再びリュメルジェ工房へ
私はあれから毎日タルトタタンをいくつも焼いていた。
タルトタタンの噂を聞きつけた常連さんたちからのリクエストが、止まることを知らなかった。
昼下がりになると、カフェの中には甘酸っぱい林檎と、こんがりと色づいたキャラメル、それにたっぷりのバターのこってりとした香りが、前よりいっそう濃く漂うようになった。
ケルノマスト商会の食料品部門長、ヴィノラーテさんに正式にレシピを商業ギルドに登録してもらい、今では日に一つ焼くだけで事足りるようになった。
季節は二の節も中ごろを迎え、石畳は昼の陽射しを抱え込んだまま、夕方になってもじんわりと熱を返し、通りを抜ける風は時折どこかぬるくて肌にまとわりつくようになってきた。
――濃厚なバターとキャラメルの香りって、あんまり暑い時期には合わないのよね……。
タルトタタンは、焼きたての香りも、冷やして落ち着かせた味わいも、大好きだ。
けれど、この世界には冷蔵庫がないので、しっかり冷やすこともできない。
夏に向かうこの時期には、少し重たいお菓子なのではないだろうか。
そろそろ、見た目も香りももう少し涼しげな……レモンパイなんかもいいかしらね。
今のところゼリーのようなお菓子は見たことがない。ゼラチンや寒天にあたるものがないのか、冷蔵庫がないからなのか。
そんなことをぼんやりと考えながら、私は林檎を並べた型に生地をかぶせ、オーブンへとそっと滑り込ませた。
今日はリュメルジェ工房との約束の日だし、店はお休み。せっかくなので工房へのお土産に持っていこうとタルトタタンを焼いている。賑やかな工房だったから、きっとお弟子さんが多くいるのだろう。バリーやヴェントルーザみたいな大の甘党がいない限り、ホールで足りるかな。
「今日は私も一緒に行きます。フラメラが絶賛する職人とお伺いしておりますので、ぜひ一度ご挨拶をさせていただきたいですね」
「応接室にある調度品が本当に素晴らしいの。きっとエーレも気に入るわ」
「ザクロも、あの工房には良い腕をした職人がいると褒めていました。とても楽しみです」
ザクロは基本的には口数が少ないが、聖獣同士だからかアクアやエーレとはよく喋る。工房の話もきっと、私がいない時にしていたのだろう。
焼き上がるまでの間、どうしたらこちらで夏らしいメニューができるかを考える。
どれだけ考えても、やっぱり氷は必要だ。氷があれば冷蔵庫も作れる。氷が作れるなら、冷凍庫だって作れるんじゃないかな。
電気なしで冷凍庫か……やっぱり、あのゴブレットのように氷を生み出す魔導具に挑戦すべきなのかもしれない。
そんなことをノートを広げてとめどなく考えているうちに、焼けたタルトタタンの粗熱が取れたので、丁寧に包装する。
ぐるっと見渡しても店内にザクロの姿が見当たらないので声をかけると、天窓の方から駆け降りてきた。
「すまない、待たせたか」
「いいえ。これ持ってもらっていい?」
タルトタタンの箱をザクロに渡し、店を出ると、ちょうど半月の二の刻の鐘が鳴った。
今日は転移門を使わないので早めに店を出る。カフェ・ムーンロンドは南門側にある。北門までは歩くとかなりの距離だ。馬車を手配するとバリーが言ってくれたが、やっぱり私は馬車に慣れないので、徒歩で行くことにした。
少し汗ばむ太陽の光を受けて歩く。今日は駆け抜けていく風は涼しくて気持ちいい。
神殿の横を抜け、三人でのんびりと中央広場を歩いていると、見知った神官たちやお客さんが手を振ってくれる。最近はこういったことも増えてきたので、街に少しずつ馴染めてきたのだと実感が湧く。
小一時間歩いて、北門へ続く通りを職人区方面へ曲がると、ちょうど半月の三の刻の鐘が鳴った。
時間通りだ。
リュメルジェ工房の扉を叩くと、奥さんのエルミィラが笑顔で迎えてくれた。
「ようこそいらっしゃいました。アメジスト様、ザクロ様……それから、そちらの方は?」
「お初にお目にかかります、レディ。アミィの従者をしております、エーレと申します。お見知りおきを」
「あなたがエーレ様ですね。工房長の妻のエルミィラです。ようこそお越しくださいました。どうぞお入りください」
弾むような声でそう言ってから、エルミィラは私の手元の箱にぱっと目を留めた。
「それは、もしかして……この前お話に出ていた林檎のお菓子ですか?」
「ええ。タルトタタンっていうの。今日はお土産に持ってきたのよ。工房の皆さんで食べてちょうだい」
「ホールでいただけるなんて……主人は甘いものが好きなので喜びます。お気遣いありがとうございます。応接室へどうぞ、今お茶をお持ちしますね」
エルミィラは箱を大事そうに受け取り、ぱたぱたと奥へ駆けていった。
その後ろ姿を見送りながら、私たちは工房の中へ足を踏み入れる。
作業場の奥からは、今日も槌の音が絶えない。
金属を打つ乾いた音と、短く区切られた指示の声が重なり合い、外より一層濃い熱気とともに空間を満たしていた。
「お待ちしておりました、アメジスト・ヘレド・ダイアナ様」
奥から姿を現したブリラダンが、少しだけ背筋を伸ばして頭を下げた。
「こんにちは、ブリラダン。今日は私の従者も一緒に来たの。エーレよ」
エーレが紳士然と会釈すると、同じようにブリラダンも会釈を返した。
「エーレ、こちらは彫金師ギルドのギルド長で、ここの工房長の御父上のブリラダンさんよ」
「はじめまして。アミィの従者をしております、エーレと申します」
「ブリラダンです。ようこそお越しくださいました」
二人がしっかりと握手を交わす。
向かい合ったその姿を見ていると、どちらも年長の男性であるはずなのに、まとっている空気がずいぶん違うのがよくわかった。
褐色の肌に、白髪の混じり始めた琥珀色の髪の老紳士。
きちんと仕立てられた上着とベストに身を包み、手には琥珀の握りのついたステッキ。
エーレは、相変わらずどこにいても場を乱さない、完璧な執事のような佇まいだった。
穏やかな微笑みと、相手を立てる言葉選び。
柔らかい物腰の奥に、長い年月をかけて磨かれた強さが、静かな光となってにじんでいる。
対してブリラダンは、見た目の年齢こそエーレと同じぐらいだが、職人の香り漂う老師だ。
後ろで束ねた灰色の髪は、しっかりと手入れされているように見える。鼻梁には小さな眼鏡がかけられ、白い詰襟のシャツと黒いズボン、その上からは紺色のエプロンがきゅっと結ばれている。服装は機能的でシンプルなのが、いかにも職人らしい。
細身の体つきなのに、エプロンの隙間からのぞく腕には、金属を打ち続けてきた年月を感じさせるようなしっかりとした筋肉がはっきりと浮かんでいた。
節くれ立った指先には、古い小さな傷がいくつも走っていて、彼がこれまで職人として積んできた経験を物語っているように思えた。
琥珀色のステッキを携えたエーレと、エプロンの前ポケットに小槌を差したブリラダン。
まるでまったく違う装いの立ち姿の奥底には、どちらにも長年培ってきたものが宿っている――そう感じさせるものがあった。
――まぁ、琥珀ほど長生きではないとは思うけれどね。
「ようこそいらっしゃいました。本日は、お約束どおりに完璧にお品を仕上げてお待ちしておりました」
応接室の前で、ラネブロムがにこやかに迎えてくれた。
開けられた扉をくぐると、壁には以前見たのと同じ、細い銀線を編んだリースや、小さな花のブローチがさりげなく飾られている。
磨き込まれた木のテーブルの四隅には、角金具として繊細に彫り込まれた意匠があった。その意匠と同じものなのだろうか、白い花弁に紅い葯が印象的な、美しい花が花器に生けられている。
「これは見事ですね」
壁に飾られたいくつもの銀細工に、エーレが感嘆の声を漏らす。
近くで見ようと壁際に立ち、顎に指を当ててまじまじと眺める様子は、エーレが古道具を扱う店主であり目利きであることを思い出させる。
壁から離れられないエーレはそのままにしておいて、私とザクロは勧められた席に着く。
エルミィラが、前と同じ花の香りのするお茶を出してくれた。
「このお茶、この前もいただいたものね。甘くて澄んだ香りがとても気に入ったの。これはなんていうお茶なの?」
「これはリュメ茶ですわ、アメジスト様。そこに飾ってある花のつぼみを乾燥させたものですよ。
おそらくケルノマスト商会でも扱っているかと思いますが……これは自家製ですので、お気に召したのであればぜひお持ちください。用意しておきますね」
エルミィラにお礼を言うと、彼女は「準備してきますね」と軽い足取りで部屋を後にする。
ザクロは無言でお茶を飲んでいるが、お茶をいただけるのが嬉しそうに見えた。
きっと今カーバンクルの姿なら、尻尾をぶんぶん振っているに違いないだろう。
「おや、よい香りですね。リュメですか」
壁からやっと離れたエーレが、私の横に腰かける。
「知ってるの?」
「この花は前からありましたから。神殿でもいただいたことがありますが、このリュメ茶は格段に香り高い」
そう言ってカップを傾けるエーレは、満足そうだ。
――どうやら、ジェメールツォでは一般的な植物みたいね……。
私もお茶をひとくち飲むと、口の中に甘い香りが広がり、さわやかに鼻へと抜けた。
「こちらが、注文のお品でございます」
ラネブロムが、ビロードにくるまれた紺色の箱を二つ、テーブルに置いた。
美しく艶めくその箱は、細かな彫刻が施された金具によって、蓋をしっかりと閉じられていた。




