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水音を聞きながら

 急に鋭くなった、雨の音に、はっと顔を上げる。手にしていたはずの針が座っていた畳の床に転がっているのを見て、蘭はくすりと笑った。どうやら裁縫をしながらうとうとしていたらしい。我ながら器用だ。鈍く光る針を拾いながら、蘭はもう一度笑った。

「眠くないですか?」

 タイミング良く、白い手が蘭の方にお茶を差し出す。

「ごめんなさいねぇ。こんな夜遅くまで仕事させてしまって」

 縫い掛けの、花筏が一面に散った柄の布を膝の上に置いてから、蘭は小ぶりな湯飲みを受け取り、その中に入っていた冷たい飲み物を一気に飲み干した。

「いえいえ」

 ここ数日、蘭は、喫茶『咲良』の閉店後に、『咲良』のはす向かいにある呉服屋で浴衣を縫う手伝いをしていた。去年まで浴衣を縫っていたこの家の女主人が加齢による病で入院中である為、顧客に頼まれた浴衣を縫うことができなくなったのが、その理由。蘭にお茶を手渡した、この家の主婦は、店の切り盛りや家族の世話で忙しい。歴史地区にある商店街の寄り合いで主婦の苦境を知った寧に半ば命じられるように、蘭は浴衣を縫っていた。

 これまでも、この国の着物はたくさん縫っている。家族の世話をする為に台所の方へと戻って行った主婦の背が見えなくなってから再び布と針を手に取り、ふっと息を吐く。しかし衽を付けたり脇を縫ったり八ツ口を作ったりしなければならない着物はどう頑張っても面倒だとしか思えない。蘭がいつも着ている、『谷』の衣装でもある直垂は衽も無いし脇も縫う必要が無い。こっちの方が縫うのに楽なんだけどなぁ。誰にも分からない部分で、蘭は一人息を吐いた。しかし文句ばかり言っていても浴衣が完成するわけではない。もうひと頑張りしますか。格子窓の向こうから聞こえてくる、鋭さが和らいだ雨の音に、蘭はぐっと背伸びをし、そして再び布に向き合った。

 この国の昔からの衣装であるらしい『着物』も『和服』も、日常で見掛けなくなって久しい。だが、それでも、夏の祭りの時には浴衣を着る人が最近多くなっているらしい。蘭が手伝いに行くことを渋ったとき、寧は静かにそう言った。この町でも、近くを流れる留ノ川沿いで行われる六月末のお祓いの行事と八月の花火大会には、多くの女性が浴衣を着、川沿いをそぞろ歩くそうだ。

「本当は、祭りの時でも女性にはあまり川の近くに行って欲しくないんだけどね。特に、着物を着ている時には」

 蘭が承諾の返事を渋々した後で、小さく呟かれた寧の言葉が、再び耳に響く。何故? そう聞いた蘭に、寧はやはり小さく、答えた。

「川の主にさらわれる。そういう言い伝えがあるの」

 町の西側を流れる川、留ノ川には昔から、竜に似た川の主が住み着いているという伝説がある。しばしば氾濫を起こしていた川は毎年少女の生け贄を要求していたが、ある時、通りがかった武人が生け贄の少女に心引かれる形で川の主を退治したという話が、土地の神を祭る社で舞われる神事の一部となっていることは、蘭も知っていた。だから。

「昔の話でしょ?」

 そう言って、寧の心配を一笑に付す。伝説には真実が含まれているが、それならば尚更、心配する必要は、無い。伝説上では悪者が退治されているのだから。だが。

「今でも時々、女の人が川の近くで行方不明になるの」

 行方不明になった女性の殆どは、着物姿だった。何十年も前の事件を幾つも例に挙げて話す、何時になく真剣な寧の言葉に、蘭はらしくなく押し黙った。『谷』の一族は、必ず一つ以上の能力を持って生まれてくる。寧の能力は「美味しいアップルパイを作る」だと蘭は思っていたのだが、寧ろ記憶力の方が、寧に与えられた能力なのだろう。寧がその能力を生かしているのかどうかは蘭には分からないが、寧はこの、歴史地区として名を残す為に昔ながらの街並みを、建物に関する決まり事を細かく作り、人々が協力を惜しまないことによって丁寧に守り続けている町中で喫茶店を開き、そしてこの町に溶け込んでいる。『能力』が故に虐げられたという過去の共同記憶の所為なのか、何処か虚無的かつ排他的な傾向がある『谷』の一族の人間にしては、珍しい。その点で、蘭は寧を高く評価していた。

 それはともかく。六月末の祭りに浴衣が必要ならば、早く仕上げてしまわなければ。梅雨の長雨らしく、静かになった外の音を確認しながら、針を動かす手を早める。

 尤は、浴衣を着るだろうか? 寧の言葉を脇に置いて針を動かしながら、蘭がふと思い浮かべたのは、『咲良』を手伝っている一族の少女の、少し生意気にも見える金茶色に染めた髪。レースやリボンやフリルのたくさん付いた服を好む尤だから、古風な着物は「着ない」で終わるだろう。いや、襟元にレースをあしらったら、興味を持つだろうか? 自分を捨てた母を探す為に『咲良』の二階で飽かず外を眺めている幸の方は? 子供扱いするなと怒られそうだが、意外に、可愛らしい花柄の浴衣が似合うかもしれない。金魚か兎を模した巾着を手に、子供らしく明るく笑ったら、本当に可愛らしく見えるだろう。そこまで考えて、蘭は心の中で爆笑した。普段は大人しく、蘭がからかうと不機嫌になり、ふとしたときに僅かに微笑むのが、幸。母を探すことを忘れ、屈託無く今の幸せを享受して欲しいと思うのは蘭の勝手だが、蘭の考えを押しつけるのは良くない。それでも、からかいを兼ねて、幸に花柄の浴衣を勧めてみようかしら。できあがった、川面を思わせるような柄の浴衣を眺めながら、蘭は静かに、笑った。

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