婚約を解消したいです(2)
ヴィオレッタはふっくらした紅い唇に扇を当て、少し考えるような素振りをした。レアンドラは少しドキドキしてそれを見る。彼女と同じ16歳の筈なのだが、所作がなんとも大人っぽいのだ。
レアンドラが少し周囲に目を向けると、案の上、何人かの男子学生が彼女に釘付けになっていた。友人ながら何やら誇らしい。
「あのような姿を衆目に晒せば、決断力のない男だと周囲に知らしめているようなものですのに」
レアンドラは天気の話でもするようにぽつんと呟き、ゆったり瞬きをした。
政略結婚が多かった頃の習慣が残っており、男女ともに愛妾を持つのは許容されている。しかし、公的な場では妻や夫を尊重するのが絶対のルールだ。間違っても今の2人のように馬鹿げた真似はしないし、認められるものでもない。
公の場で堂々とリゼットを伴いたいのであれば、婚約関係を整理すれば良いだけである。婚約解消などありふれた話なので、家の事を抜かせば個人的には全く問題ない。
「アン、これは好機ですわ。ちょうどこの場には大勢の証言者がおりますもの。これを根拠に婚約解消を申し出れば、あちらは強く出られませんわ。どう見てもおかしいのはあの男ですもの」
ヴィオレッタのグリーンの瞳がこれでもかと言う程大きく見開かれている。しかし、レアンドラはこの友人に思考がついて行かず、自分の瞳の薄ぼんやり濁ったグリーンとはモノが違うなぁなどと、どうでも良い事しか頭に浮かんで来ない。
「アン? ぼんやりしている場合ではなくてよ?」
形のよい指で頬をつつかれ、ようやくレアンドラは我に返った。
格下の家から婚約解消を申し出るケースはあまりないとは言え、全くないわけではない。多くは今回のように不祥事の証拠を握って交渉するのである。これほど多くの人間が実態を目撃しているのだから、先方も「礼を欠く」と突っぱねるわけにはいかないだろう。
「家族はいつでも解消して構わない、協力すると言ってくれていますけれど……。でも、マルセル様ですもの。プライドが傷つけば臍を曲げてしまう可能性もありますわ。私、カードもチェスも弱いでしょう? 心理ゲームに向いておりませんの」
「あら。勝率を上げる事は出来ますわよ」
そう言って、美女はパチンとウィンクをした。レアンドラが男性だったら間違いなく恋に落ちていると思う程色っぽい。
もっとも、彼女は5歳上の婚約者と大層仲睦ましいため、落ちたところで恋を持て余すしかないのだが。
「簡単ですわ。アンが傷ついたフリをすれば良いの」
「フリ?」
「ええ、そう。例えば今、この会場から駆け去るとか」
その一言で、それまで憂い気味だったレアンドラの瞳がパアッと楽しげに輝いた。
「まあ。まるで舞台のようですわ」
「ふふふ。云わば女優ですわね。婚約者の不貞に傷ついたうら若き乙女なんて、間違いなく衆目の目を惹きますわ。私、根も葉もない噂を盛大に流しますわね。あの男に不名誉な噂が流れれば、侯爵家が火消しに回るのではなくて?」
友人の瞳が最高に輝いている。そういえば歌劇でも、いつも悪企みの場面を格別熱心に見つめているかもしれない。
レアンドラはぼんやりと思考に沈んだ。それにしても自分のこの状況、考えてみると出来過ぎていて、まるで演劇の脚本のようだ。あまり観たいとは思わないが。
常識外れをやらかしたのはマルセルであり、事実はもう覆せない。寧ろ今この時間も着々と不祥事が生産されている。踊っている彼は驚くべき愚者だが、現実には優秀な嫡男なので次期侯爵はほぼ内定だと言っていい。そうすると、侯爵家はどうするか。
いくつか方法はあるが、婚約の方を何とかしてしまうのが手っ取り早い。例えば、今現在婚約解消の話がほぼ合意の方向で進行中だった為、若気の至りでマルセルが早まってしまった、などがよくあるパターンだろう。
さすがヴィオレッタである。なんだか上手く行きそうな気がしてきた。その為には、まずは走るのか――。
そう考えて、あ、とレアンドラは息を止めた。そろりと自分の靴の踵を確認し、曖昧に微笑んでから声を潜めた。
「私、迂闊に走ると転んでしまいますわ。……急ぎ足でも構わなくて?」
その言葉にヴィオレッタは長くて濃い睫毛をぱちぱちと素早く動かした。それから茶目っ気たっぷりに口を尖らせる。この顔ばかりは歳相応で同い年に見える。
「もうっ。仕方ありませんわね。でもアン、笑っては駄目よ? 顔を少し伏せて傷ついた感じを出すの」
「まあ……女優と言うのは難しいのですね。私、少しワクワクしてしまうのですけど」
笑顔を引っ込めるのは何と難しいのだろう。頬がなかなか固まってくれない。ごっこ遊びと言うのは楽しいものだが、こんなきらきらしい舞台で練習なしの本番だなんて、どうしたって楽しいと言うものだ。
「アンが去った後は任せて頂戴。力の限りあの男を詰っておきますわ」
「うふふ。心強いですわ」
「でも残念ね。私も演技してみたかったわ」
そして彼女達は顔を見合わせて笑い合った。いかにも悪企みの共犯である。
ダンスの曲があと少しで終わりそうだ。完全に終わると人の入れ替わりでゴタついてしまうので、行くならそろそろだろうか。レアンドラは1度出口を確認してから、ヴィオレッタの耳元に顔を近付けた。
「それでは、ご機嫌よう」
エメラルドの瞳が面白そうに細まる。レアンドラはそれを見返すと、とりあえずはまず俯いて、気持ち足早に会場の出口へ歩き出した。しかし、どうにも頬が定まらない。笑ってはいけないと思う程笑いそうで駄目である。馬車へ駆け込んだら盛大に笑う事にしよう。
周囲が俄かにざわめいている。あと少しで曲が終わるのだろう。レアンドラが注目を浴びているのかはわからないが、ヴィオレッタに任せておけば安心だ。
そしてレアンドラは、存外呆気なく会場の外のエントランスへ出た。