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2. 狩り

数日間をかけて、彼はずっと歩いた。彼の足に血がにじむほどだった。


「あれは・・」


彼の目の前に見えたのは大きな集落だった。疲れた彼の体が突然崩れ落ちた。彼の体から大量の汗が噴き出している。


「おや、若いの、・・どうかしているかい?」


一人の老婆が近づいて、手を伸ばした。老婆はロッコの体を引っ張って、支えながら集落に入った。老婆が向かった先は小さな小屋だった。


「おめぇはどこから来たんだい?」


老婆は水が入った桶を持って、ロッコの手や足を布できれいにした。


「遠くから・・」

「そうかい。飲めるかい?」


老婆が水を差し出すと、ロッコがうなずいて、受け取った。そして彼がその水をゆっくりと飲んだ。水分が体中に潤す感じがした。


「ありがとう」


ロッコがうなずいた。助かった、と。


「おめぇはしばらくここで休みな。食い物を用意するね」


老婆が寝台の向こうにある袋を開けた。彼女が集めた木の実がいくつかあった。そして彼女が外に出て、火を起こした。しばらく寝ていたロッコが起きて、周囲を見ている。そして彼が立ち上がって外に出ると、老婆がたき火の前にいて、木の実を焼いている。


「もう起きたのかい?ここに座ってな。また倒れてしまうんだから」


老婆が立ち上がって、ロッコに言った。けれど、ロッコが首を振った。彼が周囲を見て、木の上を見上げた。


鳥がいる。


「あの鳥、食べるか?」


ロッコが聞くと、老婆が首を傾げた。


「あれは素早い鳥だよ。捕れないよ、若いもん、ケケケ」


老婆が笑いながら言うと、ロッコがまた視線を上に向けた。そしてロッコが突然走って、素早く木の上に登って、手を伸ばした。驚いた鳥が飛ぼうとしたけれど、ロッコの手の方が早かった。鳥の足をつかんで、ロッコがバタバタと暴れている鳥を素早くその鳥を殺した。


ぐえええー、と。


ロッコが着地すると、老婆が驚いた様子で彼に近づいて、手にした鳥を見ている。


「鳥」


ロッコが差し出すと、老婆がその鳥を受け取った。


「鳥だねぇ」


老婆がもう息がない鳥を受け取って、見ている。


「じゃ、きれいにするから、おめぇはそこで座りな」

「はい」


ロッコがうなずいて、たき火の隣に座った。老婆が鳥の羽をきれいにしてから、串に刺して、たき火に持って来た。肉をゆっくりと焼きながら、二人がしばらく無言で炎を見ている。


「おめぇはなんでここに来たんだい?」


老婆が黙っているロッコに言葉をかけた。


「分からない」


ロッコが炎を見つめながら答えた。


「何も覚えていない」

「そうかい」


老婆がロッコを見ている。自分とは違う種族だ。彼の背中と腕から鮮やかな青い鱗が見えた。


「これからどうするかい?」

「分からない」


ロッコが首を振った。


「ならここにいるかい?」


老婆が言うと、ロッコが視線を老婆に移した。


「良いのか?」

「良いとも」


老婆が焼けた鳥を葉っぱの上に置いて、二つに分けた。そして葉っぱに包んだ木の実も器に置いて、ロッコに差し出した。


「喰いな」

「はい」


ロッコがうなずいて、その木の実を受け取った。彼は木の実を口に入れて、ゆっくりと食べた。ほろ苦い、と彼が思った。けれど、これらの木の実がこの老婆が一つ一つを集めた物だ。ありがたく頂かないと、と彼が思った。


なぜそう思ったか、ロッコも知らない。感謝なんて、彼はそのことを一度もしたことがなかった。そしてされたこともなかった。


この記憶はなんだ・・、と彼が違和感を覚えた。


自分がおかしい。けれど、彼自身も何がおかしいか、分からない。


自分であって、自分でない。海蛇だった彼の記憶があった。けれど、今の彼が、人だ。なぜ彼が人であることか、分からない。記憶がどこかで飛んでしまった。


「これも喰いな」

「はい」


老婆が焼けた鳥をロッコの前に置いた。シンプルに焼いたけれど、なぜかうまい。老婆も肉を口にして、嬉しそうに食べている。


二人が無言で食べた。その後、老婆が黙って小屋の中に入った。食事を終えたロッコが近くにある川に手を洗って、周囲を見渡した。


今までであったミルカやその群を襲った人々とは、身なりが違う。


「若いもん、これをあげよう」


老婆が布を手にして、小屋の中から出て来た。


「これは?」

「布だ」


老婆がその布を手で広げて、ロッコの背中にかけた。


「布は毛皮の下に巻く。そのままの身なりだと、おめぇはムズカ族に見える」

「ムズカ族・・?」

「ああ、野蛮人だ」


老婆がうなずいた。


「夫や息子達を殺した野蛮人だ」

「野蛮人・・」


ロッコが彼女を見つめている。


「今も悲しいか?」

「悲しみは消えないよ。ただ、もうずっと昔のことだよ」


老婆が微笑んだ。


「これは息子の布だ。使ってくれ」

「良いのか?」

「良いんだよ」


老婆がうなずいた。ロッコがその布を受け取って、毛皮を脱いだ。老婆がロッコの青い鱗を見て、瞬いた。


美しい。


そして、恐ろしい。


なぜそう思うのか、その老婆が分からない。ただ、彼女が震えていることが自分も理解している。


「これは、どうやって使う?」

「腰に巻くんだ」

「このように?」

「いや、逆だ」


老婆が微笑みながらロッコの腰に布を巻いた。そしてロッコの背中にも布をかけて、固定した。最後に毛皮で布の上にかけた。


「これで我々と同じだ。おめぇは、これからアサルカ族だ」

「アサルカ族・・」

「これは首飾り」


老婆が器の中から一つの首飾りを出した。そのペンダントは獣の牙だ。


「息子が始めて殺したゴルゲの牙だよ」

「ゴルゲ?」

「とても強い獣だよ」


老婆がその首飾りをロッコの首に付けた。ロッコがうなずいて、自分の短剣を腰に付けた。


「あれは?」

「武器だ」


ロッコが言うと、老婆が首を傾げた。だが、彼女がそれ以上聞かなかった。なんだか、とても怖い、と彼女が感じた。


「ありがとう」


ロッコが言うと、老婆が微笑んだ。ロッコ自身も驚いた。なぜ「ありがとう」を言ったか、彼も分からない。


「息子が帰ってきたみたいだ」


老婆がうなずいて、ロッコを見てから、再び小屋の中に入った。そしていくつかの道具を持って、隣にある小さな小屋に入って、掃除し始めた。ロッコも無言で彼女を手伝った。


「今日はここで休め」

「はい」

「今夜、(おさ)に案内するよ」


老婆がそう言って、ロッコを後にした。彼女がまた木の実を近くの木々の間に拾った。ロッコは彼女を見て、そのまま木々の下で木の実拾いをした。それを見た老婆が笑った。


「おめぇもやりたいのか?」

「はい」


ロッコがうなずいた。


「でも、木の実拾いは女の仕事だよ」


老婆が首を振った。


「男は森で、獲物を狩る」

「狩る」

「そう。槍や斧で」


老婆が言うと、ロッコがうなずいた。彼が立ち上がって、周囲をまた見渡した。


「どこの森?」

「あの森だ」


老婆がその木々の向こうに広がった森を手で教えた。


「槍とは?」

「槍は知らねぇのか?」

「はい」


ロッコがうなずいた。老婆が笑って、木の実が入った袋を束ねて、小屋に戻った。そしてしばらくしてから、彼女が出て来た。彼女の手には鋭い石と棒できた槍を持って来た。


「夫の槍だ」


老婆がそれを見せた。ロッコが瞬いて、それを見た。確かに鋭いだ、と彼が思った。


「おめぇにあげる。使えるんだろう?」


老婆がそれを差し出すと、ロッコが戸惑いながら受け取った。それで何かを狩れ、という意味なのか、と彼が思った。


「良いのか?」

「良いさ。使える人がいないから」


老婆が言うと、ロッコがその槍を見つめている。


「ありがとう」


ロッコが言うと、老婆が微笑んだ。そして彼がその槍を持って、森に向かって、歩いた。


夕方になると、彼が戻ってきた。手には一頭の太った鹿だ。その彼の姿を見た老婆が思わず嬉しそう叫んだ。すると、数名の男らが彼を見て、警戒した。けれど、老婆が彼らを止めた。


敵ではない、と彼女が言った。けれど、男らが彼女を無視して彼をつかんだ。


「来い!」


一人の男が言うと、ロッコが足を止めて、老婆を見ている。


「大丈夫だよ」


老婆がうなずいた。ロッコは鹿を老婆の前に置いて、彼女からもらった槍も置いた。


「これを必ず持って行きなさい」


老婆がその槍を拾って、ロッコの手ににぎらせた。


「はい」


ロッコがうなずいて、男らに付いて行った。老婆が付いて行こうとしたけれど、止められた。


「名はなんという?」


ロッコが連れて行かれたのはその集落の中心だった。一人の男が毛皮でできた玉座に座って、鋭い目でロッコを見ている。


「ロッコ」

「どこから来た?」

「遠くから」

「遠くって?」

「分からない。ただ、遠くから・・それしか覚えていない」


ロッコが言うと、集落中の男らがざわめいた。


「その男は嘘ついた!」


一人の男が大きな声で言った。


「彼はアサルカ族ではない。それに腰に、怪しげな物もある」


彼が言うと、玉座に座った男がロッコを見つめている。


「腰にあるのは何?」

「武器だ」


ロッコが言うと、彼らがますますざわめいた。


「見せよ」

「良いが・・」


ロッコがその短剣を手にした。けれど、彼は抜かなかった。一人の男がそれを彼の手から取ろうとしたけれど、ロッコの手から奪うことができなかった。周囲が騒がしくなったけれど、ロッコが無言で彼を見ている。


「見せよ」


玉座にいる男が立ち上がって、手を伸ばした。周囲が静かになって、二人を見ている。


「はい」


ロッコがその短剣を彼の手に渡した。彼は興味津々でその武器を見た。けれど、彼が抜くことができなかった。


「何も切れない武器だ」

「・・・」


男がその短剣を何度も抜こうとした。けれど、ダメだった。力を込めても、無理だった。


「こんな物は役に立たない」


彼が怒りながらその武器をロッコに投げた。ロッコはそれを拾って、無言でまた腰に付けた。


「だが、エギヤはお前を拾った」


長が気を直して、再び玉座に座った。


「エギヤ?」

「あの老婆の名だ」


長が即答した。


「エギヤから長に贈り物があった」


一人の男がロッコが狩ったあの鹿を運んだ。鹿の急所に槍で刺した痕があった。


「お前が狩ったのか?」

「はい」

「このような太った鹿・・、どこで?」

「森で」


ロッコが顔色を変えずに長を見ている。長が考え込んで、その鹿を見ている。その一頭で集落全体が食べられる。それどころか、残った肉に干し肉も作れる。


十分過ぎるの量だ。


「分かった。お前はここに住むことを許そう。明日から男らと同じく狩りをするように」

「はい」


長が言うと、周囲の男らが不満を露わにしてざわめいた。けれど、長が彼らを無視して、ロッコを見ている。


明らかに種族が違った人だ。けれど、エギヤが彼を拾って、彼女の息子の首飾りを付けた。彼女の夫の槍まで彼に与えた。並々ならぬことだ、と長が見ている。


エギヤはこの集落の長老の一人、魔女だからだ。魔女には不思議な力があると信じられている。けれど、村の外れに住んでいるエギヤ一家は不運にも狩り中に彼らの敵であるムズカ族に襲われて、彼女を残してほとんど死亡した。エギヤが当時集落で出産の手伝いに行ったところだった。その女性は、長の妻だった。


だから長はエギヤの行動に咎めることなど、しない。


「おい、その鹿を女たちに運べ!」


長が言うと、男らがそのまるまると太った鹿を裏で待っている女性達の元へ運んだ。実に久しぶりの肉だ、と女性達が嬉しそうにその鹿を見ている。子どもたちも集まって、興味津々と女性達を見ている。大きな鹿だ、と彼らが喜んで踊り出した。


もう数ヶ月間も、鹿の肉を口にしていなかった。鳥なら何回かあったものの、集落全体をまかなえる量はなかった。だからこの大きな鹿を見た瞬間、長でさえ唾を飲み込んだ。


「鹿は、あの森で狩ったのか?」

「はい」


ロッコがうなずいた。男らが彼を見て、集まった。槍で狩ったのか、どの辺りの森なのか、と様々な質問が飛び交った。ロッコが困った顔で彼らを見ている。


彼に嘘ついたと言った人でさえ、それを知りたがっている。


「ロッコ、座れ。肉を待とうか」

「いや、帰るよ」


ロッコが丁寧に断った。彼は地面に置いた槍を持って、あの老婆の元へ帰った。


「お帰り」


老婆が言うと、ロッコがうなずいた。


「肉が、全部あの長に・・」


ロッコが言うと、老婆が首を振った。問題ない、と彼女が言った。ロッコがたき火の前に座って、水を飲んだ。そして老婆が焼いた木の実を一粒取って、口に入れた。


やはりほろ苦いだ。


ロッコがそのほろ苦さを味わいながら食べた。しばらくしていたら、突然ロッコが立ち上がって、木の実を拾った場所へ向かった。


何かいる、と老婆が気づいた。けれど、彼女がたき火の前から動かなかった。


しばらくすると、恐ろしい動物のうめき声が聞こえた。数分後、その声がなくなって、エギヤが心配になった。足音が聞こえると、老婆がその足音の方に視線を移すと、ロッコが戻って来た。彼の手には猪があった。


この短時間で殺したのか、とエギヤが瞬いた。


大きな鹿は惜しかったけれど、まさか次は猪を狩ってきたなんて・・。連続して獲物が来ているとした思えない。


「ただいま」

「お帰り・・」

「肉、持って来た」


ロッコがそう言いながらエギヤの手元の近くにある鋭い石で猪を解体し始めた。そして肉をたき火で焼いた。


老婆がただ無言で彼を見ている。けれど、ロッコもまた彼女と同じく、無言で肉を焼いている。


「肉、どうぞ」


ロッコが言うと、老婆が微笑んで、うなずいた。老婆が肉を一切れを取って、食べると、彼女の目から涙が流れた。


実に久しぶりの肉だ。


昔は良く夫と息子に食べさせてもらったが、彼らを失ってから、滅多に口にしなくなってしまった。


肉は貴重なものだから、若い人に、といつも彼女が遠慮して、その集落の人々に自分の分を遠慮した。そして、やがって誰もそのことを気にする人がいなくなった。


本当は、食べたかった。単純な理由で、本当は誰かと一緒に食べたかった。けれど、誰も魔女である彼女と一緒に食事したいという人がいなかった。


魔女は偉い存在だから恐れ多い、と集落の人々が思った。


その連れ違いが何年が経つと、普通になってしまった。


「美味しい」

「良かった」


エギヤが言うと、ロッコもうなずいて、肉を口にした。二人の顔に、始めて笑みが現れた。


翌日。


朝早くからロッコが起きて、木の実を集めていた。老婆が起きると、小屋の前にすでに袋一杯の木の実が入っていた。老婆がそれを見て、ロッコの小屋に行くと、ロッコがいなかった。どうやら狩りに行ったようだ。


昼過ぎになると、男らが帰った。今日は少し大きなトカゲを狩って来たようだ。


「エギヤ、彼はどこに?」


長がエギヤの小屋にわざと顔を見せた。エギヤはちょうどその時夕飯に残した肉を干し肉にしているところだった。


「狩りに行った」


エギヤが答えた。けれど、長はその答えに気に入らなかった。


「あの男は何者だ?」

「アサルカの神、エサルタ神の化身だ。間違いない」


その答えを聞いた瞬間、長が笑った。


「エギヤ、歳を取って、頭がおかしくなった」

「そう言われても、おかしくない」


エギヤがテキパキと猪の肉をざるに並べて干した。猪の皮もきれいに干している。


「猪はいつ狩った?」

「昨日の夜だ」


エギヤが猪の頭を土でできた器に入れて、たき火に持って来た。


「彼はまた狩りした、とでも言うのか?」

「彼はその猪を狩った。あの林で」


エギヤが木の実拾いの林を手で指した。すると、長がその林に行くと、確かに血の痕が土に残っていた。


たまたまだ、と長が林を見渡した。


「彼が帰った」


一人の男が言うと、長が彼の指先が示した方向を見る。その先にロッコが太った鹿を担いで、帰って来た。


また太った鹿だ。


連続して、そう簡単に鹿を狩れるのか、と長の心に疑問が湧いた。


昨夜の鹿もとてもうまかった、と長が思った。しかし、今彼が担いでいる鹿の方がずっと立派だ。その角がとても大きかった。


あれは一人で殺せる獲物ではない。けれど、ロッコが一人でそれを担いでいる。


「ただいま」

「お帰り・・」

「肉、持って来た」

「あ、はい」


エギヤがうなずいて、嬉しそうにロッコが狩ってきた鹿を見ている。立派な雄鹿で、その角がとても大きい、と彼女が嬉しそうに触れた。そしてロッコがテキパキとその鹿を解体し始めた。


「その鹿はもらおう」


林の中から長が現れて、鹿を要求する。すると、ロッコが彼を見て、エギヤを見ている。エギヤが残念そうに見えたけれど、うなずいた。


「足一本だけをもらってもダメのか?」


ロッコが聞くと、長が首を振った。


「良いのよ、ロッコ」


エギヤが首を振った。ロッコが手を引いて、解体中の鹿をそのまま取った男らを見ている。


「お前なら他の獲物を狩れるだろう。あの猪のように」

「・・・」


ロッコが返事せず、長を見ている。長もまたロッコを見た。エギヤは二人の男がにらみ合っているように見えて、ロッコの手をにぎった。


何もするな、と彼女が言いたかった。けれど、言葉にならなかった。


「分かった」


しばらくにらみ合ってから、ロッコがうなずいた。そして彼が槍を持って、不安な顔をしたエギヤを見ている。


「少し行ってくる」

「もう無理しなくても良いんだよ」

「いや」


ロッコが微笑んで、自分の手をつかんでいるエギヤの手を取って、首を振った。


「肉、探してくる」


ロッコが長を無視して、そのまままた森に入った。


「ただいま」

「お帰りなさい」


ロッコが森に入って、一時間後のことだった。エギヤがまだたき火の前にいる。ロッコの手にはまたもや大きな鹿だった。今度は太った若い雌鹿だった。雌の鹿は雄の鹿と比べると、肉が柔らかくて、とても美味しい。


「肉、持って来た」

「はい」


エギヤの目から涙が溢れている。家族を失ってから、彼女がここまで感動したことがなかった。ロッコが微笑んで、鹿を解体して、その肉をたき火で焼いた。そしてエギヤに最初の一切れを上げると、エギヤがとても嬉しそうに食べた。


美味しい。


やはり雌鹿の味だ。


「おめぇも食べて」

「はい」


ロッコがうなずいて、エギヤの隣で焼いた肉を食べた。やはりうまい、と彼が思った。今までその違いに気づいたことがなかった。


「芋も拾った」


ロッコが何かを思い出して、袋を開けた。エギヤがその大きな芋を見て、思わず笑みをこぼした。とても甘い芋だ。けれど、どこに生えているのか、誰も知らない。彼女がその芋を食べたのがずっと前の時だった。まだ息子を妊娠したとき、狩りから帰って来た夫がくれた芋だった。たき火で焼くと、とても甘かった。


ロッコが芋をたき火に入れると、二人がしばらくまた無言で芋を見つめている。


「アサルカの神に感謝」


突然エギヤが言うと、ロッコが首を傾げた。


「どんな神?」

「とても強くて、とても慈悲深い神だ」

「ここにいるのか?」

「ええ、ここにいるよ」

「会いたい」

「ケケケ」


ロッコが言うと、エギヤが笑って、彼を見ている。ロッコは惚けて、わざと言ったでしょう、と彼女が思った。ならば、合わせるしかない、と。


「いつか会えると良いね」

「そうだね」


ロッコが微笑んだ。そして焼けた芋を取り出して、葉っぱの上にのせた。エギヤがその芋を取って、ゆっくりと口に入れた。


甘くて美味しい。


今まで食べた物の中では、極上に美味しかった。彼女の目からまた涙が出て来た。


もうこれで思い残すことはない。例え目の前にいる男が実は死神だとしても、彼女はもうそれを受け入れることができた。


十分生きた。そして、十分苦労した。最後にこのようなご馳走で、きっと神様が彼女の働きを認めてくれたに違いない。彼女は今、とても幸せだ。


だから美味しい肉と芋をくれたんだ。


「美味しい」


エギヤが言うと、ロッコもうなずいた。彼は始めて「甘い」という味を知った。


ロッコとエギヤの生活が数週間も続いている。毎回狩りすると、長たちに奪われてしまうので、ロッコがいつも二頭を狩って、その一頭を長に収めた。彼とエギヤは小さめの獲物だけでも十分満足している。干し肉もできるようになって、狩りの頻度を下げても問題がない、とロッコが思った。その間に、彼がエギヤの手伝いをした。木の実を拾って、小屋を掃除したりしていた。


そんな彼を見て、集落の女性達が彼に興味を持っているようになった。エギヤの小屋に若い女性たちが頻繁に足を運ぶようになった。


ただロッコと会いたいだけとか、首飾りをあげたかっただけとか。今まで必要じゃなければ誰もエギヤに近づかない人々が自然に足を運ぶようになった。エギヤが最初は驚いたけれど、集落の人々の心の変化に嬉しく思った。


けれど、喜ばない人も当然いる。そしてあれこれと言って、長に文句を言った。


狩り場を独り占めしている、と嘆く人もいる。確かに狩り場は皆の物だ。一度もどこで狩りしたか教えたこともないロッコに信用できるか、と言う人もいる。けれど、彼の腕は確かに良い。


狩りしなくても肉が食べられる。しかも、質の良い肉だ。ロッコがいつも二頭を狩って、その大きい方の獲物を長に収めた。そうなると、個人的に、長はロッコに対して不満など抱いていない。けれども、若い男らにとって、狩りの腕を自慢する場面がなくなってしまった。


ロッコの狩りの腕の方が良いに決まっている。どの女性もそう思っている。しかも、木の実拾いの手伝いもして、水汲みも手伝っている。今まで集落の男らが一度もやったことがないことを、ロッコがやっている。彼女たちが実際に自分たちの目で見ているから言えることだ。


夫にするなら、優しくて強いロッコが良い。ほとんどの若い女性がそう言った。だから何人かの男らが求婚がしても、女性たちからの良い返事がもらえなかったことも事実だ。


求婚どころか、求愛の時点で、ほとんどの男が拒否された。若い女性らの目にはロッコしかいない。それどころか、結婚している女性らの目にも、ロッコしかない。ほとんど女性たちの会話にはロッコの名前ばかりだった。


けれども、エギヤが、ロッコはアサルカの神、エサルタ神の化身だと言った。長は肉を食べながら、男らの言葉を耳にしながら考え込んだ。このままでは、集落が危ない、と長老の一人が言った。


「分かった」


長い沈黙の後、長が口を開いた。


「明日、彼に、ムズカ族討伐にさせよう」


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