冷水のゴブレット
暦は、じめじめとした梅雨を思わせる3の節が終わりを迎え、4の節に入った。
断続的に降り続いていた雨はぴたりと止み、石畳も壁も水を含んで深く染まっていた色をゆっくりと吐き出し、乾いた淡さを取り戻していた。
――カランッ
お昼の混み合いが少し落ち着いた頃、扉の開く音に顔を上げる。扉の向こうではぎらぎらとした輝きを放つ太陽が夏の暑さを地上に降り注いでいた。
開いた扉から入ってきた風は微かに熱を含んでいるのに、汗ばむ頬に触れると、なぜだか幾分心地いい。
汗をぬぐいながら入ってきたのは、最近よく来てくれるようになったベテラン自警団員のグランティオだった。
「いらっしゃいませ。カウンターにどうぞ」
「やぁアミィちゃん、今日もあの冷たい水あるかな」
「えぇ、冷たいおしぼりもどうぞ」
案内とともに、水で冷やしたおしぼりをカウンターの席に置く。
グランティオはカウンターに座ると、おしぼりを広げて顔を覆った。
「……っかぁ。気持ちいぃ」
――どこの世界でも、おしぼりで顔を拭く人はいるのね……。
グランティオは見た目四十代半ばごろだろうか。その姿はまさにおっさんである。
「しっかし、不思議な道具もあるもんだな。南門に配属されて三十年、今まで異国のもんはいろいろ見てきたが……冷たい水が出続ける魔導具なんて初めて見たぜ」
顔の熱でぬるくなったのか、おしぼりをくしゃっと丸めてカウンターに置き、カウンターの向こう側を覗き込む。
カウンターの端には、遠い日の記憶で見た水晶のゴブレットが少し傾けて置かれている。そこからは絶え間なく、雪解け水を思わせるひんやりとした冷水が流れ続けていた。
流れ落ちた水は、バンブリオと呼ばれる、竹のように中が空洞になった植物の茎で作った水路をさらさらと流れていく。水路はカウンターの内側をぐるりと囲い、最終的には排水溝の上に置かれたたらいへと水を注いでいる。竹と同じく青々とした水路を水が流れていく様は、あちらの世界の流しそうめんを思い出させた。
冷たい水を溜めたたらいには、コーヒーと紅茶が入ったピッチャーが沈められ、優しく冷やしてくれている。
ジェメールツォには冷蔵庫はもちろん冷房などない。それでも流れる冷水が店内の空気を柔らかく冷やし、水音が耳に涼しさを運んでくれるようで、幾分か過ごしやすくなっている。
柑橘の果実を輪切りにして入れておいたピッチャーを、傾けたゴブレットの下へ寄せる。
落ちてくる冷水をそのまま受けていっぱいになったピッチャーをグランティオの前へ置くと、彼はそれを引き寄せ、なみなみとグラスに注いだ。
こぼれそうなグラスをぐいっと持ち上げて一気に飲み干す。喉が鳴る音が、流れる水音に紛れて消えた。
「っぷはぁ。……くぅ。生き返る」
肩から力が抜けた顔を見て、私は思わず笑ってしまう。
「すっかり暑くなってきたわね。自警団の制服は変わらないの?」
「一応少し薄い生地のがあるんだがな、いずれにせよ長袖だ。暑いのなんのって。夏はこの制服のせいもあって、暑さで体調を崩すやつも少なくないな」
「そう……大変なのね」
おそらく熱中症だろう。塩分や水分は足りているのか――そんなことを考えかけたところで、
「注文は」
背後から、すっと気配が差し込んだ。ザクロがいつのまにかそこにいて、淡々とグランティオへ問いかけている。
「今日のランチはなんだい?」
「スパゲッティナポリタンだ。デザートはレモンタルト」
「いいねぇ。今日のランチをデザートとセットで。飲み物は……今日はあれで淹れてるやつをくれ」
「あいわかった」
ザクロは手元でさっとメモ書きをして、カウンターの中のエーレに渡した。
グランティオが指で示した先には、あちらから持ってきた点滴式の器具――大きなダッチコーヒーがあり、抽出された珈琲が一滴、また一滴と落ちている。
開店前にセットしたそれは、下の丸い硝子容器に濃い色の珈琲をゆっくり溜め始めていた。
カウンターの上を見ると、デザート待ちのオーダーが溜まっている。私はさっと奥へ回り、キッチンへ入る。
カウンター内のキッチンでは、エーレが無駄のない所作で本日のランチ――スパゲッティナポリタンの具材を手早く炒めていた。
人参と玉ねぎが甘く香り、ピーマンの青さがふっと走る。油が弾ける軽い音が、客席の話し声に溶け込んでいく。
その傍らで、赤髪の小さな少女がオーブンの扉に手をかざし、中を「むむむっ」と眉を寄せながら睨みつけていた。
オーブンもコンロも使っているのに、キッチンはさほど熱くない。この子が、必要なところだけを温めるように火を加減してくれているのだ。
彼女の名は焔。火の精霊だ。
彫金師工房での儀式以来、この街では自然と火の精霊があちこちで生まれるようになった。
厨房のある場所には特に多いらしく、料理店や神殿の調理場では、何体もいることも珍しくない。最初は皆仰天していたのに、最近では「火の精霊がいる店は丁寧な仕事をする」なんて、まことしやかな噂まで流れている。
ほとんどの精霊はトカゲのようなサラマンダー姿で、人の言葉など発しない。こちらの言うことは何となく分かっているようだが、意思疎通は難しく、よくて一言二言――という程度だ。
そんな中、焔は人型で、人の言葉を話し、意思の疎通もできる。精霊だと知らない人が見れば六、七歳くらいの子どもにしか見えない。
「アミィちゃま! きれいにやけたよ! じょうずにできたよ!」
焔がぱっと振り向いて、両手を腰に回して胸を張る。
オーブンから取り出されたレモンタルトには、絶妙な焼き色のメレンゲが綺麗な模様を作っていた。
「じょうずにできた? ほむ、じょうずでしょ?」
「うん。すごい。とってもきれいに仕上がったね。すごく美味しそう」
頭を撫でると、焔は飛び跳ねるように喜んで、髪がふわりと揺れた。
「えへへ……アミィちゃまに、ほめられた……」
「焔、次がありますよ」
エーレが短く言う。
「はーい! えーれちゃま!」
焔はタルトを抱えるようにして、私特製の冷水循環型保存箱へそっと入れた。冷水が金属箱の外側を巡るだけの簡単な仕組みだけれど、今の季節には十分ありがたい。
焔はすぐ次の生地へ取りかかり、小さな背中を忙しなく揺らす。指先だけが迷いなく動いていた。
――焔のおかげで、本当に助かってるな。
焔がデザートや飲み物に添える焼き菓子の作成とエーレの助手を担当してくれるので、私はキッチンに張りつかずに済むようになった。
ホールに出て、ザクロのフォローができる。
食後に差し掛かったお客様用に、保存箱に入っているほんのり冷えたレモンタルトを切り分け、たらいに沈めていたコーヒーをグラスに注ぐ。
「ザクロ、4番と7番のテーブルにデザートを」
「うむ」
カウンターの上に出すと、ザクロは素早くトレイに乗せて客席へ向かった。
向かった先のお嬢さん方は、うっとりとザクロを眺めている。
流石に暑かったのか、ザクロは作ってもらった制服のシャツを肘の上まで捲り上げていた。
元は黒猫のようなカーバンクルなのに、どういうわけか人型になると肌が透き通るような白さである。
鍛えているわけでもないだろうに、適度に筋肉がついて、すらりとした腕を出した彼を、女性客が「ほぅ」と吐息を漏らして眺めたり、友人同士できゃあきゃあと黄色い声でテーブルへ呼ぶ姿が時折見られるようになった。
ザクロはそんな視線をまるで気にも留めていないようで、相変わらず無表情のまま淡々と注文を受ける。
「特定の女性とか、いるんですか?」
そんなことを聞かれても、
「我はアミィだけに仕えている」
当たり前のことと、揺らぎなく返す。
その返しにまた女性たちは、「まぁ、なんて素敵」「身分違いの恋ね」などと盛り上がっている。
「最近はザクロとアミィが一緒にいるところを見ようと通ってくださっているお嬢さんもいるのですよ」
エーレが幼く微笑ましいものを見るような目でザクロの様子を見ている。
貴族のいないこの国では、身分を超えた恋物語なんて、本来は遠い異国の物語の中だけの話だ。
それが今、目の前で繰り広げられているのだから、新鮮でたまらないのだろう。
店に訪れる女性たちの中には、ザクロ本人に熱を上げる人たちとは異なる方向で盛り上がっている集団がいる――そんな気がするのは、きっと気のせいじゃない。
私はそんなザクロの様子を眺めて、深いため息をつく。
――また変なうわさが広がるのか……
「アミィ、これを」
エーレが盛り付けたナポリタンの皿を差し出してくる。
私はそれを受け取り、グランティオの席へと向かった。




