追放された料理番、魔王城の社食を立て直す
勇者パーティーに、料理番はいらない。
そう言ったのは、勇者レグルスだった。
王都の広場には、出征を見送る民が集まっていた。花が撒かれ、鐘が鳴り、子どもたちは木剣を振って勇者の名を呼んでいる。レグルスの背後には、剣聖、聖女、大魔導士、弓使いが並んでいた。皆、見栄えがよかった。見栄えがよい者たちが横一列に並ぶと、それだけで作戦まで正しいように見える。
その端で、大鍋を抱えていたトマは首を傾げた。
「いらないというのは、今日の昼からですか」
「そうだ」
レグルスは短く答えた。
「これから魔王領に入る。戦えない者を連れていく余裕はない。君の仕事はここまでだ」
「昼飯はどうするんです」
「携帯食がある」
「3日で飽きますよ」
「世界を救う旅だぞ。味など気にしていられるか」
トマは少しだけ困った顔をした。
「味を気にしない者は、判断を誤ります」
「大げさだな」
勇者は笑った。
広場の民も笑った。料理番が何を偉そうに、という笑いだった。魔王を倒すのは剣であり、魔法であり、神の加護である。鍋ではない、と。
「荷物をまとめて去れ」
レグルスが言った。
トマは背負っていた袋を下ろした。
「塩は置いていきますか」
「いらん。持っていけ」
「胡椒は」
「それもだ」
「干し肉を湯で戻す粉は」
「何だそれは」
「乾いた革みたいな携帯食を、ぎりぎり食事に戻す粉です」
「不要だ」
トマは勇者たちを見た。聖女は少し不安そうに調味料袋を見ていたが、レグルスは気づかなかった。剣聖は腹が鳴らないよう、腹筋に力を入れている。大魔導士は「味覚など低次の欲求」と呟いていたが、朝食の焼き菓子を三つ食べていたことをトマは知っている。
「では、全部持っていきます」
「好きにしろ。鍋もだ」
「鍋は私物ですので」
トマは大鍋を抱え直した。
「中身は何だ」
「豆と肉の煮込みです。昼飯です」
湯気が上がった。香草と肉と豆の匂いが、広場に広がる。聖女が一瞬だけそちらを見た。剣聖の腹が鳴った。大魔導士は聞こえなかったふりをした。
レグルスは咳払いをした。
「そんなものに惑わされるな。我々は世界を救うのだ」
「では、ご武運を」
トマは一礼した。
「携帯食は、水に浸す前に袋から出してください」
「当たり前だ!」
3日後、勇者パーティーは全員、袋ごと携帯食を煮ていた。
その翌日、剣聖が腹を壊した。
さらに翌日、大魔導士が「もう味のしない板は嫌だ」と泣いた。
聖女は回復魔法を使ったが、空腹と不機嫌にはあまり効かなかった。神の奇跡にも、向き不向きがある。
一方その頃、トマは魔王領を歩いていた。
行くあてはなかった。王都に戻れば笑われるだろうし、別の町で料理番を探すにも、戦時中に流れ者を雇う宿は少ない。鍋を抱えて北の街道を進んでいると、道端に小鬼が倒れていた。
角があり、緑色の肌をしている。人間の子どもほどの大きさだが、牙がある。普通なら逃げるところだったが、トマは料理番だった。料理番は、倒れている者を見ると、とりあえず腹具合を疑う。
「どうしました」
小鬼は腹を押さえて呻いた。
「魔王城の飯が、まずい……」
「それは深刻ですね」
「5日連続で、黒い粥だった。魔族らしさ重視だそうだ」
「滅びますよ」
小鬼は真剣に頷いた。
「実際、滅びそうだ」
トマは鍋を火にかけ、豆と肉の煮込みを温め直した。小鬼は最初、警戒していたが、匂いを嗅いだ瞬間に目を見開いた。
「これは、何の魔法だ」
「煮込みです」
「香りがする」
「普通はします」
「温かい」
「普通は温かいです」
小鬼は一口食べた。そして泣いた。
「味がする」
「だから普通はします」
「頼む。魔王城に来てくれ。厨房を見てくれ。みんな限界なんだ。兵士が朝礼で倒れる。会議中に腹が鳴る。魔王様が最近、闇粥を見てため息をつく」
「魔王様も食べているんですか」
「食べている。偉いから一番黒いのを」
「それは偉いというより、気の毒です」
こうしてトマは、魔王城へ連れていかれた。
魔王城は、遠目には立派だった。黒い塔、赤い旗、空を飛ぶ魔物。いかにも悪の本拠地である。だが裏口から入ると、廊下には疲れた魔族が座り込み、兵士たちは眠そうに槍を持ち、掲示板には「夜勤者に温かい汁物を」「闇粥以外の選択肢を」という嘆願書が何枚も貼られていた。
厨房は、さらにひどかった。
鍋は焦げ、包丁は錆び、食材は「禍々しい」「かなり禍々しい」「食べられるか不明」の三つに分けられている。大鍋の中では、紫色の泡が弾けていた。匂いは、雨の日の古い靴下に似ていた。
厨房長のオークは、トマを見るなり包丁を持った手を止めた。
「人間か」
「はい」
「敵か、迷子か、納品業者か」
「料理人です」
オークは少し考えた。
「それは助かる。敵より不足している」
「敵より不足しているんですか」
「敵はたまに来る。料理人は来ない」
「事情は分かりました」
「では、まずこれを見てくれ」
オークは紫色の泡を吹いている大鍋を指さした。
「魔王様の朝食だ。闇粥」
「材料は」
「闇草、闇豆、闇水、闇っぽい石」
「石を入れないでください」
「だが、魔王様は威厳を大事にされる」
「威厳は消化できません」
オークは衝撃を受けた顔をした。
「そうだったのか」
その日から、トマは魔王城厨房改革を始めた。
最初にしたのは、石を食材棚から撤去することだった。次に、食材の分類を改めた。「穀物」「肉」「野菜」「香草」「触る前に確認」の五つである。最後の棚には、まだ何かが動いていたので、トマはひとまず布をかけた。
魔族たちは最初、反発した。
「魔族の食卓に人参など置けるか」
「なぜです」
「色が明るい」
「名前を変えましょう」
「名前?」
「人参ではなく、地獄根です」
「地獄根」
「切ると甘く、煮ると柔らかい地獄根です」
魔族たちは顔を見合わせた。
「それならよい」
「よいのか」
「地獄ならよい」
料理名も変えた。野菜スープは「冥府の滋養汁」になった。焼き魚は「深淵より来たりし香ばしき尾びれ」になった。豆の煮込みは「大地の底より目覚めし小粒の軍勢」になった。
中身は普通だったが、名札が物騒なので魔族の面子は保たれた。
食堂には、少しずつ人が戻った。
骸骨兵には骨出汁ではなく、干し茸のスープを出した。骨出汁と聞いた骸骨兵たちが非常に複雑な顔をしたためである。吸血鬼には鉄分の多い赤い煮込みを出した。本人たちは「高貴な赤だ」と喜んだ。
ミノタウロスには、麦と乳を煮た白い粥を出した。
巨体の魔族は一口食べて、しばらく黙り込んだ。
「どうしました」
トマが尋ねると、ミノタウロスは目元を押さえた。
「牧場の朝を思い出す」
「牧場」
「冬の朝は、これに似たものを食べた」
「では、懐かしい味なのですね」
「そうだ」
ミノタウロスは深く頷いた。
「母は牛だった」
トマは一瞬だけ黙った。
「……そういうことも、あるのでしょうね」
深く聞くと種族事情に踏み込みそうだったので、トマは献立表の端にただ一言だけ記した。
『乳粥、好評。詳細確認不要。』
一週間後、魔王が厨房に現れた。
背は高く、角は立派で、黒い外套をまとっている。いかにも魔王という姿だった。ただし目の下には濃い隈があり、頬は少しこけていた。
「お前が新しい料理番か」
「トマと申します」
「最近、城内の士気が妙に高い。会議で寝る者が減った。小鬼が泣かなくなった。オークが機嫌よく皿を洗っている。何をした」
「食事を改善しました」
「それだけでか」
「それだけです」
魔王は黙った。
「私は千年、恐怖で軍をまとめてきた」
「朝食も必要です」
「恐怖だけでは足りぬか」
「足りません。恐怖は腹にたまりません」
魔王は深く考え込んだ。
その日の夕食、魔王には煮込み料理が出された。肉は柔らかく、根菜は甘く、湯気に香草の匂いが混じっている。魔王はそれを一口食べた。
3秒、止まった。
「……うまい」
食堂にいた魔族全員が息を呑んだ。
魔王が、うまい、と言った。
その日は魔王暦に記録された。後世の歴史書には、「魔王、初めて食卓にて形容詞を用いる」と書かれることになる。
それから数日後、勇者パーティーが魔王城に到着した。
全員、疲れていた。剣聖は痩せ、大魔導士は無言で干し肉を噛み、聖女は「温かい汁物」とだけ呟いていた。勇者レグルスだけは、どうにか威厳を保っていた。威厳は消化できないが、顔には貼りつけられる。
「魔王、出てこい!」
大広間に声が響いた。
出てきたのは魔王ではなく、白い前掛けをつけたトマだった。
レグルスは目を見開いた。
「トマ。なぜここにいる」
「就職しました」
「魔王軍に?」
「はい。福利厚生は改善中ですが、まかないは良好です」
聖女が一歩前に出た。
「まかない……」
「本日は豆と腸詰めの煮込みです」
聖女の目が揺れた。
レグルスは慌てて剣を抜いた。
「惑わされるな。魔王軍の飯だぞ」
大魔導士が小さく言った。
「でも、匂いは正義側です」
剣聖も頷いた。
「俺はもう板を食べたくない」
レグルスは叫んだ。
「世界を救う気はないのか!」
トマは少し困った顔をした。
「あります。だから、まず食堂で話し合いませんか」
「なぜ食堂なんだ」
「空腹の人間は、だいたい判断を誤ります」
それは勇者パーティー全員の胸に刺さった。
食堂に案内されると、魔族たちは普通に食事をしていた。小鬼がパンを配り、オークがスープを注ぎ、サキュバスが食後の菓子を選んでいる。誰も人間を襲おうとはしていなかった。
レグルスは混乱した。
「魔王軍とは、人間を滅ぼす邪悪な軍勢ではないのか」
オークがスープを置きながら答えた。
「昔はそういう部署もあった」
「部署?」
「侵略企画部だ。予算削減で縮小した」
「魔王軍に予算があるのか」
「ある。足りない」
「妙に現実的だな」
奥の席に、魔王が座っていた。
「勇者よ」
低い声だった。
「来たか」
レグルスは剣を構えた。
「魔王、勝負だ!」
「その前に食え」
「なぜだ」
「冷める」
勇者は迷った。かなり迷った。だが、聖女はすでに座っていた。大魔導士も座っていた。剣聖はおかわりの列に並んでいた。
レグルスは負けた顔で椅子に座った。
食事は、うまかった。
悔しいほど、うまかった。
温かい汁が体に染み、焼きたてのパンは外が固く中が柔らかい。干し肉を噛み続けていた顎が、ようやく許された気がした。
食後、勇者は剣を置いた。
「魔王。なぜ人間界を攻める」
魔王は腕を組んだ。
「北方の農地が痩せた。魔族領だけでは冬を越せない。王国へ交易を求めたが、拒否された」
「そんな話は聞いていない」
「勇者に聞かせる前に、王宮が止めたのだろう」
「なぜ」
トマが鍋を片づけながら言った。
「魔王を倒した方が、説明が簡単だからでは」
食堂が静かになった。
魔王はため息をついた。
「我らも、できれば戦は避けたい。戦争中は献立が単調になる」
「理由が食事なのか」
「大事だ」
「大事ですね」と聖女が言った。
勇者は頭を抱えた。
その後、勇者パーティーと魔王軍は、食堂で和平交渉を行った。
議題は、農地、交易、国境警備、捕虜の扱い、共同厨房の設立である。最も揉めたのは、共同厨房の献立名だった。王国側は「野菜スープ」を主張し、魔族側は「冥府の滋養汁」を譲らなかった。
最終的に、王国側は「野菜スープ」と呼び、魔族側は「第七深淵より帰還せし根菜たちの停戦汁」と呼ぶことで決着した。同じ鍋を指しているのに、両者とも勝った顔をしていた。
王国へ戻った勇者レグルスは、国王に報告した。
「魔王軍とは和解しました」
国王は玉座から身を乗り出した。
「倒しておらぬのか」
「倒す必要がありませんでした」
「では、民に何と説明する」
レグルスは少し考えた。
「食べれば分かります」
数週間後、王都の広場で、王国と魔族領の共同炊き出しが行われた。
最初、人々は警戒した。だが、湯気の立つ鍋には勝てなかった。子どもが最初に食べ、大人が続き、最後には貴族まで列に並んだ。
「これは何という料理だ」
「野菜スープです」
横から魔族が訂正した。
「第七深淵より帰還せし根菜たちの停戦汁です」
「どちらでもいい。おかわりを」
その日、王都では魔族への恐怖が少し減った。
もちろん、すべてが解決したわけではない。偏見は残り、国境には問題があり、魔王の角を見て泣く子どももいた。けれど、同じ鍋を囲むと、少なくとも相手が何を食べるのかは分かる。
それは和平の第一歩として、悪くなかった。
トマは、王国と魔王領の共同食堂長に任命された。
肩書きは長かった。
「王国魔族領共同食糧文化交流庁特別厨房統括官」
トマはすぐに覚えるのを諦めた。
「料理番でいいです」
そう言うと、魔王も勇者も頷いた。
ただ1つ問題があった。
勇者レグルスが、しばしば厨房に現れるようになったのだ。
「トマ」
「何ですか」
「今日の昼は」
「自分で並んでください」
「私は勇者だぞ」
「食堂では番号札です」
レグルスは番号札を見た。47番だった。
「世界を救った勇者なのに」
「今は昼時なので」
聖女はすでに12番を持っていた。剣聖は2回目のおかわりに並んでいた。大魔導士は食堂の隅で、干し肉を封印する魔法陣を研究している。
魔王は1番札を持っていた。
「なぜ魔王が早い」
「開店前から並んでおられました」
「魔王なのに?」
「魔王でも腹は減ります」
トマは大鍋をかき混ぜた。
今日の献立は、豆と芋と根菜をじっくり煮込んだ汁物だった。
王国側の札には「国境野菜のスープ」、魔族側の札には「千年戦争を弱火で煮込んだ和解シチュー」とある。名前は少し物騒だが、胃にやさしい。
食堂の扉が開く。
人間も、魔族も、勇者も、元敵も、番号札を握って並んでいる。
トマは声を張った。
「次の方、どうぞ」
世界はまだ、完全には平和ではない。
けれど少なくとも、今日の昼食は温かい。
そして温かい昼食がある世界は、滅びるには少し惜しい。




