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その二

 絵里子は何よりも嘘の無い気持ちを保ちたかったのでしょうね。敬一郎を偽らず自分をも騙さずに居る事の出来る在り様を探していたのだと思います。絵里子はそれが一番強いものだと知っていた、そうではないでしょうか。誠実な絵里子は苦しみます。

 そんな馬鹿な。一体何が起こったというのか。絵里子の知る敬一郎は借金なんて絶対にする筈がない人間だ。老婆は続けた。

「奥さんにも知らせていないなら、行方は誰にも分からんじゃろう。済まんがな」

 絵里子は老婆に礼を言って敬一郎が居た部屋の前に行き、ドアに手をかけた。ドアは施錠されておらず中を開けてみると何も道具の無い部屋があった。それに暗い。眼が慣れてくると、畳の色がもう変色していて如何にも古いものである事が分かった。壁も雨水が沁みて大理石の模様の様になっている。敬一郎が()んな粗末な部屋に寝起きしながら工場に勤めに行っていたのかと思うと、絵里子は涙が出てきた。本人は恐らくそんな事は一切気にしなかったのだろうが、それでも妻としてもう少し何とかしてやる事は出来なかったのかと自分を責めた。絵里子は何故かこの時、改めて敬一郎の人柄を想い出した。敬一郎は自分で自分の喜びを創って生きている人間だ。出会った時からそうだった。自分自身の満足で喜ぶのではなく、誰か他人の満足が無いと心満たされない人間だ。絵里子は知らないが多分子供の頃からずっとそうなのだろう。そして誰か自分の助けた人が歓んだならば、自分がこういう粗末な暮らしをしていても何も不満に思わない人間なのだ。それどころか豊かなのだ。敬一郎はきりっとした顔付きをしてはいるが、それでもいつもほんのり笑みを浮かべている。それは今までに敬一郎が創ってきた自分の営みに拠って具わったものだ。今、本当に何故か強くそう思う。

 自分は敬一郎を失ったのか。本当に失ったのか。いや、そんな事はない。これは絶対にそんな事とは違う。絵里子は強くそういう気がした。屹度(きっと)これは敬一郎が自分を棄てて何処(どこ)かに逃げて行ったなどという話とは本質的に違う。そんな筋書は敬一郎が今までに示した人間性とあまりにも懸け離れている。信じるべきだ。自分はまだ今までと何も変わらず敬一郎を信じるべきなのだ。それが絵里子がこの場所に来て最後に思った事だった。では今自分がすべき事、自分に出来る事とは何か。

「吉松の町に、私達の家に帰る事だ。敬一郎さんが連絡してくるとしたら其処(そこ)しか無いのだから」

 そして次の瞬間思った。

「早く帰らなければ。直ぐには連絡は無いかも知れない。しかし必ずそれは来る。何年後かは分からないが、必ず来る。仮に来なくても、私はそれでもあの吉松の二人の家で敬一郎さんを待つ」

 絵里子は陽が傾いた鹿児島の街を足早に歩き、駅に向かった。不思議と往路よりもずっと心が落ち着いていた。これから来る、どのくらいになるか見当も付かない長い年月が黒雲の様に自分未来を覆っている事を覚悟して絵里子は帰りの汽車に乗った。

「これから私は独り、いや子供と二人で生きていくのか……」

 動き始めたこれまた満員の三等車の車内で絵里子は思った。敬一郎が吉松の町を去ってから絵里子は二ヶ月程で妊娠と分かり、その事実を敬一郎が帰って来た時に報告する楽しみに取って置いたのだが、この状況ではそれは全く違った経緯を辿る事になる。夫婦で子供を慈しみ育てる夢は消え去った。自分から奪われた。奪ったのは敬一郎か。そうだともいえる。しかし、それでも自分は敬一郎を責めない。敬一郎が何故居なくなったのか、その訳が分かるまでは一片の遺恨(うらみ)が敬一郎に向けられるべきではない。絵里子は夕闇が迫る鹿児島の海の最後の煌めきを自分一生の幸福の名残の様に見渡しながら、吉松の町へと帰って行った。


 敬一郎が行方知れずであるという噂が次第に広まった。近所から駅周辺へ、そして町全体に。吉松の町は昔の閉鎖的な村社会ではなかった。それなりの規模があり、仕事で生活で多くの旅客が行き交う通行の要衝である。既に近代化した中規模の町であり住人一人の家族事情が町中の話題になるなど普通では考えられない事である。ところが絵里子の場合は『普通』でない理由が二つ有った。

 一つは絵里子が駅近くで赤子を背負って汽車を観ている、その姿が多くの人の目に留まっていたからである。確かに一、二回見ただけだと普通に赤子をあやしている様にしか見えないのだが、あまりに頻繁である事から程無く『何か訳があるのかも知れない』と誰もが思い始めるのだった。既に駅周辺や機関士車掌の間では結構噂になっていた。そしてここからが文字通り特殊事情なのだが、当時の吉松は鉄道の町であり町の人口の大略(ほぼ)三分の一が鉄道事業の従事者とその家族だった。広まるのが早いのは当然だといえる。鉄道関係の職員が自分の家族のそれぞれに報知すれば町に住む三分の一がそれを知るという訳だ。

 もう一つ、これが何というか重要な点なのであるが、絵里子が相当な美人であったという事だ。おまけに結婚後そんなに年数が経っておらず、いまだ十分に若かった。この時絵里子は二十を少し越したくらいだった。何が幸いになるか不幸の素因になるか分かったものではない。絵里子の夫失踪という不名誉な噂が広まるや否や、絵里子のもとには結婚やそれを前提にした交際の申し込みが続々とやってきた。

「事情は伺いました。多分見込みは無いのではありませんか。ここらで新しく考えましょう」

 どうしてこんな言葉から話を切り出す事が出来るのだろう。悪気が無い様に見えるところが却って腹が立つ。常日頃人間として如何に浅薄な次元に生きているのか、それが隠そうとする羞恥も遠慮も無く存分に露出してしまっている。絵里子でなくともこれは正に堪え難い代物だ。正面からちゃんと応対すると平静を保つだけで絵里子はへとへとになって仕舞うのだった。そうかと思うと絵里子が我慢出来ずに本当に笑い出して仕舞った相手もあった。

「今なら、親の遺産が手に入るので楽をさせてあげる事が出来ます」

 普段絵里子はあまり品の無い事を口にしない様にしていた。そんな事をすると自分という人間が卑しくなると思っていたからだ。しかしこの時は我慢が出来なかった。

「今なら? 今なら手に入るというのは、()ういう事です?」

「いや、今私が結婚して身を固めるならば、親が次男坊の僕を嫡子にすると言っているもので」

「お兄様がいらっしゃるのでしょう?」

「はい。しかし兄は極道で、先だって親に勘当されました。今何処(どこ)に居るのかも分かりません」

 正直なのは分かった。しかし事の初めが既に駄目なのだ。

「じゃあ、今を逃すと如何(どう)いう事になるのですか?」

「親のお気に入りの、私の弟が家を相続する事になるでしょう。私が相続出来るのは比較的親の機嫌が良い、今だけ」

 ここで絵里子は相手を馬鹿にした様な笑いを浮かべながら席を立った。そしてそのまま赤子を預けてある家に帰って仕舞ったのだが、席を立って料亭を出た時にはもう笑えなかった。そして何ともいえない情けなさでいっぱいになった。

「どうして、こんな事になったのだろう。私に何かいけないところがあったのだろうか」

 絵里子は真剣に考えた。しかしどうしても自分の何かの所為(せい)であるとは思えない。矢張帰って来ない、音信を寄越さない敬一郎が悪いという事になるのだった。しかし敬一郎は責めるには可哀想な男だ。いや可哀想というよりも絶対に何か尤もな訳があるに違い無いのだ。絵里子が聞いたら、

「ああ、尤もだ。それでこそ敬一郎さんだ」

と思える様な理由が。そしてそれがために一層敬一郎を好きになる事が出来る様な訳が。どうしても絵里子にはそう思えるのだった。

「いいなー、絵里子は。やっぱり器量良しは得よねー」

 絵里子にそう言ったのはまだ結婚が決まっていない、絵里子の中学の同級生の一人だった。絵里子は返答に窮した。

「そんな事ないわよ」

 そう答えたら、それは如何にも心無い。だって実際に列をなして申込みがやって来ているのだから。傍から見たら、そういう機会をもつ事が出来ない人間がこれを見たら、矢張羨ましいと思うだろうから。絵里子は言おうと思った。

「変なのが殆どよ」

 多分本当のところ、そうなのだろう。それは既に絵里子が散々毎日経験している。馬鹿馬鹿しい限りの茶番な時間を過ごす事がどれ程虚しく何も生み出さない、自分をすり減らすだけの結果なのか既によく知っている。大体こんな状況の時に平気で申込をして来るという事自体、無神経である事を自分で証明している様なものではないか。到底自分や敬一郎との間に出来た赤子を大切にしてくれるとは思えない。しかしその通り友達に言う訳にもいかなかった。その友達には抑々(そもそも)そういう申し出自体がまだ一件も無かったのだから。

「ごめんね……」

 絵里子は結局そう言うしかなかった。こういう時、絵里子は本当につらかった。しかし問題は絵里子の両親だった。

「御前、そろそろ諦めて、次のを選んだら()うだ」

「お父さん、その『次の』って言うのはやめて。どうしてそんな言い方しか出来ないの?」

「でもな、実際に戻って来ないんじゃ(なあ)。御前が一番困るんだぞ」

「そうよ、私もお父さんと同じ考えです。その子の為にも、父親は要りますよ」

「…………」

「今なら御前もまだ若いし選べるけど、そうそう何才(いつ)までもとは限りませんよ」

「お母さん、お母さんの言葉は身も蓋も無いわ。もうちょっと、娘の気持ちも考えてよ」

「私達は二人とも、御前の為を思って言ってるのよ」

「うん、それは分かってるけど、申し訳無いと思ってるけど……」

 こういう会話が絵里子には一番つらかった。父母の最後の言葉が全てを物語っている。その通りなのだ。親切の、善意のかたちで自分に提示される申し出を受けられない時程苦しい時は他に無い。そしてそういう話は何も家の中だけとは限らない。

「あんたね、漁師の夫の船が難破して帰らず浜でそれを待つ女じゃあるまいし……」

 吉松駅の近くでいつもの様に赤子を背負い通り過ぎる汽車を眺めていた絵里子は、怒らず穏やかに返した。

「おばさん、そんな言い方はやめて。私真面目なんですから」

「でもねえー。見てられないよ」

「私、そんなに悲観してないです。そんな悲しそうに見えますか?」

「でも実際……、帰って来ないじゃないか」

「何か訳があるんです。だから、そんな顔して私を見ないで下さい」

 絵里子がいつも汽車を眺めている場所の近くに家があるおばさんだった。名前も知らない人だがそれなりに優しい人である事は顔付から知れた。純粋に同情してくれているのだが、赤子と汽車を観る時くらいそっとしておいてほしい。

「でも多分……」

 絵里子は思った。

「人が他人の不幸に見える事にこうして首を突っ込むのは皆結構不幸だからに違いないわ。だから同情するのに違いない。別にこの吉松の町で私一人が不幸な女である訳じゃないのに……」

 しかしこの手の薄幸は目立つのだ。それが困る。心の(うち)にひっそりと想い続け、何十年もの間育む様に大切にする悲しさもある。それは誰にも見えない、誰も知らないのだ。しかし絵里子の場合は一番周囲に知れ渡る性質のものである。それも見様に拠っては絵里子が自分でそれを周囲に宣伝しているとも受け取れる。何しろ赤子と一緒にしょっちゅう汽車を観に来ているのだから。

「でも、それは私の勝手じゃない」

 そうなのだが世の中は思慮深い人間だけではない。正に絵里子が思った通り不幸な人間、或いは自分は不幸であると思っている人間が多いからこそ、絵里子の線路端日参がそっと見守られる事にはならず町中の話題になる結果となるのである。絵里子は世の中がそういうものであると知っていながら、自分は間違っていない、だから自分の行動を改める事はしないとこう考えていた。それで毎日の余計な世話に心乱す事もないというのであれば覚悟もしっかりしているのでそれで良いのだが、そのくせ色々言われると内心結構腹を立てるのだった。絵里子はいろんな事を思った。若しや鹿児島の街で他に好きな女でも出来たのか。しかし世間でよく耳にするその種の話はどうしても敬一郎の人柄と合わない。

「分からないわよー、男なんてー」

 そういう言葉を聞く度に絵里子は、

「それはあなたが選んだ男がその程度だっただけの話でしょう。それはそんな男を選んだ自分を辱めているだけだと、どうして分からないの」

と思った。しかし口には出来ない。そんな事を言っている友達にも若干ではあるが同情すべき余地が無いともいえないからである。

「みんな、自分の男だけはそれはないと思って、それで引っ掛かるのよねー」

 確かにそうだ。それを否定はしない。一般論としては確かにそうだ。けれども性格として敬一郎にそれはどうしても不似合だった。そういう事が出来る人ではない。大体があの人は所謂柔軟に物事を考える事をしない。別に偏屈という訳ではないのだが何と表現すべきか、一度こうだと思うとそれが後になって変化するという事があまり、いや絶対に無いのだった。そして一度こうだと思うその事、そこが決定的に絵里子が理解出来るものなのだった。絵里子が、

「多分敬一郎さんは、これにはあまり興味が無い筈だわ」

と思った事には確かに敬一郎は特に何も感じないのだった。そして、

「これは見せない方が良いわ」

と思える事は、それが敬一郎の眼に触れて仕舞ったが最後確かに敬一郎はその事に没頭してしまうのだった。それは大抵が弱い者への同情、その要素を含んだ何ものかだった。元々が遊び人とかやくざならば『分からないわよー』というのもすんなり当て嵌まる。しかし元来が善人なのだ。そんな事はどう考えてもしっくり来ない。

「善人だったとしても」

 これは絵里子の親しい仕事仲間の言葉だが、

「善人だからこそ、引っ掛かって墜ちて行く男もいるじゃない」


(その三に続く)


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