている少年は不安そうな表情を浮かべていた。私は彼を安心させるために、小さく微笑んだ。少年は私の反応が意外だったのか、戸惑うかのようにそわそわと近くにいる仲間たちへと視線をやる。そうだ。そういえば、まだ彼らの質問に答えていない。私は彼らをじっと見据えてつぶやいた。私は藤沢あかねじゃありません。私は――― 

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