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ムーンロンド ジェメールツォ支店

―――ポン


エーレがやさしく私の肩をたたいて扉を閉めた。

はっとして扉を見つめる。扉にすっと下弦の三日月が浮かび上がる。


「私は……異世界に来たってことなのかしら?」


肩に手を添えたまま、エーレは自然な動作で私を席へとエスコートしてくれる。

その所作にどこか慣れたやさしさを感じながら、私は尋ねる。


「まだ少し混乱しているようですね。無理もありません。まずは朝食をどうぞ。そのあと、ゆっくりお話ししましょう」


エーレの穏やかな声に促され、私は差し出されたたまごサンドを口に運ぶ。


隣では、ザクロが優雅にトーストをかじっていた。


このにゃんこは私の守護者で導き手だと言っていた気がするんだけど…


私のことは一切気にしていないようなザクロに気をそがれてしまった。

とりあえず慌てても仕方がないので、エーレの言う通りに朝食を食べることにした。


ひとときの静かな朝食の時間が流れる。

あたたかなトーストの香りに、深く香ばしいコーヒーの香りとダージリンのフローラルな甘さを感じる香りが不思議と調和して漂う空間のなかでほうと一息つく。


食べ終わるとエーレが食後の紅茶を入れてくれた。

私が好きなラプサンスーチョンだ。スモーキーな香りが癖になるのだ。

ひとくち飲んで、私は静かに口を開いた。


「エーレ……。私、記憶は戻ったけれど、わからないことがたくさんあるの。何が起きたのか、教えてもらえる?」


エーレは一口お茶を飲むと、そっと頷いた。

その仕草はまるで、遠い記憶に触れる前に心を整えるようだった。

「もちろんです、アミィ。さて、どこから話すべきか」


彼はカップを両手で包み込むように持ち、立ちのぼる湯気に目を落としたまま、ゆっくりと語り始めた。


「彼女が遺した日記――あれは、私が作ったものだ。

表紙に小さな琥珀が埋め込まれていたのを、覚えているかい?

日記には貴方の力が芽吹いた時、導くための“言葉の道しるべ”を忍ばせておいた。」


私は、棚の上に置かれた日記へと視線を移した。

あの日、手にしたときに感じた、あの不思議な高揚感が胸によみがえる。

――そうか、すべては、この瞬間へと導かれていたのだ。

言葉が出ないまま、小さく息を整える。


「貴方は記憶の解放と共に元居た世界”ジェメールツォ”に帰還したのだよ。」


「帰還…私はこの世界にいたのかしら?」


昨日よみがえった記憶は幼いころの私の記憶だった。

断片的でぼんやりしていて遠いものも多い。


「貴方は、もともとこの世界で生まれた“無垢なる水晶”だったんだ。

ダイアナ様は生まれたばかりの君と出会い。いつか世界を導く後継者として大切に育てていました。」


生まれたばかりの私を、エーレは襲いかけてしまったという。

罰として、元の主に従い私の従者となるよう命じられた。


私は「この時のことかな」と、最初に見たぼんやりとした記憶を思い出す。

申し訳なさそうな目でのぞき込まれていた。あれはエーレだったのか。


ふとエーレを見ると、なんとも言えない悲痛な顔をして私を見ていた。


「貴方は狂い歪んでしまった太陽神を浄化し、世界の安定をもたらすことのできる唯一の存在なのです」


エーレはこの世界について話してくれた。


この世界にはもともと二柱の神がいた。

太陽の神“ブリンタルスーノ”と月の女神“ダイアナ”。

相反するようでいて、二柱は調和の象徴だった。


しかしその調和は、人族至上主義を掲げる一国“ブリオホムスーノ”によって崩された。

彼らは太陽神を唯一神とし、石の記憶を“異質なもの”と断じた。

歪んだ信仰は神の姿すら変えてしまい、ブリンタルスーノは浄化の名のもと破壊を始めた。


記憶の奥から恐怖がこみ上げる。人々の悲鳴が耳の奥で響く。


「女神ダイアナはその力を抑えきることはできませんでした。

せめて…後継者である貴方を守るためにとこちらの世界へ逃がしたのです。」


エーレの説明によると月の女神ダイアナは太陽の神ブリンタルスーノとお互いの力を拮抗させることで世界を安定させていたが、ブリンタルスーノが歪み狂ったことでダイアナの力も歪み、安定を保つことが難しくなっていったのだそうだ。



「世界を渡ってすぐの君は恐怖と不安で力が暴走しかけていた。

貴方の力をあちらに気取られるわけにはいかなかった。

幼い君の記憶を封じて暴走を止めるしかなかったのだよ。他に方法がなかったんだ。」


エーレの声は、湯気のようにやわらかく、しかしどこか震えていた。

彼の目が、一瞬だけ伏せられ、瞳の奥にかすかな痛みがにじんでいた。


「私は――“アンバー”、琥珀を本質とする存在。時の流れを抱き、記憶を封じる。

女神ダイアナの願いを受けて、あなたの記憶のすべてを、そっと、静かにアメジストの中へと移した。

深い眠りに包まれるように……」


私は思わず、指先に力がこもるのを感じる。

見つめる先のエーレは、いつもの穏やかで静かな彼とは少し違っていた。

肩がわずかに震え、唇はきつく結ばれている。

あのとき――どれほどの覚悟と痛みを、彼はひとりで抱えたのだろうか。


彼の横であの琥珀のステッキがかすかに光を帯びて揺れる。

まるで、かつて封じた“想い”が、いまも彼の中で静かに息づいているかのように。

私の胸の奥に、知らぬうちに熱いものがこみ上げていた。


「……ありがとう、エーレ」


私は、それだけをようやく口にすることができた。


エーレは、私の言葉に微かに眉を上げる。

その表情は、ほっとしたようにも見えたが、どこか寂しさを湛えていた。


私はそっと、ティーカップを包む彼の手に触れた。

その指先には、年月を重ねた静けさが宿っていて、わずかに熱を帯びていた。

そこから伝わる温もりが、胸の奥にじんわりと広がっていく。


「エーレ……あの時、あなたがそばにいてくれて、本当によかった。

もしも私が、すべてを覚えていたら――きっと、耐えきれなかったと思う。」


「……ありがとう、アミィ。」


彼の声は穏やかで、けれど微かに滲む痛みが、言葉の端々から伝わってくる。

それは、長い年月のあいだ、誰にも語ることのなかった後悔と共に、

心の奥に沈殿し続けてきた澱のようなものだった。



「アミィ」


低く、深い声でザクロは静かに頷いた。

「我はそなたとともに生まれた身。人の姿を保つこともままならぬまこと脆弱であった存在であったゆえ…。我はそなたの記憶とともに眠り力を得た。今は、そなたを護る力も、導く声も持ち合わせている。」


私たちの視線が、ゆるやかに交差する。

その瞳には、言葉では伝えきれないほどの想いが込められているのがわかった。


「昨晩、我は女神の御力の導きにより記憶の解放し、力の残滓は世界を渡る扉となった。」


腕輪が糸のようにほどかれていき、扉となった光景を思い出す。

壁に目をやるともう腕輪はなかった。きっとそのまま消えてしまったのだろう。


エーレが、静かにティーカップをソーサーに戻す。


「貴方が歩むべき道のその先に何が待っているか――我々にも、まだわからない。

だが確かなのは、君が“記憶を紡ぐ者”として生まれたということ。

石の声に耳を澄まし、その想いを形にする力が、あなたの中に宿っているのです」


エーレの強く訴えるような言葉が、そっと胸の内に深く刺さる。

私は、静かに深く、息を吸い込んだ。

目を閉じると、遠くから誰かに呼ばれるような感覚が胸を打つ――

微かに、石の鼓動が聴こえた気がした。


エーレは一度、ぎゅっと目を閉じた後、強い意志を宿した瞳で私をまっすぐに見つめ返してきた。


「彼女は、愛した世界“ジェメールツォ”が、すでに崩壊の淵にあることを悟っていた。

あの日、あちらの世界では多くの記憶が歪み、壊れ、そして失われていった。

だが今、時は満ち、君は再び記憶を取り戻しつつある。

……突然のことで戸惑っているだろう。でも、どうかお願いだ。

救ってほしい神の眷属たちを、かつての私の主を、そして友を――

世界に再び、安定と平穏をもたらしてほしい。」


エーレの濃い蜜色の瞳が、じっと私を射抜くように見つめてくる。

その真剣さに、私は思わず息を詰め、心が押しつぶされそうになる。


「エーレ、少し落ち着かれよ。いささか怖い。」


そう言って、彼はふぅとため息を漏らすと、

再び幻獣となり私の膝にちょこんと身を預けてきた。


「アミィ、そなたは、後継者として選ばれ育まれてきた。

石には記憶が宿る。そこに触れた想いや出来事は微細に染み込み、やがて“声”となって響く。

それを受け取れるのは、石と共鳴する者だけ……そなたは石の記憶を紡ぐ者だ」


ザクロが、真っ直ぐに私の目を見つめる。


「そなたはあちらの世界でも記憶を紡いできたであろう」


水引のしなやかな曲線。レースに編みこまれた温もり。そして、天然石のほのかなきらめき。


……私は、ずっとあの記憶の欠片たちと、向き合ってきたのだ。


「こちらの世界でも同じである。丁寧に――石の声に耳を澄ませるのだ。ゆがみ、壊れ、そして散らばってしまった石たちを見つけ出し、そなた自身の手で、新たな“形”と意味を与えてやるがよい。

そうして新たな器ができれば彼らにもあらたな命が吹き込まれる。それこそが、女神の願いであり、そなたに託された使命である。」


そうか……これまで紫水と月樹として過ごしてきた日々は、

この時のための準備だったのかもしれない。


私は、冷めたお茶の入ったカップを握りしめ、静かに店内を見渡した。

この場所の空気、光、香り――すべてが愛おしくて、胸の奥がきゅっとなる。

これまでの私は、ただ静かに、丁寧に日々を紡いできた。

祖母が遺してくれた小さな町家のカフェで、豆を挽き、小物を作りながら、穏やかな時間をひとつずつ積み重ねてきた。


その日々の中に――私はずっと気づかぬまま、思い出せなかった記憶の欠片と共に、生きていたのだ。


小物たちに触れるたび、指先の奥に微かな震えが宿っていた。

天然石の表面に浮かぶ、さざ波のような光の揺らぎ――

それは、まるで何かを語りかけてくるように感じられた。


そうだ。あれは、石に刻まれた“記憶の声”だったのかもしれない。


「……私にも、できるかな」


胸の奥に湧き上がった思いが、ぽつりと言葉になって零れ落ちた。


エーレは、何も言わずに静かに頷いた。


「そなたならば、きっとできる。かつても、そして今もなお――そなたは“月の女神の継承者”なのだから。」

ザクロが、私の手にそっと額を寄せてくる。


「このカフェはあちらの世界と対を成している。そなたの記憶にもジェメールツォのムーンロンドはあるであろう。」


ザクロの紅い瞳が、まっすぐに私を見つめる。


店内に揺れる、4つのろうそくの柔らかな光。

カウンターの端では、ザクロが静かに眠っている。

あぁ、幼い私の誕生を祝った、あの穏やかで幸せな時間だ。

確かに胸の中に感じる幸せな記憶。私はあの日確かにここにいた。


「ある…と思うわ」


「なに、やることは今までと大して変わらぬ。かけらを集めて石の記憶を紡ぎ小物を作る。

店の客が情報を持ってくるであろう。カフェムーンロンドの支店開業である。」


ザクロが尻尾をピンと立てて胸を張る。

得意げに見えるその姿に笑みがこぼれた。


急に世界を救う使命とか特別な存在だといわれて押しつぶされそうだった心が、

今まで通りでいいのかと少し安堵した。


「大体、エーレの語り口は重たすぎるのだ。我らはそなたに比べれば、いまだ幼き存在だというのに。

もう少し噛み砕いて話してくれれば、いくらか理解も及ぶというものだ」


ザクロがふさふさの尾を揺らしつつ、ため息まじりに文句を言う。

エーレは顎に手を当てて、首をかしげた。


「そういう君はずいぶん古風な口調を使うようになったね。

以前の君は、もっと奔放だったと記憶しているのですが」


皮肉めいた笑みを浮かべながらエーレが言うと、ザクロはふいと視線をそらした。


……え? “幼い”?

私、25歳だよ? 立派な大人のはずなんだけど。

確かにエーレはロマンスグレーの落ち着いた雰囲気だけど、若いっていうより“幼い”って……それ、私のこと?


もやもやしながらエーレに視線を向けると、彼はまだ顎を撫でながらひとり考え込んでいた。

「うーん……古道具に囲まれて保管されていたことが影響したのだろうか」

――私の視線にはまったく気づいていない。


一方、ザクロはしっかりとその様子に気づいていたらしく、ため息をひとつつきながら、私とエーレを交互に見比べる。


「アミィ、エーレは幾千年もの昔から生を受けているのだ。

その本質は“アンバー”――そなたも知っていよう、君のいた日本でいうところの“琥珀”。

太古の植物の樹脂が時を超えて化石となった、記憶を封じる石だ」


――そういえば、理科の教科書で見たことがある。

虫が入った状態の琥珀を思い浮かべる。


そっとエーレを見上げて、私はつい聞いてしまう。

「エーレって……いくつなの?」


エーレは一瞬だけミステリアスな笑みを浮かべて、

「さて。忘れてしまいました」


そう言って、悪戯っぽくウインクを返してきた。

いつになったら外に出るのか・・・

次回は必ず。


外に出て現在の世界はどうなっているのか、情報収集をします。

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