前編
猪が出た。
朝のHR前。けたたましい校内放送のアナウンスで伝えられたのは、生まれてこの方縁のない言葉だった。生徒は教室に待機し、担任の指示をあおぐこと。それだけを早口で言い終えると、いつどこでどのように猪が現れたのかという詳しい情報は与えられないまま校内放送は終わった。
教室内が一気にざわめきたつ。おろおろと周囲を見渡すものもいれば、意地を張って愉快そうに振る舞う者もいる。私はどちらにも与することもなく、ただじっと椅子に座って、一限目の教科書の流し読みをした。別に私に何かできることがあるわけでもない。平静を保っていると言えば嘘になるが、慌てふためいても何の足しにもならないことだけは理解できていた。
教室の前の扉が開く音が聞こえ、私は顔をあげる。担任の早川先生がいつになくせわしげに教室内へ入ってきて、教卓の前に立った。右手に持っていて黒のクラス名簿を教卓の上に置き、端から端へと教室内をぐるっと見渡す。きっとそれは静かにするようにという早川先生なりの合図だったのだろうが、猪が出たという非日常にどよめきたつクラスメイトを鎮めることはかなわなかった。
それでも早川先生は「静かに!」という言葉一つ発さなかった。早川先生がそういう性格の人間だということは重々承知している。しかし、それでも私はなぜか早川先生の様子にどこか違和感を感じた。非常事態で気が張っているということでは説明のつかない違和感。私は言いようのない胸騒ぎを覚えた。
「早川先生! 猪が出たって本当ですか?」
一番前の席に座る佐川君がひょうきんな調子でそう質問した。しかし、早川先生は質問に答える代わりに太く濃い眉毛をひそめてみせた。まるでその質問の意味が理解できないと言っているかのようだった。調子よく声をかけた佐川君も、後ろの席からもわかるくらいに困惑していて、助けを求めるかのように左右の席の男子に視線を投げかけている。
「何を言っているんだ? 私は早川先生じゃないぞ」
教室内の喧騒がピタリと止む。冗談を言っているのかと思ったが、早川先生はおどけた表情というよりはむしろ、当惑の表情を浮かべていた。早川先生はもう一度教室内をぐるりと見渡す。そして、一呼吸置いた後で教卓に手をつき、こう言った。
「私は早川先生ではありません。私は猪です」
早川先生は真剣な表情で何を言っているんだろう。誰もがそう思ったはずだ。しかし、それを誰かが口に出そうとしたその瞬間、早川先生は目の前の教卓の両端をつかみ、そのまま前方へと勢いよく押し倒した。スチール製の什器と一番前の机とが派手に衝突し、鐘を鳴らしたような音が教室内にこだまする。教卓の正面に座っていた佐川君は反射的に椅子から立ちあがり、かろうじて迫りくる教卓から逃れることができた。しかし、すぐさま早川先生が獣のような奇声を発しながら佐川君に身体全体で体当たりをし、床に倒れ込んだ佐川君に馬乗りになった。
窓際の一番後ろの席に座っていた女子の甲高いを悲鳴を皮切りに、教室内は突如としてパニック状態に陥る。泣き叫ぶ声。怒号。椅子と机がぶつかり合う音。そして、佐川君が発する助けを求める声。近くの席の男子が数人がかりで佐川君から早川先生を引き離そうと飛びかかった。しかし、なかなか早川先生を引き離すことができない。
団子状態になったその集団の隙間から見えた光景に私は慄然とした。早川先生は大きな口を開けて佐川君の腕にかみつき、口元からは深紅色の液体がにじみ出ていた。目は充血し、顔は興奮で紅潮している。露出した部分すべてが真っ赤で、まるで人の形をしたトマトのようだった。
「誰か他の先生を呼ばなきゃ」
隣に座っていた木戸さんのかすれるような声に私ははっとした。私が彼女の方を振り返ると、木戸さんは身体全体を恐怖で震わせながら、こくりとうなづいた。木戸さんの足は突然の出来事に動揺しているのか小刻みに震えていた。誰か助けを呼びに行けるだけの余裕はなさそうだった。私が行くしかない。私は同じようにうなづき合図を送ると、急いで廊下へと飛び出した。
私は第二校舎二階にある職員室へと全速力で向かった。すると、幸運にもその途中の渡り廊下で体育を担当する権田先生と沢口先生と遭遇した。のんびりと校内を巡回していた二人は、血相を変えて廊下を走ってくる私たち二人の姿を認めるやいなや、ただならぬ気配を察知したのか、さっと真剣な表情を浮かべた。
「は、早川先生が………突然おかしくなっちゃって……とにかく早く2年D組の教室に来てください!」
息も絶え絶えに私がそう説明すると、権田先生と沢口先生は互いに顔を見合わせた。おそらく二人は私たち二人が猪を見たのだと思い込んでいたのだろう。予想に反する、それも事情がよく呑み込めない私の説明に二人は当惑を隠せないでいた。
「とにかく落ち着いて。早川先生がおかしくなったって、一体……」
沢口先生が私をなだめようと優しい声色で語り掛けてくる。しかし、いつもはありがたい沢口先生の温和な性格も今の状況ではただもどかしいだけだった。詳細に説明する時間はない。私は沢口先生の右手をぎゅっと強くつかみ、思いっきり引っ張った。
「とにかく、早く来てください。権田先生も、ほら!!」
沢口先生は私の切羽詰まった対応に押されたのか、私に引っ張られるがまま私のクラスへと向かおうとする素振りを見せた。しかし、一方の権田先生はなぜか急に肩の力が抜けたようにその場に立ち尽くし、困惑したような表情を浮かべた。私は権田先生のその間の抜けた態度にはらわたが煮えくり返りそうになる。
「何やってるんですか。権田先生! とにかく、急いで早川先生のクラスに行かないと!」
そう注意してきた沢口先生を権田先生は不思議そうな目で見つめる。その瞬間、私の頭の中で、先ほど自分が目の当たりにしたばかりの光景がフラッシュバックする。教室に入ってきた早川先生。佐伯君の質問。そして、早川先生の当惑した表情。
「何を言っているんですか、一体?」
平坦な権田先生の口調。私の全身に鳥肌が立った。
「私は権田先生じゃありません。私は猪です」
そしてその言葉を言い終えるや否や、言葉の意味が呑み込めずきょとんとしていた沢口先生に権田先生が身体全体で体当たりを食らわせる。虚をつかれた沢口先生の身体は勢いよく後ろへと吹き飛び、内に出っ張った支柱に思いっきり激突した。助けを求める声を与える暇さえ与えず、権田先生はすぐさま沢口先生の身体に馬乗りとなり、わけのわからない雄たけびを発しながら沢口先生の右耳にかみついた。沢口先生のつんざくような叫び声が校内に響き渡る。
私は沢口先生を助けることもできず、悲鳴をあげてその場から走り去った。




