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最終回

 純粋という事、それはつらいです。しんどいです。絶えず自らについて点検を重ね、しかも容赦があってはなりません。しかしその本気は人間にまたとは得られない尊いものをもたらします。一切嘘の無い本心で何かを育てる事が出来ます。私が描きたかったのは絵里子の純粋です。敬一郎のみならず絵里子自身を救い生きていく上で強くしてくれる、自信をもって人生を歩いていける、そういう純粋です。人間二人が夫婦となって一緒に何十年も旅をしていく、その時に最も大切なものは何か。この作からそれを汲み取ってもらえれば嬉しいです。

 敬一郎と絵里子と子供、この後のこの家族に幸いあれ。

「もっと早くに君に手紙すべきだったのは分かっている。しかし自分が軽率に受けて仕舞った立場の所為(せい)で、また相手が悪徳な金貸だから、吉松に居る君にまでも迷惑がかかるかも知れぬ、それがどうしても憚られた。事情を知れば君は何を犠牲にしても僕を助けようとするだろう。だから言えなかったのだ。どうか赦してほしい」

 最後にこうも書いてあった。

「勿論、君が最早僕の顔など見たくないというのならば駅に迎えに来ないでほしい。そしたら僕は一旦吉松の町に戻ってから改めて出て行く。そして二度と戻らないから。何処(どこ)かの町で、君の幸福を祈っている」

 絵里子は冷静にこの手紙を読んだ。矢張敬一郎は自分で身を持ち崩したのではなく誰かを助ける為にこんな時間を過ごしていたのだった。そこは絵里子の思っていた通りだった。しかし何故か涙が出ない。自分と子供が世の中に放り出されるかどうかが懸かっている重大な手紙だというのに、絵里子はそんなに慌てふためいてはいなかった。勿論嬉しいのだ。敬一郎が無事だった事、そして大変な問題を解決してまたこの吉松の町に帰って来る、これ以上に喜ぶべき事があろうか。しかしどういう訳か、ひどく他人事の様な気になった。絵里子は手紙を抽斗(ひきだし)の中に大事に仕舞い、いつもの様に子の世話と家事をして過ごした。何かが自分の中で渦巻き、混乱している。事情を整理出来ていないのだ。それが何なのか自分でも分からない。そのうち絵里子は何だか気が変になってくる感じがして、子連れでまた駅近くに行き子と一緒に汽車の通るのを観ていた。子も最近は汽車が通ると歓声を上げ、時々列車に向かって手を振る。それを見詰めながら絵里子は突然、小さな声で口に出して言った。

「私が最早(もう)敬一郎さんを愛していなかったら、()うしよう」

 吾ながら変だった。おかしな言葉だった。しかしこの言葉を口にした刹那、ぼんやりしていた絵里子の気持ちが急にかたちになってきた。朝靄がみるみる霽れて行く様に自分の想念が具体的に言葉になってきた。

「そうだ。私の感じている不安は、私が敬一郎さんをもう愛していないのではないのかという不安だ」

 敬一郎は長く自分を不安の中に置いた。いや、それは言わないにしても自分の中ではもう、敬一郎が帰って来ないならば子供と二人何とかして世の中で生きていこうという気持ちが育ちつつある。そうだ、敬一郎を待たない気持ちがだ。敬一郎を待たない心、それは直ちに最早敬一郎を愛していないという事ではないのか。その人無しでも大丈夫、それは既に愛が失われているという事以外の何だ。しかしこの気持ちが生まれてきた事はどうしようもない。そんな気持ちが湧いてきてほしくはなかったが、それでもそれを自分はもう自覚している……。

 自分は待ってはいなかった。途中から、いつの間にか、自分は敬一郎を待ってはいなかったのだ。また二人で、いや子供と三人で暮らす。それは出来ない話ではない。それが何かを裏切る様な行動ではないのだろう。しかし、自分は待っていなかった。自分を待っていなかった女を、敬一郎は即座に見抜くだろう。敬一郎ならまだ一言の言葉を交わさぬうちに、絵里子を一目見ただけで見破るだろう。それは賭けてもいい。するとそれは決して元の二人と同じ関係ではない。そこには既に埋め難い溝が出来てしまっている。絵里子はこの時本当に心から、自分が敬一郎無しでは生きていけない女だったら良かったのにと思った。しかし現実は違った。絵里子は敬一郎無しでもちゃんと生きていける女だった。それを絵里子が誰よりも自覚していた。そしてその事が絵里子を苦しめた。絵里子は毎日、敬一郎が吉松の町に帰って来る日を恐れる様にして過ごした。

 その日が来て、敬一郎を迎えに絵里子は子連れで駅に向かった。絵里子は不安に脅えていた。どうしても胸を張って、

「お帰りなさい!」

と言う気持ちになれなかったからである。駅に入る入口の傍に蓆を敷いた乞食が一人座り込んで居た。それを見ると絵里子は何か表現出来ない気持ちになった。懐中から若干の札を出して、

「少ないですが」

と乞食に手渡すと、乞食は昔絵里子が敬一郎と初めて出会った時と同じ様に紙幣を数えた後で、

「ありがとうございます」

と深々と頭を下げた。するとその時からまた何かがもやもやと絵里子の胸中に湧いてきた。

「敬一郎さんはこうして、誰かを助けて来たんだ。ずっと」

 すると、絵里子の内側にとても懐かしい感覚が甦ってきた。それはこの三年間というもの、絵里子が全く忘れていたものだった。三年前には、敬一郎と共に暮らしていた時までは確かに絵里子がもっていたものだった。何か不思議な印象が絵里子の中に残った。だが絵里子はその時点ではそれが何なのか、まだ解らなかった。

 駅のプラットフォームで待っていると、三年前に出て行った時と同じ様に機関車が煙を吐いて下り列車の長い編成を牽いて入って来た。どやどやと客が降りて来たが、最後になって二等車から一人の作業着の男が降りた。一目で敬一郎だと分かった。もう手を引かれて歩く様になった子供を連れて、絵里子はゆっくりと敬一郎が歩いて来る方向に近付いた。近付くにつれて、敬一郎の身形(みなり)が非常に草臥れたもので、また敬一郎自身もとても痩せているのが分かった。

 何と声を掛けようか、どんな顔をしたら良いのか、抑々(そもそも)自分から声を掛けたら良いのか、敬一郎の話に聴き入るべきなのか。それまで絵里子は様々思い巡らせていたが、(やが)てそれまでに絵里子が考えていた事は頭から飛んで行って仕舞った。そして一つの映像が瞼に浮かんできた。それは鹿児島の、敬一郎が消えて仕舞ったあの古く粗末なアパートの光景だった。

「あの時、どんな想いで敬一郎さんはあのアパートから出て行ったのだろう。私に申し訳無いと思っただろうな」

 そして次には二人が初めて出会った吉松の町の食堂での光景が蘇った。

「あの時、敬一郎さんは私と初めて眼が合った時、どうしてあんなに厳しい表情をしていたのだろう。にやにや笑いながら乞食さんに何か施すのは良くないと思っていたからだろうか。そして何故その後私も続いて乞食さんに施すのを、立ち去らずに向こうの方から見ていたのか……」

 するとその時絵里子は、思わぬ事が自分の内側に起こった事を自覚した。

「私は忘れていたんだ。敬一郎さんという人を、忘れていたんだ」

 絵里子は忘れていたのだ。あんな失踪劇だったし、それから最早(もう)三年近くも経っている。おまけに今なら親の遺産云々(うんぬん)という(たぐい)のふざけた求婚者の行列だ。無理も無いが、忘れていたのだ。敬一郎の人柄を、個性を、その人間性を忘れていたのだ。絵里子が忘れなかったのは敬一郎という人間の存在だけだった。敬一郎が本当に自分の前に姿を現した時、その途端に絵里子はその事を自覚した。

 忘れる筈もない敬一郎、毎日その人の事を想って自分が暮らしていた敬一郎、しかしそれでも忘れていた。その魂の面影を自分は見失っていた。彼の顔は忘れなかった。しかし彼の想いは忘れていたのだった。先刻この駅の入口で乞食に施した時、何かよく分からない感覚があった。それはこれだ。間違いなくこれだ。その事で絵里子が好きになった敬一郎の人間性を、その魂を感じたからだ。

 駅のプラットフォームでお互いに歩いて次第に近付きながら、絵里子はこのつらかった三年間をもういちど経験した。しかしそれだけではなかった。絵里子がこの三年の間に失ったもの、それが目の前でもの凄い勢いで再び建て上げられていった。途中から絵里子にはもう分かった。敬一郎の眼前に立つまでのあと数秒の間に自分は三年前の自分に戻る事が出来ると。涙が溢れてきた。自分は待った。待つ事が出来たのだ。元のまま、三年前の自分のままで。これなら敬一郎に心の底を見られても、見通されても、何も恥ずかしくはない。寧ろ見通してほしい。これで敬一郎に心の底からの言葉を掛けてあげる事が出来る。嘘が一切混じっていない言葉で、表情で、魂で、彼を迎えてあげる事が出来る。生活の事ではない、子供の事ではない、自分の未来の人生の事でもない、ただ敬一郎が生きていた事、そして故郷に、二人が出会った町に帰って来た事が嬉しかったのだ。その嬉しい気持ちを自分の中に感じた瞬間、絵里子は自分が今も敬一郎を愛している事実を間違いなく信じる事が出来た。愛していなければ、大切に想っていなければ、今ここで嬉しいと感じる事は絶対に無い、そうでないなら嬉しいと感じる事は絶対に出来ないからである。自分は敬一郎を愛していた、そう宣言してもいいのだ。そんな風に思ったから絵里子は泣けたのである。絵里子は心から幸せだった。自分を許し、認める事が出来たのだから。三年ぶりの魂の休息だった。

 敬一郎は絵里子と子供の目の前で歩みを停め、

「本当に、済まなかった」

と深く腰を折って謝った。

「いいえ……、……、いいえっ!」

「僕の勝手な行動で、随分悲しい想いをさせた。だからこれから先は、君に尽くしたい」

 絵里子は泣きながら首を横に振った。そして頭を上げようとしない敬一郎に向かって、

「ほらっ、敬一郎さんの息子の敬二ですよ。もうすぐ三才ですっ」

 敬一郎は顔を上げて吾が子を見詰めた。そしてその子を抱こうとしたが、子供は嫌がって泣きだした。

「済まないが、子供は御前、頼む。僕は荷物を持つよ」

「はい」

 そうして三人は駅の改札を出た。改札の駅員は眼を丸くして絵里子から入場券を、敬一郎から乗車券を回収した。そしてまだ次の上りの客が改札を通っているのに自分の改札を閉めて仕舞い、直ぐに他の駅員達に遂にあの娘の夫が帰って来たと触れて廻った。駅員や待機中の機関士、車掌らがどやどやと出て来て駅の改札の外で親子三人を取り囲み、祝福の言葉を掛けた。最後に吉松の駅長までが出て来て、

「そうか、あんたがこの婦人の夫なのか」

と偉そうに言い、続けて絵里子に向き直って告げた、

「これは(わし)からの記念品だ。受け取ってほしい」

 そう言って、絵里子に切符を三枚手渡した。絵里子が見ると、それは三枚共が吉松駅から鹿児島駅迄の往復の一等乗車券だった。一枚は子供料金用の切符だった。それにご丁寧に日付蘭が空白になっている。乗る時に乗車日を書き込めばいつでも使えるという訳だ。まことに行き届いている。絵里子は、

「有難うございます。家族三人で行かせて頂きます。駅の皆さんにお土産を買って来ますね」

と、まだ半分泣きながら言った。

 駅前に一台だけ停まっていたタクシーまでもが親子三人の前に微速でずずいと出てきて、窓から運転手が顔を出した。

「さっ、お家まで行きましょう。(さすが)に、今日は運賃は要りません。祝いですから」

 子供は滅多に乗る事の出来ないタクシーに乗る事が出来るのを喜び、嬉々として真っ先に車内に躍り入った。次いで敬一郎は恥ずかしそうに申し訳無さそうに、腰を屈めて後部座席の子の隣に乗り込んだ。最後に絵里子が反対側のドアを開けて自分が乗り込む前に一同に礼をすると、周囲に歓声が上がった。

 思わず空を見上げた絵里子はこの瞬間こんな事を想った。

「結局、敬一郎さんの魂が私を離れた事は無かったんだ……。私がつらかったのは、私の信じる事が足らなかったせいなんだ。謝るのは私の方です、敬一郎さん……」

 後で絵里子の母が聞いたところに拠ると、彼ら親子が車に乗って去った後も吉松駅前は暫く人だかりがなくならなかったらしい。其処(そこ)に居た者は皆笑顔だったとの事である。そしてこの駅前に集まった一同を感動させた一幕は直様(すぐさま)鉄道関係者全員、詰まり吉松の町の全人口の三分の一に知れ渡り、程無く町全体に広まった。


(了)


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