喪失 ~夢現奇譚短編~
いつかこうなることが、分かっていた。
それは危惧ではなくて、確信。
だから、自分は利用したのだ。
(……縛魔師という、最高の餌をぶらさげて)
君が魔妖へと堕ちる、その瞬間を、利用した。
香彩は目の前にいる人物を見る。
まるで夢の中にいるかのように、視界がぼやけている。
彼は片手で顔を覆い、嗤っていた。
引き攣れるような、その絶笑。
その指の隙間から覗くのは、狂気に満ちた眼。
香彩を『獲物』と見なした療は、ゆっくりゆっくりと香彩に近づいていく。
ひどく、鉄錆のような臭いがした。
それが、自分のものだと気付いた時、香彩は全身を駆け巡るような寒気に襲われた。
手足が冷えて、感触がない。
頭は割れるように痛くて、視界がぐらつく。
その壮絶な痛みは、あとからやってきた。
灼熱の火傷と極寒の凍傷。
そんな熱さと寒さが、痛みとなってやってきた。
耐えきれなくて、香彩が叫ぶ。
逃れようと必死に、体を捩り頭を振るが、体はぴくりとも動かない。
両肩を、療に掴まれていた。
激痛は、左肩から来ていた。
左腕はもう、力が入らない。
視線だけを療に向ける。
療は、何かを咥えていた。
それを食み、咀嚼し、嚥下する。
……何を?
「──……っっ!!」
その答えが、すとんと頭の中に落ちた時、香彩は痛みとはまた別の声を上げた。
分かっているようで、分かっていなかった。
自分を餌にするということが、どういうことなのか。
療を魔妖として目覚めさせるということが、どういうことなのか。
「……療……っ……!」
香彩の声に、療は三日月のような口の形をして、にぃと嗤う。
抵抗できない極上の『馳走』が、今、目の前にいるのだ。その味は先程味見をした時点で確証済みだ。
「りょ……お……」
香彩が名前を呼ぶ。
だが、その『名』は彼の心に響くことはない。
『妖気払いできるのは紫雨だけなんだろう?』
『だったら直してもらわなきゃ!』
『だめだよ! 妖気は時間が経てば経つほど体に影響を残すんだよ!』
『ほら、行こう。香彩』
行こう、と言ってくれた彼に、自分は何をしたのか。
自分の身体のことを心配してくれた、療は。
もう、どこにもいないのだ。