神殿長の苦悩と最奥の間
礼拝堂は静まり返り、人の気配がまるでない。
高窓から差し込む光が、祭壇の白布と女神像を柔らかく照らしていた。
「先に、人払いをさせていただきました」
神殿長は静かに、けれど確かな声音でそう言った。
その言葉の奥には、何かを迎える覚悟がにじんでいるように感じた。
神殿長に導かれ、私たちは礼拝堂を抜けて、祭壇脇の小さな扉をくぐる。
普段は使われていないらしく、扉は重たく軋んだ音を立てて開いた。
その音は、まるで過去の記憶を揺り起こすかのようだった。
その先の部屋――最奥の間は、壁一面に並ぶ古びた書物で埋め尽くされていた。
背表紙の色はくすみ、長い時間を過ごしてきた静けさがそこにあった。
淡い光の中に漂う空気はしっとりと湿り気を帯びており、まるで潮騒の届かぬ海辺の洞窟に迷い込んだような錯覚を覚える。
「こちらへ」
部屋の中央には、重厚な木のテーブルが一つ。
向かい合わせに椅子が二脚だけ置かれていた。
「本来、この部屋に他者を招くことはありませんもので……椅子が足りず、申し訳ありません」
神殿長はすまなそうに眉を下げ、私に席をすすめた。
その仕草には、この場の静謐を乱すことへの緊張と、長年守られてきた秘密を明かすことへの慎重さがにじんでいた。
私は軽く会釈して腰を下ろし、神殿長も向かいに座る。
エーレとザクロは背後に控えた。
しばし、沈黙。
神殿長は目を伏せ、指を組んで言葉を探していたが、やがて私に視線を向け、静かに語り始めた。
「……どこからお話すべきか。少しばかり長くなってしまうかもしれません」
私たちは黙ってうなずいた。
「私どもの国、クルタヴェルノでは“浄化の日”に救いの女神アクアマリンが森と水をもたらし、この神殿を創建したと語り継がれております。それ自体は虚偽ではありません。ですが……真実はさらに深いものなのです」
神殿長の目がゆっくりと遠くを見つめる。
「月の女神ダイアナ様は、この世界から消え去る直前、守護聖獣アクアマリンに最後の慈悲を託されました。女神の声と記憶を継ぎ、この神殿と防壁を創り出し、世界を守ったのです」
学習書に記された建国神話とは異なる真実。
それを口にする神殿長の眼差しには、言葉にできない責任と重みが宿っていた。
やがて、神殿長は一冊の手記を卓上に置いた。
「これは初代神殿長、ルクアトル一世の手記です。彼はこの神殿が建立されたそのとき、偶然最も近くにいた人物で、アクアマリンの導きによってこの部屋へと招かれたと記されています。以後、神殿長だけがこの場所と記憶を受け継ぎ、アクアマリンの声を聴き、道を示されてまいりました」
その声には、代々の誓いを背負う者としての使命が染み込んでいた。
「拝見しても?」とエーレが尋ねた。
「ええ、もちろんです」
エーレは手記を丁寧に受け取り、慎重にページをめくり始めた。
神殿長は、脇の書棚から一冊の文献を取り出すと、それを私の前に開いて見せた。
「神殿の外壁をご覧になりましたか? 左右に高く伸びる二つの棟……」
ページには、建築図とともに彫像の配置が丁寧に記されていた。
「西棟の頂には太陽神ブリンタルスーノ様。その下に上級神や中級神たち……」
ふと神殿長は言葉を切り、ひと息ついた。
「……残念ながら、ダイアナ様のお姿はありません。けれど、その配下の神や眷属たちはびっしりと彫り込まれております」
神殿長は顔を上げ、私たちを見つめる。
「アクアマリンは、ダイアナ様と記憶の中にある神々の姿を彫像として残すことで、少しでもその消失を食い止めようとしたのです。しかし今の人々は、彫像の意味など知らず、ただ“古い装飾”としか見ておりません」
そしてエーレのほうに視線を移し、わずかに首をかしげる。
「失礼ながら……あなた様は、神の眷属に縁深いのではありませんか。東棟にある彫像のひとつに、酷似しておられます。雷と酒の神、フルグレオ様の傍らに立つ像です」
エーレは微かに眉を上げたが、すぐに柔らかな微笑を浮かべた。
「どうでしょうか……」
その微笑は、曖昧でありながら、何かを認めようとする優しい余白を含んでいた。
「……そう…ですか……」
神殿長の声がわずかに揺れた。
そこには、期待と諦めとが静かに同居していた。
「長く平穏な日々が続いておりました。しかしながら、今から二百年ほど前より異変が起こり始めたのです。彫像が徐々に色褪せ、輪郭が曖昧になり、アクアマリンの輝きにも濁りが混じるようになりました」
神殿長の手が卓上で静かに動く。
「現在礼拝堂にある“アクア”像の石は、実は本物ではありません。保管されていた青水晶――アクアマリンより賜った本質の石に、当時の神殿長が取り替えたのです。民の混乱を恐れて」
神殿長は部屋の奥へ視線をやった。
その目の奥に、ひとつの祈りが浮かんでいた。
「……本物のアクアマリンは、この部屋のさらに奥に安置されております」
「そして昨年、建国以来無傷だった神殿の彫像の一部が、ついに崩れ落ちました。私にも、もうアクアマリンの声は届かない……」
その呟きには、言葉にできないほどの静かな絶望があった。
神殿長は周囲の書物をゆっくりと見渡し、そして一つ息をついた。
「私はこの部屋で、何かできることはないかと探し続けてきました。書物には、事細かに神々の記録が残されております。しかしながら、世界を支えていた二柱の最高神……太陽神ブリンタルスーノ様は北の大地へ姿を隠し、ダイアナ様はこの世界から去られたと……」
神のいない世界。
その言葉は重く、深く胸にのしかかってきた。
「……この世界は静かに崩れつつあるのだと、そう感じられたのです。」
そして、エーレの持つ手記に目を向ける。
「しかし、四日前……そちらの手記に新たな記述が浮かび上がったのです」
神殿長はわずかに身を乗り出した。
その声には確信と祈りが同時に宿っていた。
「最後のページを、お開きください」
エーレは頷き、手記をそっとテーブルに置き、最後のページを開いた。
そこには、紫がかった筆致でこう記されていた。
『後継者の帰還。石の記憶を紡ぐ者が世界に再び潤いと癒しをもたらす』
「四日前……ですか」
エーレは顎に手を当て、静かに思案する。
「かすかな希望が見えたと思いました」
神殿長の目が静かに細められ、その声は心の底から滲み出ていた。
静かに立ち上がると、彼は部屋の奥へと先導する。
「――どうぞ、こちらへ」
手記に今までなかったものが浮かび上がる。私も同じ体験をした。
そっとエーレのベストを引っ張る。
「ねぇエーレ、あの手記…」
エーレはずっとあの手記を読んでいた。何か見つけたのではないかと思った。
「あの手記には私の本質の石の欠片が埋まっていました。きっとアクアでしょうね…」
軽く肩をすくめ、いつの間にと苦笑するエーレ。
やはり、時が来た時に浮かび上がるようになっていたようだ。
最奥の扉を抜けると、そこには小さな祠のような空間が広がっていた。
石造りの祭壇、その上に据えられた大きなアクアマリン。
青とも緑ともつかぬその輝きの中心には、うっすらとした濁りが浮かんでいた。
だが、それでもなお……その石は神聖な光を放っていた。
アクアマリンの下には、浅く彫られた水がめがあり、そこにぽとり、ぽとりと水が滴り落ちていた。
「建国直後は、毎日のように海水が湧き、この場でそれを受け止めていました。その清めの水は祭壇を通じ、神殿前庭の池へと流れておりました。その池こそが、世界を守る力の源だったのです」
神殿長はアクアマリンを見上げ、低く息を吐いた。
「けれど今は……ご覧のとおりです。人々からは忘れられ、滴るしずくも日に数えるほどになりました。その間隔も開きつつある。もう、時間がないのです」
胸元に手を添え、彼は深く頭を垂れた。
その手は微かに震えている。
そして静かに顔を上げ、私を見据える。
「……けれど本日、あなた方の会話に、私しか知り得ないはずの神々の名を聞きました――」
その悲痛な思いに、私の胸がかすかに疼いた。
「初対面の異国の方に、このような話をお聞かせする無礼をお許しください。ただ――どうか、なにか……ほんのわずかでも、手がかりをお持ちではないかと……」
ヴィンティリオの声はかすかに震えていた。
エーレが静かに一歩踏み出す。
「……今まで、本当につらかったことでしょう。すべてを抱え、声にできなかったその苦しみ……」
エーレが私に目を向ける。 その目には「いいですね」と私に問いかけている。
私は神殿長の苦渋を重く受け止め、その希望に満ちた思いを受け入れようと深くうなずいた。
「私の名は、こちらの文献のどこかに記されているかもしれません。
先ほど似た彫像があるとおっしゃっていましたね。
雷と酒の神フルグレオ様の眷属、アンバーを本質に持つエーレと申します」
神殿長の目が、大きく見開かれる。
ザクロは静かに一歩前へ出ると、淡い光に包まれながら、ゆっくりとその姿を変えていった。
煌めく毛並みに包まれたカーバンクルの姿となり、ひと跳ねで私の肩に飛び乗る。
その尾は高々と掲げられ、使命と誇りを体現していた。
「我は気高き月の女神ダイアナの眷属にして、石の記憶を守護する者。女神の後継者の導き手たるカーバンクル、名をザクロという。」
神殿長の目は驚きに瞬きを忘れてしまっているようだ。
「そしてこちらが、我が主……月の女神ダイアナ様の後継者にして、石の記憶を紡ぐ者――アメジスト様である。数日前、この世界に帰還を果たした。」
ヴィンティリオの瞳が、ゆっくりと涙に潤む。
「なんと……」
ヴィンティリオはしばらく動けず、やがて……ゆっくりと、膝を折った。
ひとつ、またひとつ、ぽたり、ぽたりと……
長く押し殺されていたものが、静かに零れ落ちる。
その涙は、まるで永い沈黙の祈りが、今ようやく天に届いた証のように見えた。
「……おお……あなたが……」
その呟きに重なるように、空気がわずかに震える。
私は、胸の奥で何かが微かに共鳴するのを感じた。
微かに、けれど確かに、声が――届いた。
「……ア……ミィ……」
誰かが、深い水の底から呼んでいるような、懐かしくて痛ましい声だった。
長くなってしまったので、いったんここで区切ります。
次ではアクアの呼ぶ声…その声にアミィが応えます。
この勢いのまま行けるよう、明日の朝にはお届けしますね。