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雨と雪との境

 初めて開けた、格子戸の向こうは、予想に反して明るく広い空間になっていた。

「いらっしゃいませ」

 格子戸から三歩ほど先にある、ガラス張りのショーケースを兼ねたレジ台の向こうに居る背の高い女性が、有希を見て優しげに微笑むのが、見える。瞳だけで辺りを見回すと、この場所が飲食を提供する『喫茶店』であることはすぐに分かった。勢いで格子戸を開けてしまったとは、さすがに言えない。ここが喫茶店であったことすら、知らなかった。それでも、有希は唇を噛んで覚悟を決めると、店の中へ一歩入った。

「メニューはこちらになります」

 自動的に、それでも静かにゆっくりと閉まる扉を背に感じながら、フリルの付いた華やかで清潔に見えるエプロンを身に着けた、同年代だと推測できる薄茶色の髪をした少女から一枚の紙を受け取る。少し茶色っぽく見えるその紙には、この喫茶店で提供されているのであろう飲み物と食べ物の名前が、手書き風の読みやすい文字で書かれていた。

「ねえ、今日はどれにする?」

 顔を上げると、ガラス張りのショーケースの前で二人の少女が何を頼むか迷っているのが見える。セーラー服の有希とは違う、灰色のブレザーにチェックのプリーツスカートを穿いているから、川向こうにある大学の附属校ではなく、この近くにある総合学科の高校の生徒だろう。

「今日も和風のセットにしようかなぁ」

「私もそれにする」

 ここの餡、甘さがしつこくなくて美味しいんだよね。少女達の言葉に、改めて手の中のメニューを見る。食べ物と飲み物の下に、『本日のお菓子』と『お好きな飲み物』をセットにした『和風セット』と『洋風セット』があるということが書かれている。両方とも、ワンコイン。有希のお小遣いで十分、注文は可能だ。そっと、少女達の後ろから、ガラス張りのショーケースの中を見る。アップルパイとチーズケーキ、そして様々な色をした焼き菓子の横に、仄かに赤色が見える苺大福と茶色の皮に包まれた小さな饅頭が見える。洋風菓子と和風菓子が一緒に並んでいる光景は、変わっているように見えて何故か違和感が無い。どうしてだろう? 有希はそっと首を傾げた。

 レジの前には、件の二人組の少女の他に、おそらく大学院生だろう、難しそうな本を手にした落ち着いた感じのする青年が並んでいる。少し時間が掛かりそうだな。レジの向こうの、若者で賑わっているテーブル席を眺めてから、有希はレジ横の壁の方へと目を動かした。漆喰の壁の一部に木の板を張り付けた壁には、幾枚かの緑豊かな写真と、手作りらしい可愛い布小物が幾つか貼り付けてある。写真の下のポップに「喫茶『 咲良さくら』のお菓子の原料は、減農薬・無農薬を目指す農場『咲良』で作られています」と書かれているから、これらの写真は農場の風景を写したものなのだろう。そして、布小物の方は、この歴史地区にある喫茶店の、外に向かった少しレトロな飾り窓に飾られているものと同じだ。「手縫い袋物、布小物、受注制作いたします」と小物の下のポップに書かれているから、この小物も、有希が学校の行き帰りに立ち止まって眺めている飾り窓の小物や縫いぐるみも、ここで作っている物品なのだろう。

「次の方どうぞ」

 少し低めの女性の言葉に、はっとしてレジの方を見る。少女二人も、青年も、既に注文を終えたらしく、レジの前には有希の姿しか無かった。

「こちらでお召し上がりですか?」

「は、はい」

 和風のセットをお願いします。震える声でそう言ってから、もう一度、レジの奥にあるテーブル席の方を見る。ガラス張りのショーケースと木製のカウンター席で囲まれた中に、コーヒーなどを準備するミニキッチンが見える。その四角く囲まれた空間の向こうにテーブル席があるのだが、有希が居る場所から見る限り、カウンター席もテーブル席も、様々な年齢の人々で埋まっているようだ。外からしか見たことが無かったが、この喫茶店は結構流行っているようだ。あるいは、ここに居る人たちは皆、喫茶店の外で降りしきる冷たい雪に似た雨を、この温かい場所でやり過ごそうとしているのかもしれない。

「席が、空いていないようですね」

 レジの向こうに居る背の高い女性が、テーブル席の方を見てから有希の方を向く。

「二階がありますから、そちらでゆっくりしてください」

 女性にそう言われて初めて、有希は、先程入ってきた格子戸のすぐ横に、上へと続く木製の階段があることに気が付いた。

「和風のセットは、用意ができましたら係の者がお持ちします」

 女性に促されるように、階段を上る。足音一つ響かない階段を上がっていくと、テーブル席の喧騒はすっと無くなり、ふわりと明るい空間が有希の前に広がった。

 目を丸くして、上階にあった空間を見渡す。歴史地区の石畳の道路から見えていた虫籠窓が、外の冬の光を吸収して明るく光っているように見える。虫籠窓の下には小さなテーブルと椅子が、そして窓から離れたところには、被服室で見るような大きな作業台が見える。窓以外の壁には細々とした物を仕舞うことができるような引き出しと、布が入った籠の入ったロッカーが設えられている。そして、作業台の更に奥、ミシンが置かれた机の側に居たのは。

「こんにちは」

 黒髪をおかっぱにした、有希よりも少し年下くらいに見える少女が、有希を見てにこりと笑う。立ち上がったその少女は、白色の着物と緋色の袴の上に、袴よりも濃い緋色の、被って着るエプロンのようなものを身に着けていた。

「えっと、……注文したもの、もうすぐ来ると思うので、座っていてください」

 そう言いながら、少女は部屋の奥にあるミニキッチンから持って来た、綺麗に光るガラスの水差しとコップを小さなテーブルの上に置き、コップに水を注いでから有希に会釈をした。その会釈の感じといい、着ている物といい、少女は、有希より年下に見えて、しかし何故か有希よりもずっと年上に思えてしまう。心に浮かんだその思考が奇異に思え、有希は少女から目を逸らし、微かにミントの味がするコップの水を飲み干した。

「どうぞ」

 その有希の前に、木製の四角い盆が差し出される。盆の上に乗っていたのは、ガラス張りのショーケースの中で見た大ぶりの苺大福が二つと、大きめの湯飲みに入った湯気の立つ緑茶。これが、『和風セット』の内容なのだろう。そして。盆の上に乗っていた第三の物に、有希は思わずわっと叫んだ。

「これ」

 有希の目の前にあったのは、小さな黄色いうさぎの縫いぐるみ。喫茶店の飾り窓に飾られていたのと同じもの。朝夕、最寄り駅から川向こうにある理系大学の附属中等学校までの通学路の途中にある、歴史地区の通りの真ん中に位置するこの喫茶店で、一歩だけ立ち止まって見ていたもの。その縫いぐるみが、今朝は有ったのに夕方通りかかった時には無くなっていた。そのことに衝撃を覚えるまま、有希は普段は通り過ぎる格子戸を開けてしまったのだ。

「どうして……」

 ゆっくりと、有希の側で微笑みを浮かべている少女に尋ねる。

「ここから、見えてた」

 虫籠窓を指差し、そう言ってから、少女は有希が持っていたグレーの傘を指差した。

「その傘が、少しだけ留まるのが」

 有希の目の前にある縫いぐるみは、この喫茶店の主人、寧が、午前中に、飾り窓の縫いぐるみを欲しがった子供にその縫いぐるみをあげてしまうところを見た少女が、放課後までにと急いで作った物。超特急で作ったから、多少は歪んでいるかもしれないけど。そう言った少女に、有希は泣きそうになりながら微笑み、手の中の縫いぐるみを少女へ返した。

「要らないの?」

 目を丸くした少女に、泣きそうな気持ちのまま首を横に振る。縫いぐるみは、嬉しい。だが、持って帰れば、いつか母に捨てられることは、明白。

 幼い頃、有希には大切にしていた縫いぐるみがあった。うさぎなのに黄色のボア生地で作られていた縫いぐるみを有希は大切にしていたが、その縫いぐるみを母は、有希に黙って捨ててしまった。

「汚れてしまっていたし、もう縫いぐるみで遊ぶ歳ではないでしょう」

 泣いて抗議した有希に、母は冷たくそう言った。その母が居るあの家へ、この縫いぐるみを持って帰っても。諦めにも似たその思いが、有希の首を横に振らせていた。

 あと一年と少し。それだけ経てば、遠くの大学に行くことができる。その時に、あの飾り窓の柔らかな縫いぐるみを、昔大切にしていた物に似ている、黄色のうさぎの縫いぐるみを、譲ってもらおう。そう思いながら、毎朝毎夕、有希は飾り窓の縫いぐるみを見ていた。そう、今はまだ、この縫いぐるみをもらうには早過ぎる。

「分かったわ」

 柔らかな縫いぐるみを受け取った少女が、有希に向かって優しく微笑む。

「じゃあ、あなたが良いと思った時に、引き取りに来て。それまで預かっておくから」

 優しく、そして暖かな少女の言葉に、頬に涙が流れるのを感じる。有希は乱暴に涙を拭くと、少女に向かってこくんと、頷いた。

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