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記憶の解放と帰還

私は戸惑いを胸に抱えたまま、いつもの道を戻る。

空にはすでに夜の帳が降りていて、京都の街が静かに息を潜めていた。


店に戻ると、ステンドグラス越しの月光が、店内を優しく包み込んでいた。

今日は――どこか荘厳な雰囲気が漂っている。


私はそっとカバンをカウンターに置き、深く息を吐く。

ペンダントを握りしめた手が、じんわりと汗ばんでいるのに気づく。


目を閉じると、あの光に包まれた路地、煌めくガラスの粒、色とりどりの布が脳裏に浮かぶ。


どれくらいの時間が経ったのだろう。

ふと目を開けると、扉に映っていた満月の光がゆっくりと滑り、飾り棚の上に置かれた祖母の銀の腕輪に、ぴたりと重なった。


その瞬間、反射した光が店内にふわりと広がり、まるで青い粒子が舞い降りるように、空間を静かに染めていく。


「……きれい」


思わずそうつぶやいたとき、光の粒が一本の筋となって胸元のペンダントへと伸びていった。


「えっ……?」


驚きに息を呑んだその瞬間、ペンダントがふわりと宙へ浮かび上がった。

まばゆい光が弾け、視界が一瞬、白に染まる。


私はあまりの眩しさに顔を覆った。

やがて光が静まり、視界が戻ると、胸元にあったはずのペンダントから、猫のモチーフが消えていた。


「――やあ、紫水。再び相まみえることが叶ったな」


柔らかくも凛としたその声に、私は思わず振り向いた。

誰もいないはずの店内。


なのに、足元にはしっとりとした漆黒の毛並みを持つ小さな影が、静かに座っていた。


よく見るとその額には、紅い石が静かに輝いていた。


――ガーネットだろうか。


鮮血のように深く澄んだ赤。

ユダヤの伝説に語られる、ノアの箱舟を照らし続けたという神秘の石――

それそのもののような輝きに、私は息を呑む。


そしてその瞳もまた、同じような紅の光を宿していた。

吸い込まれそうなほど深く、触れたら火傷しそうなほど熱く、胸の奥にじんと沁みてくるようだった。


……猫?


その黒い影――ペンダントにいたはずの黒猫は、まるで最初からここにいたかのように、静かに、しかし確かな存在感を放っていた。


「やあ」


低く柔らかな声が再び響く。


「しゃ、喋った……猫が?」


驚きに思わず後ずさる。


「紫水よ。我は猫ではない――カーバンクルだ」


その声は、月夜に流れる水音のように澄み、低く柔らかく、どこか懐かしさを孕んでいた。


艶やかな漆黒の毛並みが光を受けて静かに揺れ、額に埋め込まれた紅い石――

鮮血のように深く澄んだ赤が、空間の静けさに溶け込みながら、確かな存在感を放っていた。


けれど――その佇まいは、確かに幻想ではなかった。


――触ったら怒るかな……


私は無意識に手を伸ばしかけていた。

しかし、カーバンクルは静かに尾を揺らし、その動きを制するように言葉を紡いだ。


「我をそこらの猫と同列に語るとは、笑止千万。

我は気高き月の女神ダイアナの眷属にして、石の記憶を守護する者。

女神の後継者を導く使命を負い、長き眠りについていた存在――それが我、カーバンクルである」


まるで詩を奏でるような朗々とした口調に、私はただ、耳を傾けることしかできなかった。


「……それじゃあ、あなたはどこから来たの? どうして私の名前を……」


震える声で問いかけると、カーバンクルはすっと飛び上がり、カウンターの上に軽やかに座った。


「話すと長い。紫水よ、こちらに座られよ」


その仕草は、まるで高貴な使者のように優雅で、威厳さえ漂っていた。


私は促されるまま椅子に腰を下ろす。

心臓の鼓動が、静かに早鐘を打っていた。


「我は、月の女神ダイアナの眷属にして、記憶を守護するカーバンクル。

そなたがこの世に生を受けし折、我はアメジストに宿り、その魂を守るべく生まれ落ちた。

幼きそなたと共に過ごした四年の月日は、穏やかで安らかなものであった。

だがある日、平穏は突如として破られ、そなたは女神とともに世界を渡った。

そなたの過酷なる記憶を、せめて時が満ちるまでは背負わせたくないと、

女神はアメジストにそのすべてを封じたのだ。

我はその守護者として、長き時をアメジストと共に眠り、今日この刻が来るのを待っていた。


――そして今、刻は満ちた。


我が使命は、そなたの記憶を目覚めさせ、再び導くことにある。

紫水。

今より、封じられし記憶の欠片を返還しよう」


カーバンクルの紅い瞳が静かに光を帯び、どこか歌うように、柔らかな言葉が口から紡がれた。




――紫水。

そなたこそ、月の女神が深く愛された唯一の後継者。


巡る時の果てに、今ここに、再び相まみえることが叶った。

我が心、これ以上なき歓びに満たされている。


封ぜられし記憶の欠片と共に今再び扉を開こう」


ザクロの紅い瞳が、静かに淡い光を宿し始めた。

その口元がゆっくりと動き、どこか祈るような、歌うような響きをもって、言葉が紡がれる。


Mi, servanto de la Lun-Diino Diana,

Lumo de gvido por ŝia heredanto,


Malligas memoron ŝtonan,

Sigelitan de tempo, redonas ŝin al ŝia volo.


言葉が空間に溶けこんでいく。胸元のアメジストが淡く脈打つように光りはじめた。

紫がかった粒子がふわりと浮かび、空中をゆるやかに漂い始める。

ひとつ、またひとつ。


Per unu guto de brileco donita de la Diino,

Nun ree kunligu la mondojn.

Al mia alvoko, la pordego malfermiĝu.


紡がれる言葉に呼応して腕輪から淡い水色の光が迸る。

腕輪は細い細い糸のようにほどけてゆき、宙にその繊細な意匠を描く。

すべてがほどけ、壁の腕輪が見えなくなると、扉が姿を現した。


――Liberiĝu.


力のこもった一声で扉が開く。

それは深い海の水面のように暗く、青く揺れる。


「時は満ちた。今こそ帰還の時。」


降り注ぐ紫の光が一気に私の中へ飛び込んでくる。

最後の1粒が入ると、扉がまばゆく光、私はぎゅっと目を閉じた。




おそるおそる目を開けると、薄い紫と水色の靄の中になっていた。

――シャンッ。

鈴のような澄んだ音が空気を震わせ、ひとつの光がやわらかく弾ける。


その瞬間、何かが私の中へと流れ込んできた。

それは言葉でも映像でもなく、けれど確かに“想い”として、心の奥に届いてくる。

 

――薄く、白い光のなかに、誰かがいる。

風のような声が、どこか遠くから私を呼んだ。

「あなたの名前は、アメジストよ。……私の、かわいいアミィ」


やわらかな髪をそっと撫でる手。

金の瞳が、涙を含んだように細められる。


そのすぐ隣には、大きな琥珀色のトラのような存在が、私をのぞきこんでいた。深く落ち着いた瞳が、ただ静かに、なぜか申し訳なさそうに私の存在を見つめている。


『――ぼんやりしているのは、私が赤ちゃんだった頃の記憶だから……かな』


―――シャンッ

また光がはじける。

今度は花咲く庭の小道、銀の髪が風に揺れる午後。

そこには、若き日のダイアナ様が、優雅に石を手のひらで転がしていた。


細い指がトンっと触れると、水晶の内に柔らかな光が集まりゴブレットの形になる。

彼女がそっとつぶやく。


「”Degelakvo”」


するとゴブレットに水が満たされた。


「アミィ、おいで。雪解け水の流れる川で拾った水晶の記憶で作ったのよ。冷たくて、気持ちいいわ」


私は笑顔で駆け寄り、手を水の中に浸す。

水はひんやりとしていて、指の隙間からこぼれるたび、小さな虹が浮かんだ。


その魔道具――水晶のゴブレットは、彼女が私のために作ってくれたものだった。


「石にはね、記憶が宿るの。だからこの水も、優しい気持ちで手を差し出した人にだけ応えてくれるのよ」

私は、その言葉の意味はよくわからないまま、指先に感じる水の心地よい冷たさと浮かび上がる虹に夢中だ。

彼女はそっと微笑んで私を見る。


―――シャンッ



少し目が痛いような光がはじける。


春の光が差し込む昼下がり。

その空間は、どこか少し違う――けれど確かに、ムーンロンドだった。


カウンターの位置に、微かな違和感を覚える。

いつも見慣れた風景と何かが違う。けれど、はっきりとは思い出せない。


扉には、半月の影。今が昼であることを静かに告げている。


カウンターには、色とりどりのマグカップが並び、

その中央には小さなケーキ。

4本のろうそくが、揺らぐように淡く輝いている。


「4歳のお誕生日、おめでとうございます、アミィ」


どこか若い琥珀おじさまが、少しおどけた声でそう言った。


「ありがとう! エーレ!」


エーレ…そうだ、私は琥珀おじさまをエーレと呼んでいた。


明るく響く私の声。

カウンターにちょこんと座ったカーバンクルが、

尻尾でくすぐるように私の頬を撫でている。


その奥には、ひときわ静かな気配を纏う人物がいた。


長い銀髪。

金の瞳。

柔らかな笑み。


――ああ、この人は……やっぱり、“おばあ様”だったんだ。


記憶の奥でずっと「おばあ様」と呼び慕っていた存在と、目の前の女性が重なった。

彼女こそが、月の女神――ダイアナ。


私は、何かに導かれるようにその名前を心のなかで呼ぶ。


光に包まれる笑顔。

焼きたてのクッキー、やわらかな花の香り、カフェに満ちる温かな空気。


それは、忘れていた宝物のような記憶。

思い出すだけで、涙がこみ上げてきそうな、愛しい時間。


けれど、その幸福な光景は突如、まばゆい光に引き裂かれた。


カフェの天井に、“それ”は現れた。


目の前の光景が一転し、空間が震える。

ステンドグラスから差し込む光が、まるで針のように鋭く、冷たく、白く脈打ち始めた。

穏やかだったムーンロンドを呑み込み、まるで祝祭の残響を狂気へと変えるように、

すべてを照らし出していく。

悲鳴が上がり、誰かが椅子を倒す音がする。

エーレが私を抱き上げた。

その身体が、しなやかに変化する――トラのような、神獣の姿へと。

私はその背にしがみつき、ただ、恐怖で目を見開いていた。


「扉を開きます! 急いで!!」


ダイアナ様の声が、混沌のなかを貫くように響いた。


それからの記憶はあいまいで最後は紅い瞳が揺らめいて途切れた。





気がつくと、私はカフェの床に倒れていた。

まだ頭がぼーっとしている。

扉にはほのかな輪郭を残すのみの新月がうつる。

それは、真夜中の新月のサイン――

輪郭だけを残した、淡く儚い光。


見守っていてくれているのだろうか、

傍らではカーバンクルが尻尾を揺らしていた。

胸元のアメジストにはまだ光の粒が漂っている。


「アミィよ。そなたのジェメールツォへの帰還うれしく思う。」


はじける記憶の欠片に包まれ、私は再び目を閉じた。



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