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プロローグ

早朝の弓道場には、霧のような静けさが漂っていた。

空はまだ夜と朝の境界にあり、かすかな青をたたえた薄明の中で、鳥のさえずりが遠くから響いてくる。


木戸を開けた瞬間、冷たい空気がすっと頬を撫で、背筋が自然と伸びた。

風に揺れる葦簾の音が微かに耳をかすめ、道場全体が眠りの名残をかすかに抱えている。


私は袴の裾を正し、弓と矢を手に、床板を確かめるように一歩一歩、射位へと進む。

足袋越しに伝わる板の冷たさが、夜の余韻を肌に残していた。


深く息を吸い、背筋を正す。

弓を構えたその瞬間、空気が静止したように感じられた。

わずかに軋む弦の音。それだけがこの世界の音として残る。


私は狙いを定め、心の淀みごと矢に乗せて放つ。


――カンッ。


張りつめた空気を震わせるその弦音は、澄んだ水面に一滴を落とすように、美しく、静かに響き渡った。

一射ごとに、心の表面が磨かれていくような感覚。

まるで、月の光が湖面を照らすような静けさと澄明さ。


弓道を始めたのは、おばあ様に勧められたからだった。

気がつけば、五段まで昇段していた。

けれど――その凛とした射の姿に、まだ私は遠く及ばない。


それでも、目を閉じてその背中を思い浮かべれば、自然と自分の軸が戻ってくる気がした。

ぶれそうになるとき、私はいつもそこへ立ち返る。


一時間ほどの稽古を終え、弓を丁寧に弓袋へ納める。

道場の戸を開けると、朝の京都の街はまだ深く息を潜めていた。

石畳の隙間を通る風は優しく、沈丁花のほのかな香りを運んできた。


私は祖母から受け継いだ町家のカフェ、「ムーンロンド」へと足を向ける。

月を愛してやまなかった祖母が名づけた、小さな隠れ家のような空間。


店に戻ると、朝食の支度を始める。

豆を挽く音、湯を注ぐときに立ちのぼる蒸気の香り。

白磁のカップから立ちのぼる香りを吸い込みながら、私はひと口含む。

ほのかな柑橘の酸味が鼻をくすぐり、心の内側をふわりと解きほぐしてくれた。


「今日も、おいしく淹れられたね」


小さくそうつぶやいて、私はリンゴの木で作られたカウンターに腰を下ろす。

サンドウィッチにかぶりついたとき、ふと目に留まったのは、飾り棚の奥に置かれた銀の腕輪だった。


鹿、月、葉を模した繊細な彫刻。

その中心にはかつて石がはまっていたと思しき空白が、今はぽっかりと残っている。


「どんな石だったんだろう……最後まで、教えてくれなかったね。おばあ様」


懐かしさと寂しさが胸を撫でるように通り過ぎた。


仕込みに入る。

パンを切り、野菜を刻み、冷蔵庫の中を確認する。

スローテンポのジャズが店内を満たし、動作のひとつひとつが私を整えていく。


カフェの一角には、祖母とともに作った小物たちが並んでいる。

つまみ細工、水引、レースの花飾り、天然石のアクセサリー――

祖母の白く細い指が魔法のように動いて、それらを生み出していく光景を、

幼いころの私はいつも夢中で見つめていた。

やがて私も、祖母と並んで小さなパーツを手に取るようになり、

ひとつひとつ、形を作る楽しさを覚え、いまでも休日には様々な小物を作成している。



天井近くにあるステンドグラス越しに朝の光が差し込んだ。

青白い三日月の影がすっと店の扉にうつる。

このステンドグラスは不思議なもので、時間によって扉に移す月の姿を変えるのだ。


三日月は開店、半月はランチ、満月は夜。

祖母はそれを「月のリズムで生きるカフェ」なのだといっていた。


カラン――。


ドアベルの音が響き、いつものように、琥珀おじさまが姿を見せた。


「紫水ちゃん、いつものね」


「はーい」


コーヒーを淹れ、バターをたっぷり塗ったトーストを添える。

静かに微笑んで「いつも通りやね」と言ってくれるおじさまの声には、不思議と心が落ち着く響きがあった。


午前中は学生や観光客がぽつぽつと訪れ、ゆるやかな時間が流れていく。

カフェには、小物を目当てに訪れる人も少なくない。

遠慮がちに入ってくると展示棚をじっくり眺めてから作品だけを購入していく方もいる。

海外からの観光客は特に、水引やつまみ細工の繊細な意匠に心を惹かれるようで、

手のひらに乗る小さな飾りを、まるで宝石のように大切そうに包んで持ち帰っていく。


ふとカップを拭いていると、カウンター越しにおじさまの視線を感じた。


「紫水ちゃん、今日はご機嫌だね。何か、いいことでもあったのかい?」


「ふふ、ありますとも。おばあ様の日記に、素敵なことが書いてあったんです」


数日前、祖母の日記を読み返していたときのこと。

何度も目を通したはずのページに、なぜか初めて見るような一節があった。


――この裏路地に並ぶ店は、年に数回しか開かない。けれど、品揃えは変わらず素敵。


小物や鉱石を愛していた祖母が、秘密のように通っていた場所。

その店々が開くのは、スーパームーンと呼ばれる特別な満月の夜――そして、今日がその日だった。


「なんて偶然! いえ、きっとこれは運命!」


私は両手にカップを抱えたまま、くるくると店内を回りながら喜びを爆発させた。


「そうか……月樹さんの。もう、そんな時なんやね」


琥珀おじさまの瞳が、飾られた腕輪にそっと向けられる。

その深い茶色の奥に、一瞬だけ潤みが見えた気がした。


「おじさま……?」


「いや、なんでもないよ」


そう言って笑みを浮かべたおじさまは、優雅な手つきで代金をカウンターに置いた。


「今日はちょっと用事を思い出してね。また今度」


閉まる扉には半月はうつり、店内に静けさが戻る。

カップの中のコーヒーはまだあたたかく、午後の光がゆるやかに店を満たしていく。


ステンドグラスが夕陽に染まり、満月の影がそっと木の扉に浮かび上がる。



「本日はこれで閉店です」


そう告げて最後のお客さまを見送り、灯りを落とす。

西の空には朱が残り、扉には青白い満月の影が静かに揺れていた。

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