婚約を解消したいです(1)
作中の設定ですがしれっとホラを吹いております。そういうもんだと思ってお楽しみ下さい。
煌びやかなシャンデリアの下のホールの様子が目に入ってきて、レアンドラは思わず友人と顔を見合わせた。間が良いのか悪いのか、ちょうど先日観たばかりの歌劇の話が終わったところで、口も頭もひと休みしたところだった。
「あら、なんてこと」
「本当に。なんてことでしょう」
友人のヴィオレッタは口元を優雅に扇で隠した。だが扇の上の目が笑っているので、全くもって何も隠せていない。
「このままだと3曲目も踊るのではなくて?」
「そのようにお見受け致しますね。あ、もう曲が終わりますわ」
レアンドラは自分の口元を手で覆った。本当は一瞬、扇を取り出そうと考えたのだが、すぐにそれだと間に合わないと判断した。込み上げてしまう笑いとは、我慢するのがつらいものである。
今はレアンドラ達が学ぶ学園が開催するダンスパーティーの真っ最中である。この学園は貴族が多く学んでおり、社交シーズンの間は休校になるのだが、毎年、休校前に任意参加のダンスパーティーを開催している。
参加者は学生と教師や学園関係者のみで、基本的には和やかな会である。基本的、とわざわざ付けるのは、つまり毎年ハメを外す者が出てしまう為に他ならない。
彼女達の視線の先では、黒髪の男性と赤毛の女性が優雅に美しいステップを踏んでいた。どちらも見目麗しく人形のように整ったカップルであり、衣装の銀糸や宝石に当たった光がいやにキラキラしていて、さしずめ着飾った磁器の人形といったところか。
もっとも、彼らを見る周囲の目は咎める色が大層濃いのだが。
「本日の嫌がらせは大胆ですわね」
「アンが構って差し上げないからではなくて? 立場上、一応、婚約者なのだもの」
「無視しておりませんのに。そ、それにしても、今日は……ふふ」
「これを捨て身と言うのね」
再び笑いの発作に襲われたレアンドラの横で、ヴィオレッタがキッパリと言い捨てた。
彼女達の視線の先の男性は一応、レアンドラの婚約者のマルセルである。彼は侯爵家の嫡男で、レアンドラは伯爵家の娘であり、このまま行けば完全なる政略結婚の予定だ。そして彼と踊っている赤毛の女性はリゼットと言う。彼女は伯爵家の娘なので、家格はレアンドラとそう変わらない。
さて、かの2人は先程からくるくるくるくるとダンスフロアを回っており、今ちょうど3曲目に突入したところである。ちなみに、貴族社会の常識では、続けて2曲踊れば恋人、3曲踊るのは婚約・婚姻関係にある男女と決まっている。
ちなみにレアンドラは不機嫌極まりないマルセルと最初に1度踊っただけである。全くもって義務以外の何物でもない。
「頭が回り過ぎると愚者になるのかしら? 今季の成績上位者が2人揃ってああだとは、教師の方々もさぞ頭が痛いでしょうね」
ヴィオレッタが真珠のような額に閉じた扇を当てて面白おかしく嘆いてみせるため、レアンドラはさらに別の笑いの発作に耐えなければならず、今、非常に苦しい思いをしていた。笑いが重なると腹が痛くなるとは思わなかった。しかも目尻に涙が溜まってくる。
そう、彼女の婚約者のマルセルはリゼットと恋人同士である。そして常日頃から堂々と2人で彼女の前に現れ、「顔も中身も平凡でつまらないレアンドラより、君の方が何倍も素晴らしい」とか「今の婚約者なんかより知的で、努力家で、美しいあなたと僕は結婚するべきなんだ」だとか、わざわざ彼女を貶してリゼットを褒め称え、そしてリゼットはそれに頬を染める、という愛の劇場を演じて行く。
一体何をしたいのか、レアンドラには全くわからない。
最終的には、レアンドラの反応が薄いせいでマルセルは不機嫌になり、リゼットは彼女を睨みつけ、何か言葉を吐き捨てて去って行く。ここまでが一通りのパターンである。
本当に、一体、何がしたいのか。
最近では段々その愛の劇場も濃厚かつエスカレートして来ており、常識のなさや独善的な振る舞いに、もはや『滑稽』の文字が舞い踊っているような状態だ。
本人達は至って真面目でそれが可笑しさを増幅させるので、強制的に見せられるレアンドラは毎度笑いを堪えるのに必死だったりする。ちょうど今のように。
「先日も仲睦ましい様子を私に見せにいらっしゃいましたわ。さすがにダンスはありませんでしたが」
ようやく笑いが引っ込んで来たので、レアンドラは目尻の涙を拭い取った。幸い、薄化粧なので顔の崩れはないらしい。
「そのうち愛の歌でも歌いだすのではなくて?」
「どうでしょう? そのような歌は低俗と仰っていましたから」
ヴィオレッタは呆れたような目をダンスフロアにちらりと投げ、一瞬すうっと眉根を寄せた。
「愚者の行動はわかりませんわね。わざわざアンに嫉妬させたいのかしら? でも、これまでの様子を鑑みると、とてもそうとは思えないけれど」
「そうですね。私はあちらに興味がありませんし、あちらは最初から私が嫌いですもの」
顔合わせの時に「お前なんかがこの僕の婚約者などと、冗談じゃない。恥ずかしい」と言われたのは良い思い出だ。おかげで今後の努力を放棄する決断が出来た。
ヴィオレッタが細い首を傾げる。その動きに彼女の艶やかな栗色の髪が上品に輝いた。たっぷり編み込んだ髪に埋め込まれている真珠だろう。
「アンは嫌われるような人間ではなくてよ?」
「うふふ。ありがとうございます。私、お友達に恵まれていますわね」
ヴィオレッタの気遣いにレアンドラはニコニコと微笑んだ。微笑むと元々小振りの丸顔がさらに柔和になって余計に丸くなる印象を受ける。ヴィオレッタは侯爵家の娘で、家格こそ上だがレアンドラと愛称で呼び合う気の置けない友人の1人である。
「あの方は、こちらから婚約解消を言わせたいのでしょうか?」
「それはないのではなくて? あのプライドの高い男が、婚約解消を申し込まれるなんて、耐えられないと思いますわ」
レアンドラは扇を取り出し口元を隠した。骨に猫の模様が透かし彫りされたお気に入りの一品である。
レアンドラの目下の悩み事は、婚約が解消されないことだ。格下の家から婚約解消を申し立てるのは礼を欠くので、このような場合は言われるのを待つのが常識である。いくら家同士の取り決めとは言え、最近は男性個人の意思を重んじる傾向にあり、恋愛結婚が着々と増えている。リゼットは伯爵家だし、美人だし、成績も優秀なので、条件的にも何の問題もない筈だ。
一方でレアンドラの容姿は平凡そのもので、特筆すべき点はない。まず髪は砂がかったような暗い茶色で、瞳もぼんやりと濁った緑色である。全くもって目立たないし、婚約者殿の言わせると「陰気臭い」色合いだ。成績だって平均の中の平均ぐらいである。
あと、彼女個人的には、最近は繰り出される愛の劇場もややパターン化して来たし、そろそろ全種類観た筈なので、ぼちぼちお役御免になっても良い頃だとも思っている。端的に言えば、この状況に飽きて来たのである。