ある冬の夜に
以前投稿した短編小説(http://ncode.syosetu.com/n4878bb/)の番外編的前日譚。
辰巳康志は、足早に冬の風が吹きすさぶ天野市の歓楽街を横切っていた。ついさきほどまで、気持ちよく酒を飲み、ほろ酔い気分でそろそろ帰ろうかと、いつもと代わらぬ一日を終えようとしていたのだが、そんな矢先に懐の電話が鳴った。
そうして、辰巳は今、白い息を吐きつつ、電話の主の下へと急いでいるのだった。
古ぼけた居酒屋の看板が、ネオンやライトアップされた看板の間に埋もれるように、ひっそりとたたずんでいる。辰巳は息を整え、薄汚れた引き戸を開けた。カランカランとベルが鳴る。
「お待ちしていました」
「ああ、すまないな…」
辰巳にとってはもうなじみの顔となっている、田村敬一が、奥の座敷から声をかけた。田村の向かいには、ガッチリとした体格だが、少々太り気味の中年男が酔いつぶれて眠っている。藤崎義明警部補、辰巳の親友だった。藤崎の肩には、店に借りたのか小さな毛布がかけられていた。
「なんか、色々あったみたいで。飲みながら話しているうちに酔いつぶれちゃったんです」
藤崎を見て、田村が言った。
「ああちょっとな。色々あったんだ」
「奥さんに出て行かれちゃったのが、すごいショックだったみたいで、ずっと言っていましたよ」
「そうだろうな…」
なんていったって、僕を呼び出して酒をあおるくらいですからね。そういう田村は苦笑いだ。そう言えば、飲みに行く前にも懐の電話が震えていたような気がしたが、あれは誘いの電話だったのだろうか。
藤崎の妻が出て行った話は、辰巳も自分の妻から聞き及んでいた。辰巳の妻の翔子と、藤崎の妻の暁美もまた、親友同士だった。
「本当にショックだったようですよ」
「ああ。でも出て行ったってだけで、離婚したわけじゃない。別居だよ」
「それが救いですか」
「だと良いが」
おい、ヨシやん、と辰巳は藤崎をゆすった。藤崎は熟睡しており、全く起きる気配は無い。
「今日は本当に、いろんな話をしました」
田村がぼそりと言った。
「どんな?」
田村は軽く微笑むだけで何も言わない。いつもの何を考えているか分からない目だった。
藤崎と辰巳、そして田村は、十二年前、ある事件で捜査員と被疑者という関係だった。結局、彼は被害者と血縁があり、それで近くに住んでいたという以外に怪しい点も見つからず、それほど時を待たずに田村の容疑は晴れたのだが、未だに藤崎は田村が犯人であると、辰巳と会うたびにしぶとく主張していた。
辰巳は藤崎の腕を自分の背に回し、どうにか立たせようとした。
体重のある藤崎はなかなか持ち上がらず、一度ずり落として頭をテーブルの角にぶつけてしまった。そのまま藤崎は釣り上げられたマグロのように転がったが、それでもまだ眠ったままだった。
もう一度辰巳が藤崎を立たせようと四苦八苦しているのを見て、田村が反対側の肩を持った。
「すまないな」
田村は何も言わずに笑う。
「…すまないな」
辰巳はもう一度言った。
「いえ、いいんですよ」
「いや、そうじゃないんだ」
「なんですか」
辰巳は少しためらった。しかし、言わずにはいられなかった。
「いや、こいつのことさ…」
「藤崎さんの?」
「…なあ、あんたにしてみたら、こいつはしつこくて、頑固で、どうしようもない男なんだろう」
「…」
きっとこいつのことだ、今日も散々酔った挙句、田村に絡み尽くしたに違いない。
「終わったことをいちいち持ち出して、正直迷惑だったろう」
「いえ…」
「けどさ」
くたびれた顔で眠りこけている親友の顔を、辰巳は見た。
「…こいつはこんなやつだけど、根は今時珍しいくらい、真っ直ぐで、気の良い男なんだよ」
それは、親友である辰巳が一番分かっている。家を出て行ったという暁美も、本当はきっと分かっているに違いない。
田村にも同じように分かってくれとは言えない。だが、ただ知っていてほしかった。
「…分かっていますよ」
辰巳はぎょっとして田村を見た。
そのときだけ、田村の目に少しだけ優しげな光が宿っていたように見えたが、すぐに顔をそらした田村にそれを確かめることは出来なかった。
二人でどうにかタクシーに乗せ、会計を済ませ、田村を残して辰巳は藤崎の自宅に向かう。家の前でタクシーを降り、凍るような風が吹き抜ける門の横に藤崎を座らせ、さて、これからどうしたものかと考えあぐねていると、藤崎家のリビングに明かりが点っていることに気付いた。おやと思い、辰巳がチャイムを押すと、藤崎の娘の絵梨が、「お父さん?」と言って出てきた。
「やあ、久しぶり」
「辰巳さん! あの、突然なんですけど、お父さん知りませんか?」
心底心配そうに言う。辰巳は思わず笑ってしまう。
「ヨシやんなら、酒を飲んで酔いつぶれちゃったから、そこまで運んできたところだよ。まだぐっすり眠ってるが」
絵梨は目をぱちくりとさせ、言った。
「本当ですか!?」
「ああ」
門を指差す。絵梨は藤崎に駆け寄った。
「お父さん! もう、何してたの、心配したんだよ」
相変わらず藤崎は眠りこけている。辰巳は絵梨の横に立った。
「さて、ここに置いとくのもなんだし、さっさと中に入れちまおう」
二人で藤崎の肩を持つ。
「すみません、ありがとうございました」
殊勝に絵梨が言う。もう十七歳になるのだったか。実に立派に育ったものだと、辰巳は感心した。
二人でどうにか家に運びいれ、布団を敷いてそこに放り込んだ。途端に藤崎が鼾をし始める。家の中には汚れ物のワイシャツやらカップめんのゴミやらが散らばっており、辰巳は苦笑した。
「それにしてもどうしたんだい? お母さんと一緒に出て行ったんじゃないのか?」
「ええ、そうなんですけど、やっぱり心配になっちゃって」
少し恥ずかしそうに絵梨は言う。
「それで、バイトの帰りに寄ってみたんですけど、まだ帰ってなくて。竹内さんに電話したら、もう帰ったって言われたんですけど、しばらく待っても帰らないし、電話にも出なくて、あたし、どうしようって」
竹内というのは藤崎の後輩の巡査である。
「でも辰巳さんが連れてきてくれて、本当に助かりました」
再び絵梨は頭を下げた。
「いや、いいんだよ。こういうときはお互い様だ」
そうして、辰巳は帰ることにした。絵梨ももう少しだけ様子を見て、明日の学校に備えて早めにタクシーで帰るそうだ。男一人にまかせきりになった家の惨状を目の当たりにして絶句していた絵梨は、「時々は面倒を見に来てあげなきゃ」と言って苦笑していた。
「じゃあまたな」
「本当にありがとうございました」
帰りの道すがら、タクシーから流れる町並みを眺めながら、辰巳はひとりごちた。
なあ、ヨシやん。お前、自分じゃ気付いてないかもしれないが、なんだかんだ言って相当の幸せもんだぞ。
辰巳は家族の待つ家に向かう間、近いうちにどうにか時間をとって、家族に何かしてやろうと考えはじめていた。もう十九歳になる娘の彩は嫌がるかもしれないが、それでも考えてみる価値はあると思えた。
今夜は良い夢が見れそうだった。
こういう話も好きなんです。




