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その一

 この小説は平成二十八年十一月、つまり今から九年前に書いたものです。昭和中期の肥薩線吉松駅の鉄道写真を私が見た事で頭に浮かんだストーリーです。その写真には現在のグリーン車に相当する三等級制時代の特別二等車とは別の普通の二等車、いわゆる『並ロ』というクラスの客車が連結されていました。この小説の時代は既に二等級制になっていましたから一等車と記していますが、その並ロの最末期に当たる時代です。私の生まれる、本当に僅か数年前です。

 そんな時代にどんなストーリーが、人間の人生があったのでしょうか。きっとこのお話にある様な、人間の素直で純粋な物語が紡がれていたのではないでしょうか。私はこの時代を愛します。現代より著しく不便で庶民は貧しくあっても、それでも愛します。

 絵里子が赤子を背に負うて国鉄肥薩線吉松駅近くの線路端で汽車を観ている姿は、通り過ぎる地元の人間の涙を誘った。絵里子が其処(そこ)に立つのは季節に関係が無く、仕事が無い日に雨が降っていなければまた風が強くなければ立っていた。それもそんなに長い時間立ち尽くしているのではない。いつも半時間程も無い。背中の赤子を揺らしてあやしながら通り過ぎる汽車を見送っていた。

「絵里子さん、まあ、汽車の煙もあるから家に帰ったら」

「これぐらいは大丈夫。もうちょっと見て行きます」

「絵里ちゃん、うちの家で夕御飯食べない? 絵里ちゃんの好きなおはぎ」

「わあ、有難う。でもあとちょっとだけ汽車見て、それから行かせてもらってもいい?」

 絵里子は大抵落ち着いた表情をしていた。少しだけ微笑むといった感じだったので旅行客やこの町の住人でない者には別に珍しくもない、単に線路端で赤子に汽車を見せている子守にしか見えなかっただろう。少なくとも(はた)から見た時には何ら悲劇的な要素は具えておらず、どちらかというと田舎の長閑な風景に溶け込んでいる。好事家ならば『山間の駅にて』とかいった標題を付けた写真を撮りそうな、そんな構図だった。しかし地元の皆は知っていた。絵里子が何故其処(そこ)によく来ているのか、本当のところ何を見に来ているのかを。

 絵里子は中学を卒業すると地元の店で働き始めた。そして三年程で良い男性が見付かり、無事に結婚した。相手は同じ吉松の町の自動車工場で働いていた五歳年上の男、名を敬一郎といった。或る日絵里子が勤めている店の店主や店の他の奉公人達と一緒に食堂に入った時、外に一人の年寄の乞食が居た。髪がぼうぼうに伸びていて男か女かも分からない。食事中も絵里子はそれが気になってあまり料理の味が分からなかった。そこで店員に頼んで一枚の茶封筒を貰い懐中のなにがしかを入れて外に出ると、其処(そこ)には一人の労働者風の男が居て自分も粗末な作業着を着ているのにその乞食に竹皮に包んだ握り飯と、剥き出しではあるが木賃宿ならば十日程も泊まる事が出来るくらいの金額の札を渡していた。絵里子が茫然とその場に立っていると男は厳しい顔をして絵里子を見詰め、無言で去って行った。絵里子は自分が乞食にあげようとしていた封筒を背後に隠した。絵里子が封筒に入れたのはほんの二、三回食堂に入る事が出来る程度の金額だったのである。それが急に途轍もなく恥ずかしく、みっともないものに思えたからである。しかし絵里子は思い切ってその乞食に近付き、

「少しですが」

と言ってその封筒を渡した。乞食は絵里子に深く頭を下げて早速中身の多寡を確認したが、その後で再度絵里子に対して深く、

「ありがとうございます」

と礼をした。そうして絵里子が再び店の中に入ろうとして不図(ふと)見ると、通りの向こうで先程の男が此方を見ているのに気が付いた。男は絵里子が自分を見ているのに気が付くと、直ぐに通りを曲がって見えなくなって仕舞った。そして絵里子は何ともいえない気持ちになったのだった。

 これが絵里子と敬一郎との出会いだった。勿論普通ならばここから先の進展というものは期待出来ないのだが、絵里子の方がただでは済まなかった。絵里子は店の中で仲間との雑談の合間を見てさり気なく店員に訊ねた。

「今店先で、私よりちょっと年上の作業着のお兄さんを見たのですが、このお店に来る人ですか」

「うーん、それだけでは誰かわからん(なあ)

「今店先の乞食さんに何かあげてました」

「ああ、それなら、此処(ここ)から一寸(ちょっと)南に下った所にある自動車工場の工員さんだよ。優しい人なのかねえ、時々食べ物やお金をあげてるみたいだ」

「そうですか、有難うございました」

 店での夕食会が済んだ後、珍しく絵里子は家に真直ぐ帰らずに寄り道をした。その自動車工場は直ぐに見付かった。そんなに大きな工場らしい作業場ではなく間口の広い家を二軒程壁を取り払ってくっ付けた様な奥行きの無い造りで、煌々と電気を点けて作業している数人が居た。自動車の修理工場の様である。その中の一人に間違い無く先刻の工員が居た。絵里子がそれだけ確認して立ち去ろうとすると今度はこの工員が絵里子を認め、走り寄って来た。

「あの、僕が言うのも変ですが、あの乞食に恵んでやって頂いて有難うございました」

「いいえ。全然少ない額です。工員さん、あんなにあげて仕舞って大丈夫なんですか?」

「僕は何とでもして食べられますから。じゃっ、もう暗いですから家まで気を付けて」

 そう言って工員は持ち場に戻っていった。絵里子はその後ろ姿に深く礼をして家路を急いだ。その後絵里子と敬一郎は暫く吉松の町にあって交際し、絵里子が十八の時に結婚したのだった。

「絵里子はどうして敬一郎さんと結婚したの? そんなに男前じゃないし、お金持ちでもなさそうだけど」

 そんな事を友達に問われて絵里子は、

「あの人は優しいの」

と返事した。そしてすぐに付け足した。

「私に、よりも、人に。多分、困っている人に優しいの。だから」

 絵里子が敬一郎のどこを好きになったのか、よく分かる話である。

 結婚後二人とも仕事を続けていたが、或る日敬一郎が絵里子に言った。

「実はな、絵里子」

 絵里子は繕い物の手を止めて返事した。

「はい。何でしょう」

「僕は今の工場を辞めて、鹿児島の工場に勤めようかと思ってるんだ」

「そうですか。でもどうして?」

「最近は自動車もだいぶん増えてきて修理の仕事も結構あるんだが、何と言っても大きな街の方が仕事が多い。この先今の仕事でやって行くなら、鹿児島か少なくとも八代くらいの大きさの街でないといかんだろうと思ってな」

「でもそうすると、引っ越しするという事ですか?」

「そこなんだが、最初に僕だけが行く。そして仕事が軌道に乗って引っ越し費用を含めてそれなりに金が貯まったら、御前を呼び寄せる。それで如何(どう)だろう?」

 暫く考えてから、絵里子は言った。

「あなたがそうしたいのなら、それでいいと思います。私はこの吉松の町が故里(さと)ですから此処(ここ)が良いですが、八代でも鹿児島でもそんなに遠くはないですから」

 そう言って絵里子はにこっと笑った。安心した様に敬一郎は言った。

「そうかあ、有難う。承知してくれて嬉しい。じゃあ、近いうちに社長に言ってみる」

 敬一郎の自動車工場の社長は真面目に働く敬一郎を手放すのを残念がったが、それでも敬一郎の言葉に理が通っているので無理には引き留められず、程無く敬一郎の辞職が決まった。そしてそれだけでなく社長は取引先の会社の鹿児島の工場に話を付けてくれた。敬一郎の転職はとんとんと進んだ。そして結婚して一年で敬一郎は意気揚々と新天地に出掛けて行ったのだった。毎月ちゃんと絵里子に仕送りをすると約束して。

 絵里子は特に淋しくもなかった。吉松と鹿児島市街ならば汽車の各駅停車でも三時間弱で着く。準急なら二時間だ。東京や大阪、また博多や長崎の様なそんな遠い場所ではないのだから。

「敬一郎さん、気を付けてね」

「ああ、休みには帰って来るから。御前も無理をするなよ」

「はい。待っています」

 出発の朝、絵里子は駅まで敬一郎を見送りに来た。肥薩線下りの普通列車が吉松駅構内に進入する。矢岳、黒園、飯盛、栗野等の山に囲まれた吉松に到着するまでに先頭の蒸気機関車は既に相当疲弊している。機関助士は停車中も荒れた火床整理に忙しい。給水もだ。そんな濛々たる黒い煙の中敬一郎は白帯を巻いた一等車に乗り込んだ。絵里子は驚いた。普段は絶対に贅沢をしない敬一郎だが自分で選んで踏み出した道に進むのが嬉しかったのだろう。敬一郎が開けた窓から絵里子が車内を覗き込むと、背摺も木板ではなく優雅なクッションであり、白い綿のカバーまで掛けられている。絵里子は何も言わず、ただ敬一郎の顔を見詰めてにこっと笑った。

「さて、()うなる事やら」

 敬一郎がにやにや笑いながらそう言うと、

屹度(きっと)、大丈夫ですよ。私はそんな気がします」

と絵里子が応じた。しかしこの時絵里子は子供の様な事を想った。この吉松は山々に囲まれたそんなに大きくない町だが、その囲まれている事が却って何か世の中の厳しさから自分達を守ってくれている様な気がしたのである。何の根拠もありはしない。しかしそう感じたのである。そして何故か敬一郎も屹度(きっと)同じ様に思っていると感じた。普段の暮らしの中でそんな事は何も感じないが、こういう時に分かるのだ。詰まり絵里子は故郷を愛していたのである。

 汽笛が鳴って列車は動き出し、絵里子はそれを見送った。長い編成の普通列車が身体をうねらせる様に構内の渡り線を渡り、(やが)て行って仕舞った。列車の姿が見えなくなり絵里子が駅を立ち去ろうとすると、遠くで一度汽笛が鳴った。思わず絵里子はそちらを振り向いた。そして汽笛というものが寂しいものであるという感覚を生まれて初めて味わった。

 敬一郎が鹿児島に行ってから絵里子のもとには頻繁に郵便が着き、そこには敬一郎が鹿児島で頑張って働いている様子が書かれていた。そんなに多くはなかったが為替で仕送りもされてきた。結婚しても絵里子は仕事を続けており敬一郎もそれを認めてくれていたので仕送りが無くても暮らしは何とかなったのだが、そのうちまず仕送りが止まった。何事かあったのだろうかと思っていると、郵便も回数が少なくなってきた。敬一郎が吉松を出て半年程だった。敬一郎は中々吉松の町に帰って来ないがそれは仕事を熱心にしているからだ、絵里子はそう思っていたが、仕送りはともかく郵便が少なくなってきた事を絵里子は心配した。そのうち郵便も来なくなった。

「あの人が私への郵便をやめるというのは仕事が忙しいだけじゃない。何事かあったのだ」

 絵里子は或る日の早朝、赤子を実家の母に預け吉松の駅から鹿児島行きの普通列車に乗った。朝も早いのに三等の車内は荷物満載の行商の客や、背広姿で煙草の煙を立てながら新聞を読む会社員でいっぱいだった。あまり快適とはいえない。それに遅い。吉松から南に下る路線は基本的に下り勾配だが登り坂も多少はある。すると急に速度が落ち、沿道を並行して走る自転車の方が速いくらいだった。おまけに機関車の煙も凄い。数え切れない程多い隧道の度に誰かが窓を閉め忘れて其処(そこ)から到底呼吸が出来ない程濛々たる煤煙が流れ込む。車内に怒声があがる。隼人の駅に着くまでに絵里子はもう席に座って居られなくなり、一番後ろの車輛の最後尾のデッキに立った。一番後ろなので煤煙もまだましである。開け放たれた連結面の通路の幌から絵里子は流れる風景を眺めた。空は晴れているが、そして寒くも酷く暑くもないが、何ともいえない不安が胸中に湧いてくる。数か月前敬一郎が一等車に乗って元気に出発した時の様子が思い出された。その時の敬一郎の表情、絶対に出発の時点から何かがあった訳ではなく行った先で思わぬ事が起きたに違いない。

 錦江湾が見える所まで来た時、波に反射する陽の光が茫然と美しかった。遠くに桜島の美しい山裾が見えた。嘗て、そして今も数え切れない程多くの人の想いを集めた桜島。今の自分の如き中途半端で息詰まる様な気持ちをもって見上げた者が居ただろうか。こんな場所には何の不安も無く未来への希望だけもって夫婦で遊びに来たかった。絵里子はそんな事を想ったが同時に自分の想像に慄然とした。それが最早夢物語であるかの様に扱っている自分を意識したからである。

「今は想像する事を止めよう」

 絵里子はそう思った。人は不安の時に色々な方法でそれに対処する。絵里子が心に決めた事はまことに正しい方法だったといわねばならない。そう決めると絵里子は少し心が鎮まる気がした。眼頭が厳しくなり、そして気持ちは穏やかになった。

 鹿児島の街に着くと絵里子は早速敬一郎が自分宛に送って来た郵便の発送元の住所を訪ねた。鹿児島の街は初めてだったので探し当てるのにかなり時間がかかった。二時間程もかかってようやく辿り着いたその住所は裏道に面した小さな古いアパートであり、一見して周囲一帯が貧しい人達の住む場所である事が分かった。裸同然の子供等が割れた木箱や折れて腐った材木が雑然と捨てられている土道の水溜りで遊んでいた。自分の家もそんなに立派なものではないが、此処(ここ)よりは数段ましな気がした。

「でも敬一郎さんなら、確かにこういう場所に住むわ。そして安い家賃で早くお金を貯めようとしたに決まっている」

 そう思って絵里子はそのアパートの一室から出て来た年寄りに尋ねた。

「あの、済みません。五号室の男性なんですが……」

 老婆は愛想良く答えた。

「はあ、あんたはあの人の奥さんかな」

「そうです。妻です。あの人は、敬一郎さんは、今も此処(ここ)に住んでいますか?」

「いや、一ヶ月程前に出てった。ええ人じゃったが(なあ)

何処(どこ)に行ったか、ご存じありませんか?」

 老婆は絵里子を憐れむ様な目で見て、一呼吸置いてから言った。

「済まんが、知らん。だが借金取りが来てたから、大方誰にも行先を知らせてはおらんのと違うか」

 絵里子の表情が変わった。

「借金……」


(その二に続く)


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