その三
絵里子の心の動きを描いている時、私もつらかったです。きっとこんな事を思っただろう、こんな事に苦しんだだろう、そんな気持ちが次々に浮かんできました。それらを当事者である絵里子自身が感じる時、真実につらかったと思います。
ですが人生には試練がやってきます。そこを乗り越えないと信頼出来るものが自分の中に築かれません。絵里子は懸命に戦っていたと思います。
これは確かにその通りだ。そう、そういう道の踏み外し方も確かにある。自分からというのではないにしても引っ掛かる、騙されるという事だってあるのだ。それも善人であればある程これは確かに陥り易い。絵里子のこの仕事仲間もそんな事を平気で口にする辺りあまり褒めたものではないが、それでも言ってる内容には説得力があった。残念ながらこういう言葉を聞く時には絵里子の不安は増した。不幸に、哀しみに堪えるというのは難しい。その最大の敵は時間だ。希望のもてない果てしなく長い時間が徐々に金剛の決心を色褪せさせ、ささくれた艶の無いものに変えていくのだった。
絵里子の両親は娘を刺激せぬ様、新しく希望のもてる話をまとめようと工夫した。兎に角一回一回の縁談の話の間隔を空けるのだ。半月に一回は良くない。しかし三ヶ月に一回となると大分話が違う。それに、まあ両親の目から見てじっくり検討して良い相手に厳選出来るというものだ。そんな、絵里子とその子の将来の為を思っての涙ぐましい両親の配慮に拠る話し合いの場で、絵里子は落ち着いて興奮せず自分の気持ちを両親に伝えた。
「若しも今、敬一郎さんが帰って来て、その時に私がもう誰か他の人と再婚していたら、私はあの人に何と言ったら良いのですか。そんな事をしたら、私は私の人生を自分で葬って仕舞う事になります。その時敬一郎さんがどんな顔をするか、その表情がはっきりと目に浮かびます。そしてそんな敬一郎さんに向かって言う言葉がありません。そんな事をしたら、申し訳ないと思うのは絶対に私の方です。私はそんな事はしたくありません。その後私は一生敬一郎さんに済まない済まないと思って生きなければなりません」
両親は顔を見合わせた。そしてこれはちっとやそっとで気持ちを変える事は無いと諦め、更に時間をおく事にした。
「まあ、あんたの気持ちがそんなに堅いのなら、今はこれ以上言いません」
母親はそう言って立ち上がり、続いて父親も座敷から出て行った。父親は座敷から出て行く時に絵里子を見たが、その表情には一片の苛立ち僅かの憤怒も無かった。そうではなく心底から絵里子とその子、自分の子と孫の将来を心配する心根に満ちていた。絵里子は父親のその顔を見ると遉に黙って居られなくなり、
「心配掛けて、本当に済みません」
と両手をついて深く頭を下げた。
「まあ、最後は御前が決めればいい。ただ儂らは御前の心配をしているだけだ。それは分かってくれよ」
「はい」
涙が落ちた。その通りだと絵里子も思うからだ。絵里子は家にいたたまれずにまた赤子を背負って駅近くの線路端に逃げて来た。汽車の汽笛や蒸気の音を聞いていると本当にいつ敬一郎が戻って来てもおかしくないと思えるのに、彼は帰って来なかった。絵里子は子を背負ってぼんやり放心した様に立っていた。その時突然或る想念が絵里子の頭に浮かんだ。
「私は本当に敬一郎さんの事を好きなのだろうか。愛しているのだろうか」
絵里子は先刻母親に、若しも今敬一郎が帰って来てその時に自分がもう誰か他人と再婚していたら敬一郎に合せる顔が無い、と言った。それはその通りだ。本当に自分の本心の言葉だ。しかしそれは敬一郎を愛している事の証明になるだろうか。自分の生き方を通すというのは確かにそれで、こうして独り身で居る事で貫く事になる。しかしそれは必ずしも敬一郎を愛している事にはならない。自分の誇りを守る為にそうしているという説明も可能だからだ。子の世話をしながら敬一郎の帰りを待つ、変なのが列をなして再婚の申し出をして来るのを相手にせずに便りの無い夫を待つ。その情熱が一体どこから来ているのかを思うと、絵里子は必ずしも敬一郎を愛しているとは言えなくなって仕舞った様で、複雑で絶望的で疲れ果てて仕舞うのだった。帰って来てほしい。今も心が私のもとにあると、手紙で知らせてほしい。しかしそれが出来ないのは一体何故……。
こんな事を悩まねばならないのが、それが悩みとして自分の心を占拠しているのが心底情けなかった。しかし何うしようもなかった。長過ぎる希望の無い忍耐は自己制御、自分で自分の心を御する力を奪う。そしてまたそれを完全に自覚しているところから、譬え様の無い惨めさが湧いてくる。若しも敬一郎が手紙一通寄越して今の事情を教えてくれたなら自分はここまで嫌な想いに追われなくて済むのに。自分が絶対と信じたものが信じられなくなって霧がかかった様にその輪郭がぼやけていき、終には全く何も見えなくなって仕舞う。そして今度その霧が霽れたら其処には最早何も無い……。絵里子はそんな気が絶えずしていた。
「私に何か、悪いところがあったのだろうか」
いつしか絵里子はそういう想いから逃れられなくなっていた。いつも考えた。見捨てられて然るべき何かがあっただろうか。敬一郎は優しい男だからそれに気が付いても気が付ないふりをしていたのだろうか。そして遂にそれが我慢出来なくなって、鹿児島に出て行ってそれで、もう私が嫌になって……。しかしこれも変だった。腑に落ちなかった。確かに敬一郎は優しい男だが、嫌なものを数年間おくびにも出さず笑顔で我慢しているといった人間ではない。優しいが言うべき事は言う。では、では、何故……。赤子が泣いてその世話をする時、絵里子は出来るだけいつも笑顔でしていた。赤子には笑顔で接したかったからだ。しかし時々はそれが出来ない事がはっきり分かる日があった。夫を信じられない日や、自分が誇りをもって行動していると思えない日がそうだった。
敬一郎が吉松の町を去って二年が経ち、絵里子への再婚の申し出は一時よりもその数が減ってきた。しかしまた別の困った事が起きた。それは変な男からの申し出はなくなってきたが、純粋に絵里子への同情心配を基礎にした善意の結婚の申し出が何件か残った事である。
「何か手伝える事はありませんか?」
「有難うございます。でも、私は今何とか暮らす事が出来ていますから」
相手も馬鹿みたいに露骨な事は言わない。ちゃんと絵里子と子の暮らしの事から話し始めてくれる。礼節を弁えた内容である。断るのも一苦労だった。絵里子は勿論再婚の意志は無いのだがそれでも、
「その子が小学校に入るのも、直ぐですよ」
と求婚者の一人に言われた時には正直ぐらっときた。小学校に入れば片親だなどと色々言われるだろう。気を廻すのは早いが、親子参観というのもある。それにもう少し大きくなれば学費にせよ生活費にせよ、それこそ絵里子だけの収入では無理になる。
「御心配、有難うございます。でも、それでも私はまだ夫の帰りを待ちたいのです」
そう胸を張って絵里子が返事した時、絵里子は喋りながら自分が虚勢を張っている事にはっきりと気が付いた。今の自分は夫の帰りを待っているのではない。夫無しに生きて行く覚悟が出来るのを待っているのだ、と。
絵里子は早々に相手との話を切り上げて泣きながら家路を辿った。そうだ、その通りだ。夫の帰りを待っているのではない。夫の帰りを待っていながら、実は待っていないのだった。しかしだからといってまだ一人で生きて行く自信はもてない。だからその覚悟が出来るのを待っているのが今の絵里子の本当のありようだったのだ。そう考えるとそれが一番今の自分の気持ちに合っている様に思えた。そしてそう思える事が果てしなく悲しかった。これが一番、敬一郎の失踪で絵里子がつらかった事、間違いなくそうだった。敬一郎が居なくなるや、そして帰って来ないと見るや、もう敬一郎無しで生きて行く心の準備をしている……。
絵里子は自分で自分の愛情も誠実も信じられないと思った。今の自分の気持ちは敬一郎を愛していてその帰りを信じ待っている女の気持ちとは完全に違うと感じた。今の自分の心情が敬一郎に対する愛情の最大の反証なのだ。そうではないのか。そうではないと自らの心を裏切らず言えるのか。涙でぼやける道とその両側の家並み、その中を歩きながら絵里子は思った。
「この先、私は再婚せずに子供を育てる。そして子供は中学を出て働いて一人前になる。その間のどこかで私は本当に敬一郎さんの事を忘れて、彼がいなくても大丈夫な様に自分や自分の生活を仕上げて、そして生きていくんだわ」
そう思うと自分が絶対に守ろうとした、不意に敬一郎が帰って来て自分の眼の前に現れた時誰とも再婚せずに居た自分が子供と二人で敬一郎を迎えるその笑顔の値打ちが、実に取るに足らない下らないものに思えた。そしてその事がとてもつらかった。その日家に帰っても絵里子は子供の顔を真直ぐに見る事が出来なかった。どうしても笑顔になれなかったからである。子と顔を合わせるのも恥ずかしいと思った。
また別の希望者と話をした時にはこんな申し出があった。
「分かりました。では夫の方がお帰りになるまでの間、御暮しを支える事だけ私に許して下さい。それだけです。夫婦の関係は求めません」
これは効いた。絵里子はあの雨後の筍の中にはこんなにも尊い、誠実なものも混じっていたのかと今更ながら驚いた。これは自分の欲を遂げようとする意図からは断じて生まれてこないものだ。それは絵里子にもよく分かった。純粋に絵里子を心配してくれているのに違いない。しかし何かしてもらって、それで『有難うございました』で済む筈が無い。相手がそれを口上に出して求めないだけの事で、此方が申し訳無い事には何も違わない。その此方の申し訳無さが軈ては結局相手が心の奥で望んでいる決着へと続いている事を、絵里子はちゃんと知っていた。相手が悪い訳ではない。深く謀り実に念入りに仕組んでそういう計画を敷いた訳ではなかろう。しかし謂われなく恩義を受ける結果とは必ずそういうものだ。
「本当に申し訳ありません。ご厚意は身に沁みますが、それはお受け致し兼ねます」
良いのだ。誠実な相手に誠実を尽くすとはこういう対応をするという事だ。こういう返事をする事なのだ。仕方が無い。
そんな或る日、絵里子の家に手紙が届いた。それは遂にやってきた敬一郎からの手紙だった。震える手で封を開けようとしたが、差出人の名こそ敬一郎と書いてあるがその住所が書かれていない事に気が付いた。住所を書いていない事一つでその手紙の中身が絵里子にとって嬉しいものかそうでないものかが凡そ分かる様な気がした。
「しっかりしなければ。まだ、何も分かってはいないのだから」
絵里子は自分にそう言い聞かせて封を開けた。子供は隣で何か小さな声を出して遊んでいる。
そこには敬一郎が鹿児島に出て行ってから後今までの事が細かく書いてあった。鹿児島に出て直ぐに困っている仲間の借金の保証人になったところが、その仲間が逃げて仕舞い自分が払わねばならなくなった事、たちの悪い貸金業者だったので一旦鹿児島の町を逃げ出した事、その仲間の親を探した結果見付かって親がその借金を背負ってくれる事になった事などだった。何処ででも何か日銭を稼ぐ仕事をして生きてきたが、漸く算段がついたので近日吉松の家に帰りたいというのが大意だった。手紙にはその日付と何時の汽車で帰るという段取も記してあった。手紙の後半、敬一郎は絵里子に幾重にも謝罪していた。
(最終回に続く)
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