不思議な路地裏
午後の光が斜めに差し込みはじめたころ、私はひとり、京都の奥まった裏路地に立っていた。
観光客の賑わいが遠ざかり、街の鼓動が静かに落ち着きを取り戻していくような場所。
苔むした石畳の上に、細く低い瓦屋根の町家が肩を寄せ合い、影と光が優しく入り混じっていた。
通りに漂う空気には、ほのかに木の香りが混じっていて、足元を通り抜ける風がそっと裾を揺らす。
時がゆるやかに流れている――そんな言葉が自然と脳裏に浮かんだ。
私は、祖母の日記に書かれていたとおりの道をたどる。
スーパームーンの夜だけ開かれるという、不思議な店々が軒を連ねる路地。
祖母が大切にしていた、“もうひとつの宝物のような京都”。
その記憶のかけらをたどるように、私は石畳を一歩一歩確かめながら進んでいった。
やがて、薄暗い通りの先がふっと青白い光に包まれ、道がふわりと広がっていく。
その瞬間、私は思わず息をのんだ。
「うわぁ……なんて素敵。こんなところがあったなんて」
目の前に広がる光景は、まるで夢のなかの一場面のようだった。
最初に目に入ったのは、小さな硝子戸の向こうで、虹のように輝くビーズが風に揺れている店だった。
光を受けて、赤、青、金、翡翠色……色とりどりの粒が、音もなくささやき合っている。
まるで風鈴の音を、視覚で感じているかのようだった。
胸の奥が静かに高鳴る。私はそっと戸を押し開け、足を踏み入れた。
棚の上には、古びた紙箱がいくつも積まれていた。
それぞれに「チェコビーズ」「昭和ガラス」「天然石ミックス」などと、手書きのラベルが添えられている。
どれもが、時を超えてここに集められた宝物のようだった。
思わず指先が触れそうになる。
「きっと、おばあ様もこうして悩んでいたんだろうな。どれを選ぼうかって、指でそっとなぞりながら――」
その姿を想像しただけで、胸の奥がぽっと温かくなった。
店を出たあとも、きらめきの余韻が心に残ったまま、私は次の店へと足を向ける。
次に見つけたのは、色とりどりの布が天井まで積み上げられた店。
レースや絹、古布の端切れがぎっしりと詰め込まれ、色褪せた西陣織の帯地の隣には、異国の香りをまとう布地が並んでいる。
中東の幾何学模様、東欧の花柄、フランスのアンティークレース――
見ているだけで、胸の奥がほんのりと弾むような、美しい布たち。
普段は、白いカッターシャツに黒のズボン、そしてバリスタ用の黒いエプロンという、カフェの制服で過ごすことが多い。
休日もジーンズに無地のTシャツと、どちらかといえば飾り気のない服装を好む私だが、
“気合いを入れたお出かけ”には、大好きなエスニックの羽織や小物をそっと足す。
今日も、細やかなカッチ刺繍の古布を使った手提げを肩に掛け、胸を高鳴らせながら歩いていた。
そんな自分の装いと、この異国の記憶をまとった布たちが、どこか遠いところで繋がっているように感じ、それぞれの布に宿る記憶が、柔らかな手触りを通して静かに語りかけてくるようだった。
「布にも、記憶があるみたい」
指先に伝わる温もりに、私はそっと目を細める。
さらに奥へ進むと、水引やアンティークの金具を扱う店が目に入る。
どの店も、どの棚も、どこを見ても心が弾む。
初めて訪れる場所なのに、なぜか懐かしいような、不思議な感覚。
私は自然と軽くステップを踏んでいた。
――そのとき、ふと空気が変わった。
胸の奥がきゅっと締めつけられるような、静謐な気配。
冷たくもあたたかい、相反するものが重なり合うような空気。
気づけば私は、ひときわ静かな気配をまとった一軒の店の前に立っていた。
木の扉には、小さな看板が下がっており、そこにはただ一言――「古道具」とだけ。
硝子越しに覗くと、古びたランプや時を止めた懐中時計、無造作に積まれた本や陶器が見える。
店内の空気さえも、色褪せたセピア色に包まれているようだった。
私は胸の高鳴りを抑えきれず、そっと扉に手をかけた。
カラン――。
静かな鈴の音が響き、扉を開いたその瞬間、耳に馴染んだ声が柔らかく届いてきた。
「いらっしゃい。よく来てくれたね、紫水ちゃん」
その声に、胸の奥がきゅっと締めつけられる。
声の主は――琥珀おじさま。
深い茶色の瞳、整った口ひげ。ダークブラウンのジャケットに身を包み、片手には琥珀のステッキ。
朝カフェで会ったときとは違う、どこか神秘的な佇まいをまとって、そこに立っていた。
「おじさま……どうしてここに? 朝は何も……言ってなかったのに」
戸惑いと驚きで、言葉がうまく出てこない。
思い返せば、あの時の私は日記の中に見覚えのない一節を見つけ、
今日こそその場所に行けるという期待感に胸が高鳴っていた。
カフェで顔を合わせたときの琥珀おじさまの表情に、深く注意を払う余裕もなく、
ただ浮き立つ気持ちでいっぱいだったのだ。
「ごめんね、驚かせたくて。君が来るのを、ずっと待っていたんだよ」
琥珀おじさまはそう言って、静かに微笑んだ。
そして、ガラスのショーケースの奥から、小さな箱をゆっくりと取り出す。
「これは月樹さんから預かっていたものだ。来るべき時が来たら、君に渡してほしいと託されていた」
「……おばあ様から?」
おじさまが蓋を開けると、そこには一つのペンダントが収められていた。
黒猫を象ったそのモチーフは、胸にアメジストを抱きしめるようにあしらわれており、
額には小さなガーネットが紅くきらめいている。
その姿を目にした瞬間、胸の奥がふっと熱を帯びた。
懐かしさとも違う、けれど確かに心に触れる何かが、そこにあった。
「……これを、私に?」
「うん。君も、もう二十五歳か。毎日見守っていたけど、月日が経つのは早いね」
私はそっと、春の初めのやさしい記憶が浮かぶ。
肌寒さの残る三月のはじめ、冬の気配を押しやるように吹き始めた春風に
沈丁花の香りが色濃く混じる頃だった。
カウンターの上には、カラフルなマグカップとケーキ、小さな花束。
「おめでとう」と声をそろえてくれた常連たちの笑顔が、今も胸の奥にやさしく灯っている。
そんなことを思い出していたら、おじさまの瞳が静かに潤んでいるのが見えた。
「……おじさま?」
「いや、なんでもないよ。……さあ、首にかけてごらん。これは、君のものだから」
私は静かにペンダントを手に取り、革紐を首に回す。
柔らかな革の感触と、アメジストのひんやりとした冷たさが肌に触れ、
その奥からじんわりと温もりが広がっていくのを感じた。
「さ、今日はもうお帰り。君の歩むこれからに、月光がやさしく照らしますように」
そう言って、おじさまは私の背中をトンっと優しく押した。
「え、でも……私、まだ――」
まだ来たばかりだった。まだ見たい店も、出会いたい品もたくさんあったのに。
年に数回しか開かれないこの路地を、すぐに離れるなんて……。
「大丈夫、またすぐに来られるから」
琥珀おじさまの言葉は、不思議と揺るぎなく、やさしくて――
その笑顔に、私は黙って頷いた。
店の外に出たとき、夢のようだった通りはもう消えていた。
青白い光に照らされていた石畳は、薄暗く静まり返り、また現実の京都に戻っていた。
「夢……だったのかな」
けれど、胸元で静かに揺れるペンダントが、その感触が、すべてが現実であったことを物語っていた。