第一章 清原伸茂(きよはらのぶしげ)
あれは妹の小学校卒祝いで、家族である有名な遊園地に泊りがけで行った時のことだった。中学生にもなってなんで家族旅行なんか行かなくちゃならないんだと、毒づきながらも俺はついていった。かわいい妹の卒業祝いだと我慢して。
妹がジェットコースターに乗りたいと言った時には、俺は散々わがままに付き合った後でくたくただった。それに、乗り物酔いしやすいのに無理やり乗らされ、思いっきり回されたコーヒーカップのせいで気持ち悪くなっており、とてもジェットコースターなど乗れる状態ではなかった。
「お兄ちゃんは具合が悪いみたいだから、今度はお母さんたちと行きましょう。少しはお兄ちゃんを休ませてあげなくちゃ。戻ってきたら次はお兄ちゃんと乗りに行けばいいでしょう。」
そう言って、駄々をこねる妹を両親が連れて行った。
そして、次は来なかった。
俺の目の前で家族の乗ったコースターが脱線し、墜落した。
なんであの時自分も一緒に行かなかったのか。自分もあそこに乗っていればよかったと、何度考えたか分からい。それ以来、遊園地に関するものがダメになった。最近は話題にあがる程度は平気になったが、それでもやはり気分が悪くなる。我慢ができるというだけできっとこれから先も遊園地にはもう行けない。行く必要も感じないが。
あの事故以来、俺は親戚の家を転々とした。肉親を失った彼らは、唯一生き残った俺が許せなかったらしい。延々と呪詛の言葉を聞き続けたり、無視を決め込まれたり、その他色々といわゆる虐待というものをどの家庭でも受けたが、自分自身そうされても仕方がないと思っていたから平気だった。むしろそうされることを望んですらいた。自分が一番自分を許せなかった。自分を誰かに罰してほしかった。むしろ殺してほしかった。自殺する勇気もないくせに死を望んでいた。自分に怒っている誰かが自分を殺してくれないかなんて、そんなことばかり考えていた。
そんなある日、祖母に引き取られた。祖母との生活はあまりに安穏とした暮らしで戸惑った。祖母は俺が罰せられることは正しくないと言っていた。俺の生活はおかしいのだと、あの生活を受け入れることは間違っていると言っていた。自分を責めるのではなくちゃんと悲しんであげなさい。そうしないとお父さんやお母さん、妹がかわいそうだと言っていた。意味は解らなかったが胸が暖かくなるのを感じた。
そんな祖母との生活に慣れたころ祖母は他界し、俺はまた別の親戚に引き取られた。
その親戚は良くも悪くも俺自身には興味がない様子だった。ただ親切な自分達をアピールしたいがために引き取られたようなものだった。問題を起こさないこと、いい成績をとることだけを強く言い聞かされ、ただ従順にそれに従っていた。
受験が近くなったある日、県内でも有名な進学校に進む様に言われた。正直、自分の頭でその学校に受かることは厳しかったが、必死に、それこそ死に物狂いで勉強し、何とか合格して無事高校生になった。
こうして親戚は、かわいそうな子を引き取って手厚く充分に手をかけて育て有名進学校に進学させたという、自慢できるトロフィーを手に入れた。
努力して入学した高校での生活は充実したものだったが、それも長くは続かなかった。
その家の長男が同じ高校に受験で落ちたことから、急に暴言や暴力を受ける様になり、日々当たりが厳しくなった。そして気が付くと、家を出て行かなくてはいけない状況にされていた。あることないことが風潮され、気が付くと俺が長男をいじめてノイローゼに追い込み、そのせいで受験に失敗したことになっていた。おかげで近所のおせっかいな人たちから、恩知らずと罵倒されることもしばしばだった。
どう考えてもおかしい状況だったが俺はそれを受け入れていた。仕方がないことだと思っていた。あんなに努力してせっかく入学できた高校だが中退しなくてはいけないのかもれない。特待生で通っている為成績を落とさなければ学費は免除だが、それ以前に生活が出来ないのであればしかたがない。今時、中卒で雇ってくれる会社はあるのだろうか。そんなことを考えて途方に暮れた。
ただ途方に暮れていた自分と違って、担任が静かに怒って動いていた。「お前はそれでいいのか。」そんなことを言われたが、自分がどうしたいのか解らなかった。よくはないと思うが、だからと言って現状に逆らって何かしようとは、あがこうとは思えなかった。何故担任がそんなに必死になってくれるのか全く理解できなかった。
そんなある日、役所から俺の身元を引き受けてくれるという遠縁の親戚が現れたとの連絡を受けた。事故の際に支払われた慰謝料や保険金で多額にあったはずの金はとっくに使いこまれ、今の俺には何もない。一体なんの得があって引き取るのだろう。ついそんなことを考えてしまう自分はすっかり擦れてしまっていると思った。
役所の人の話によると、その遠縁の親戚はとても高齢な女性で一人暮らしをしているという。介護でも必要になって白羽の矢をたてたという事だろうか。それにしても説明している時の役所の人がとても困惑した顔で資料を見ていたことが気になった。
そして高校二年生の一学期が始まってすぐというなんとも中途半端な時期に、役所の人に連れられてその家に足を運ぶこととなった。荷物は少なく、学校用具と私服が数枚、あとは毎日使う日用品程度だったので、役所の人が車に乗せて一緒に運んでくれた。
その家は今時珍しい平屋の日本家屋で、手入れが行き届いている様子だった。老婆の一人暮らしでこんなにも手入れが出来るものなのだろうか。定期的に業者でも入れているのだろうか。そんなことを考え、どちらにせよ結構な金持ちなんだなと思った。
呼び鈴を鳴らすと遠くで返事が聞こえ、パタパタと走ってくる音が聞こえた。引き戸を開けて出てきたのは、自分と年が変わらないくらいのかわいい女の子だった。今時珍しく、髪も真っ黒で化粧っ気も全くない。それでも充分学校の女子よりかわいいと思った。
この家の孫だろうか。しかし老女の一人暮らしだと聞いている。隣にいる役所の人も戸惑っている様子だった。
とりあえず引き取り手の老女がどこにいるのか聞いてみる。
「わたしがその婆さんだけど。」
女の子は心底意味が解らないという顔をして答えた。
「ふざけんな。どっからどう見てもあんた俺と年変わんないだろ。どんなに童顔だとしても婆さんなわけあるか。嘘つくんじゃねえ。」
思わず叫んでいた。
女の子は腑に落ちないという顔をしながらも、俺をなだめ家の中へ案内した。
役所の人が書類や身分証を確認し、ずいぶん若く見えますね、と苦笑いしていた。ずいぶん若く見えるとかそういうレベルじゃないだろと思いながらも、俺は黙って手続きの様子を見ていた。
しかし何回見ても、どっからどう見ても、老女には見えない。肌は白くてぴちぴちだし、皺もない。髪の毛も染めているようには見えないつややかな黒髪をしている。声も若く年を感じさせるようなものではない。
ジロジロと見てしまい、胸でかいなとか、ついそういうところを見てしまう自分がいて、嫌になった。これと二人暮らしって色々と問題があるんじゃないのか。またそんなことを考えてしまって表情に出ないように力を入れていた。
手続きが終わると女の子は清原沙依だと自己紹介をし、自分のことはお母さんって呼んでいいよとふざけたことを言った。拒否すると、少し落ち込んで、やっぱお母さんはないよね。と言っていた。当たり前だ、誰が自分と同い年くらいに見える初対面の女の子をお母さんなどと呼べるか。そう思ったが、じゃあおばあちゃんって呼んで、と全くこちらの意図を理解せず笑ってくる顔に無性に腹が立って、思わずふざけるなと叫んでいた。最終的に彼女のことは沙依と呼び捨てにすることで落ち着き、彼女は俺のことを伸君と呼ぶようになった。
いろんな意味で疲れたせいか余計なことを考えることもなくその日は熟睡することができた。
朝起きると沙依が朝食の支度をしており、とても不思議な感覚に襲われた。お弁当を玄関に用意しておいたから持っていくようにと言われなんとも言えない気持ちになった。
支度を整えて玄関に行くと弁当は見当たらなかった。何やら大きな包みが置いてあるが、さすがにこれは弁当じゃないだろう。置いたつもりで忘れてしまったのだろうか。さすがに嫌がらせではないと信じたい。家事をしている沙依に声を掛けるのもはばかられたので、そのまま何も持たず登校した。
三限目も終わり、今日の昼食はどうしようかと考えているとクラスメートから呼ばれた。
「おい、伸茂。凄くかわいい子がお前のこと呼んでるぞ。」
すごくかわいい子の知り合いに心当たりはないが、誰だろう。そんなことを考えながら廊下へ行くと沙依が立っていた。朝の巨大な包みを抱えてにこにこしている。なんでここにいるんだと思ったが、沙依の発した言葉で少し頭の中が真っ白になった。
「お弁当忘れて行ってたから届けに来たよ。」
笑顔が眩しい。
「それが弁当だったのか。そもそも、一人分の量なのかそれは。食えるわけないだろ。ふざけるな。」
思わず口をついて出てしまった。しまったと思ったが、沙依は俺に受けた暴言より、一人でこの量が食べられないということの方に何故かショックを受けている様子だった。いったい誰を基準にしたらこんなバカみたいな量が一人前一食分だと勘違いするのだろうか。沙依は持って帰ると言ったが、せっかくなので受け取ることにした。食べきれなかったら誰かに分ければいい話だ。
そんなやり取りをしていると担任の忠次がやってきた。次の授業は化学ではではなかったはずだが何か忘れものでもしたのだろうか。そう思っていると沙依を見咎め声を掛けてきた。事情を説明しようとしたが、その前に沙依の顔を見て忠次が固まった。そして沙依にここの生徒じゃないことを確認すると、沙依がアワアワ事情を説明するのをじっと見つめていた。忠次の視線は見ていたのではなく、完全に見つめていた。凄く嫌な感じがした。
そういえば沙依の見た目は常日頃からこの変態が言っている好みのタイプに合致しているような気がする。これはなんかやばいのではないだろうか。よくわからないが脳裡に警鐘が鳴っていた。
担任の政木忠次は十三歳で博士課程を修了した天才だった。しかし、十五歳でこの高校に着任し教鞭をとって十年。こいつが天才だったということも世間では忘れられているのではないだろうかと思う。しかし現在でもこの高校内では新入生すら知らない生徒はいないほど有名な教師だった。残念なことに変態としてだが。
まずこいつは学年始まって最初の新学期、先生紹介の挨拶でなぜか自分の好みの女性像を語り彼女募集中を掲げる。その奇行が許されていることも謎だが、その壇上に上がっている数分間で新入生全員を把握している。顔名前は事前の資料で頭に入っておりここで実際の本人を把握するのだ。その時に校則違反があれば一発でバレる。いったいどんな視力と記憶力してるんだ。才能の無駄遣いだろとも思う。それだけならいいがもっぱらその挨拶中に自分の好みの女生徒がいないか物色しているという噂だ。噂なだけで実際に生徒に手を出したという話を聞かないから噂なだけかもしれないが。でも単純に合致する生徒がいなかっただけかもしれないし。
こうしてちゃんと思い出してみると沙依の見た目は忠次の演説の内容に合致する。小柄で黒髪ロング、化粧っ気もない、色白、黒目がちな大きな目、厚目の唇、そして巨乳。さっきから沙依に注がれている忠次の視線にもなにか危険なものを感じる気がする。沙依を引き離して帰そうと思ったその時、彼女は忠次に連れられて行ってしまった。
四時限目は集中できなかった。まさか校内で変なことはしないとは思うが連れていかれた沙依は無事なのだろうか。どうしても変な想像ばかりしてしまう自分がいた。
昼休みに戻ってきた沙依は何故かうちの制服を着ていた。本人はなんかはしゃいでいる様子だったが、いいのかそれで。そしてその横で忠次が満足そうな顔をしていた。
昼食はなぜか沙依の作った弁当を俺と忠次と沙依の三人で囲んでいた。おいしかったがものすごい違和感がして仕方がなかった。やはり量が多く、三人でも食べきれるのかと不安に思っていたが、忠次が七割がた食べ、きれいになくなってしまった。忠次はそれでもまだ余裕がある様子で、この男ならあの弁当を一人で食べきれるのではないかと思えた。
そして昼休みも終わると、なぜか沙依が午後の授業を受けていた。忠次が教科書まで用意しており、本人も授業を受ける気満々な様子で、あっという間に席が用意されていた。
「わたしの子供のころは義務教育なんてなかったから学校に通ったことなくて。ちょっと興味があったんだ。」
と恥ずかしそうに笑う姿を見て、義務教育を受けていない人間が高校の、しかも進学校の授業についていけるのだろうかと心配になった。しかし、全く心配はいらなかった。沙依は違和感なく教室に溶け込んでいた。授業内容も理解できている様子で、積極的に参加しとても楽しそうにしていた。教師の方が最初少し戸惑っている様子だったが、授業が終わるころにはどの教師も嬉しそうにしていた。
そして全授業が終わり、ホームルームが終わると、信じられないことが起きた。
忠次が沙依の手を取って告白していた。教室の真ん中で。まだ生徒が残っているのに。バカじゃないのか。断った沙依に忠次が食い下がっていた。
「いや、わたしあなたよりだいぶ年上ですよ。」
沙依の返答もどこかずれているような気がする。
「年なんて関係ありません。」
「今日初めてお会いしたばかりですし。」
「恋に時間は関係ありません。」
「お互いどんな人なのかよく知らないじゃないですか。」
「なら、今から知ってください。私が貴女を好きだという事前提で。」
「いや。あの。その。」
「では、とりあえずお友達から始めましょうか。私をよく知ってもらって、返事はその後でかまいませんよ。」
これは沙依が押し負けたのだろうか。言いたいことを言うだけ言って、忠次は教室を去っていった。
次の日から、俺は何故か沙依と一緒に登校していた。前日の忠次の奇行が噂になっていたこともあるが、沙依ほどの美少女と一緒に登校したことでクラスメートからからかわれ、紹介しろと迫られ、とても騒がしかった。周りには沙依のことは従妹ということにしておいた。本人がその設定を無視するが、周りからは不思議ちゃんという認識で受け入れられていた。
沙依が登校を開始して二日目の休み時間に、忠次に呼び出された。
「沙依さんには何か苦手なことはないのか。」
何かと思ったらそんなどうでもいいことを聞かれた。そんなこと本人に聞けよと思う。沙依の苦手なことなんて俺の方が知りたいぐらいだ。勉強だけではない。沙依は運動神経も恐ろしくよかった。何もしてなくてあのスペックは本当にうらやましい。あいつは義務教育すら受けていないと言っていたが、この学校の授業に平気でついてくるとか、どんな出来のいい頭してんだよと思う。自分なんて必死に勉強して入学、今も毎日予習と復習を欠かさずして何とか成績を維持している。この学校の奨学金制度に部活動への参加が必須でなかったら部活なんてしないで勉強したいくらいだ。それくらい最近は成績を維持することが厳しくなってきているというのに。そんな俺の思いは関係なしに忠次は、もし分からないことがあったら手取り足取り教えようと思ってたのにと、悔しがっていた。担任のその様子を見ると、沙依が優秀でよかったのかもしれないと思った。
しかし、その日の四時限目の授業で、沙依の苦手なものが判明した。珍しくおとなしくしてるなと思ったら、全く授業が分からなかったらしい。教科書も読めないしどうしようかと思ったと沙依は困った顔で笑っていた。それを聞いて忠次がやけにテンションを上げていた。沙依を家に連れ込もうとしていたので、阻止する。やはりこの男と一緒にいさせては危険な気がするが、放課後教室で補習を行うことで落ち着いた。まあ校内なら、変なことはされないだろう。
なんか、気がついたら俺が沙依の保護者のような感覚になっていた。なんでこんなにこいつは無防備なんだろう。心配になる。もし妹が生きていたら、こんな感じだったのだろうか。そんなことが自然に頭に浮かんで、不思議な気持ちになった。普通に家族のことを思い出したのはとても久しぶりな気がする。
「そういえば、家に外国語の本沢山なかったか?」
ふと疑問に思って口にした。
「あれは勢三郎が仕事で使ってたものだから、わたしには分からないよ。」
勢三郎って誰だ。そんな俺の疑問とは関係なく二人は会話を続けていた。沙依の旦那がどうとか、あの家がどうとか、昔はどうだったとか。全然話しについていくことができない。沙依に旦那がいたことも驚きだが、そもそもなんで忠次がそんなに詳しく沙依の身辺を知っているのだろうか。ストーカーなのか。気が付くと、思ったことを、そのまま口に出していたらしい。
「生徒と保護者の情報を把握しておくのは当たり前だろ。沙依さんのことはお前を引き取ることになった時点で調べてるし、本人に会ってから更に詳しく調べてる。俺にかかればこれくらいの調査は朝飯前だ。」
忠次はしれっとそんなことを言ってのけた。そう考えても情報把握の度が過ぎてるし犯罪だろと思った。沙依は仕事熱心なんですねと感心していたが、絶対に違うから感心しなくていいと思う。
それにしても沙依には旦那がいたのか。でも旦那を見たことはない。役所の人も一人暮らしだと言っていた。それに旦那がいるとしたら、忠次に告白されたときなんでそれを言わなかったのだろう。
「勢三郎はもう死んでるよ。」
ハッとして顔を上げると、沙依がこちらを見ていた。
「娘の静江ちゃんも。だから今、家族は伸君だけだよ。」
疑問が顔に出ていたのだろうか。沙依は俺の目を見て静かにそう言った。その顔がなぜか胸に刺さって心がざわめいた。
「俺はあんたの家族じゃない。」
心にもないことが口をついて出てしまった。俺のその言葉を聞いて、沙依は少し寂しそうな顔をして笑った。なんでこいつは笑うんだろう。なんでいつでも笑うんだろう。そう思って無性に腹が立った。たった数日。その短い間に何度ひどいことを言ったか分からない。自分が悪いことは分かっている。だけど、そんな俺のことを怒りも責めもせず笑っているこいつが、その笑顔が、とてもむかついて仕方なかった。
家に帰ると自分の部屋に引きこもり自問した。俺はこんな人間だったのだろうか。人を傷つけるようなことを簡単に口にするような、それでいて謝る事も出来ないような。そんな屑だったのかと思って情けなくなった。
この家に来てから調子がおかしい。感情がこんなに揺れることなんて今までなかった。そう思って気が付いた。この家に来てから俺は誰の顔を窺うこともしていない。変なプレッシャーも感じず自然体でいられていた。それはなぜか。それは沙依が俺に壁を作らず、普通に、自然体で接してくれていたからだった。本当に家族として受け入れてくれてたからだった。最初の日、朝食を作りながら話しかける沙依をみて何とも言えない気持ちになったのは、無くしたはずの日常がそこにあったからだった。
気が付くと涙が溢れていた。泣くのなんて、いつぶりだろう。今更、家族のことを想って泣いた。事故の時も、葬式の時も、出てこなかったのに。なんで今更出てくるんだろう。なんで止まらないんだろう。今まで箱の中にぎゅうぎゅうに押し込めていたものが箱を突き破って出てきてしまったような、そんな気分だった。でも嫌な気分ではなかった。そして俺の中で何かが変わった。
沙依が実際何歳だろうと、旦那や子供がいようとなんだろうと、どうあがいても母親にはみれないが、これからはちゃんと家族として大事にしよう。そう決めた。
沙依はあっという間に外国語の基礎知識を身に着け、一ヶ月もすると授業についてこれるようになっていた。沙依は、政木先生の教え方が上手だからだよと笑っていたが、本人の頭の出来が良いからだと思う。
放課後の補修が無くなると、忠次に促され沙依は部活を始めようか悩んでいた。とりあえず俺の所属している弓道部の見学に来たが、合わなかったのか入部はしなかった。
沙依が部活探しをしていると話題になると各部が獲得しようと連日沙依を勧誘していた。沙依の能力の高さは認めるがその騒動には正直驚いた。その話を部活の時に後輩に話すと何故か笑われた。
「だって先輩の従妹さん有名ですよ。美人で頭が良くて運動神経も抜群だって。そりゃ、どの部活も欲しがりますよ。」
部の後輩曰く、忠次の初日の告白劇のおかげで沙依は学内では知らないものがいないほど有名らしい。あの変態がついに本当に生徒に告白したと話題になり、相手はどんな奴だと興味を持たれ、あっという間に名が知れ渡ったそうだ。
「従妹さんが転校してきたとき凄かったんですから。うちのクラスでもしばらくその話題でもちきりでしたよ。」
有名人の従妹がいると大変ですねと後輩がからかってきたので、とりあえず頭を小突いておいた。
「先輩、変わりましたね。」
後輩の言葉に、戸惑った。
「今の先輩の方が、凄くいいと思いますよ。」
そう言って笑う顔が、なぜか沙依の顔と重なって心が揺れた。
結局、沙依は帰宅部になった。
沙依との生活がすっかり日常となったある日、帰宅すると忠次が家に上がりこんでいた。
「政木先生が買い出し手伝ってくれて、そのまま帰すのも悪いし夕食たべてってもらおうかと思って。」
沙依の能天気な発言に頭が痛くなった。下心があると分かり切ってる男を家に上げるとか、そもそも平気で車に乗り込むとか何考えてるんだ。なんかあったらどうするつもりだ。そう思うがそんなことを言ったところで、何故か忠次を信頼している沙依にはきっと理解されないだろうと思う。
最近気づいたことだが沙依は無条件に誰にでも心を開いているわけではなかった。誰に対しても無防備でいるわけではなかった。ちゃんと距離を置き、ちゃんと警戒し、必要以上に他人を自分に近寄らせない。 その証拠に他の生徒や教師とは普通の距離感で接している。どちらかというと壁を作っているようにさえ見える。意外なことに沙依は学校で親しい友達はいない。沙依が近づくことを許しているのは俺と忠次だけだった。
もしかして忠次とならそういう関係になってもいいと沙依は思っているのだろうか。しかしどんなに沙依の様子を見てもそんな雰囲気は感じられなかった。ただ俺と同じように、まるで一緒にいることが当たり前のように接していた。相手が担任という分か少し忠次に壁は作っているが、そうでなかったらきっと本当の家族の様に接しているのではないかと思う。そう考えて気が重くなった。沙依が自覚していない分とりあえず忠次を睨んでおいた。
それからしばしば忠次が夕食に現れるようになった。気が付くと沙依は忠次のことを政木先生ではなく忠次さんと名前で呼ぶようになっており、複雑な気持ちになった。その頃から家に帰って忠次がいると意味のない不快感に襲われるようになった。忠次が悪いやつではないことは分かっている。俺の家庭の事情などに配慮し各方面で助力してくれていたことも知っている。だけど、沙依と忠次が楽しそうに話をしているのを見ると胸が痛くなった。自分の居場所をとられる。そんな気がして不安になった。
そんなある日、部活帰りに忠次に呼び止められた。また沙依のことかと思って嫌気がしたがそうではなかった。
忠次に連れてこられたのは沙依の旦那の墓だった。
「俺のこと嫌いか?」
忠次が聞いてきた。こんなところに連れてきて急になにを言い出すんだか。全く意味が解らなかった。
「俺は今、教師として、お前の担任として間違ったことをしていることは解っている。沙依さんにどれだけ心を惹かれていても、アプローチすることはお前の卒業を待ってからすべきだったと解かっている。」
その台詞に思わずかっとなって忠次の胸倉を掴んでいた。
しかしされるがままになって困ったように笑う顔を見て力が抜けた。
「なんだよそれ。」
そんな言葉しか出てこなかった。
「沙依さんは本当にお前のことを自分の子供のように思っている。お前だって本当の家族のように思ってるんだろう。」
そう聞かれて何も返せなかった。
「夫婦でも、親、兄弟でもない。それでもお前と沙依さんは家族だよ。ちゃんと家族の絆がある。お互い家族として想いあってる。俺はそこには入れない。」
この男は何が言いたいのだろう。全く理解できなかった。
「沙依さんの家族はお前だ。自信を持てよ、自分が愛されているって。無条件に愛してもらえるなんて子供の特権だぞ。」
その言葉に怒りがこみあげてきた。こいつは俺の不安を分かっていたんだ。分かっていてそれでこんなこと。
「わかってて、なんで踏み込んでくるんだよ。俺の居場所を奪うような事すんだよ。なんで。お前ほんとバカなのか。」
叫んでいた。胸倉を掴んで揺すって、罵声を浴びせ続けた。忠次は何も反論しなかった。
「そうだな。本当にすまなかった。」
なんだよそれ。子供扱いしやがって。そう思って、そして、自分がどうしようもなく子供なんだという事実に気が付いた。そうしたらなぜか笑いが込み上げてきた。俺は笑っていた。涙を流しながら笑い続けていた。沙依の保護者のような気分になっていた。でも実際は子供だった。多分、片親で育てられた子供が親に親しい人ができて再婚しそうになった時の、そんな心境の方が合ってたのだろう。それに気が付いて自分を笑うしかなかった。
一通り笑い終えるとそれまでが嘘みたいに気持ちがすっきりしていた。そもそも忠次と沙依の関係に俺が口出しすることはおかしい。小さい子供ではなし、こいつが沙依にアプローチしたのは沙依と俺の関係性ができる前なのだから。それに忠次があんな行動をとらなければ沙依が高校に通うこともなく、今の自分の日常はないのだ。認めたくはないが、こいつの奇行のおかげで俺はすごく救われた。
「で、なんでこんなところの連れてきたんだよ。」
聞いてみる。きっと大した理由はないのだろう。
「沙依さんの旦那さんに力を貸してもらいたくてな。」
忠次はそんなことを言って笑った。
それからはそんなに感情が揺られることもなくなり、心穏やかに生活ができた。
そのおかげかは分からないが、以前ほど必死に勉強をしなくても自然と成績があがり、人と接する時も気持ちに余裕を持つことができた。
夏休みに入るとそれなりに遊びに出かけた。友達からは沙依ちゃんも連れて来いよと言われたが、なにかと理由をつけて断った。しかし今度は勉強会をしようと言い出し半分無理矢理家に上がり込む友達を、沙依は嬉しそうに受け入れていた。
秋になり、忠次から呼び出しを受けた。
今回は珍しく生徒指導室に呼ばれたうえにいつになく真剣な顔をしていたため、何かやらかしたのかと冷や汗をかいた。しかし俺の素行に問題があったのではなかった。要件は教育実習生の受け入れについてだった。なぜ俺にそんなことをいうのか分からなかったが、おとなしく話を聞いていた。教育実習生の一人に沙依の親戚がいるらしい。完全に絶縁状態のようだが、一応耳に入れておこうかと思ってとのことだった。もし何かのかたちで耳に入った時に俺が動じないようにとの配慮なのだろう。
数日後、何人かの実習生がやってきたが俺には誰が沙依の親戚かは分からなかった。教育実習生の挨拶の時は沙依は学校を休んでおり、沙依の反応を見ることもできなかった。気にしないつもりだったがやはり気になっている自分がいた。
それから沙依が時々窓の外や廊下の向こうをみてぼーっとしていることが見られた。心ここにあらずといった感じで呆けていることが増え心配になった。
そんなある日、沙依は階段から落ちた。連絡を受けて慌てて保健室に行き、無事な姿をみてほっとした。しかし沙依の顔に泣いた後を見つけて動揺した。沙依が泣くなんて想像がつかなかった。いったい何があれば沙依が泣くのだろう。そんなことを考えて不安になった。
「心配かけてごめんね。清水先生が支えてくれたからどこも怪我してないよ。ただ少しびっくりして。」
そう言う沙依はいつもとどこか雰囲気が違っていて、俺はさらに不安になった。
次の日、沙依は学校を休んだ。朝は確かにいた。用事があるから今日は休むと言っていた。そんなことは今までも何度かあったが、その日はなんとなく嫌な予感がした。沙依がいなくなってしまうような気がして胸騒ぎがしていた。
そして、学校から帰ると沙依はいなかった。
机の上に手紙と俺名義の通帳と印鑑が置かれていた。
手紙には、調べ物があるのでしばらく留守にすること、場合によっては帰らないということ、そして二十歳になったら連絡するようにと弁護士の名前と連絡先が書いてあった。何が起きたのか全く理解ができなかった。ただ朝の胸騒ぎが現実になったことだけは分かった。
なんだよこれ。ふざけるなよ。
以前、忠次が言っていたことを思い出した。
「沙依さんは人の気持ちが分からない人だから、お互い苦労するな。」
本当にあいつは人の気持ちに鈍感すぎる。俺は本当に家族だと思っていた。大切に思っていた。俺のこと家族だと思ってくれてたんじゃなかったのかよ。本当の子供だって思ってくれてたんじゃなかったのかよ。子供を一人残してどっか行くなよ。バカ。
俺がちゃんと伝えなかったからなのだろうか。家族だと思ってるって、一緒にいたいって、ちゃんと伝えなかったからあいつはどこかに消えてしまったのだろうか。こんな大金を俺に残して。俺が家族じゃないなんて言ったから。それを訂正しなかったから、だから。
気が付くと、ぽたぽたと涙が落ちていた。
俺はこんなに涙もろかっただろうか。涙が止まらず、止めようとすると余計に溢れてきて、気が付くと声をたてて泣いていた。自分のバカさ加減が本当に嫌になった。なんで大切にしたい人をちゃんと繋ぎ止めておけないのだろう。失くしてからじゃ遅いって事は嫌ってほどわかっていたはずなのに。