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火の精霊の誕生 ①

ちらりとカーテンの隙間から外を見ると、三の節に入ったジェメールツォの空は朝から鉛色だった。


雨は降っていない。けれど太陽は雲に覆われ、顔を出すことがめっきり減った。石畳も壁も、乾く暇がないまま湿っている。先日まで感じていた暑さは、厚い雲に陽ざしを遮られてか、シトシトと断続的に降る雨のせいか少しだけ和らいでいる。代わりに、湿度を帯びた空気が重い。吸い込むたび、肺の奥がゆっくり濡れていく気がした。


まさに日本の梅雨のような季節。


「ま、盆地の京都に比べたらかなりましね。京都の湿度はこれの比じゃなかったわ」


口に出してみたら、ここが長年暮らした場所とは違うのだという事実だけが、妙に鮮明になった。すっかり現実を受け入れている自分の言葉に小さく苦笑する。


京都のあの重苦しさよりましとはいえ、快いわけではない。

この世界には電気もなければ、エアコンのような道具もないので、余計にそう感じるのかもしれない。

髪も服の裾も、肌に触れるとジワリと張り付くようでさらに不快さを増していた。


――いつか風や氷の魔石とか精霊も生まれてくれればどうにかなるかしらね。


じっとりと重いこの気候はしばらく続くと聞いた。気持ちまでじめじめとしないように、元居た場所で使われていた快適な道具を再現できないかとあれこれと考えるのは楽しい。


ふと我に返った私はカーテンをしっかりと閉め、転移門で出かける準備をする。いつも通りであればお店が忙しくなってくる時間帯だが、今日は扉を閉じ、店の中も静けさを保っている。


今日は彫金工房一帯で火の精霊を生み出す儀式の日だ。


リュメルジェ工房でフラミストラの提案にのると決めて以来、私たちは大忙しの日々だった。

フラミストラは彫金工房が集まる区画に何度も足を運んでは精霊の気配がすると言って回った。アクアや神殿長と会うために神殿にも足を運ぶ姿は大勢の人が目撃し、ついには神殿の協力を取り付け、祭壇まで用意してもらうことになった。ということになっている。

フラミストラが動くたびにカフェの客が囁く話も、日が経つごとに派手になっていく。


噂は勝手に枝分かれし、尾ひれをつけて街を巡っていった。


「フラミストラ様が職人区に火の精霊がいると言っているそうよ」

「違うわよ、火の精霊を生み出すのよ。神殿長が立ち会うって」

「自警団まで出張ってきて、職人区で何かやってるらしいぞ」


それは私たちの思惑通り、街の人たちの意識をしっかりとフラミストラの動きに釘付けにしていった。


噂が大きくなるたびに、久しぶりの謀だと張り切るフラミストラが暴走しないよう、団長やエーレはかなり大変そうだった。


一応、私がきちんと言えば止まってはくれるが、燃え盛る炎の勢いは簡単には鎮火しない。くすぶった炎はちょっとした風で再び大きく燃え上がる。そういうものだ。彼女はまさに炎のような女性だった。


実際のところ、神殿には神殿長に前もって事情を説明しに行っただけだ。

そこでアクアがにこにこと言ったのだ。


「私もフラミストラ様と共に祭壇に上がると一層注目されるのではないかしら」


どう見てもアクアは面白がっているようにしか見えなかった。すでに乗り気のアクアを神殿長が止められるわけもなく、困った顔で助けを求める神殿長の目にただただ同情するしかなかった。

私はフラミストラとアクアが楽しそうに話すのを止める理由を見つけられなかったのだ。

いろいろと相談した結果、アクアが来るなら神殿長も同行するということになり、自警団も団長をはじめ精鋭が警備につくことになった。

準備の段階から物々しいほどの厳戒態勢に日増しに人々の注目は大きくなっていき、こうして火の精霊誕生の儀式は、私の予想以上に一大イベントになってしまった。


今頃、職人区の彫金工房の一画へつながる道には自警団が立って封鎖されているだろう。工房関係者や今回の儀式に参加する神官以外は入れないようにしてもらった。狭い路地に多くの人がなだれ込めば危険だし、何より、こちらの“裏”の儀式を見られるわけにはいかない。


「アミィ、そろそろ行きましょうか」


エーレの声に奥の部屋へと急ぐ。いつも通り丁寧で、いつも通り落ち着いている。

そんないつも通りのエーレの声に事が大きくなりすぎて不安を抱えていた私の胸の奥のざわめきが、少しだけほどけた。


私は今回の儀式に不可欠な相棒を探してカウンターに視線をやる。……ザクロがいない。


「ザクロ、そろそろ行くよ」


声をかけると、天窓の方から梁づたいに影が降りてきた。ザクロだ。今日も屋根の上を歩いて、街の気配を確かめていたのだろう。


「北門の方に人が集まり始めている。狙い通りだな」


軽やかにくるりと回って人型に変化し、着地する。長い黒髪がサラリと舞って、私の隣に並んだ。濡れた空気のせいか、髪の艶がいつもより深い。深紅の瞳が際立って見えた。


「……やるにしても、ひっそりやる方が良かったと私は今も思ってるんだけど」


小さくぼやくと、ザクロがこちらを見た。表情は変わらないのに、「今さらだ」と言いたげな気配だけが伝わってくる。


エーレと合流し、私は転移門を開くための詠唱を始めた。


今日は人目につかずに工房へ入る必要がある。私はこの日限りの“ザクロ人形”を応接室に置いてきた。

準備は整っている。あとは、誰にも見られず、誰に気づかれずに私とザクロがリュメルジェ工房で詠唱を行えばいい。


リュメルジェ工房への転移門を抜けると、かすかな金属の匂いが静かに鼻を打った。雨に濡れた石畳の匂いとは違う。銀や銅の粉、油、磨かれた工具の冷たい気配が混じっている。


応接室には誰もいない。前回笑顔で迎えてくれていたエルミィラたちも、怪しまれないように広場の儀式を見に行ってもらっている。人がいないだけで、部屋の空気が一段冷える。


今日はどの工房も儀式のために仕事を中断している。槌も止まり、作業の手も止まっている。炉に火を入れることもない。当然、魔石も使用していない。


「静かだな……」


ザクロがぽつりとこぼす。


応接室の中は前回と違いとても静かだった。儀式を見物に広場に出てきている職人たちの声がかすかに漏れ聞こえる程度で、あんなにもはっきりと聞こえてきたにぎやかな声はそこにはなかった。


……こんなにも静かになるなんて。本当にあのにぎやかな声は魔石の意思だったのね。


あれが隣室やほかの工房の職人たちの声ではなく、職人と共に働く魔石の意思だったのだと改めて実感する。


私は窓際に向かい、カーテンの端をほんの少しだけずらす。


広場では、大小さまざまな彫金工房の建物から職人たちが外へ出てきていた。上階の窓には人々が張り付いていて、皆一様に中央の祭壇を見つめていた。その表情は期待に満ちていて、まるでサーカスや手品の舞台を見に来ている子供のように輝いていた。


さらに遠く、うっすらと見える大通りや町の外壁沿いの道に目をやると、少しでも儀式を見ようと見物人が集まっているようだった。雨の気配が濃い空の下で、人の熱だけがむわりと湧き立つのが見て取れた。湿気で輪郭がなんとなくぼやけているのに、熱だけははっきり見える。不思議な感じだ。


――カラーン……カラーン……。


半月の刻を知らせる神殿の鐘が町中に鳴り響く。


広場に集まった人々の声が、まるで息を吸い込むみたいにすっと止む。張りつめた空気が一瞬で広がって、窓を隔てていても街の人たちの心臓が、静かに脈を打つ音まで聞こえそうだった。


灰色の空の下、そこだけが陽を浴びたように明るく光る祭壇に目をやる。神殿を象徴する水色の布が湿気を含んで重たげに垂れ、護衛の列がその周囲を固めていた。


鐘が鳴り終わると同時にフラミストラが祭壇へと上がった。鎧の金具がわずかに鳴って光を弾く。

広場に集まっていた職人たちは祭壇の下から彼女を見上げる。フラミストラはそんな目線を意にも介していないようだった。


「……時間だな」


背後で、低く落ち着いた声でザクロが言う。


「アミィ、我らも始めるとしよう」


「ええ」


「私は打ち合わせ通り、ここで広場の様子をそちらにお伝えしますね」


エーレは念のためリュメルジェ工房に一時的な結界を張ってくれた。薄い膜が工房全体を包み、外の気配が一段遠くなる。これで外からはよほど意識して見つめない限りはこちらの様子は見えない。


私はエーレの言葉に軽くうなずき、応接室を出た。


工房の奥の作業場――炉のある場所へ向かう。湿った空気の中で、きれいに整列した道具類がなんとなく冷たく見えた。いくつかある小さな炉の中は冷たく沈黙しているのに、中に納まる大きな魔石からは何か熱いものを感じる気がした。


ザクロはカーバンクルの姿になり、炉の前にちょこんと座る。紅い目が細くなり、額のガーネットが、呼吸に合わせて淡く脈を打つ。


次の瞬間、彼の詠唱とともに赤い光の粒が一つ、また一つとあふれ出すのが見えた。

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