婚約を解消したいです(3)
エントランスは会場と馬車停まりの間にある広い空間で、屋敷で言うと玄関のようなものだ。パーティーが始まる前は人がごった返すのだが、始まってしまえばほぼ無人になる。だからレアンドラは、人がいないものだとすっかり油断していた。
「レアンドラ嬢?」
いきなり声をかけられて彼女は必死に悲鳴を呑み込んだ。会場を出たまま俯き加減だったので、人がいる事に全く気付かなかった。しかし、せっかく似非女優をやって来たのだ。ここで大きな物音を立てると、衆目の印象が上書きされてしまう。
顔を上げると、目の前に暗いブラウンの髪に同色の瞳をした若い男性が立っていた。少し長めの癖毛にいつも通り眠た気な表情をして、ぼんやりとした雰囲気である。
レアンドラは自分の唇に人指し指を当てた。すると、何を思ったのか相手も同じ動作を彼女に返す。
「私、今、傷ついた令嬢と言う事になっておりますの。ここで見た事は内緒にして下さらない?」
「承知した。挨拶より重要と見た」
彼女が目をパチパチと瞬かせると男性が息を吐くように笑い、それが合図のようになって、2人とも動作だけで挨拶をした。彼はレアンドラの友人で伯爵家の三男である。どうやらいつも通りパーティーに遅れて来たらしい。
挨拶が済むと、彼はレアンドラに腕を差し出した。どういう事かわからずにその顔を見上げてみたが、彼の表情からは気怠さしか感じ取れずこの腕の意味が全く読み取れない。
「紳士は、傷ついたご令嬢を見かければ馬車まで送らざるを得ない」
いたく真面目に言い切っているが、馬車停まりまであと十数歩である。
「うふふ。すぐに着きますからお構いなく。それよりもアルベール様は会場へお急ぎになられては?」
「まあ、なんとなく。数歩ぐらいなら僕でも紳士の真似事が出来そうだろう? はい、手を置く」
そう言ったかと思うと、気付いた時にはレアンドラの手が彼の腕にかかっていて、あっと言う間にアルベールは馬車停まりの方へ歩き出していた。エスコートされる方は呆気に取られるしかない。思考が追いついていないながらも足を動かせたのは、叩き込まれた淑女教育のおかげだろう。
アルベールの隣を歩いていると、ほんのり薬のような匂いがした。どこかの診察に立ち会った帰りなのかもしれない。彼は学業の傍ら、獣医師の見習いもしている。
「距離がないから手短に言うんだけど」
もう既に数歩消費してしまったのであと十歩もない。レアンドラはもともと早く帰るつもりだったため、彼女の家の馬車はすぐに来てくれるだろう。
「生き物とは疲れるものだ」
「はあ……」
「怪我や病の有無に関わらず」
「ええと」
「すぐに行きたくない。そしてさっさと帰りたい」
最大にげんなりとした顔でアルベールは溜息を吐いた。任意参加とは言え大半の貴族は出席する為、今回アルベールも家から強制的に参加させられたのだろう。
「ノルマがあって」
「はい」
「3人踊らないと帰れない」
「まあ」
ダンスパーティーはまだ半ばに差し掛かった頃だろうから、3曲ぐらいは何とかなるだろう。
アルベールは今18歳で、婚約者はまだいない。本人の興味がめっぽう動物へ向いているせいであり、3男なので好きにすれば良いと放っておかれたわけだが、卒業が迫って来て両親がようやく重い腰を上げたらしい。
しかし、とレアンドラはその気怠い横顔を見上げる。一応体裁は整えているが、纏っているのが香水でなく薬の匂いと言うのはいかがなものか。今の彼が女性に興味を持つのはかなり難しいのではないだろうか。
「君とヴィオレッタ嬢と踊るだろう? あと1人はお世話になっている薬室の女史にお願いすれば、ほら完璧」
「その女史の方、婚約者はいらっしゃるの?」
アルベールは片眉を上げ首を竦めた。よく見れば口元に仄かな笑みを浮かべている。
「既婚者だね」
レアンドラは一応、そしてヴィオレッタは完全に婚約者がいる。最後の1人は既婚者。この人選からも彼のやる気のなさが伝わって来る。レアンドラもつられるように笑ってしまった。
「でも、私は帰りますもの。あと1人、お探しにならなくては」
「大丈夫、大丈夫。もう、ここで踊ったことにする」
「まあ」
「ダンスは会話が目的だから、つまり会話すれば踊った事になるだろう?」
それはどうだろう。レアンドラは可笑しさに頬を緩めながらも内心首を捻った。屁理屈でしかないのだが、アルベール本人はいたくご満悦である。
なんとなく機嫌の良さそうな雰囲気を感じ取って、レアンドラはまあいいかと思い直した。疲れているらしいし、こんな手は今日のパーティーでしか使えないのだから、たまには多少ズルをしてもいいだろう。
気付けば彼女達はエントランスの入り口に立っていた。レアンドラを乗せる馬車が目の前に停まっており、扉が開かれる。
アルベールが「良い夜を」とレアンドラの背を促すように押して、彼女は乗り慣れた馬車に身を沈めた。窓越しに2人は軽く微笑み合い、御者が扉を静かに閉めると、少し間を置いた後、一定の音を立てながら馬車が走り出した。
窓の外は夜が流れて行く。いつもと同じ道の筈だが、通常は日が落ちた後に行き来しないため常とは違う心地がする。学園は王都の街中にあり、馬車道は街を抜けるまで所々篝火で照らされているため、それが殊更闇を深く見せた。
走り出して少し経ってから、レアンドラは窓のカーテン閉めて息を吐き出した。座席の手触りも独特の古い香りも、彼女のよく知るものばかりである。社交は嫌いではないが、やはり気を張っていたのだろう。ようやく日常に戻ったような気がする。
年季の入った座席の背凭れに完全に体を預けもう1度大きく息を吐き終えると、今度は頬をサアッと何かが流れて行った。
慌てて指で拭うと、指先が濡れている。これは一体どういうことだろう。とことん意外で、誰も見ていないのにレアンドラは1人で首を傾げた。紛れもなく涙だった。
思い当たるのは今日のマルセルとリゼットの非常識しかないのだが、レアンドラは特に何とも思っていない。
それとも実は傷ついていたのだろうか? マルセルに冷たくされるのはどうとも思わないし、そもそも価値観が異なり過ぎて何に対して傷つけば良いのかわからない。
ただ、彼らに傷つけられたと考えると、何やらとても不愉快な気分になる。
まあ、いい。とりあえず泣けということだろう。
考えるのも我慢もやめる事にして、アンドラはハンカチを口元に当てた。驚くほどすんなりと涙が次々生み出されては布に吸われていく。まるで目だけが自分ではないようだ。
彼女は片手で小さくカーテンを開けた。窓の外はやはり変わらず夜が流れて行く。今日は雲がかかっているのか、月も星も空にはない。彼女の灰緑の瞳は輪郭のない夜を映す。規則的な馬の蹄鉄や車輪の音だけが雄弁に時を刻んでいた。
ダンスパーティーからわずか5日後、先方からの申し入れによりマルセルとレアンドラの婚約はめでたく解消となった。その一報を聞いて家族は深く安堵し、友人達が彼女と抱き合って喜んだのは言うまでもない。