豆花雨
複数の足音が奏でる音に、はっと夢想から覚める。
「蘭、良い?」
遠慮の無い声は、尤のものだ。視界に入ってきた金茶色の髪に物憂げに頷くと、その尤の後ろからもう一人、尤と同じ高校の制服の、しかし何処か古風な少女が蘭の横の作業台に腰を下ろすのが、見えた。尤の、友人だろうか? それだけ考えると、蘭は再び自分の思考に戻った。
留ノ川の向こうにある理系大学近くで、幸の母、碧に逢ってから十日近くが過ぎようとしていた。その間、幸はここへ来ていない。そのことに、蘭は正直ほっとしていた。幸に逢ったら、母のことを話してしまうかもしれない。「幸には母親が近くに居ることを話さない」。そう、寧には言ったが、それでも。葛藤が、蘭の心を支配していた。『谷』の為に幸の能力が必要だというのもあるが、幸に対して秘密を持つことを、蘭自身が許せないというのもある。蘭が逢った碧は『谷』のことを全拒否しているように見えたから、『能力』の片鱗を見せ始めている幸と、碧が出会ったら、幸福より不幸を生みそうな気がするが、それでも。
と。
「蘭、蘭ってば!」
怒りと苛立ちに満ちた尤の言葉に、はっとする。
「聞いてる?」
作業台に広げられた、目にも鮮やかな矢羽根柄が視界に映り、蘭は無意識に目を瞬かせた。これはまた、なんと古風な布ではないか。昔は、この柄の着物に海老茶色のスカートのような袴を合わせた女学生が、この町にも確かに居た。尤が通っている学校にも。しかし今になって、この柄を見るとは。虫籠窓から入り込む弱い秋の日差しに光る着物をもう一度見詰め、蘭はほうと息を吐いた。
「これ、亜紀の曾お祖母さんが着ていた着物なんだって」
目の前の古風な布を見詰め続ける蘭の耳に、尤の声が響く。
「今度の学園祭の展示で使うから、亜紀が着れるように直して欲しいんだけど」
それなら。こくんと頷いてから、尤が連れて来た亜紀という名の友人の方を見る。立たせてみた亜紀の身長は、小柄な蘭よりも、少し背が高めだと蘭が思っていた尤よりも、少しだけ高い。着物はともかく、袴の方をかなり直す必要がある。亜紀が袋から取り出した、これも古風な海老茶色の袴を、蘭は徐に手に取った。と。
〈これ……〉
見たことのある縫い方に、はっと胸を突かれる。これは。蘭はふっと微笑んだ。
その袴を亜紀に着せてみる。
「やっぱり、丈を出した方が良さそうね」
すぐというわけにはいかないが、直すことは、できる。蘭の言葉に、亜紀がほっとしたように微笑む。その微笑みは、記憶の中にあるあの女学生に、確かに、似ていた。
次の日。直した袴を袋に入れて、蘭が足を向けたのは、尤が通う高校。その高校の、今は通用門になってしまっている古風な鋳鉄製の門扉に、蘭はほっと息を吐いた。これは、昔と変わっていない。この門の向こうにある、柳の木と池がある庭も、その横にある煉瓦造りの建物も。確か昔は、今は運動場になっている辺りに木造の校舎が建ち並んでいて、近代風の鉄筋コンクリート製の校舎がある辺りに運動場と、遠くに住む学生や先生用の寮があった。
誰にも咎められぬよう、静かに構内に入り、まだしっかりと植わっている柳の木肌に手を触れる。
「……美紀さんが、居なくなったの」
この柳の木の側で泣いていた、一族の一人である藍が、蘭の胸に顔を埋めてそう言ったのは、何時のことだっただろうか? 当時、まだ女学校だったこの学校の先生をしていた藍の為に、蘭はしばしばこの町に来、藍の為に着物や袴を幾つも縫った。藍がしばしば口にしていた『美紀さん』は、校費生として藍や他の先生方の世話をしていた女学生。一張羅の袴を心無い学生が破いたとかで途方に暮れていた美紀に、藍の為に縫っていた袴を渡したことを、蘭は鮮やかに思い出していた。親に死に別れ、学業の途中で親戚の世話でこの町に住む男性に嫁ぎ、女の子も産まれて幸せに暮らしていたはずなのに、ある夏の日に突然、消息を絶ってしまったことも。
「留ノ川の主に、見初められた」
美紀が消えた理由について、そのような噂がまことしやかに囁かれていたことも、覚えている。あんなに、幸せそうだったのに。泣きながら呟かれた、藍の、哀しげな言葉の響きも。そして、小さな幸せを掴んだ少女をさらったものに対する、藍の怒りの感情をも、蘭はようやく思い出した。
美紀という少女は、本当に、幸せだったのだろうか? 答えの出ない質問を、柳の老木に対して発する。人の幸福や不幸は、共感能力に乏しい蘭には分からない。それでも、あの少女の短い人生を、少女が納得していればそれで良いのではないか? らしくなく、蘭はそんなことを考えていた。……もしも、納得していなければ、その時は?
と。
「蘭!」
聞き知った声が、蘭の思考を中断させる。顔を上げると、おそらく掃除中なのだろう、長い箒の柄を持った尤の黄金色の髪が、煉瓦造りの建物の二階の窓で揺れているのが見えた。
「亜紀の袴、持ってきてくれたの!」
驚きを含んで聞こえる尤の声に、口の端を上げる。自分のことすらどうにもならないのに、他の人の人生にどうこう言う資格は無い。尤の髪の色にしろ、幸が母を慕う気持ちにしろ、それは、彼女達自身が折り合いをつけること。そこまで考え終えてから、蘭はもう一度、尤に対して微笑んだ。