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全てに降る

 累の運転するワゴン車から降りるなり、暑く湿った空気が蘭をもわっと包んでくる。町中より山間の方が暑いって、どういうことなの。誰にも分からないように小声で、蘭はそっと毒突いた。空はからりと晴れ上がっているが、湿気があるということは、おそらく雨が近いのだろう。

「こら、幸!」

 累の強い声で、我に返る。

「また犬小屋に入り込んで!」

 叱る累の声の向こうに、庭先にある小さな犬小屋からもそもそと出てきた幸の、土色に汚れた顔に、蘭は思わず口の端を上げた。

「お土産持ってきたよ、こう」

 その幸に、『谷』の発音で呼びかけてから、手縫いの肩掛け鞄から大きめの、丈夫に縫った布鞄を出して見せる。

「画材入れて持ち運ぶ用の鞄が欲しいって前言ってた」

「さち!」

 累に叱られて気が立っていたのか、それとも『谷』の発音で自分の名を呼ぶ蘭が気に入らなかったのか、幸は蘭に向かってむくれてみせるなり、幸と似たような格好で犬小屋から這い出した、ほっそりとした足を持つ大柄な犬の側に腰を下ろした。

「全く」

 蘭の後ろで、車から荷物を下ろしていた累の声が聞こえてくる。

「幸ったら最近ずうっとああなのよ。ずっとあの犬の側から離れないの」

 大柄な犬を庇うように撫でている幸を横目で見てから、累に続いて農場の母屋に入る。減農薬の自然栽培を目指し、志を同じくする仲間と共に累が立ち上げた農場は、累の妹である寧が経営する町中の手芸喫茶と同じ『咲良』という名前が付いている。少し乱雑とした母屋に漂う、様々な匂いに、蘭はほっと息を吐いた。堆肥の匂い、夏草の匂い、染料の匂い、炎の匂い。全て『谷』と同じだ。車に関する匂いだけは、『谷』には無いが。

「あ、蘭」

 累が淹れた、薬草を煮出して冷ましたお茶を飲む間もなく、この農場で染色と機織りを試行錯誤しながら行っている女性が、蘭の側に現れる。

「丁度良いところに。色が上手く出ないから、教えてくれる?」

「良いわ」

 千年以上生きていれば、日常生活以上の知識は嫌でも身に付く。染色も機織もだが、農場に関することの殆どに関しては、蘭の知識はこの農場にいる誰にも負けない、と思う。その、『能力』以外の能力を買われることを、蘭は何処かくすぐったく感じていた。

 と。立って足を動かした拍子に、足下に転がっていたスケッチブックを軽く蹴ってしまう。開いたスケッチブックに見えた、青黒い色に、蘭の背は一瞬だけ冷たくなった。この、禍々しい色は。

「それ、幸のスケッチブック」

 スケッチブックを拾い上げた蘭に、累の声が響く。

「晴れの日が続いているのに雨の絵ばっかり描いてるのよ、あの子」

 もしかしたら。……いや。閃いた単語を、首を横に振って追い払う。晴れの中に雨を予測することは、千年生きている蘭でもある程度はできる。『予知』の能力は、そんなちゃちなものでは、無いはずだ。蘭はもう一度首を横に振ると、スケッチブックを床に戻し、離れにあるという機織り部屋へと向かった。

 だが。

「ダメっ!」

 離れに足を掛けた瞬間、蘭の耳に響いたのは、幸の悲鳴。振り向くと、庭から田畑の方へ飛び出した大柄な犬と、それを追いかける幸の姿が見えた。

「そっちはダメっ!」

 耳に響く幸の高い声に悲痛さを感じ、幸の後を追う。田畑の外れを流れる、自然のままの小川の川原で、蘭は犬の首輪に小さな手を掛けて川から引き戻そうとする幸に追いついた。

「幸!」

 首を振る犬に振り回されるように水の中に尻餅をついた幸を、抱き上げる。水嵩が少なくて良かった。蘭の足首より下にある水面に、蘭はほっと息を吐いた。しかし幸の服はびしょびしょだ。暴れる幸を両腕で無理矢理抑え込むと、蘭は幸と共に川原から一段高くなった畑の方へ上がった。次の瞬間。不意に変わったせせらぎの音に、はっとして振り向く。まだ小川に残っていた犬の身体が、一瞬にして水嵩が増した川に飲み込まれる様が、蘭の視界に映った。

「やっ!」

 言葉にならない声を発し、蘭の腕の中でがむしゃらに暴れる幸を、何とか抑え込む。暴れる幸の手足が蘭の胸と腹に次々と当たり、蘭は呻くのをかろうじて堪えた。

 ゆっくりと、暴れる幸を農場の母屋の方へと運ぶ。暴れるのを止めた幸が流す涙が蘭の胸を濡らすのを、蘭は虚しさと共に感じていた。幸は、あの犬に降りかかる不幸を感じていた。だから幸は、犬小屋から離れず、小川に降りた犬を助けようとした。……助けることは、できなかったけれど。

 幸は、間違いなく、『予知』の能力者。『谷』が必要としている者。降り始めた雨の中、泣きじゃくる幸を、蘭はいつしか強く、抱き締めていた。

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