道化 ー2
枕元に『こころ』と同じように積んでいる『それから』をもう一度手に取る。
代助の、家族と、友人を通し、そして友人の妻を愛してしまう物語だ。
真っ向から、社会を否定する訳でもなく、賛成する訳でもない。ただ、代助の思う所が認められている。
代助は恐ろしくなかったのであろうか。社会のつまはじき者にされる事が恐ろしくなかったのであろうか。恐ろしくはなかったのであろう。彼は一種独特の、しかし確固たる自分の哲学を持っていた。
比べて、僕はどうだ。倫理に背き、代筆すると決めた今でも、その苦しみにさいなまれ続けている。愚かではなかろうか。愚かであろう。
その苦しみの根源となっている平坂の手紙を手に取る。
『私は、君のことが好きなのだと、思います。恋の告白などではありません。事実の告白です。キリスト教で言う所の罪の告白と同じです。』
何ということであろうか。山上は死んでもなお、平坂からの恋心を得るとは、何ということであろうか。許して良いのであろうか。否、断じてそれを許してはいけないのであろう。平坂が可哀想であろう。
同時に僕は山上に対して嫉妬の念を得ていた。もし、僕が平生の精神を有していたなら、―もちろん、全てがそうという訳ではあるまいが―山上を恨むなどという愚かな事はしなかったであろう。この時の僕は愚かであった。そして、ついぞその事実に気付かぬのだから、さらに愚かであった。
朝は今一つ、はっきりとしない。シャキッとしなくっちゃいけないと顔を冷水で洗ってみるも、どうも今一つである。寝不足であろう。
朝食を皿で並べてみるも、これまた食べる気がしない。パンが鉛の板のように見えるのである。これも又、理由は分かっている。
ボーリング玉のようなパンを噛み砕き、無理矢理、体を動かす。ここ最近はとんと、寒くなってきたからブレザーがありがたい。が、今は憂鬱である。なぜかって?平坂に手紙を渡さなくっちゃいけないからである。
「平坂」
朝、教室でもう、自分から話しかけた。待っているのは辛いのである。
「手紙。山上から」
「あ、ありがとう」
平坂が嬉しそうに、しかし、若干目を落して手紙を受け取る。なぜであろうか。
「どうした。僕の顔が何かおかしいのか?」
「あ、ううん。そうじゃないの」
平坂が慌てて訂正する。
「ちょっとね」
「ちょっと、何なのだ」
「・・・分からないかな~」
「僕は愚かだから、何も分からぬ。ぜひ、教えていただきたい」
「じゃあ、私も1つ、教えて」
「なんだ」
「・・・」
平坂がわずかにとまどい、そして
「山上君、元気?」
カッと血潮が沸き立った。この後におよんで、山上の事か。
そんなに山上のことが大切なのであろうか。
憎い。山上が憎い。死んでなお、僕を苦しめ、あろうことか平坂にも愛されている山上が憎い。
口から怒りと嫉妬を吐き出そうとするが、しかし、又もや何かが虚構へとそれを塗り変えた。
「心配はいるまい。山上は何も変わらぬ」
この言葉を吐いている途中から、とんと、僕の血は冷静になっていった。
「彼も、平坂に変な気負いをさせたくはなかろう。大丈夫だ」
「・・・クスッ」
平坂が小さく微笑む。その笑みが僕の心に染みる。
「何がおかしいのであろうか」
「口調。漱石っぽいわよ」
「・・・よかろう。それとも…平坂は嫌いなのか」
「ううん。野崎君に、似合っていると思う」
それにしても、この笑みは反則であろう。一瞬で僕の心を瓦解させてしまう。
ふと、平坂の髪に手を伸ばそう、と手を上げた。
と、
キーンコーンカーンコーン
なんと間の悪い事であろうか。ここまで間の悪いことはあるであろうか。否、無いであろう。
「じゃあ、又、後で」
「・・・ああ」
自席に戻っても、まだ、そのもやもやと、衝動は右手に残ったままである。消えそうにもなく、ふくれあがりそうで、それでいて、行動するのにとんでもない勇気を要する物であった。今さっきは無自覚なのがかえって良かったのであろう。
お久しぶりです。
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